マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

ネギとともに天から降ってきた翁面は面塚に舞い降りた

2016年06月30日 08時59分19秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市小林町の田んぼに径数メートルほどの塚がある。

その塚を村の人は面塚と呼んでいる。

昔、昔のことじゃ。

翁の面が天から降ってきて塚に落ちた。

面を見つけたのは隣村の今国府町に住む人が見つけたそうだ。

土地の所有者は小林町、見つけた人は今国府町。

降ってきた面は共有することになった。

今もなお、天から降ってきた翁面は両村共有というわけで、両村の秋のマツリに登場する。

マツリに使われた面は一年ごとに交替していたが、現在は先に今国府町、翌日に小林町、という具合だ。

マツリに登場した翁面はそのまま小林町で保管される。

一年後の今国府の人が面を預かって村のマツリのお渡りに面を被った姿を見せる。

一方、小林町では面を被らずに手で抱えるという。

その面塚の風情を撮っておきたいと思ってから数年間も経った。

普段の塚は雑草が生える。

田主は草マメシになれば雑草刈り。

塚は大切にと思ってこれまでずっとそうしてきた。

田植えをしてから4か月後。

塚の周りは稔りの時期を迎えた。

田主が耕す田は一丁。

主たる稲作の品種はヒノヒカリだそうだ。

稔った田は黄金色になっていた。

仕事帰りにばったり出合った田の所有者夫妻は朝から息子に応援頼みの稲刈り作業をしていたそうだ。

稲刈り機械が全面稼働するまでは奥さんの出番。

機械が入らない田の端っこの稲の下株を左手で掴んで右手に握った鎌でザックリ伐る。

刈った稲束は田の周辺の歩道に置いていく。

昨年はそうしていたが、腰がどうも動かん。

親父さんも腰が曲がっている。

昼過ぎまで作業をしていたが身体がもたんと云って午後は休んだ。

そうとは知らずに足を運んだ田は機械を置いて、そのままにしていた。

稲刈り作業をしている状況を撮ってあげたいと思っていたが叶わなかった。

翌日は継続的に受診している診察日。

その翌日も仕事がある。

逃せばまたもや一年後となる。

翌年に持越しすれば後悔する。

そう思って面塚に出向いて写真を撮っていた。

田主は休息中。

稲刈り作業の続きは翌日に廻されたと聞く。

面塚の向こうに小林町のマツリが行われる杵築神社の森が見える。



右手は他家の稲刈り作業があったのでなんとか収まった。

後日に写真を見た田主が云った。

「これは孫だ。黒い帽子で判った」と。

来年は田植えをしてから数日後の雨が降っているときに撮ってみたいと思った。

面塚を撮って戻ってきた旧村の小林町集落。

たった300mの距離が遠くに感じる。

重さ8kgのカメラ機材を肩に下げて歩くのはしんどい。

田主と仲がいいS婦人の家は駐車地のすぐ近く。

付近には数軒がかたまるように集中する農家の住処。



田主の家は農小屋から吐きだすように膨らんだ袋が外に出ていた。

道を挟んだ向かい側にある農小屋に収穫したタマネギを干していた。



色づく柿の色はさえないが、時期がくれば吊るし柿にするであろう。

耕した田の畝には何を植えるのだろうか。

そんなことを考えながら戻ってきたら、「一服しぃ」と云われてウスヒキを済ませたばかりの婦人宅の小屋で一休み。

叔父とともに作業していたウスヒキの機械は小まめに清掃しなくては・・・、と話していた。

婦人が耕す田は七反。

六反が粳米のヒノヒカリ。

残りの一反は糯米のアサヒモチ。

結構な量の稲作をしている。

それからの2週間後。

婦人から電話があった。

「収穫・ウスヒキした玄米のヒノヒカリをあげるからこっち来ぃ」ということだ。

ありがたい言葉に釣られて車を走らせた。

待っていた婦人は30kgの米袋を抱えて車に載せてくれた。

玄米は食べる分量、だいたいが10kgを計量して近くにある精米所でしたらいいという。

100円コインで10kgの玄米を精米しれくれるという。

我が家にとってありがたーい新米。

ネギは付いていないが天から降ってきた翁面のようだと思った新米は粳米のヒノヒカリ。

6反も作っているが、うち1反は餅米のアサヒモチを作付けしているという。

ちなみにH家も同じ作付けのヒノヒカリ。

一丁の田を耕している。

粘りがあって甘いと話していた。

(H27.10.14 EOS40D撮影)
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サッポロ一番イタリアンピザ風味まぜそば

2016年06月29日 08時55分00秒 | あれこれインスタント
「野菜のうまみがきいたトマトソースにチーズを合わせたイタリアン風味のタレに、魚介とチリスパイスをアクセントに加えた新しい味わいのまぜそば」の紹介文があったまぜそば。

販売はサッポロ一番だ。

斬新なパッケージにインパクトを込めた「まぜそばの新たな可能性をみせてやる」の謳い文句もある。

パッケージの説明はやたらと多い。

「トマトソース×魚粉」に「チーズと魚介配合のスパイスミックス入り」も書いてある。

どこで買ったか記憶がないまぜそば。

賞味期限が過ぎて数週間。

もう食べることはないだろうと思っていたが、やたらと喉が唸ったように吠えるのだ。

吠える言葉は「らーめんが食べたい、食べたい・・・」だ。

呪文のように聞こえる。

一日制限量の塩分が摂り過ぎになることは間違いがないが、耳元で囁いた呪文に負けてパッケージの蓋を開ける。

まぜそばはノンフライ麺。熱湯を入れて5分間待つ。

蓋を開けて麺をほぐす。

液体調味タレをいれるのはそれからだ。

ここで麺を混ぜるからまぜそば。

焼きそばと変わらんと思うのは私だけだろうか。

仕上げの小袋は粉末。

やや赤みを帯びた粉末だしである。



美味しい香が部屋に広がった。

食欲をそそる味だ。

パッケージにピーマン、トマト、ピザの写真はイメージだと書いてある。

同じような感じにならないピザ風具材。

気持ち少しの具材である。

イメージ写真とはかけ離れている。



喉越し良い麺にがっつりいただくまぜそば。

こんなのもアリなんだろう。

スパゲテイでもない麺がオモシロイ。

ところでイタリアンピザ風味まぜそばパッケージに表記していた1食111g当たりの標準栄養成分表。

ナトリウム量は1800mgだ。

単純計算の400で割ったら4.5g。

これが塩分量の目安。

パッケージに表記していた数値は4.6g。

若干の差異があるが、ほぼ一日の制限塩分量に近い。

この日の晩飯はおでんだ。

大鍋でぐつぐつ煮たおでんの塩分量っていくらぐらいか。

昼食に食べたイタリアンピザ風味まぜそばの塩分量が気にかかる。

おでんの素とか箱入りで出汁の素が売られている。

パッケージに書いてある塩分量は7gを超える。

まぜそば塩分量を加えたら12gもある。

えらいことになるだろうなと思ってかーさんに尋ねた。

出汁の素は一切使っていない。

しょうゆ、みりんにお酒が主。

ぐつぐつ煮たおでん具材の味が浸みてまとまった味になる。

我が家のおでんは美味すぎる。

大鍋で炊いたおでんは次男と食べて鍋がすっからかんの完食だ。

味の決め手は牛肉のスジ肉。

スーパーで売っている肉の塊である。

肉の脂が旨みを引き出すおでん。

塩分量は制限を超えるか、超えないかよりも体重が気になっている。

(H27.10.14 SB932SH撮影)
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藺生町葛神社の造営奉告祭

2016年06月28日 09時13分17秒 | 奈良市都祁へ
村神主、造営委員長から頼まれて村の記録写真を撮ることになった。

場所は奈良市藺生町だ。

20年に一度の葛神社の造営事業。

朝10時から始まる受付に間に合うよう車を走らせる。

遅れてはならない村の記録に焦りはないがついつい速度が増す街道。

天理市福住から旧都祁村吐山へ向かう大和高原地区の広域農道だ。

前方に法被姿の男たちが目に入った。

太鼓台を押す、というか曳く男たちである。

どこの村の太鼓台であるのか、取るものも取り敢えず直ちに車を急停車する。

時間帯は9時半だった。

ここら辺りでは見ることもない太鼓台の雄姿。

カメラを持って急ぐ。

急ぐのは心だけ。

術後の身体は完全復帰がまだまだ。

足の動きはノロノロだ。

とにかくシャッターをきる。



広域道路を外れて里道(りどう)に入るやいなや太鼓を担いでワッショイ、ワッショイ。

何人で上げていたのだろうか。



太鼓台を担ぎ上げたこの場で小休止。

その場におられた男性から声をかけられた。

数年前に葛神社祭祀を務めた宮守さんだった。

この日は造営奉告祭に際して奉納する太鼓台を先導する役目に就いていた。

藺生のマツリは11月3日。

これまで当日も宵宮も太鼓台を担いで村中を巡行してきた。

個々の事情で担ぎ手が少なくなった。

マツリに出仕するのが難しくなった。

何年か前、中断せざるを得ない状況にあると聞いていた。

今年は葛神社の20年に一度の造営事業。

目出度い祝いに太鼓台を担ぐことになった。

担ぎ手は、辻などで力を揃えて上げる。

村の境界まで巡行する村廻りは担ぐことなく台車に載せて曳行する。

昔の男たちは力自慢が常だったという話は各地で聞く。



休息をとった若者たちは再び太鼓台を曳行する。

造営祭典は午後2時。

それまでは村廻りの巡行。

4人の男の子たちがバチで叩くドン、ドン、ドン。ドン、ドン、ドン。

よーいやーさいっ、と聞こえる掛け声は遠くまで響いていた。

氏子、外氏子並びに来賓者を受付する時間帯は午前10時より。

祝いの一発目。

花火を打ち上げた。



葛神社境内に設えた受付場に行列ができる。

祝いの品を手渡して芳名記帳をする。

受けた芳名は裏方に回される。



お一人、一枚ずつ、お名前を墨書する。

内氏子に外氏子も奉納する。

とにかく数が多い芳名者。

墨書書き委員は休むこともできない忙しさである。

芳名札に書いて乾かす。

何枚か集まれば境内に立てた奉納芳名者パネルに貼りだす。



20年前の前回は奉納された金額を明示していたが、今回は名前だけにしたと造営委員長が話していた。

貼りだしは他にも清酒やお菓子の奉納もあるが、木札が足らなかったのか、紙に書いた一覧形式になっていた。



受付を済ませた氏子は小さな御幣を授かる。

ほとんどが家族の人数分になる本数を抱えている。

授かる本数は、予め申し込んでいたようだ。

受付を済まして和やかに談笑する人たちで境内は膨れ上がってきた。



今回の御造営は本社殿と末社殿の建替え。

100年目にあたる記念の日に社殿すべてを新しく建替えた。

6月に行われた正遷宮(上遷宮)神事で遷しましされて鎮座する社殿。

拝殿に登って間直に観る美しい社殿に向かって手を合わせる。

神さんを拝んだ内氏子に外氏子の人たちは祝いの酒をいただく。



その際に撮らせていただいた男性は隣村の南之庄の住民のKさん。

国津神社の行事を務める村神主だ。

久しぶりにお会いした目出度い場に感謝する。

造営の場に出合った人は南之庄だけでなく、度々行事取材でお世話になった室生染田染田のFさんや小夫嵩方のNさんも出合った。

それぞれが氏子の親戚筋。

婚姻関係にある人たちだった。

造営祭典に参列する招待来賓者らは参籠所内でいただくが、造営委員はそれぞれが空いた時間内を見計らって社務所裏のテント内で食事する。

私は造営委員が準備してくれていたパック詰め料理をいただく。



藺生町にある「杉の家」特製の弁当が美味しい。

ゆっくり食べている時間に余裕はない。

巡行から戻ってきた太鼓台が出発すると聞いて場に向かう。

逸る心を抑えつつ、身体に負担が出ないようゆっくり歩く。

太鼓台が置かれた場。



昼食を済ませた子供たちが集まりだした。

太鼓台を置いたすぐ近くに居た男性の衣装に目がいく。

赤い法被姿はどこかで見たような・・・。

思いだした。南京玉すだれ八房一門会の人たちが着ていた法被のひとつ。

村の青年団や子供たちは紺色。

赤い柄ではない。

八房一門会派によってというよりも一人一人が異なる柄の玉すだれ衣装。

もしかとして・・と声をかけた男性は村の親戚筋。

三郷町に住む人だった。

村の祝賀に大道芸を披露したいと思って着たそうだ。

赤い法被柄は特徴がある。

襟に八房の白抜き文字が見えた。

間違ってなければ八房流。

なにかとお世話になった八房美都香さんを思いだす。

師匠の八房梅香氏も存じていると伝えたら驚いていた。

三郷町に住む男性は藺生に親族がいる。

赤い法被の紋様に気がついた。

南京玉すだれの法被である。

それはともかく、しゃにむに始めた傘廻し。

男性曰く、師匠直伝の太神楽傘廻しだそうだ。



これってなぁに。

始めて見る大道芸をオモシロイと思ったかどうか聞いていないが、子供たちは笑顔で見ていた、が、そこを通りがかった青年団の顔はさて、である。

藺生の造営祭典には呼んでもいない大道芸。

察した男性はすぐさま仕舞われた。

村を巡行してきた子供神輿と太鼓台は午後3時前までに葛神社に戻る。



昼の休憩を挟んで再び巡行しだした。

先頭を行くのは台車に載せた子供神輿。



後方も同じく台車に載せた太鼓台。

その太鼓台を引導するかのように歩く天狗とお多福。



竹のササラを作法するのは天狗。

お多福は拍子木を打って音を鳴らす。

いずれも男の子が扮する天狗とお多福である。

神輿、太鼓台の奉納が始まるまでは村を巡行する。

1時間半をかけて残りの集落を巡る。

村、一軒、一軒を訪問するような太鼓台の巡行だ。

祝儀集めをしていた男性曰く、これが最後の見納め。

太鼓台は秋のマツリに出仕することなく、来年も・・。

造営の祭典奉納が最後になる。



追っかけしたかったが足は動かない。

神輿や太鼓台の速度についていけないのだ。



身体が思うように動かない私は村を巡行する姿を遠目で見るしかなかった。

昼を過ぎた辺りどころか、造営奉告祭が始まる直前まで行われていた受付。

済ませた人たちは鈴を鳴らして割拝殿に登ってお神酒をいただいていた。

遠くより聞こえる太鼓台の打つ音色をこれより始まる神事の場から聞いていた。

それと同時に打ち上げられた花火の音が炸裂する。

今年の御造営は本社殿と末社殿の建替え。

100年目にあたる記念の日でもある。



紅白幕を張った高台の櫓場に最初に登場する団体は地元民による雅楽隊。

葛神社楽人の会の人たちが奏でる。

楽人たちは例祭の他、祈年祭、社守交代の初午祭、夏神楽にも登場する。

神職宮司、大工棟梁・副棟梁、村神主、社守、造営委員長・副委員長、氏子総代長、招待来賓者は楽人の会が奏でるなか櫓に登って席につく。



開式の辞、修祓の儀、降神の儀、献饌の儀、宮司の祝詞奏上、大工棟梁の祝詞奏上を経て清祓。

高台の櫓場から境内下に向けてキリヌサを撒いて四方を祓う。



これより大工棟梁が主となって上棟の儀が行われる。

儀式の一つ目が曳綱の儀。

二つ目に槌打ちの儀である。

紅白の綱は新しくなった社殿の千木より櫓を経由して境内下まで曳いている。

綱に群がる氏子たち。

綱曳きする人は特定していない。

藺生町の造営では曳きたい人が曳けば良いということだ。

大工棟梁は櫓に立って大御幣を持つ。



副棟梁は境内下に降りて紅白を巻いたポール間の中央に立つ。

リハサールもない曳綱作法はアナウンスで指示される。



「えーい、えーい、えーい」と云って棟梁は大御幣を大きく三度、左右に振りながら上方に向けて揚げる。

境内下に居る副棟梁は最後の「えーい」に応えるかのように合わせて「おー、おー、おー」と云いながら大御幣を大きく掲げる。

その際に氏子たちは綱を曳くのだが、実際は曳かない。

曳く真似事をするのである。

これを三度繰り返す。

「えーい」を充てる漢字は「永」に「栄」。

新しくなった社殿が永く栄えるように、また、氏子たちが氏神さんと永く結びつき、縁を深くする意味合いがある曳綱の儀式は氏子全員で行ったということだ。

曳綱の儀の次は槌打ちの儀だ。

大工棟梁が櫓中央に立つ。

副棟梁、造営委員長他役員、氏子総代長、来賓者は槌を手にして並ぶ。

目の前にある木材は棟木を想定している。

棟梁は「せんざい とー」と云いながら大御幣を上方に掲げる。

それを合図に並んだ人たちは「おー」と云いながら槌を下ろしてトン、トン、トンと棟木を打つ。



次の言葉は「まんざい とー」だ。

同じく「オー トン トン トン」。

次は「えいえい とー」。

所作は3回とも同じで、槌打ちも3回だから合計9回打った。

「せんざい とー」は「千歳 棟」。

「まんざい とー」は「萬歳 棟」。

「えいえい とー」は「永 々 棟」。

それぞれ漢字を充てたらよく判る目出度い詞で槌を打つが、リハーサルもなく、一発勝負なので息が揃うことはない。

上棟の儀の次は撒銭、撒餅。

いずれも高台の櫓から撒かれる。



撒銭は紅白紐で締めた五円玉硬貨。

餅も紅白だ。



撒くのは神職宮司と造営委員長の二人。

それぞれ境内下で待ち構える氏子たちに向けて撒く。



ここまで飛んできて、と願いを込めた手が伸びる。



餅はまだしも五円玉は小さく、しかも背景に溶け込んでしまう。



飛んでいく映像を記録するのはとても難しいが、撮った写真のなかに居た知り合いの顔を見つけた。

玉串奉奠、撤饌、昇神、閉式で終えた関係者は降りて退座する。



そのころともなれば村を巡ってきた神輿が境内にやってきた。



神さんに奉納する神輿代表者の一行は拝殿前に整列して拝礼する。

子供神輿に次いで宮入太鼓台も奉納に境内へ入ってきた。



「若連中」の文字を染めた法被を着る青藺生会の青年たち。



力を込めて太鼓台を担いで前後左右のお練り。

危ないからと遠巻きに見る氏子たち。



拝殿前の屋根に隠れる位置で太鼓台が動き回る。

目出度く奉納し終えた太鼓台の一行。

神輿を曳いてきた子供会の子供たちとともに並んで記念撮影。

なんといってもこれがイチバン気を遣う。



全員の視線がこちらを向くように声をかけてシャッターを押した。

青藺生会が担ぐ太鼓台。

見納めの太鼓台はこれが最後。

秋のマツリに出ることなく蔵に収める。

あと少しのひと踏ん張り。



力を込めて退出した。

午前中、俄かに黒い雲が流れてきた。

しばらくすれば小雨が降りだした。

数分間の雨降りにほっとする。

俄か雲は午後もあった。

神事を終えて退座された直後だ。

造営委員長、氏子総代の挨拶が終わったころには雨もおさまった。

境内に広がって見物する村の人。

これほど多くの人が見る視線の先は舞台に登場した人たちだ。



設えた舞台で激しくバチを叩く演奏集団は「独楽」の演者たち。

髭を生やした面そのものに表情はないが、叩く動作によって動きがある表情になる。



舞台前に座って観る氏子たちの笑顔でそれが判る。

造営奉告祭の〆は御供餅撒き。

境内角の4カ所に設えた撒き台。

場についたそれぞれの造営委員は一斉に餅を撒く。



群がる氏子たちの餅争奪戦が始まった。

餅が飛び交う。



歓声も飛び交う。



撒き場はもう一カ所ある。

畳敷の参籠所内で撒かれるのだ。

争奪戦に参加不向きな身体のお年寄りは参籠所で優しく撒かれる。

この日は曇天どころか俄かに流れる暗雲。

ポツポツと降りだす雨は午前中に一回。

午後も一回。

突然のごとく降りだした雨のときは受付を終えたときとか、祭典の合間だとかで濡れることもなかった。



〆の記録写真はこれまで何年間もかけて、目出度い造営祭典を無事に終えた造営委員たちの晴れ顔だ。

ほっとする顔を拝見して、引き受けた私もお役目を〆。



直後にド、ド、ドーンと花火が打ちあがった。

(H27.10.11 EOS40D撮影)
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高樋町春日神社ヨイミヤのフリアゲ

2016年06月27日 09時13分00秒 | 奈良市へ
万青の人たちを慰労し終えた高樋町春日神社のヨイミヤの行事はこれで終わることなく、次の年を担う當家子(トウヤゴ)を決める神事が行われる。

日が落ちた午後6時に春日神社に集まってきた氏子たち。

シキジが待っている場は割拝殿の神饌所側だ。

昼間の神事で供えたお神酒をよばれる。

大きな白色カワラケに盛ったジャコを手で摘まんでいただく。

隣の三方にはトウヤ(當家)が御供した2升の米で搗いた60個のコモチ盛りもある。

モチは2個ずつ。

一つは家に持ち帰るが、もう一つは割拝殿傍の場に設えたトンドの火に焼いてよばれる。

一方、神饌所の向かい側はフリアゲの場である。



円座は三つ。

中央に自治会長が座り、両隣にフリアゲで決まった當家子(トウヤゴ)が座る。

儀式に配膳されるお神酒、スルメ、コンブは三方に盛っていた。

フリアゲ神事に神職は登場しない。

参集する氏子にお神酒を注ぐシキジと自治会長が主催する。

御神燈の提灯は下がり藤紋様が入った神社提灯。



割拝殿右に「寺山/安明寺垣内」、「南垣内/北垣内」、「柳東垣内」それぞれの垣内提灯が。

左側に「中垣内」、「中東垣内」、「柳西垣内」がある。

本殿は瓜提灯のようにも見える丸提灯を吊り下げた

県内では総代を自治会長と呼ぶ地域は増えつつある。

高樋町ではかつて、フリアゲ神事を司るのは村総代だった。

今では自治会長。

三月に行われる五社代参フリアゲも自治会長がクジを引いていた。

この夜は當家子(とうやご)が決まる。

自治会長の足元を照らすのはお伴がもつ片手持ち提灯。

足元を照らす提灯にローソクを灯したら、直ちに割拝殿など一切の電灯を消す。

本殿も割拝殿も真っ暗な闇に包まれる。



お伴がもつ提灯の灯りだけが本殿に登って動く。

決してライトペンで照らすものではないという厳格な神事である。

神さんにお告げを乞うた自治会長。

しばらくすれば割拝殿に戻ってきた。

円座中央に自治会長が座る。



封書を開けて平成28年度の行事を務める當家子(とうやご)の名前を呼び出す。

フリアゲの名がある神事は高樋の神さんを拝んだ自治会長が持ち帰るクジは神意で決まったのである。

本来、決まった當家子(とうやご)はトウヤ(當家)家の成人男子。

生まれたらイリコ入りする。

当村で生まれた男子は生まれた順であるが、婿入りした男性もイリコ入りをする。

歳はいってもイリコ入りした日が誕生日みたいなもの。

いわゆる氏子入り。

私がそうだったとと云う人も何人かおられるようだ。

今回決まった當家子(とうやご)は二人とも中学生。

年齢の順に下った中学生だ。

これまで成人、高校生だった。

ぐっと下がって中学生になった。

次の當家子候補は小学生になるらしいが・・・。

自治会長の左側に座ったのはアニドウヤ。

右はオトウトドウヤだ。

年齢順でそうなっている。



給仕が出向いて御供下げしたスルメとコンブを差し出す。

自治会長、アニドウヤ、オトウトドウヤの順で手渡す。

次の給仕はお神酒だ。



當家引き渡しでもある儀式に献をするが、中学生では真似事になる。

當家子が決まって挨拶をされる神社総代。

初の役目に胸をなでおろす。

決まった當家子はあらためて家族とともに参拝をしていた。

神饌所の前は人だかり。



竹の先にいただいたモチを挿してトンドの火で焼く。

直接、火にあてれば焼けて焦げ付く。

少し離して焼く。

表が焼けたら裏面も焼く。

タイミングを失った場合はトロトロに溶けて竹から落ちてしまう。

焼いたモチは二つ折り。

ジャコを挟んで食べれば美味しくなるという。

云われた通りに焼いて挟んでいただいた。

美味い。

決まった當家子は氏子たちに囲まれる。



大役を射止めた同家の母親は笑顔になった。

かつては二組のトウヤ(當家)4軒でマツリをしてきた。

當家子に何事か起こればヒカエ(控え)が替わって務めた。

いつしか人数が少なくなって一組になった。

この形式は今年が最後になるであろう。

高樋の當家子決めは転換期を迎えている。

新たに導入する當家子決めは翌年の初集会にヒカエの在り方なども含めて大胆に改正するそうだ。

(H27.10.10 EOS40D撮影)
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米谷町白山比咩神社のヨイミヤ

2016年06月26日 09時19分10秒 | 奈良市へ
奈良市高樋町のヨイミヤ神事を終えた新谷宮司は隣村の米谷(まいたに)町へ向かう。

北椿尾町の神社祭祀も務めておられる宮司は五ケ谷村落一帯の旧村神社行事すべてを担っているようだ。

旧都祁村藺生町・葛神社の造営準備を確認して戻ってきた五ケ谷。

気になっていたのが米谷町・白山比咩(はくさんひめ)神社で行われるヨイミヤ行事である。

お渡りがあると聞いていた時間はとうに過ぎていた。

高樋町のフリアゲ神事まではまだ時間がある。

鎮座地も含めて現況を目で確かめたくて立ち寄った。

白山比咩神社は集落下にあるはずだ。

車が通れる集落道に提灯の灯りが見えた。

神社へ向かう標の提灯は高張提灯。

ここよりは神社に向かう参道だ。

しばらく歩けばまたもやローソクを灯した提灯を立てていた石の鳥居を潜る。

石の鳥居を潜って神社に向かう。

またもや火を灯した高張提灯があった。

朱塗りの鳥居も潜って階段を登る。

そこが白山比咩神社の鎮座地だった。

紺色の幕を張っていた社務所。

それとも参籠所であるのか・・・。

行事の真っ最中。

お声を掛けるのも迷惑だろうと思って掛けずじまい。



子供たちが境内を走り回っていた。

拝殿には座中が居られるが、これもまた話しかけることはできなかった。

これより始まるのはエダマメ喰いのようだ。

たわわに稔ったエダマメは神饌所の窓にあった。

参籠所ではたくさんのエダマメがある。

この写真、あれぇ。

左側に立つ女児の姿に注目。

なにかをおぶっているような気がする。

赤ちゃんかどうか確認はしていない。

小社と思われる社に御供があった。



モチにカキ、サトイモ、サンマのヒラキなどである。

パンもあればクリもある。

奉書包みなどの中身。

オヒネリも含めて中身は判らない。

頭を下げて帰りの参道。

杖をついて先を歩いていた婦人に声をかけた。

本来なら参籠所でエダマメをよばれるのだが、所用で早めに家へ戻るという。

婦人の旦那さんは生前に白山比咩神社の祭祀を務める最長老だったそうだ。

長老は一老を筆頭に11人。

そういうことから11人衆と呼ばれている。

11人衆は和装姿に白足袋の下駄履きのようだ。

米谷のトウヤは二人。

アニドウヤ・オトウトドウヤの呼び名があるらしい。

この日はヨイミヤで公民館を出発してお渡りをしたそうだ。

お渡りは翌日のマツリもする。

御供はコイモ。

両日とも御供はあるが、マツリのトウヤは大量のイモ(サトイモか)を供えることからイモドウヤの呼び名がある。

この日はヨイミヤ。

大量のエダマメを御供する関係でマメドウヤと呼んでいる。

供える御供によってトウヤの呼び名が替わる。

そういう話しをしてくれた婦人。



よう参ってくれたと手にしていたエダマメを分けてくれた。

一老を務めた旦那さんを亡くした一人身。

エダマメは一人では多いので、ということで分けてくれた。

(H27.10.10 EOS40D撮影)
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農家にとっての野焼き

2016年06月25日 09時40分39秒 | メモしとこっ!
広がる田畑の向こうに煙が見える。

狼煙ではなく野焼きの煙が立ちあがっていた。

造営直前の田畑はすっかり黄金色が消えていた。

明日の造営までに済ましておきたかったのだと思った。

市町村によっては野焼きを法律「廃棄物の処理および清掃に関する法律」に基づいて禁止している処がある。

在住の地の広報誌にもそれを書いているが、基本的なことは廃棄物の野焼き禁止である。

ただし、だ。

農業を営むためにやむを得ないものとして焼却(焼き畑、稲わら、もみ殻、あぜ草等の焼却など)や風俗習慣、宗教上の行事のために必要な焼却(どんと焼き、塔婆の供養焼却など)は例外規定になっている。

が、ここでもただし書きがある。

野焼き禁止の例外規定とされた行為であっても、周囲に迷惑がかからないように煙や臭い、灰の飛散などに対して注意が必要で、できるだけ最小限にとどめるよう、お願いする、とあった。

こうした広報記事は毎年のように発行されている。

ある年度の記事には生活環境上、支障を与え、近隣住民からの苦情通報がある場合は各種の行政指導の対象になる、とある。

法律というのは廃棄物処理法。

正式には昭和45年に発布されている「廃棄物の処理および清掃に関する法律」になるようだが、野焼きそのものの名称・事案もなく、規定がこれなのかどうか判らない。

ある地方自治体の議会報告にあった答弁によれば、平成13年4月に野焼きを禁止が施行されたとある。

さらには平成16年5月の改正で罰則規定が設けられたとか・・・。

例外規定は何であるのか。

これも調べてみた。

どうやら野外焼却を禁止した政令「焼却禁止適用除外規定」のようである。

実は法律条文に直接的な「野焼き」という文言は一切みられない。

敢えていうなら「廃棄物の処理及び清掃に関する法律及び産業廃棄物の処理に係る特定施設の整備の促進に関する法律の一部を改正する法律の施行について」における「(焼却禁止)」である。

「法律 第十六条の二 何人も、次に掲げる方法による場合を除き、廃棄物を焼却してはならない」条文中の「三 公益上若しくは社会の慣習上やむを得ない廃棄物の焼却又は周辺地域の生活環境に与える影響が軽微である廃棄物の焼却として政令で定めるもの」。

次に「(焼却禁止の例外となる廃棄物の焼却)」条文中にある「三 風俗慣習上又は宗教上の行事を行うために必要な廃棄物の償却」、「四 農業、林業又は漁業を営むためにやむを得ないものとして行われる廃棄物の焼却」、「たき火その他日常生活を営む上で通常行われる廃棄物の焼却であって軽微なもの」である。

そう、広報誌が伝える法律とはこのことであった。

なお、そもそも本来の「野焼き」とは。草木がまだ新芽も出ない春先の時期に野山の枯草を燃やす、山焼きとも呼ばれる行為であると書いてある。

(H27.10.10 EOS40D撮影)
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藺生町葛神社の造営準備

2016年06月24日 09時15分01秒 | 奈良市都祁へ
平成17年4月に奈良市に編入された旧都祁村。

その都祁村は昭和30年、ほぼ西名阪道路を挟んで南側にある旧都介野村10カ村と北の旧針ヶ別所村5カ村が合併してできた村だった。

旧都介野村10カ村は藺生・小山戸・相河・南之庄・甲岡・来迎寺・友田・白石・吐山・針。

一方、旧針ヶ別所村は小倉・上深川・下深川・萩・馬場だ。

旧村それぞれの寺社で何らかの村行事をされていることを知って出かけた。

取材を始めてかれこれ13年にもなる。

平成14年10月に訪れた上深川を皮切りに平成15年2月の南之庄、同年2月の針ケ別所、平成17年1月の針、同年2月の下深川、同年10月の友田、平成18年1月の馬場、同年7月の甲岡、同年10月の小山戸、同年11月の白石、平成19年4月の吐山、平成20年9月の小倉、平成21年1月の相河、同年6月の藺生、平成22年9月の来迎寺の順であったが、萩へは未だに訪れていない。

藺生を訪れたのはたかだか6年前だ。

始めて訪れたときからずっとお世話になっている村神主さんが居られる。

10月11日に20年に一度の葛神社の大事業である「ゾーク(造営奉告祭)」があるから写真を撮ってほしいと電話があった。

受け取ったときは病院ベッドの上だった。

退院日は決まっていた。

それからリハビリ運動。

身体は本格的ではないと思えるが、2カ月後になる。

ありがたい申し出になんとか応えようと、義理と人情、そして、希望の光を与えてくれ、体力復帰を促してくれるであろうと思って受諾した。

藺生の村行事は平成21年6月の佐平祭(葛神社)を皮切りに同年9月の観音講会式(青龍寺)、同年11月のフリアゲ、平成22年2月の初午祭(葛神社)、同年5月のさぶらけ、平成23年7月の夏神楽(葛神社)、平成24年4月の旧暦閏年庚申講、同年5月の毛掛参籠(葛神社)、平成25年1月の初祈祷(青龍寺)、平成27年6月の上遷宮(葛神社)を取材してきた。

村神主の他、馴染みの人が増えていく。

挨拶をすれば「これも来たんか」と云われる。

入院中に村神主より頼まれた葛神社の造営事業。

退院してから1カ月後の9月半ば。

造営委員長を務める自治会長からも電話があった。

正式にお願いしたいということだ。

このころ、すでに数か所に亘って行事取材をしてきた。

なんとかなる、である。

自治会長の依願に身体を張って撮りまくる、ということだ。

失敗は許されない20年に一度の大事業に応えるためにその後も続けるリハビリ運動に精進する。

祭典の式次第や新しく作成された葛神社の由緒パンフを送ってもらった。

祭典の流れは送られた資料で把握しておく。

ある程度はイメージできるが、撮影位置はどうするか、どう動き回るか、である。

設営の状況を確かめたくて造営奉告の前日に訪れた。



この日は朝から晩まで忙しく造営委員が動き回っていた。

式次第は受付の午前の部とメイン祭典となる神事や奉納する午後の部だ。

特に見ておきたかったのは神事が行われる紅白幕を張った高台の櫓場である。



割拝殿の真上に設営された櫓場はけっこうな高さ。

見上げるほどである。

4年前の平成23年11月は大字南之庄も国津神社の造営が行われていた。

神事の場の造りはほとんど同じで高さも同じ。

撮影するにも下からでは見えない場で神事が行われる。

村の記録は大切な記録になる。

造営祭典の様相や村人の姿の一部始終を撮らなければならない。

全体を見渡せる場は此処しかない。



明日の祭典の立ち位置は、この場に決めた。

自治会長も村神主もそうしてくれと云う。

造営事業は平成26年4月より始まっていた。

造営委員会を立ち上げ数々の事業を進めてきた。

本殿に坐ます神さん。

建替え工事をする期間は仮宮に遷ってもらった。

建て替えは地元の棟梁。

チョンナとも呼ぶチョウナ初めの儀式も行われて本格的な工事に入った。

本殿などが完成し、6月には新しくなった本殿に遷ってもらう上遷宮の儀式も終えた。

直前には村氏子が寄贈した石橋を祝う渡り初めもした。



その都度の状況を撮っておいた写真は太鼓台を格納している蔵の壁に貼りだした。

明日の造営祭典に訪れる内氏子や外氏子に見てもらうためだ。



明日の造営奉告祭に出展されるチョウナ(手斧)や墨壺、サシガネなどは本殿建築に際して大工棟梁が初めに手にする道具である。

奈良県内で行われる造営奉告祭、或は上棟祭と呼ぶ村事業の始めに行われる社殿再構築。

当地藺生町においても棟梁の仕事初めのチョウナ(手斧)初めの儀式があったと造営委員長が話していた。

その件を聞いたのはこの日。

拝見できなかった棟梁の儀式は貼りだした写真で確認した。

(H27.10.10 EOS40D撮影)
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高樋町春日神社のヨイミヤ

2016年06月23日 08時08分21秒 | 奈良市へ
午後一番に春日神社下に集まった奈良市高樋町の氏子たち。

参集するのはシキジなど祭祀を務める神社役員や自治会、農家組合、評議員たちだ。

丹生町在住の新谷宮司によるヨイミヤ神事が始まる。

前日は社務所でカミキリをして大御幣を作っていた。

昨日に設えた祓いの場中央の砂盛りにサカキ幣を立てる。



まずは宮司一拝、そして祓いの儀が行われる。

祓いに身を清めた氏子たちは割拝殿中央から登った社殿前に並ぶ。

神饌所に並べた御供は4列。



中央に天児屋根命を祀る春日神社の本殿や、両側に事代主命を祀る蛭子二社殿に献饌する。

さらには瑞垣の外に大日霊命を祀る小社周りも丁重に献饌する4社の御供。

塩、洗米、酒、モチ、スルメ、コンブ、キャベツ、ニンジン、ダイコン、ナスビ、シメジにリンゴやバナナなどがある。

割拝殿の神饌所の反対側。

3人が座る円座を敷いている。



傍らに木造で建てられた仮宮が残されていた。

云十年に一度の造営事業。

本殿に奉られていた神さんは一旦、仮宮に遷される。

本殿の再建築が終われば元のお社に戻っていただく。

お戻りになられた仮宮は残すことなく撤去されるのが一般的だが、高樋町は珍しく残されていた。

ヨイミヤ神事を終えた一行は社務所の席に座る。



これより始まる直会の場の膳はブリの照り焼きにコンニャク、コイモ、ゴボウ煮物の三品盛り。

オトウトドウヤ(弟當家)が調理した食事である。

翌日のマツリはアニドウヤ(兄當家)が調理する。

2軒のトウヤ(當家)それぞれの家の味になるらしい。

ちなみに2軒の當家がアニ、オトウトになるのは年齢順だ。

昭和50年代半ばまではイリコ入りの儀式を経て氏子入りしたと云う。

前年度にフリアゲで決まった2軒が協力しあって座につく氏子たちに御供下げしたスルメとコンブを配膳する。



お神酒を注ぐのもトウヤ(當家)。

給仕が一回りしてほっとされる。

上座は丹生町の新谷宮司。

シキジとミナライはヨイミヤ神事の片づけを終えてから両脇に座る。

両側の上座は神社総代と自治会長だ。

社務所の北側の建物は参籠所。

テーブルにオードブルや菓子盛りを並べて客人待ちする女性たちは自治会役員。

明日のマツリに巡行する子供神輿の面倒もみている。

時間ともなれば万青(まんせい)の人たちが神社にやってくる。



手水をして割拝殿を登る。

四社や大師堂、庚申堂などを巡って参拝する。

参籠所は集まった万青の人たちがいっぱいになった。

万青は「万年青年」。

いつまでも健康で長寿を願った名称は東山中の大字で度々耳にする老人会名称である。

(H27.10.10 EOS40D撮影)
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数年後に様変わりする石木-城線

2016年06月22日 09時18分53秒 | 移設道路工事
心臓リハビリに自宅周辺を歩いている。

心臓手術は無事に済んだが、脈拍異常の状態が続く。

薬剤の増量処置をしているが、よくなる傾向は見られない。

上半身は動くものの下半身は本調子に戻る気配もない。

自宅周辺は字主水山(あざもんどやま)。

竹藪だった山を切り開いて造成した新興住宅地。

わずかであるが、主水山は旧村。

北に数百メートルも歩けば奈良市石木町に鎮座する登弥(とみ)神社がある。

神社氏子圏は奈良市の石木町、大和田町に大和郡山市内の城町。

地区は主水山である。

我が家は30云年前に当地へ引っ越してきた。

籍は字主水山であるが、行政番地が付与されたら字名は消えた。

石木-城線は大和中央道より北にできる新設道。

越してきたときに拝見した法務地図に中央道が我が家の目の前に通る道筋が描かれていた。

30云年も経てば時代状況は変化する。

予定していたコースは奈良市押熊町までを直進するはずだった。



富雄川に沿って走る道路は狭かった。

毎朝、毎夕はいつも渋滞を起こしていた。

十年ぐらい前に道路は4車線に拡張されてからは渋滞がなくなった。

通行しやすくなったし、昨年には富雄南イオンタウンもできた。

何年か前に決まった新県立奈良病院の移転である。

病院は平成28年に開業される予定だ。

工事は着々と進捗している。

工事車両は富雄川からの出入り口。

いずれは病院への進入路になるであろう。

病院の進入路は他に2カ所が予定されている。

一つは六条西にある五条山病院辺り。

もう一つが我が家の目と鼻の先になる。

6月初旬、石木-城線にあった主水山地蔵尊は道路の付け替え工事に伴って祠ともども退けられた。

廻り道の一部が広げられた付け替え工事。

路線になった家は移転する。

道路の東際に住民が住むと思われる住居建築が始まった10月初旬。

看板は残してあったが、数日後には10月末に書き換えられていた。

ここよりまっすぐ通る道の工事が始まるのは来年になるであろう。

電柱がある先、数百メートルの地に我が家があるが、現時点では主水山の丘があるので見えない。

それから二日後の8日である。

地蔵尊があった地の南方だ。

付け替え工事する処にある急カーブ道付近に立てられていたマツリの御神燈提灯。

高く掲げられた中央には御幣がある。

向こうに見える家人に尋ねたら10月7日の朝6時に立てたというのだ。

登弥神社のマツリを示す提灯である。

ここより神社に向けて歩く道は狭い車道。

路線バスも走る道路である。

車の往来が激しい石木-城線。

カーブミラーを見ずに突っ込む車で絶えず渋滞を起こす道だ。

地元民は状況を判っているから突っ込まない。

渋滞を引き起こさないように手前で待つ。

私もそうして待っているが、後ろに着いた車が追い越していく。

それによって狭い処ですれ違うこともできずに渋滞を起こす。

場合によっては避けようとして水路にタイヤを落とす車も多い。

路線バスが遅れることもしばしばある。

石木-城線は病院開業に伴って現路線から新路線に移される。

我が家辺りから地下構造アクセス。

通り抜けて病院に入るアクセス道と富雄川に抜ける道になる。

当然ながら路線バスの行路も替わる。

停留所は我が家の目と鼻の先だが、階段もしくは迂回道で道路に上がる。

そのような工事説明会が20日に行われる。

それはともかく提灯立ては翌日の8日の宵宮祭、9日の秋の大祭が済むまで立てている。

石木-城線に住む旧村住民は門屋に家の提灯を立てる。

ちなみに8日は神事に浦安の舞や御湯立が行われる。

9日は子供太鼓が巡行されると聞いているが、未だ拝見できていない。



7日の朝6時に提灯を立てたという家は農納屋がある。

カーブ付近にある建物から大きく膨らむ袋が見られる。

今年は天候不順で稲刈りが例年より遅くなったという婦人。

ウスヒキの真っ最中だった。



当家の畑は富雄川の西側。

田園が広がる地は黄金色に染まっていた。

稲刈りが忙しい時期にマツリが重なった。

すべてのウスヒキを終えたら刈った田んぼでもみ殻を焼く燻炭作り。

燃えないように水をかけて調整するという。

通りがかった10日もウスヒキをしていたが、マツリの提灯は見られない。

提灯倒しは10日の朝6時。

マツリは終わってもウスヒキは続く。

(H27.10. 6 SB932SH撮影)
(H27.10. 8 SB932SH撮影)
(H27.10.10 SB932SH撮影)
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高樋の実成―ハザカケ―

2016年06月21日 08時57分14秒 | 奈良市へ
稲刈りをしていた男性が話してくれた高樋町のハザカケ。

稲作する農家の人は多いが、ハザカケをしているのはたったの一軒。

いつの日か辞められるかもしれないから撮っておいたらどうかと伝えられた。

カミキリ取材を終えたころの時間帯は午後5時前。

高樋町取材に着いた時間は午後1時半。

3時間半も滞在していた。

ハザカケをしている場所を探した。

車通りから見える場だと話していた。

ソロソロ走って探してみる。

あった。

停車して畑道を下る。



ハザカケとハザカケの間は稲刈り前の状態が残っていた。

電柵を張っている田んぼに入ることはできない。

陽が落ちるころの時間帯はつるべ落とし。

闇が迫る速度が早い。



西に夕陽が落ちていく。

空は茜色に染まりつつある。

向こうに見える山波は矢田丘陵、それとも生駒山系・・。



くるりと背を返せばスズメオドシ。

飲んだカンビールを竹竿に括って下げている。

稔った稲穂が黄金色に輝いた。

それは一瞬だった。



再び西を見れば夕陽が落ちていく。

(H27.10. 9 EOS40D撮影)
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高樋の実成―稲刈り―

2016年06月21日 08時45分50秒 | 奈良市へ
春日神社のマツリ準備に余念がない氏子たち。

作業する日も忙しく働いているのも氏子。



稲刈りバインダーを運転操作する男性は日焼けで顔が真っ黒だ。

稲刈り作業の逞しい後ろ姿を追いかけた。



春日神社の月並祭に古代米を奉納、供えられた。

稲刈りしていた男性とは違う田主のようだ。



今年は豊作になった古代米は5品種。

紫、黄、緑・・・。



稲刈りをしていた男性がいうにはマツリは是非とも記録してほしいと願う。

この年、祈年祭のフリアゲや摂社の舎人神社行事も撮らせてもらった。

特にフリアゲの際に掛図の内容を話したことが印象に残っているそうだ。

ありがたいことである。

(H27.10. 9 EOS40D撮影)
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高樋の実成―落下銀杏―

2016年06月21日 08時42分09秒 | 奈良市へ
銀杏の実成は相当な量だ。

高くそびえる銀杏の枝にびっしり成った実はやがて境内に落下する。

今年の実成はやや小さめ。



例年のほうが大きいという銀杏は誰も持ち帰ることなく掃いて捨てられるか、燃やされる。

11月初めのころにはまっ黄色になっているかも知れない銀杏の秋の色。

当地近くに用事がわれば足を伸ばしてみよう。

(H27.10. 9 EOS40D撮影)
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高樋町春日神社カミキリの日

2016年06月20日 08時29分56秒 | 奈良市へ
中央は天児屋根命を祀る本殿。

両側に二社。

両社とも事代主命を祀る蛭子社殿だ。

さらに瑞垣の外に大日霊命を祀る小社周りも綺麗に清掃する。



左手に建つ四角型灯籠には「今宮大明神 寛文拾弐年(1672)十一月吉日」が刻まれている。

右手にある六角型灯籠にも「今宮大明神」の名があるそうだ。

氏神さんのヨイミヤや翌日のマツリに準備に余念がない奈良市高樋町の氏子たち。

午後一番、集まってきた宮総代・会計やシキジ(式司)・ミナライ(見習)に手伝いさんたちは境内や拝殿を綺麗に清掃される。

奈良市高樋町に鎮座する春日神社の割拝殿。

床も柱も布で水拭きする。

割拝殿の中央は土間作りの急坂だ。

両側は床張りで、右が神饌所。

左側の場は翌日のヨイミヤで、大切なトウヤ決めの神事が行われる。

次の年のトウヤ(當家)を決めるフリアゲの場である。

それだけに、より一層の磨きをかけて拭きあげる。

トウヤ決めの場には木造の仮宮が残されている。

云十年に一度の造営事業。

本殿に奉られていた神さんは一旦、仮宮に遷される。

本殿の建築が終われば元のお社に戻っていただく。

お戻りになられた仮宮は残すことなく撤去されるのが一般的だが、高樋は珍しく残されている。

割拝殿の天井を見上げた。

鴨居に載せていた四角くて長い物体だ。

そこに墨書文字があった。



造営の際に揚げられた棟札であった。

朱の鳥居を入れ替えた際に不要となった「古い方の鳥居の部材を再利用した」と氏子たちが云う。

墨書に「本社 春日神社 天下泰平 五穀成就 氏子安全 大正参年(1914)寅年四月十五日 御造営 當村惣代・・・氏子惣代・・・・評議員・・・・・大工・・・・石工・・・」とある。

百年前の棟札である。

圧倒される巨大な棟札に身震いする。

平成6年7月の発刊の『五ケ谷村史』によれば、社殿の造替は昭和53年(1878)にされたとある。

この日に拝見した鳥居再利用の棟札のことは書かれていなかった。

見上げることはなかったのだろう。

村史が伝える造営は一部補修と思われるのだが、どうだろうか。

前回の御造営から節目になる100年目。

来年は本殿の建替えを検討していると話された。

マツリに掲げる幕は二枚ある。

一つは割拝殿に張る。

もう一つは参籠所だ。

幕を張る前にカミキリした紙垂れを注連縄に取り付ける。

昨年の12月1日に架けた注連縄は今でも美しい姿で現存している。

拝殿に張った幕に染め字があった。



「大正拾三年(1924)七月 奉納 祈雨満願 氏子中」の文字である。

拝殿と鳥居に間に二種の灯籠がある。

その一つに「雨願成就 奉納 春日社 明治(暦のようにも見えるが・・)壱年(1868)八月建之」の刻印が見られる。

明治、大正時期に発生した思われる旱。

雨乞い祈願の結願に雨が降る。

田畑に潤う天からの恵みに感謝して満願祈念に製作した灯籠と幕である。

『五ケ谷村史』によれば、明治十四年(1881)七月十四日・二十六日、隣村の米谷・白山比咩神社に当時の雨乞い祈願の記録が残っているようだ。

二十六日付けの文書に「一、子供相撲 一、花笠踊り 一、タンダ踊り」を五日間、降雨まで奉願していたとある。

願掛けに家ごとの燈明上げ、若しくは砂モチのいずれかをフリアゲで決めていた。

降雨が叶えばお礼にフリアゲ。

前記した子供相撲、花笠踊りタンダ踊りのいずれかを選んでいた。

明治十四年・十五年、隣村の北椿尾では雨乞い行事の執行に所轄の警察に届けていたと伝える。

雨乞い、満願の在り方を示す貴重な史料である。

一方、参籠所に張られた幕は長い。



「大正十三年(1924)十月 踊ニ〇加舞子 若返會中」の文字を染めている。

若返会とは・・・なんであろうか。

踊ニ〇加舞子とは・・・。

村人、誰に聞いても判らないと返答される。

12名ほどの奉納者があった若返会の幕を見る氏子たち。

「もしかとすればあの家の爺さんだったかも・・・」と独白される。

いずれも下がり藤の紋を染められた二つの幕に村の歴史を伝える。

ちなみに米谷で雨乞いに躍っていた踊りは「神楽踊り」。

単に「雨乞い踊り」」とか、囃し言葉より「テッテコ踊り」の名があったようだ。

雨乞い踊りは干時だけでなく、毎年の4月1日(明治5年以降は5月1日)に躍っていたようだが、昭和7、8年ころを最後に中断した。

高樋の幕に「ニ〇加」の文字がある。

「〇」は「輪」とすれば「二輪加」である。

つまり「にわか(俄)」踊りである。

踊りがどのようなものだったのか伝わっていないが「舞子」の文字より、踊り子は若返會。

若返會の呼称から考えるに踊り子は若手ではなく年配の人たちであろう。

即興で寸劇の「ニ〇加踊り」をしていたのだろう。

それは雨乞いか、満願か。

それとも十月寄進の幕からマツリ・豊作祝いに踊っていたのであろうか。

割拝殿下に設えるお祓の斎場。



四方および中央に杭を打つ。

笹竹を括り付ける四方の杭である。

中央は川の砂を盛る砂盛り。

笹竹に注連縄を張る。

紙垂れの取り付けは明日になる。

こうした作業は総代・会計など役員やシキジ(式司)・ミナライ(見習)の役目。

一方、明日のヨイミヤ、明後日のマツリに登場するのはアニドウヤ・オトウトドウヤと呼ばれる二人の當家だ。



當家はこの日作られた大御幣を持って神社までお渡りをする。

何年か前まではヨイミヤのお渡りがあったが簡略化されてマツリの日だけになったそうだ。

大御幣を作っていたのは丹生町の新谷宮司。

平成4年に作られた木材にカミキリした御幣を取り付ける。

半紙に洗い米を包んだ御供も取り付ける。

御幣は紙を切断することで出来上がる。

そういう様相から氏子たちは「カミキリ」と呼んでいた御幣作りである。

アニ・オトウトドウヤとも同じ大きさ、形の大御幣。

準備が調えば家に持ち帰る。



かつてはヨイミヤに大御幣を抱えて神社までお渡りをしていた。

道中で「ヨイヨイ ワアイ」・「ワアイ」の唱和をしていたようだ。

現在のお渡りはマツリの日だけとなった。

かつてはアニ・オトウトドウヤが二組もあった。

村人が少なくなり一組になった。

そのときにお渡りはマツリの日だけになったようだ。

お渡り装束は烏帽子に白装束。

おそらく素襖であろう。

シキジも同じように烏帽子を被った白装束。

この日は予行に仮着用された。

(H27.10. 9 EOS40D撮影)
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萱森太夫家の民俗

2016年06月19日 08時09分43秒 | 桜井市へ
棚田を拝見して立ち寄った太夫家。

門口に竹を立てていた。

先っぽが黒ずんでいる。

焼けた痕だと思った。

写真では判り難いが斜めに倒れている古い竹もあった。

もしかとすればと思ってシャッターを押した。

門口から出入り口を下がった処に小屋がある。

声は聞こえないが煙が立ち上がっていた。

足を運んだそこには黒く焼けたもみ殻があった。

その中央部に煙突がある。

そこからも煙が出ていた。



いわゆる燻炭焼きである。

棚田に設えたハサガケの2/3は竹の棒を水平にしていた。

干していたと思われる稲の2/3はなかった。

燻炭焼きはハサガケで干していた稲はイネコキして精米した。

残ったもみ殻を焼いていたと思われた。

これもシャッターを押しておいた民俗の景観である。

ピンポーンを押して家人を尋ねる。

玄関を出てこられたのは72歳の婦人だ。

ついさきほどまでは桜井から花好きな二人連れが来ていたという。

ここを訪れたのは退院後の元気な姿を見てもらうためだ。

「タメトモユリ」の花が咲いているからと電話を架けてくれたのはご主人だ。

7月14日のことであるが、そのときは入院しているベッドであった。

病院から抜け出すことはできない。

8月末まで咲いているとも云われたが自宅療養の身であった。

8月15日に退院してから2カ月半。

10月に入っていた。

「タメトモユリ」は来年にこそ訪れたいものだ。

入院・手術・退院の話しをすれば「私も同じ時期にたいへんやった」と話し出す。

ヘルペス発疹によって発熱した。

それから肺炎を起こした。

入院はしなかったが呼吸困難になった。

肺に水が溜まったという症状は私と同じだ。

3月1日に神さんを迎えている同家。

なんとか乗り切っていきたいと思ってそうしたらしい。

つい最近になって回復したという婦人の話しにこちらが驚いた。

本来なら20日辺りにマツリが行われるが、さまざまな事情で一週間遅らせた。

一つは同家の事情、もう一つは宮司の事情である。

マツリの日が重なった宮司は動きようがない。

仕方なく一種間遅らせた。

そのことによって一年間の服忌が明けたY家はマツリに参列できるというわけだ。

旗を立てる杭を立てた。

秋の花が咲いている庭を綺麗にする。

廻りの用事がいくらでもある。

10月はお庭造りに遷しまし、マツリに後宴もある。

できる限り寄せてもらうことにした同家の軒先にはマメとトウガラシを干していた。

マメの一つはパンダマメ。

右手より少し小さい。

手で皮を抑えると弾けて白いマメが飛び出す。

食べるのではなくタネ利用。

畑に盛って育てるらしい。

「小屋の前で煙が出ている」と伝えたら消し忘れていたという婦人。



束にした竹箒で掃いてなだらかにする。

井戸水をバケツに掬ってジョウロで注いで焼けた燻炭の火を消す。



まんべんなくジョウロで注ぐ消し水。

ある程度消えたら中央に立てていた土管を下げる。

熱いから手で持てない。

金属製のハサンバリで掴んで退ける。



燻炭の中には石がある。

土管が倒れないことと、空洞を開けて空気が流れるようにした石も取り除く。

焼けたもみ殻はタール分が出る。

煙突だった土管の内部はタールで詰まる。

それを取り除く竹も傍に置いていた。

炭化した燻炭は畑の肥料にもなるし、種蒔きをした畑の蓋にも使う土壌改良材である。

通気、排水もあれば土をよくする微生物の住処にもなる。

土壌の消毒、耐病などなどに利用する優れものだ。

消火作業を見届けて、気になっていた門口の竹の正体を教えていただいた。

昔も今も同じ場所でしている先祖さん迎えの痕跡である。

二つ折にした藁束を竹の棒に挿す。

それは2本。

ご主人が「かえなはれ・・」と云いながら鉦を叩いて屋内に戻る。

8月14日の夕方近くに行われる家の風習痕を見つけたときの嬉しさ・・。

盆の風習を知る者でなければ見逃す情景に感動する。

奥さんが話す様相から隣村の北白木で拝見したものと同じようだ。

翌日の15日は戻った先祖さんが再び天に戻っていく。

迎えと同じように送りのときも門口に竹を立てて藁束を燃やす。

「いにやれ」と囃しながら鉦を打つ。

天に戻られる時間帯は遅いほうがいい。

家に滞在してもらう時間はできるだけ長くすると話していた。

(H27.10. 7 EOS40D撮影)
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萱森のハザカケ棚田

2016年06月19日 08時04分58秒 | 桜井市へ
山野草を撮っていた場は桜井市の大字萱森。

振り返れば樹木の向こう側に棚田がある。

神社祭祀を務める太夫さんが所有する棚田である。

稲刈りは9割がた終えていた。

田地に長く設営した稲架けがある。

稲刈りを終えてハザカケをするようだと聞いていたのは9月22日だった。

術後の身体は思うように動けない。

元気であるなら、声を聞いたらすぐに飛んでいく。

その気が起らないのはまだ療養の身。

山道が歩けるようになれば、と思っていた。

締め付ける胸帯で深呼吸はし難いが、そろそろ動きだしたい。

旧都祁村の藺町・葛神社で行われる造営の設営状況も確認しておきたかった。

北椿尾から藺、そして萱森に向かったのだ。

そう思って出かけた萱森。



ハサガケは全体のおよそ1/3ぐらいに稲を架けていた。

天日干しに黒い幌を被せていた。

風に波打つ手前の稲は晩稲(おくて)。

田植えの日にオンダのナエを立てているように見えたが・・・。

(H27.10. 7 EOS40D撮影)
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