マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

月ヶ瀬嵩八柱神社秋の大祭

2017年06月24日 08時52分55秒 | 奈良市月ヶ瀬へ
平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

村史によれば嵩の八柱神社の例祭は10月27日(平成11年から第三日曜)だった。

「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。

オトナ(老名)は四人。

長老は神主と呼ばれ祭事を務めた。

前日の宵宮で話してくださった嵩の行事。

本日の八柱神社の大祭に生きた鯉を供えていた。

生きているから暴れる場合もある。

それを防ぐには鯉の目に蓋をする。

蓋といっても紙片である。

神事が終われば近くにあるため池に放して放生会をした。

今年からは鯛になったが、放生の鯉は酸素を詰めた袋に入れて斎主がもらって帰る。

隣村の月瀬では一老がもらって帰ったというから、かつての嵩もそうであった可能性が高い。

ただ、年代は不明だが『祭り帳』に「はつの魚」の記載もある。

マグロを「はつ」と呼んでいたのは山添村の大字春日。

マツリに登場するでっかいマグロは刺身用。

嵩でも同じようにマグロの刺身を出す時代もあったようだ。

昔の御供はもうひとつの特徴があった。

それは山に生息してキジである。

捕ってきたキジを供えて持ち帰るのも斎主。

いつしかキジでなく山鳥代わりの生玉子である。



昭和3年の初期のころの『祭り帳』に記載されていた山ノ鳥や川魚のことである。

宮総代らがいうには昭和44年から49年までは生玉子。

50年からは玉子5個に定まった。

また、大祭に三角に切ったコンニャクに同じく三角に切った柔らかい豆腐を挟む料理がある。

『祭り帳』によればその料理を「サンド」と書いてあった。

つまりはパンのように挟むことからサンドイッチ。



イッチが取れて「サンド」の表記は昭和53年ともなれば「三度サンド」。

さらには「三角三度」に移っていた。

『祭り帳』に書かれていた当時の記帳内容を把握しながらの取材である。



本当家と相当家の2軒の家族が調理する座の料理。

奇麗に皮を剥いた茄子が山盛り。



その向こうには三角に整えた味付けコンニャクがある。

茄子は蒸し器で蒸す。

やや小さくなった蒸し茄子は大皿に盛る。



盛り方は放射状に広げるような感じだ。

柔らかくなった蒸し茄子は手を添えながら並べる。



ほうれん草は大鍋で茹でた。

これはクルミイモである。



クルミは青豆をすり潰したもの。

どろどろになったクルミはとろとろに茹でた里芋に覆うようにかける。

クルミの潰し方は若干の粒状を残す。

こうしておけば歯触りが良い。

かつて数か所のよばれたことのあるイノコのクルミモチもそうだった。

あのときの食感は忘れられない魅力がある。

三角サンドの呼び名がある三角切のコンニャクと豆腐。

厚めの豆腐を横スライスに切って三角切り。

手に乗せて切るのが難しそうだった。

挟んだこの形を拝見して思い出したのが山添村の大字春日のオトナ祭り(若宮祭)の座に出てくる料理である。

豆腐の焼きがあるか、ないかの違いはあるが、形状はまったく同じである。

三角切りの豆腐・蒟蒻の名前を漁ってみたが、大字春日の資料には固有名詞の記載がなかった。

どちらが先にあったのかわからないが、何らかの関係性があったことに違いない。

大祭神事が始まる時間帯は午後2時。

神前に数々の神饌御供を先に並べた。



お重に詰めた青豆はハジキ豆。

もう一つのお重はクルミイモ。

お櫃の御飯はキヨ(『祭り帳』に“きよう”とある)の白蒸し飯。

生玉子五つは両当家の奉った御幣の陰に隠れた。

他に鏡餅や鯉から替わった鯛や鯖に開きの魚のサイラ干し、祝い昆布、寿司海苔。葉付きの大根、蕪、人参もある。

宵宮同様に拝殿に登るのは神職に4人のオトナ(老名)と3人の宮総代である。



参集された氏子たちは見守るかのように外で参列する。

大祓詞の唱和。

そして、祝詞奏上。

厳かに行われる神事に聞こえる祝詞。

野鳥が囀る声が境内に広がる荘厳な場に佇んでいると異空間に入り込んだかのような錯覚を覚える。

次に始まるのは両当家が奉げた御幣を受ける奉鎮祭。

まずは本社殿に向かって正座する。



頭を下げて2礼、2拍手、1礼。

本当家、相当家とも同じ作法をして拝殿に戻る。



そこで受け取る当家の御幣。

儀式を終えて場を移動する。

そういえば先に拝見していた『祭り帳』に記載していた春日神社や薬師寺などの御供はどこにあったのであろうか。

嵩の神饌御供は先に調えて供えている。

ここにあると聞いて下げる前に撮らせてもらった薬師寺の神饌御供。



本社殿の御供と同じようにお重に詰めたハジキ豆にクルミイモ。

本社殿の鏡餅は五合であったが薬師寺は二合の重ね餅。

その前にある小皿盛りがキヨの飯。

一合升で詰めた作ったキヨの飯は四角い形であった。

本尊は格子扉の奥に安置されている。

落ち着いて拝見する間もなかったが、掲げてあった絵馬に目が留まる。

文政十一年(1828)七月吉日に寄進奉納された絵馬がある。



退治した赤鬼、青鬼に向かって諭しているかのように見える武者の絵馬。

お伴の者を描いていないから桃太郎ではないだろう。

で、あれば大江山の鬼退治した渡邊綱なのか。

大江山を描いた絵馬は群衆絵が主。

このような優しく鬼を諭す絵馬はあまりない、と思うのだ。

いずれであっても、絵馬に願主尾山とあるから大字尾山の人が寄進したことには違いない。

ちなみに春日神社は本社右横にあるヤカタであった。



これより始まるのは「座」である。

上座に座るのは神職と一老に区長である。

両脇の席についたのはオトナ(老名)、宮総代、氏子である。

下座につくのが本当家、相当家。

そういった席の前に並べた嵩のごっつぉはお櫃に盛ったキヨ(『祭り帳』に“きよう”とある)の白蒸し飯。

お重詰めのハジキ豆。



同じくお重詰めのクルミイモ。

里芋、大根、人参、竹輪、椎茸を煮込んだ煮しめ料理。

酢ゴボウ。

輪切りイカのたいたん。



三角切りの味付けコンニャク。

胡麻を振りかけた茹でほうれん草は醤油の味付け。



ダイビキの名がある辛子漬けの蒸し茄子にコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドである。

座始まりの指示は斎主の大字尾山の岡本和生宮司が行う。



まずは下座についた両当家が座の始まりの挨拶をする。

そして、下げたお神酒を座中に注いで酒を飲む。



注ぎ回った両当家も酒をついでもらって一同揃って一杯をいただく。



すぐさま動いた両当家は上座から酒を注ぎまわる。

酒を待てない氏子たちは交互に酒を注ぎ合う。

ひと通り酒を注ぎ終えたら今度はお櫃をもって上座に向かう。



小皿に盛ってまわるキヨの飯である。

次に配るのはお重詰めのクルミイモ。



席に回されたクルミイモはそれぞれが一つずつ箸で摘まんで手元の小皿に乗せる。

イモはそれぞれが廻していくが最終的には下座の両当家席の前において留め置き。

次に廻すのは煮しめ料理。

その次は輪切りイカ。

そして、酢ゴボウ、三角切りのコンニャク。

茹でほうれん草も順番に廻す。



廻す都度に中央に置いたご馳走料理を移動する。

一つ、一つの盛りを順次繰り上げるように移動するのである。

ただし、である。



大皿盛りの辛子漬けの蒸し茄子とコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドのお重は廻さない。

後ほど行われる謡いを終えてからである。

そのときに登場する“膳”は松葉と白い菊の花を立てた2/3切り大根である。



大根はやや長目のようだ。

その膳には高く盛ったジャコに盃がある。

この“膳”は2杯ある。

座が始まってから1時間経ってのころだ。

この“膳”を上座の斎主と一老席の前に置く。

謡いの歌詞を見てどの曲を先に謡うのか。

オトナとも相談して決めた初めの曲は四海波。

そして始まる謡いの儀式である。



まずは塗りの盃に酒を注ぐ。

盃は“膳”にある塗り盃である。

酒は熱燗のようだ。

酒を注いだ塗り盃を手前に差し出すような位置で止める。



それから謡う四海波。

「四海波 静かにて・・」の節を謡う斎主。

それに合わせて次の節の「國も収まる時つ風・・・」からは一同も揃って朗々と謡う。



最後の節の「・・君の恵みはありがたや」を謡い終わって盃の酒を一気に飲み干す。

飲んだ盃を“膳”に戻してジャコを摘まむ。

摘まんだジャコをいただく間に次の盃は右手の次の席者に。

左手も次の席者に“膳”を移動する。

盃を手にして酒を注いでもらう。

次の歌い手は下座に座った若い人。

謡う曲は高砂だ。

「ところは高砂の・・・」と謡えば、一同が揃って「尾の上の松も・・・」と謡う。

だいたいが1曲2分間の儀式は上座から数えて何人かが酒をいただいた。

廻し飲みの酒に膳が運ばれるが、なんとなく山添村の大字春日のオトナ祭り(若宮祭)の座に出てくる、

いわゆる“見せ膳”によく似ているように思えるが、どうも違う。

祝いの膳、それとも“謡い膳”と呼ぶのが相応しいのかもしれない。

そう判断してこれ以降の文は“謡い膳”とさせていただく。



一区切りがついたのか、先ほど謡いをしていた二人の若い人が上座に動いた。

持ったのはコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドのお重だ。

当家でもない若い人は手伝いのドウゲ(堂下)のように思えたが聞きそびれた。

順番に三角サンドを配った二人は下座に戻る。

そうすると両当家が“謡い膳”を二人の前に差し出す。

これまでと同じように注いでもらった盃の酒をいただいてジャコを食べる。

ジャコは廻し飲みに食べる肴である。

席についた両当家がようやく口にする煮しめ料理。

三角サンドも食べるが、座の接待に廻らなければならない。

ゆっくり落ち着いて食べる間もなく席を離れて上座に向かう両当家。

上座の席に運ぶのは大皿に盛った辛子漬けの蒸し茄子である。



大皿の中央にあるのは辛子醤油漬け。

箸で摘まんだ茄子を椀の辛子に漬けて小皿に移す。

一人、一本の蒸し茄子はナスビそのものの味だが、辛子醤油をふんだんに漬けることによって乙な味に変貌する。

『祭り帳』に記しているのは材料だけであって、味付けというか今で云う作り方レシピは書かれることがない。

村行事において味覚も受け継いでくるのは難しいことだと思うのである。

座中のとり計らいで座料理を味わう特別な料理の美味しさが口中に広がった。

三角サンドには味付けはない。

コンニャクは蒟蒻の味であるし、豆腐は豆腐味。

どちらかといえば豆腐そのものの味がする。



なお、この辛子茄子のことを「ダイビキ」と呼んでいたのが気にかかる。

これまで取材した地域。

山添村の松尾のトウヤ(当家)家が渡り衆をもてなす接待宴があった。

その在り方に「大魚の鯛を大皿に盛った器を掲げて宴の真ん中を歩く親戚筋。皿を持って左右にゆらりゆらりと振るように前に出る。要人たちは手を叩いて謡いをする」と書いた。

もしかとすれば、であるが、嵩のもてなし料理の辛子茄子は大皿盛り。

それを縁者が頭辺りにもって宴座で披露していたのかもしれない。

そう思ったのであるが・・・。

かつては大皿に盛った松茸もあったそうだ。

「松茸は上等の味やった。旨いもんは美味い。美味い松茸やけど、辛子醤油もサイコーやっ」とほうばって食べていた宴に謡いは続く。

一方、「料理だけじゃなく、ちょっと違うものももってきてくれんか」という声も出る。

お酒も随分飲んで酔いも謡いに発揮さるように聞こえる。

「これ、もう、謡いに廻してくれ」と云って指図したのが辛子醤油漬けの蒸し茄子であった。

そのときに発せられた言葉が「ダイビキ」を廻してくれであった。

実はと云ったのが辛子醤油漬けの蒸し茄子の味付け。

昔はどうやら素の味の蒸し茄子だったようだ。

宴もたけなわの時間帯に両当家が動き出した。

かつては当家家がもてなしの接待場。

現在は八柱神社下にある嵩のセンターに場を移した。

センターは会所でもあるが、玄関には提灯を吊るしていた。



その提灯を降ろして屋内に運ぶ。

提灯だけでなく「嵩八柱神社 祭用道具当家」の表示がある箱がある。

それらは次の当家に引き継がれる。

これより始まる当家渡しの儀式で受け継がれる道具は献立文書の『祭り帳』や提灯である。

道具は受け渡しする儀式そのものに作法もなく座敷に置いたままである。

作法は次の両当家と向かい合う下座で行われる。



下座の内側に座ったのが受け継ぐ両当家。

盃を手にして渡す当家が注ぐ。

盃は“謡い膳”にある塗りの盃である。

実はこの盃は武蔵野盃。

本来は大中小の五枚盃。

一番上にあった一番小さい盃であるが、かつては大盃で飲んでいた。

ところが、のん兵衛は少なくなり、やがて小盃になったという。



なみなみと盃に注いだ酒は口を三度つけて飲み干す。

そして、ジャコを摘まんで食べる。

そうして始まった謡いの曲は竹生島。

「緑樹かげしんで・・・」と謡えば一同揃って「魚木にのぼるけしきあり・・・」を謡う。

謡い終えるまでの受け当家は盃をもったままに静止する。

謡いが終われば盃の酒を一気に飲み干した。

ジャコを食べたら今度は継ぐ当家に移る。



盃を手にしたら受け当家が酒を注いで、口を三度つけて飲み干す。

ジャコも同じようにいただく。

そして、謡いが始まった。

竹生島の二番を続けて謡う。



「名所多き数々に・・」に続いて一同が謡う「浦山かけてながむれば・・・」である。

それもまた一曲終わって酒を飲む。

これを「ナガレ(お流れ)」と云って当家渡しは三献の儀で〆た。

こうした一連の儀式が終われば受け当家は再び“謡い膳”を抱えて上座に運んで順番に酒を注ぎ回る。

このときの盃も朱塗りの盃。

一同はこうして酒を飲み交わし、“契り”を交わした座を終えた。



数曲の謡いをしていたオトナ(老名)の一人は「ザザンダ(ザ)ー」と、云った。相当家を務めたⅠさんも、そういえば昔は・・・という。

総代の話しによればかつては〆のナガレに謡うのは「浜松の音はざざんざの高砂のキリ」だったそうだ。

嵩での詞章はわからないが、山添村春日で謡う高砂のキリの謡いに「千秋楽は民をなで 万才楽には命をのぶ 相生のまつ風さつさつの声ぞたの しむささつさつの声ぞ楽しむ 祭典お開き・・・謡  ざざんざ 浜松の音はざざんざ」であったことを付記しておく。

(H28.10.23 EOS40D撮影)
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そりゃあ半年前に比べたらえらい違いや

2017年06月23日 09時46分20秒 | むびょうそくさい
この日も週一ペースのリハビリ運動。

いったいいつまで続けんのや、と云いたい。

自宅を出るときは大雨。

おまけに診察カードを忘れてUターン。

大急ぎで取りに帰る始末だ。

そんなこともあったが外来棟に着いた時間は受付の10分前。

なんとか着いたがリハビリ室の受付もある。

体調や血圧、脈拍、体重状態を記入して入室。

ただちに装着する心電図機器。

この日も8人の患者さんが心臓術後のリハビリ運動をする。

心電図機器を装着したときの脈拍は59-60。

やや高めに属する。

これであれば運動をすれば70拍台にもなるだろう。

まずは整備体操。

このときの脈拍は60-63拍。

スクワット運動をした場合は62-66拍。

運動を終えたらぐっと上昇して75-77拍まで上がる。

上がり過ぎるやろ、と思うが・・・。

ペダルをこぎ出したワーク10の初速血圧は130-70。

脈拍は65拍。

この日は予想どおりの高めである。

1分後のワークは55。

重たくもないワーク負荷にペダル回転数は57rpm。

脈拍は69-70拍である。

6分後の血圧は127-65。

脈拍は73-74拍。

立ち上がりはいきなりの70拍台に乗った。

11分後の血圧は127-61。

脈拍は72-73拍。

今日はこういう状態にリハビリ療法士が云った。

2月や3月とはえらい違いですね、である。

そりゃそうだわ。

半年間も運動をし続けておれば身体も変化するだろうに。

それをずっと立ち会ってみてきたはずだ。

この日も起床時の血圧を気にされた。

一般的な人の起床時血圧はだいたいが140台。

それよりも高ければ医師や療法士は気にかける。

当然のことであるが・・・。私の基準点は160以上に印をつけることにしている。

毎日の状態を記入した健康手帳に記録した血圧が160以上であれば、その数値にピンク色のマーカーで色をつける。

意識的にどれぐらいの頻度で発症しているか判るようにした。

色をつけたら目立つ。

その状態の印象は目に焼き付く。

それだけで十分な色付け。

療法士はその仕様に相槌を打つ。

数値はグラフ化すればいいのだが、初期段階で、体力的にめんどくさを感じたのでしていない。

日々の状態を入力するのが面倒だったのだ。

先週までの状態であれば160以上の日は約3割出現。

これを多いとみるのか、それとも・・・。

この一週間は160以上がない。

いつ上昇するのか不安になっても仕方がない。

そんなことを思いながらペダルをこぐ。

16分後の血圧は143-60。

脈拍は72-73拍。

汗、汗・・がでる。

21分後の血圧は140-54。

脈拍は73-74拍。

最後の26分後の血圧は147-58。

脈拍は72-74拍で終えた。

(H28.10.25 SB932SH撮影)
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身体は快気じゃないが気分が快気の祝い

2017年06月23日 09時40分57秒 | むびょうそくさい
かれこれ何回、リハビリ運動をしてきたことか。

運動をすれば間違いなく一般的とまではいかないが、私の心臓は50-60拍で動く。

残念なことは起きたときだ。

だいたいが40拍前後。

30拍台の値がでればがっくりする。

リハビリ療法士や循環器内科医医師の勧めもあって朝の起きたて具合を計測することになった。

計測するのは主に血圧面である。

起床時の血圧は大事だという。

めんどくさいが医師の指示を受け取って8月24日からは毎日の日課とした。

その状況を記録した『わたしの生活習慣手帳』は毎回のリハビリ運動時に提出する。

医師が診ることのできない日々も記録しているから一つの診断材料にもなる。

療法士、医師が気にかけている血圧は高血圧。

高い状況がめにつくらしい。

私にとってはそれほどでもないし、身体の異常さも感じない。

フラフラするとかの異常はない、のである。

どれほど頻繁にあるのか、記録したなかで血圧が160以上になった日を抜き出しピックアップしてみた。

8月28日は168-90。

8月31日は160-86。

9月 1日は169-83。

9月 8日は160-75。

9月 9日は196-93。

9月10日は179-107。

9月11日は181-94。

9月13日は161-85。

9月18日は173-133。

9月21日は173-84。

9月28日は160-87。

10月 4日は183-113。

10月 5日は171-91。

10月 7日は169-96。

10月 9日は173-92。

10月11日は176-88。

10月12日は161-83。

10月14日は191-104。

ときおり、というようなタイミングで出現するが、割合を数えてみれば56日数に対して18日。

約3割の出現である。

これを多いとするのか、しないのか・・。

医師からみれば多いのであろう。

心配であるから血圧を下げる薬療法を主治医に通知するようだ。

判定は来月に診察する主治医に任せる、というが・・・。

さて、本日のリハビリ運動である。

心電図機器の装着時の脈拍は48拍。

悪い方ではない。

スクワット運動をすれば59-60拍に上昇する。

運動にもよるが52―54拍の場合もあるが、さらにキツ目の運動ともなれば58-60拍だ。

上下の変動にいちいち気にしてはいられない。

ペダルをこぎ出したワーク10の初速血圧は130-71。

脈拍は46-48拍。

この日はやや低い。

1分後のワークは55。

重たくもないワーク負荷にペダル回転数は57rpm。

脈拍は60-61拍である。

6分後の血圧は136-60。

脈拍は61-62拍。

11分後の血圧は151-59。

脈拍は61-62拍。

循環器内科医師のT医師は気になる血圧を云いだした。

T医師が問いかける。

脈拍が高い日も見受けられるので主治医のほうにも伝えておく。

できれば診察してもらって血圧をあげる投与も考えられる、ということだ。

16分後の血圧は142-57。

脈拍は63-64拍。

汗、汗・・がでる。

21分後の血圧は144-60。

脈拍は62-63拍。

最後の26分後の血圧は143-64。

脈拍は61-62拍で終えた。

終わってから循環器内科医師が心配そうな顔をしたが、もともとの私の身体は回転数が低かったのだと思うと伝えた。

小学生から中学生のころの私は校庭並ぶ朝礼中にときおり貧血を起こした。

症状がでるときははっきりわかる。

そろそろでるそ、真っ白な情景が・・・。

そう、思ったとたんに眼前の風景がモヤかカスミとなって消えていく。

このままでは倒れると思って、その場にしゃがみ込む。

なるとわかってからはいつもそうしていた。

血液の循環が悪いときにはいつもそうなっていた。

貧血は毎日でもなかった。

たんまに発症するのだ。

始めて発症したときは先生におんぶされて医務室で安静状態にしてもらっていた。

頭を冷やせばすぐに戻る。

しばらくは医務室にいた。

なんどかあったことだけは記憶にあるが、頻度は覚えていない。

子どものころはそうだったが、高校生ともなれば発症はしなかった。

そう、記憶している。

このときの脈数がどれくらいだったのか・・。

そんな話を医師に伝えた。

たぶんに私の心臓は元々から回転数が低かった。

そう、思うのである。

現在、65歳になった私の心臓は今も変わらず・・・であったに違いないと思って、これ以上の治癒は期待できないと判断して、この日を「快気」とした。

(H28.10.18 SB932SH撮影)
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コンディション良好に

2017年06月23日 09時34分22秒 | むびょうそくさい
外来棟に向かって歩いていた時に声をかけられた。

こんなところで名前を云うのは・・・。

まさかと思ったが黄色いバイクに乗って颯爽と走っていたTさんだった。

良くもならない症状に今後も付き合わないと・・・コメントしたことを気にしていたが、歩いていたとは・・。

私を見つけるなり停車したと云う。

普通に歩いているからびっくりしたようだ。

その通りの現況である。

受付を済ませて会場に行く。

心電図機器を装着したときの脈拍は52-56拍。

そうであればリハビリ運動に入っても高い方を維持するだろう。

いつも通りのスクワット運動では58-60拍。

少しキツ目の運動であれば62-64拍。

終った直後はぐっと上がって66-69拍。

最近の傾向はこうなる。

回転し始めてワーク10の初速血圧は127-61。

脈拍は66-69拍。

この日も高い方にある。

1分後のワークは55。

重たくも感じないワーク負荷にペダル回転数は57rpm。

脈拍は70-71拍である。

いつもよりはやや高め。

それも運動を開始してすぐさまの上昇。

快適なのかどうか身体はあまり感じない。

6分後の血圧は156-56。

脈拍は70-71拍。

前週とほぼ同じような状況である。

運動始めが高ければそういうことになる。

リハビリ療法士も循環器内科医師も心配されるがまったくしんどさを感じない。

T医師はこの日も気になる血圧を云いだした起床時の血圧値。

脈拍が高い日は頻発ではない。

ときたま発症する。

発症といっても体調に変化を感じないのである。

夜に服用している薬を朝に回すことも考えないと・・・云われるが、なんとも、である。

11分後の血圧は145-56。

脈拍は73-74拍。

リハビリ療法士が問う。

今の身体状態はどうですか、であるが、なんともない。

16分後の血圧は151-61。

脈拍は69-71拍。

この日は全体的に高目。

21分後の血圧は150-59。

脈拍は71-73拍だ。

ラストもあまり変化もなく、血圧は149-64で脈拍は71-73拍。

最後の5分間はワークを60に上げられたが特にしんどさは感じなかった。

(H28.10.11 SB932SH撮影)
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風がきそうな前日はさわやかな風が吹いて気持ちいい

2017年06月23日 08時43分23秒 | むびょうそくさい
台風がきそうな前日はさわやかな風が吹いて気持ちいい。

ここんところは湿気ムンムンが続く日だった。

明日になればまた元通りどころかずっと続く曇天日になると思うが、肌がサラサラになるのは久しぶり。

そういう日は決まって身体が軽く感じる。

逆に湿っぽい日は重たい。

食欲もそれほど湧かない。

身体が軽けりゃ走り出したくもなるが、それはやめとこ、である。

この日はいつものリハビリ運動であるが、前回予約でいつもの時間がとれなかった。

いつもの時間よりも1時間半後にこの日も駐車場は満杯。

駐車待ちに20分も要する。

仕方なく、である、臨時の駐車場を利用させていただく。

ここなら満杯になることはない。

待ち時間もなく気持ちも天候同様に晴れやかだ。

受付を済ませて血圧と脈拍測定。

血圧は151-67。

やや高めであるが、十分な範囲内である。

脈拍は60拍。

滅多にない脈拍値をみるだけでも、この日の順調さがわかる。

いつもの心電図機器を装着。

客拍は57-59拍だ。

たぶんそれぐらいになるだろうと思っていた。

スクワット運動をすれば58-61拍。

特に問題なしであるが、運動を終えた直後は跳ねあがって67-72拍。

最近にみられる傾向である。

誰しもそうだと思うが、運動しているときは安定値。

休んだときにぐっと上がるのである。

心臓病になる前の身体状況はそんな具合だったと思う。

思うだけで計測はしていないから信憑性はない。

跳ね上がった脈拍はしばらくすれば落ち着いて57-58拍。

どおってことないと思っている。

回転しだしたワーク10の初速血圧は106-63。

脈拍は58-59拍。

この日は高いうちに入る。

1分後のワークは55。

重たくもないワーク負荷にペダル回転数は57rpm。

脈拍は60拍である。

6分後の血圧は131-60。

脈拍は69-71拍。

前週よりも脈拍値が10アップ。

始めが高ければそういうことになる。

リハビリ療法士は心配されるがまったくしんどさを感じない。

いつもついてくれている循環器内科医師のT医師は気になる血圧を云いだした。

先月辺りからリハビリ療法士の指示に従って始めた起床時の血圧測定。

気になりだしたT医師が問いかける。

脈拍が高い日も見受けられるので主治医のほうにも伝えておく。

できれば診察してもらって血圧をあげる投与も考えられる、ということだが・・・。

11分後の血圧は129-51。

脈拍は69-70拍。

リハビリ療法士が問う。

今の身体状態はどうですか、である。

いつものアナログ自己診断表に基づけば「楽」である。

どちらかといえば楽々である。

それならば一度上げてみようということになってワークは60。

これまでしたこともなき負荷量であるが、なんともない。

16分後の血圧は131-56。

脈拍は69-71拍。

ワーク60に少しは重たさを感じるようになって、汗、汗・・がでる。

21分後の血圧は139-58。

脈拍は69-71拍。

最後の26分後の血圧は141-62。

脈拍は71-73拍で終えた。

ところでぽっくり飛び出し丸出しのお腹はなんとかならないのか。

循環器内科の医師は答える範囲ではない。

リハビリ療法士であればと思って問いかける。

反応を返してくれたのはIさん。

三日坊主だったがけっこう効き目があるらしい方法があるという。

それはまっすぐに立つ姿勢で行う方法。

両足を揃えてかかとをくっつける。

その際に広げる足先。

90度の角度をつけて伸びあがる。

つま先で立つ感じである。

そのときの注意点はかかとを離さない。

ふくらはぎはぴったりつける。

これも離さず、つま先で立つ。

全身が伸びるような恰好でおこなう。

できれば両手は上にして手を合わせて拝むようにする。

背筋を伸ばすと同時に肛門を締める。

試しにしたが足よりも腰にくる。

間違って腰痛にでもなれば・・・とそのときは思ったが、毎日を継続するにはどうしたらいいか。

考え付いたのは風呂上り。

洗面所兼用であるが、そこで一回当たりのカウントを20回。

それを5回繰り返す。

毎晩に入るお風呂であれば忘れない習慣になりそうと思ってそうする。

この日の会計番号札は1958番。

遅い時間帯に受付したら診療を終えるのも遅くなる。

それが終わった時間は午後4時12分。

出来あがった会計番号はパタパタと音が鳴るわけではないが、電光表示板には1830番。

130人待ちである。

待つ時間も多かったが午後4時40分には退棟した。

(H28.10. 4 SB932SH撮影)
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月ヶ瀬桃香野八幡神社の御供

2017年06月22日 09時07分27秒 | 奈良市月ヶ瀬へ
この日の取材メインは奈良市月ヶ瀬の嵩の行事である。

それが始まるまでの時間帯に訪れた地域は嵩よりすぐ近くの桃香野である。

桃香野の八幡神社の祭礼は平成15年の11月23日に取材したことがある。

かれこれ14年前のことである。

下見もせずに訪れた地の状況もわからず、お渡りに出発される当家の場を求めて歩いていた。

急な坂道にこれから当家の家に集まろうとしていた紺色素襖着用烏帽子衆に遭遇したことを覚えている。

お家はあそこだと云われて急行した。

しばらくすればお渡りが始まった。

行列の中でひと際目立った御供担ぎ。

先頭は紅葉を差したイモガシラ(芋頭)。

その次は白餅を差して放射状に仕立てたハナモチ。

その次は餅ではなく平たく切ったイモガシラ(芋頭)だった。

お稚児さんに出会った烏帽子衆に神輿がついていく。

撮った写真の映像は今でも鮮明に覚えているが渡り並びに祭礼の行程はあやふやだ。

2年前のことだ。

撮った風景写真をFBで紹介している写真家がとらえた茶摘み景観を拝見していた。

その画像に映っている男性のお顔ははっきりと覚えている。

FBをされていると知って当時の祭礼写真を送らせてもらったら喜んでいただいた。

男性はそのときの祭礼当家だったことをあらためて知ったのである。

男性はまた、氏神祭礼に奉納する芸能能狂言保存会の一員でもあった。

また、桃香野には写真家のKさんもおられる。

例祭前日は当家御供の調製や能狂言舞台の設営作業もある。

例祭渡御は午前11時半ころ。

それまでの時間帯であれば調整された御供を拝見できると思って出かけた。

平成15年の氏神祭礼は11月23日だった。

平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に記載されている祭りの日は10月20日である。

それが11月に移った。

取材日以降の数年後に10月になったと聞いている。

いつしか10月半ばに移った。

移ってからは固定日でもなくなった変則日。

その後は10月20日に近い日曜日に移ったことは風の便りに聞いていたが、もしかとすれば前週であるかもと思って出かけたが、やはりであった。

掲示してあったポスターにタイムスケジュールが書いてあった。

前日は午後3時から子供餅つき。

本日は朝10時半から出発する子供神輿の巡行。

神事が行われる直前、お渡り衆に続いてやってくる。

午後0時半からはバザーである。

バザーに無料のおでん振る舞いもあればフランクフルト、駄菓子、ビールなどの販売もある。

神事を終えた午後2時半から桃香野自治会が主宰する奉納能楽もある。

早めに着いてできる限りご挨拶と思ってやってきた。

時間帯は午前9時半。

神事の準備に忙しく動き回る村神主代表のUさんにお礼だ。

バザーの振る舞いおでんはもう出来上がっているから食べていってやと云われるご相伴に預かる。

大釜で煮込んだおでんの香りが境内まで漂っている。

桃香野の若い女性たちが心を込めて作ったおでんはたっぷり盛ってくれた。



朝ご飯は家で食べてきたのにお腹が欲しがる旨そうなおでん。

カラシも付けてもらって口にほうばる。

出汁が浸みこんだおでんはとにくかく美味しい。

そのことを伝えたら満足げな笑顔で返してくれた。

早い時間帯に訪れたのは渡りの人たちが抱える当家御供を見るためだ。

前日に調整し終わった当家御供は地区の集落センター(自治会館)の和室に保管している。

村神主や集落センターにおられた人たちの了解を得て御供を拝見する。

屋内の座敷に整然と置いているわけでないのでありのままの状態で撮らせていただく。



一つは緑色の紅葉を添えた芯芽がにょきっと突き出したオカシラと呼ぶカシライモ(頭芋)である。

二つ目は長めの竹串に白餅を挿したハナモチ(花餅)。



上から見ればぱっと花びらが開いたように見えるからハナモチの名がついたのだろう。

そのハナモチは太い藁棒に刺してある。



倒れないようにしているのか、それとも担ぎやすいようにしているのかわからないが、竹で編んだ籠に納めている。

三つ目は平たく切ったカシライモ。



これもハナモチと同じように花が咲き誇ったような形であることからハナイモ(花芋)の名がある。

室内に置かれた御供はそれだけであるが、他にも数々の品物がある。

それらは渡りの人たちがそれぞれの御供を担いで渡るのである。

順番が決まっている役とともに列挙しておく。

お渡りの先頭は当家身内の兄息子が抱えるオカシラ。

皿に盛ったオカシラである。

2番手は一升五合の青豆大豆を盛った籠を担ぐ中息子。

3番手は弟息子が担ぐハナモチ。

4番手は中与力が担ぐハナイモ。

5番手は弟与力が担ぐハナモチ。

それぞれのハナモチ、ハナイモの竹串は122本ずつ。

三つ合わせて360本の御供は一年間を表しているという。

大量の本数を準備しなくてはならない作業の中で一番に挙げたい手間のかかる道具作りである。

ここまでの登場人物の衣装は紋付き着物に袴。

足は白足袋で下駄を履く。

6番手は濃紺色の素襖を着て烏帽子を被る「烏帽子」。

「ヨボサ」の別名がある烏帽子は12人。



この日に参集された烏帽子役がそう云っていた。

ラストの7番手は締め手の一升酒樽を抱える兄与力。

烏帽子を役目する人たちが定刻の集合時間に衣装を身に纏ってやってきた。

これより始まるのが御札渡しと呼ぶ儀式であるが、隣村の嵩の調理具合を取材するために一旦は桃香野を離れる。

戻ってきた時間帯は午前12時20分ころ。

お渡りの一行はすでに出発していた。



その様子を道中で拝見したのか、村の人たちは祭りの場にやってくる。

その時間帯ともなれば大勢のカメラマンが集まっていた。

その中には知人のカメラマンが5人も。

うち一人は村のカメラマン。

行事の進行役を務めるそうで裃姿になっていた

そろそろお渡りの一行が神社に戻ってくる。

お渡り行列はまだ着いていなかったが、神事が始まろうとしていた。



嵩の行事が始まる時間帯に最も近づいたころを見計らって桃香野を離れたから祭りの一部始終は翌年廻しにするが、平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に大字桃香野の宮役のことが詳しく書かれているので参考にされたい。

なお、お渡りは雨天であっても決行する。

その場合は番傘をさしてのお渡りになるようだ。

(H28.10.16 SB932SH撮影)
(H28.10.23 EOS40D撮影)
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毛原八阪神社の宵宮参拝

2017年06月21日 10時32分56秒 | 山添村へ
月ヶ瀬嵩の宵宮取材を終えて山添村の毛原を行く。

この日は毛原も宵宮行事。

陽もどっぷり暮れた時間帯で行われる八阪神社の行事。

かつては10月16日であったが、現在は第三土曜日。

今年はカレンダー事情で第四土曜日になった。

毛原の氏神さんは八阪神社。

創始は不明であるが、貞享二年(1685)の古文書記録によれば牛頭天王社であった。

明治時代まではそう呼ばれていたであろうと推挙される事例が境内にある。

本殿下にある手水鉢に刻印である。

明治時代初期までは山添村中峯山(ちゅうむざん)神波多(かんはた)神社に属する旧波多野村の郷中であった。

神波多(かんはた)神社もまた江戸時代までは「牛頭天王社」と呼ばれていた。

俗に「波多の天王」と呼ばれていた。

ところが明治8年ころより旧都介野(都祁)村の友田に鎮座する水分神社の郷中に移り替わったと伝えられる。

毛原八阪神社の宵宮は16日だった。

集まりやすい16日に近い土曜日に移したのは近年。

マツリはその翌日日曜日の午後から行っているそうだ。

氏子の四人トーヤは礼服で出仕する。

4年前までは和服であったが今は形式を略した礼服である。

社務所に集まってきた人たちは氏子総代に区長。

ホンカン(本音)、ジカン(次音)に2人のミナライは村神主。

主にホンカン(本音)が年中行事を務めているが、この日は神職も出仕される。

時間ともなれば大勢の村人たちが宵宮参拝に訪れる。

本社殿下の階段両脇に立てた高張提灯に番傘がある。

雨に打たれても良いようにしているのであろうか、県内事例ではあまり見られない珍しい形態である。

提灯や本社殿などの灯りに照らされてなんともいえない雰囲気を醸し出す。

訪れる参拝者は階段下で手を合わす。

そして本社殿に登って拝礼する。

その状況をみながら登っていく神職やホンカン(本音)、ジカン(次音)の村神主。



草履に履き替えた氏子総代や区長も階段を登って神事が行われる。



四人トーヤにミナライは階段下で立ち続けて神事を見守る。

村人たちはその周りに立ってこれもまた厳かに行われる神事を見守っていた。

神事を終えたら直会である。

ホンカン、ジカンにミナライは直会の準備にとりかかる。

お神酒に供えた鏡餅を下げる。



鏡餅は餅切り器で適当な大きさに切断する。

社務所は直会の受付場。

行列ができるころには準備が整った。

参拝者は手にした朱塗りの椀にお神酒を注いでもらってぐいっと飲み干す。

肴は黄色いコウコだ。

甘くて美味しいコウコはお代わりをしてしまうほどに美味しい。

お神酒の肴はもう一品ある。

切った餅は厚くもなく薄くもない適当。



その餅を供えた白昆布をのせる。

これもまた美味しい肴である。

白餅は糯米の味。

そこに丁度いい塩加減の昆布が口の中で絡み合う。

乙な味とはこういう味である。



子どもはお酒を飲めないが、美味しいコウコも昆布餅に手が出る。

(H28.10.22 EOS40D撮影)
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嵩の行事

2017年06月20日 09時49分35秒 | 楽しみにしておこうっと
嵩の山の神行事は1月7日。

日にちが替わった7日の夜の時間帯からお参りに来るひともいるらしい。

遅くても朝8時には村の人すべてが参っているであろうという場は八柱神社と薬師寺の裏地である。

これがそうだと云われなければ気がつかない山の神の印しは埋もれた小岩である。

家の男の数だけ作った藁ズト。

1戸について1個の餅を詰め込む藁ズトはフクダワラ(村史ではホウデン)と呼ぶ。

それを山の神の木に結びつけてぶら下げる。

その木の枝にホウソ(ナラの木)の木で作った「カギ」を引っかける。

カギを引っ張り揺らすように作法をしながら「うーちのくーらへどっさりこ」と言いながらおじいさんがしていた。

山の神に参りにくるのは今では6軒ぐらいと話してくれたのは宮総代のⅠさんだ。

ちなみに村史によれば、コウジミカンを山の神の地に立てていたようだ。

また、「カギ」引きの詞章は「東の国の銭金(ぜにかね) 西の国の糸綿(いとわた) 赤牛につけて こちの蔵へ皆ござれ 皆ござれ」であった。

嵩では春と秋に道造りをしている。

朝は村の農道で、昼は県農道。

道造りにつきものの料理は大釜で煮るオデンがある。

オデンは春であるが、秋はマツタケご飯になる。

かつてはマツタケすき焼きだった。

当時のすき焼きは牛肉よりも松茸の方が多かった。

今から40~50年前のマツタケすき焼きにイロゴハンもあった。

料理の材料費は村でもつ。料理をするのは村の役員。

この年は9月25日の実施。

例年も9月の最終日曜日にしていた秋の道造り。

春もそうだがいずれも雨天決行である。

夏の第一日曜日は墓サラエ(浚え)。

おそらくは7日盆の墓掃除のことであろう。

盆の風習にサシサバがあった。

ちなみに嵩には主に女性で構成される薬師講がある。

この年は1月10日だった大般若行事は六百巻の大般若経を転読法要。

聞くところによれば天理市福住の別所でお会いした僧侶が来られるようだ。

なお、昭和10年までは厄年の人の餅一重村各戸配りをしていたそうだ。

(H28.10.22 EOS40D撮影)
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月ヶ瀬嵩八柱神社の宵宮

2017年06月19日 08時57分48秒 | 奈良市月ヶ瀬へ
平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

村史によれば大字の嵩(だけ)の八柱神社の例祭は10月27日だった。

「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮(大正3年、4年は夜宮表記)の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。

奈良市月ヶ瀬嵩(だけ)の八柱神社で夜宮やマツリがあると知ったのは2カ月前。

8月27日に行われた風の祈祷の日である。

その日の取材のときに宮総代が話してくれた嵩のマツリ。

「直会に謡いがある。武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。謡いは朗々と謡う四海波。座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ。青豆のクルミはサトイモに塗して食べる」と話していた。

座の料理はどのようにして作られるのか。

興味は謡いの盃もある。

取材したいと申し出てこの日も訪れた。

村史では当屋表記であったが、現在は当家の漢字を充てている。

当家は2軒。

本当家(ホントーヤ)と相当家(アイトーヤ)の2軒がマツリによばれる料理を作り、座の接待をする役に就く。

かつては4人の男の年齢順で務める当家であったが、現在は家の廻りになった。

4人ということは村史にある座衆、非衆のそれぞれから2人ずつの当家であったろう。

昔の嵩の戸数は30戸。

今では16戸になったが、昭和25年当時は子どもが50人も居たというから団塊世代の子どもたちで溢れていたようだ。

当時の当家は子どもが任に就いたのも理解できるが、現在は2軒の大人が務めている。

戸数が16戸であるから6年に一度の廻りである。

この日の出仕もあるが、明日の祭りは「奉鎮祭」の名がある御幣を捧ぐ神事がある。

与力制度がある嵩の村組織。

明治29年までは旧波多野村に属していた嵩。

旧波多野村は現在の山添村の春日、大西、菅生、西波多(上津・下津)、遅瀬、中峯山、広代、中之庄、吉田、鵜山、片平、葛尾、広瀬に現奈良市の嵩である。

旧波多野村のすべてではないがほとんどの村が、村の運営に関わっている与力制度で組織化している。

制度を詳しく述べる文字数を持ち合わせていないからここでは省かせていただく。

この日の行事にも参列されるオトナ(村史では老名とあるが、現在は翁戸那の漢字を充てる)は四人。

長老は神主と呼ばれ祭事を務めたと村史に書いてあったが、現在の斎主は大字尾山の岡本和生宮司である。



神事は風の祈祷のときも同じように4人のオトナと3人の宮総代が参列する。

まずは大祓詞の唱和。

そして、祝詞奏上に玉串奉奠である。

大祭の宵宮に直会膳がある。

この日の午前中から作っていた膳の料理。

神職をはじめとしてオトナや宮総代が酒を飲み干す直会膳に差し出される料理は三品。



一品に正月の味と同じにした酢牛蒡。



二品にオタフクマメの甘煮。



三品がサトイモやニンジン、コンニャク、ダイコン、シイタケに竹輪を炊いた煮しめである。

この三品を肴にお神酒をよばれる。

座が終わってからよばれた三品のお味。

薄味であるがとても美味しい。

サトイモはとろとろで私の口によく合う家庭の味だった。



まずは二人の当家が並んで下座に正座。

挨拶、口上を述べて直会が始まる。

「本日はありがとうございます。例年通りの料理でございますが、時間許す限り、どうぞごゆっくりいただきますようよろしくお願いします」と述べてから席を立って給仕の酒注ぎ。

一旦は下がって座中は乾杯して料理を肴に酒を飲む。



空になる前に席を廻って酒を注ぎまわるのは二人の当家だ。

明日の大祭には辛子醤油漬けの蒸し茄子田楽とか青豆クルミイモ・マメ・三角切りの豆腐・コンニャクなどを配膳する。

実は直会の時間中も奥の調理場では料理の下ごしらえの真っ最中だった。



宵宮の神事には誰一人の参拝は見られなかったが、直会中には黙々と手を合わせる村人がいた。

宵宮の座は一時間ばかり。



座中は解散されて戻っていかれたが両当家の家族は居残って下ごしらえの続きである。



枝豆は茎から外して大釜で茹でる。

茹でた枝豆は莢から出して豆だけにする。



明日は朝から豆を潰してクルミにする。

クルミはクルミという実ではない。

当村では青豆を潰してイモにのせる。

のせるというよりもイモを包み込むことから「包む」である。

「包む」は「包み」。

こうしてクルミのイモ料理にするが、ヒガシ山間では亥の日に食べるクルミモチがある。

字のごとく青豆を潰して包むのは餅である。

潰したクルミに砂糖を塗して餅を包む。

味は砂糖があるから甘いが、青豆の香りがとても美味しい郷土料理。

嵩では亥の日にクルミモチは登場しない。

村史によれば、嵩の亥の日は鬼子母神を祭る日。

赤飯のおにぎりをたくさん作って重箱に盛る。

弾けたザクロとともに部屋内の暗い処に祭る。

縁結びの神さんとされる鬼子母神が恥ずかしがるからそうしているとあった。

おとなしくしなければ嫁のもらい手がなくなると信じられ、子供が泣いたり、或は喋らないように注意したそうだ。

月ヶ瀬各大字であった亥の日の習俗の今は月瀬だけがしていると書いてあった。



三角切りコンニャクは明日に最終調理。

もっともこのコンニャクは別料理の味付け煮込みの方であるが・・

豆腐も同じ大きさ形の三角に切って挟む。

ちなみに宮総代やオトナが云うには大祭のお供えに山ノ鳥とか川魚があったそうだ。

昭和3年の初期のころの『祭り帳』にその記載があった。

(H28.10.22 EOS40D撮影)
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スズキエブリイジョインターボの中古タイヤ交換

2017年06月18日 09時17分33秒 | いどう
先月の28日のことだ。

特別なことがあって神戸に出かけた。

駐車場で待っていた実弟が指をさす。

乗ってきた軽バンのスズキエブリイジョインターボのタイヤがすり減っている。

スリップサインが明確にその状態をあらわしているという。

じっくり見れば、その通り、である。

タイヤの空気圧が低くなっているのはわかっていたが、そこまでは認識していなかった。

タイヤは買い換えするが、新品ではない。

貧相な暮らしに新品は無用。

中古のタイヤで十分である。

それをお願いするのは我が町の車屋さん。

車のことならなんでも相談してもらうありがたい地元民である。

気にはなっているものの、オートサービスに出向く時間がとれなかった。

これまでがずっと忙しく、奈良県内を駆け巡っていた。

この日は特別なこともない穏やかな日。

買い物ついでにオートサービスに行った。

早速、みてもらうタイヤの状態。

こりゃいかん、である。

中古タイヤなら倉庫にあるかもしれないと云って探してくれた。

商用4ナンバーの軽バン専用のノーマルタイヤガ見つかった。

車体運転席側に貼られているシールに指定のタイヤサイズが書いてある。

それを見て探してくれたら、ピッタシカンカン。

タイヤメーカーは違うがそれぞれ2本ずつ。

前輪、後輪がまかなえば問題はない。

2本はヨコハマ社製タイヤのJOBRY52。

サイズは145R12の6PRLT。

スズキエブリイジョインターボの指定サイズは145R12。

商用4ナンバーであれば6PRでなければならない。

そんなことを教えてくださるSさん。

もう2本はダンロップ社製タイヤのENASAVE VAN01。

サイズは145R12の6PRLT。

まったく同じのサイズである。

前輪はヨコハマ社製タイヤ。

ジャッキで車体を持ち上げてタイヤを外す。

ホイールを外すのはグルグル回る機械。

テコというのか道具の名は知らないがヘラのような感じでホイールとタイヤの間に入れてパコン。

一周するうちに外れる。

逆に装填する場合も、その機械を使う。

きちんと嵌ればパコンと大きな音がでる。

タイヤはホイールに装着したが、そのままの状態で車体に装填したらエライことになる。

タイヤはホイールバランスをとる必要がある。

これも機械で調整する。



ホイールもタイヤも完全な真円ではない。

アンバランスな状態では走行に障害が発生する。

それを機械が検知してくれる。

装着して回転させたら機械がピッピッと鳴る。



バランスをどこでとればいいのか表示してくれる。

それは内輪側と外輪側の2カ所。

表示された位置にバランスをとる「重り」を貼り付ける。

どちらがどれだか話してくれたことは覚えていないが、走行中の上下運動に横揺れをしないようにバランスをとる「重り」なのだ。

免許をとってから何十年間も運転してきたが、こんなことは知らなかったのだ。

教習所で習ったことがあるのか、ないのか、免許を取得した45年前のことは記憶にない。

中古のスズキエブリイジョインターボを平成26年4月に買ったときの走行距離メーターは112151kmだった。



この日にタイヤ交換したときの走行距離メーターは143270km。

30カ月間に亘って走行した距離は31120km。

一年間とすれば12450kmにもなる。

買ったときのタイヤは新品ではなかった。

この日交換したタイヤは同じような結果になるであろうか・・。

思いもよらない結果が三日目に出現した。

取材に出かけようとして我が家の駐車場から発進したときである。

なんとなく居心地が不安になる。

駐車場の前は側溝。

そこは当然ながらグレーチングの蓋を嵌めている。

ただ、段差がある。

決して緩やかでなく10度くらいの斜面。

駐車場はやや下り坂。

ブレーキを緩めてニュートラルに放っておけばずるずると滑るように車輪が回る。

いつもはそうならないようにブレーキをかけながら発進するのだが、このときばかりは異様な音が・・・。

ギリギリ・・・・の音とともに右ハンドル。



その痕跡が道路についた。

そう、右運転席車輪がパンクしていたのだ。

なんということだ。

速攻で電話をした我が町の車屋さん。

これまた速攻でやってきた。

どうするかといえばパンクした車輪を工房に持ち帰ってパンク修理。戻って来て嵌めなおす。

その間、15分間。



素早い対応に感謝して再出発した。

(H28.10.19 SB932SH撮影)
(H28.10.22 SB932SH撮影)
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