マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

倉家eto修司さとがえり写真展inラボ京都

2017年04月29日 06時30分02秒 | しゃしん
この日は何十年ぶりかの期間を経て京都中心部の市街地に向かう。

京都は祖母が入院していた地。

毎週は行かないと顔を忘れてしまうほどの認知症に陥っていた。

琵琶湖の水を京都しないに運ぶ疎水に疎水橋水路閣やインクラインがある蹴上など見所多い処からすぐ近くに施設があった。

我が家から車で行くには地道をほぼ一直線。

市内に遡上するまでは田園地帯を走る。

宇治の大川を渡って市内中心部へ。

記憶に残っている道を走ろう。

そう思って出かけた京都の展示場はラボ京都。

京奈和道路を利用して北上する。

その下を走る地道は覚えている。

さらに走って記憶にある国道にでる。

たしかここらへんにあったと思う京都では有名なラーメン店。

店名も忘れてしまえば所在地も出てこない。

数か月経ってふと頭に浮かんだ新福菜館。

たしかそんな名前のラーメン店は久御山町にあったお店だと思う。

行先をインップトしたカーナビゲーションのいう通りに走っていたが、覚えている道にでればここやろ、と思ってハンドルを切る。

曲がった先で警告を発信する愛車のカーナビゲーション。

それも無視して走れば道が消えた。

記憶っていうものはそうなるわが身の勝手な判断である。

そういや大多数の車は指示された道を走っていった。

そこを走る車はとても多い。

いわゆる渋滞なのだ。

ノロノロ走る渋滞に辟易するが、仕方なく波に乗らざるを得ない。

目的地のラボ京都の所在地は京都市下京区釘隠町248-1。

フジカラーの総合ラボでもある。

ラボ京都のHPには㈱トミカラーとか日本風景写真協会、一般社団法人二科会写真部などのアイコンがある。

拝見したい写真展会場はそこであるが、散々迷った。

会場はわかったが駐車場は併設していない。

付近にあるタイムパーキングを探して周回する。

結局は迷って入ってしまった道にあった。

15分で200円だから1時間もおれば800円にもなる。

そこまでは滞在しないと思うがとにかくそこに停めてラボ京都まで歩く。

ここはどこなんだ。

京都といえば辻々に地番表記がある。



ここは「下京区 室町通仏光寺下る 山王町」とある。

表記の下に「京都南」とあるから京都市中心市街地からみれば「南」になるのだろう。



すぐ近くには与謝野蕪村の終焉地となる宅跡施設がある。

目印はこれなんだろう。

その向かいがラボ京都。



見上げたら電信柱に清輝ビル内にある施設を明示していた。

写真展の会場はこのビル内の4階にあるギャラリーラボ京都だ。

一階玄関前に写真展案内の立て看板があった。



やっと着いた、と思った看板ポスターに「いずれこの場所で語り部の一人となるために」が書いてあった。

心を揺さぶる独白のように思えた。

会場におられた作者の倉家衛藤修司さんは奈良市月ヶ瀬桃香野に住む。

倉家さんが発信する写真展のコメントに「月ヶ瀬と縁が出来てから住むまでの10年間 その地で生まれ育った訳ではなく 無関係な人間でもなく 近すぎず離れすぎずという立場で 将来の自分の居場所探しを目的に撮り始めた写真です・・・」とある。

「毎年行われる行事 正月・観梅・茶刈り・お盆・祭り それは、ひと時のやすらぎと 生活の中の風習、歴史、文化が伝承する大切な時間でした・・・」にまたもや心に響く。

それがすべての本人の意思。

そう思った通りの写真であった。

一点、一点が重みをもつ写真。

とらえた映像に立ち止る。

私がいくらガンバッても撮ることができない暮らしの民俗に見惚れていた。

感動もんの作品がずらりと並ぶ。

特に印象的だったのはご婦人が沈みかける夕陽を見ているシーンだ。

その婦人はうしろ姿だが、心情は映像で答えてくれる。

正月のイタダキも感動するお家の行事や風習。

ありのままの自然な姿をとらえた映像にウソはない。

そう思った作品は私にとっては衝撃的。

撮り方もさることながら、プリントの風合いがさらに深みを増していると思った。

素晴らしい作品は、これからもずっと撮り続けてくださいと伝えて帰路につく。

復路の道はちょっと寄り道。

時間はたっぷりあるからあっちへよれよれ。

こっちへよれよれと思ったが、どうにもならない交通渋滞に巻き込まれた。

ここはどこだ。

京奈和道路の南の端っこ。

山田川で下りてからどこへ行く。

東か南か・・。

ふと頭の中に湧いた「鹿畑」。鹿が多く生息したことからその名がついたとか・・・。

新興住宅地に囲まれている旧村集落がある。

その辺りで車が動かなくなった。

昔の街道に生活溢れる住宅地に多くの物流が動く。

昼間はそうでないと思うが、今の時間帯は午後の5時半。

どうしようもないぐらいに前へ進まない。



田園が広がるこの地に案山子が立つ。

スズメは追い払えるが車は無理だ。

ずっと先に見える信号は青だがまったく進まない。



その間に撮らせてもらった車越しの案山子。

嘲笑っているかのように思えた。

(H28. 9. 3 SB932SH撮影)
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豊浦甘樫垣内太神宮の提灯吊り棒

2017年04月28日 08時56分29秒 | 明日香村へ
飛鳥の弥勒さん行事が終わって帰路につく。

帰路の道は村の道を走る。

大道ではなく里道に近い道には村の史跡が見え隠れする。



視野に入ったのは太神宮の石塔である。

その場は飛鳥川袂に聖徳皇太子御誕生所橘寺へ向かう指標柱がある向かい側だ。

橋は甘樫橋。そのすぐ傍にあった太神宮の石塔。

記銘年代は彫りが薄くて読めなかった。

その太神宮の石塔の真ん前を水平に保った一本の竹の棒がある。



何カ所になるか数えればわかるが、そこに点々とある結び目である。

不思議な光景に謎を感じて隣近所を歩く。

たまたま屋外におられた高齢の婦人に聞けば、それは7月16日の午後6時半に行っていたダイジングさんを祭る各家が持ち寄る甘樫垣内の提灯吊りの仕掛けであった。

垣内は10軒。

設営などは廻り当番のヤドがする。

お参りしたら子供に御供の菓子を配るらしい。

(H28. 9. 5 EOS40D撮影)
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起床時の血圧が気になるらしい

2017年04月27日 11時01分05秒 | むびょうそくさい
予約していた前週の20日は台風16号が和歌山・三重南部の太平洋を東上していた影響で自宅を出ることができなかった。

風力はまともに横から吹いて車の運転にハンドルをとらえる。

これでは行く途中で何らかのトラブルに巻き込まれる可能性があると判断して取りやめた。

一か月前の8月23日である。

毎日の記録をするようにとリハビリ療法士から伝えられた血圧・脈拍。

それからと云うものは毎朝測る起きたての血圧・脈拍である。

ときには大台になった日もある。

記録を辿れば・・・である。

えっと思うような血圧値に多少は驚く。

驚いてはみてもしばらくすればなんでもない血圧値になる。

障害をもたない一般の人でも記録しておいたほうがいいと云われるが、健康体の人は毎日を気にすることはない。

入院中はナースステーションがマイク放送されるから起床時の体重や血圧をはかることはあっても退院してしまえば測ることはない。

退院はしたものの医師からの勧めもあって測る人もいるだろう。

それがどれくらいの人数になるのか厚生省も把握ができようもない情報である。

その毎日の記録を書いている健康手帳を診てくれたOリハビリ療法士。

エルゴメーター付きの自転車のペダルを漕いでいたときである。

異常とも思えた起床時の血圧を心配される。

それは今月の6日にリハビリ療法士のIさんから指示された起床時のデータ収集である。

それまでは指示もなくやや落ち着いた朝食後の安定時間帯の計測である。

その状態であれば安静状態。

血圧異常をもたらす状況ではない。

それではいかんということで毎日の記録をすることになった。

それを診たOリハビリ療法士が異常に気がついた。

データがあるから異常に気付く。

なければ誰であっても知りえない、というか、わかり得ない起床時の状態。

異常であっても、なかっても誰も判らない。

測ったデータがあるから知り得る。

診れば無関心を装うわけにはいかない。

そういうことだ。

一応は気にしてみた血圧の状態は・・・・

話しをリハビリ運動に戻そう。

この日の状態は、といえば心電図機器装着時点。

そのときの脈拍は44拍―45拍。

スクワット運動をすれば53拍―55拍。

いつもと同じようである。

回転しだしたワーク10の初速血圧は123-63。

脈拍は47-49拍。

この日はやや弱い。

1分後のワークは55。

重たくもないワーク負荷にペダル回転数は57rpm。

脈拍は54拍である。

6分後の血圧は142-60。脈拍は59-61拍。

11分後の血圧は139-56。脈拍は61-62拍。

16分後の血圧は137-57。脈拍は60-62拍。

21分後の血圧は130-52。脈拍は61-62拍。

不整脈はほとんど出ていないのが嬉しいが、それ以上の脈拍にはならんかった。

(H28. 9.27 SB932SH撮影)
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雨の日は駐車場入庫待ち行列で遅刻

2017年04月27日 10時49分32秒 | むびょうそくさい
駐車時間が1分も過ぎれば超過料金が課せられる。

とはいっても過大な料金でなく2時間で100円。

2時間1分で200円になる料金体系。

たいしたことのない額であるが、時間内におさまれば何故か得したような気がする。

そう、思って入庫時間は会計処理が終わるころの時間に合わせて時間調整。

たとえば1分早ければ2時間越え、である。

少しでもぎりぎりいっぱいに入庫したい。

早く着けばどこかで調整する。

待っておればいいだけだ。

家を出るときから調整する出発時間。

この日はいつもより10分遅れで出発した。

外来棟に着いた時間は午後1時10分。

入庫待ちの車が連なって待ち時間は30分。

警備員からもそう伝えられるが、本日は雨。

出庫が発生しない限り、入庫ゲートは開かない。

とにかく待つしかない待ち行列。

待っている間に利尿剤が効きだした。

尿意をもよおせば止めることはできない。

我慢するにも限度がある。

こういう場合はどうしたらいいのか・・・。

待つしかない。

ドアをガンガン叩くなど気を紛らわすしかない。

もう、一台が限界超えになろうかと思ったときに出庫の車が下りてきた。

入庫のゲートが開くのは車が到着しただけでは開かない。

その車の人が現金を投入されて支払い済になれば開くのである。

ところがお釣りを要する人はお札の挿入がうまくできずにてこずる。

そうすれば時間が長く感じる。

百円玉は何個か用意しておくのがマナーとは云いたくないが、そうしてほしい。

以前も目撃したことがあるが、お釣りを取り出し口からうまくできずに落下した人もいた。

ドアを開けて落ちた小銭を探し回る。

なんとかしてくれよ、と云いたくなる。

結局、入庫した時間は午後1時32分。

車を停めて受付したいが・・・先を急ぐのはトイレである。

間に合った。

いや、受付時間ではなく、排尿である。

リハビリ運動の受付時間は午後1時半。

トイレや受付を済ませてリハビリ室。

すでに始まっていて10分遅れ。

雨の日は駐車がなかなかできないでしょ。

と云われるが相関関係は判らない。

過去にもあった出庫待ちの渋滞。

雨天でもなかったから、たまたまのことか・・・それとも予約時間が決まっている患者さんがたまたま集中していたからだろうか・・・。

リハビリ運動は10分遅れであっても問題はない。

というのは、運動始めの準備体操は絶対視でもない。

多少の運動をすれが、それをしなければ身体に問題を生じるわけでもないからだ。

途中から入った運動はゴムパッチン道具を用いて運動するスクワット。

気合を込めて筋肉増強運動をする。

そのときの脈拍は57-59拍。

受付したときに測った血圧は136-74で脈拍は53拍だった。

それくらいであれば下がることなく54拍以上になると思っていた。

まさにその通りである。

スクワット運動を終わった直後は息づかいが荒い。

数か月前から感じている脈拍は終わった直後に上昇する。

この日は60-61拍になっていた。

そしていつものエルゴメーター付きの自転車のペダル漕ぎ。

サドルに跨って測る血圧は132-58。

57rpmで漕ぐ脈拍は53-56拍だ。

回転しだして4分後の脈拍は64-66拍。

順調な上がりである。

6分後の血圧は127-57。脈拍は62-64拍。

11分後の血圧は138-56。脈拍は64-66拍。

16分後の血圧は148-60。脈拍は69-72拍。

21分後の血圧は146-59。脈拍は67-68拍。

26分後の血圧は135-51。脈拍は67-68拍で終えた。

運動を終えた直後から発汗作用。

どくどく溢れる。

このようなことは日ごろ自宅付近を歩く運動でもそうなる。

歩いているときはそうでもないが、自宅に戻ればどっと吹きだす。

新陳代謝がよくなってきたのだろう。

そう、思いたいのである。

こうして本日もリハビリ運動を終える。

伝票は会計受付に提出して計算待ち。

その間に計測する血圧と脈拍。

循環器内科内にある測定器で測る。

運動前と運動後の違いを認識する唯一の手段に出てきたレポート結果は血圧が168-92。

若干が上がり気味だ。

そういえば運動中に声をかけたリハビリ療法士のIさん。

提出した日常状態を記録した健康手帳を診て、最近の血圧は上がり気味だと伝えられた。

それもそのはずの血圧は起床時に測ったデータ。

Iさんの呼びかけに日課化した起床時血圧である。

それから2時間ほど経過した朝の寛ぎタイム。

新聞読みに洗顔。

トイレをしてから朝ごはん。

薬を飲んで計測する。

安静な状態で計測した血圧はまったく問題なし。

それも手帳に書いてあるから納得される。

そんなことを思い出しながら測っていたら見慣れた顔がある。

先月に行われた民家のお盆風習に取材させてもらった山添村松尾に住むご夫婦だ。

3カ月に一度が診察日。

なにもないことを確かめにくる夫妻に事が起こった。

取材した何日か後に息子さんが勤務先で倒れた。

顔が真っ白になったと母親が云う症状は熱中症。

一か月どころかもう一か月間の療養がいるらしい。

お大事にしてくださいと別れて会計支払い。

出庫した時間は午後3時12分。

100円玉を投入して開いたゲートを潜った。



(H28. 9.13 SB932SH撮影)
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ダブル診察にリハビリ運動

2017年04月27日 10時05分17秒 | むびょうそくさい
この日の通院は三つ。

一つは心臓外科医師による半年プラス1カ月後の診察。

二つ目は循環器内科医師による2カ月経過の診察。

三つめは週に一度のリハビリ運動である。

医師の診察に欠かせない身体検査、ではなく身体的検査。

一つは平成27年7月31日に施術された僧帽弁閉鎖不全症手術の経過を診る検査である。

心臓超音波検査は略して心エコー。

その名の通り、身体表面に器具を接触させて超音波をあてる。

その状態で心臓の動きなどを検査する。

肺に水が溜まって横向けになるのがたいへんやった頃。

呼吸ができない状態で検査されるのが辛かったことを思い出す。

二つ目の検査は血液検査。

三つめは胸部レントゲン撮影。

四つ目が心電図検査である。

これらの検査が終わって情報が医師に伝えなければ診察は始まらない。

そう思って、指定時間よりも早めに着くように家を出た。

特に気にしなければならないので外来棟に隣接する駐車場の入庫である。

何度か訪れた午前中の検査・診察に30分以上も待たされることがあった。

それを避けたくて早めに出かけたということだ。

外来棟に入庫指示する警備員。

待てという指示に連なる車道待ちの渋滞。

門に掲げてあった待ち時間は50分だった。

50分もかかっておれば検査はできない。

検査が遅れたら診察も遅れる。

思っていた以上にかかる駐車場入れは諦めて特別利用ができる豊田臨時駐車場に向かう。

特別な駐車場は空いておれば利用できるありがたい駐車場。

何度か訪れたが締め切っている場合もあった。

空いてくれたら嬉しいのだが、と思いながら車を走らせたら・・・ラッキーだった。

そこに停めて外来棟に向かう。

歩く距離は遠くはないが、近くでもない。

そこそこの距離を歩いていった。

いつも通りの機械で受け付ける診察カード投入。

ふだんなら数段しかないが、この日は盛りだくさん。

印刷された診察案内表は8行に亘っていた。

受付を済ませて検査に向かおうとした待合室ロビー。

椅子に腰かけて会話をしていた男性の顔は4カ月前に出合った天理市山田町の住民。

なにかとお世話になっている男性は下山田のNさん。

地区の神社に地蔵堂の前で話し込んでいた。

そのときは1年ぶり。

それから4カ月ぶりに出合った場所は外来棟。

「虫送りに来てくれると思って待っていたけど、顔は見なかったが・・」と話す。

ありがたいお言葉であるが、この場でお会いしたように、身体的状況によっては出動できない場合もある。

男性も診察日。

お互いがともに診察をしてもらわなくてはならない身体だけに無理はできない。

そんなご対面もあって血液検査の受付へ。

採血は30分後になる待ち行列。

受付の人が云うには待っているよりも生理検査受付をした方が時間を有効的に使えるから・・・。

先に検査があったのは心電図検査。

そして心エコー検査に移るつもりだったが、そこで時間切れ。

採血の順が迫っていると伝えられる。

場は移動して採血。席について1分もかからないうちに採血の呼び出し。

今回も4本だった。

それが終わって再びやってきた生理検査受付。

心エコー検査は入室してから20分で終えた。

心エコーをしている間は気持ちが落ち着いていたというか、散髪をしているときと同じようにウトウトする気持ち良ささ。

吸ってーー、吐いて・・の声は子守歌。

僅かな時間だと思うが、緊張感もなく、すっかり寝てしまった。

検査はもう一つ。

胸部レントゲンであるが、これは早い。

受付も撮影もとにかく早い。

着替える時間の方が長いのである。

さて、診察だ。

予定では午前11時に始まる心臓血管外科。

受付はそれより10分前だったが、なかなか呼び出されない。

持参した橋本鉄男著の『藁綱論』を読む。

先日、初めて買った老眼鏡をつけて読んでみた。

目が大きく開いたかのように思える老眼鏡の効果に驚く。

写真家Kさんが入手した「ヤスコギ」の件について詳しく論じている『藁綱論』である。

入手されたのは福井県小浜市新保産の「ヤスコギ」。

ほぼ同じような形がある滋賀県高島市マキノ町上開田での呼び名は「ヤスツボ」さん。

主に信州地方で見られる「ヤス」がキーワードであるが、そのような名のモノは奈良県内に見つからない。

見つからないが、よく似た形状に、よく似た正月の祭り方が県内にある。

その地は天理市福住の別所

もう一カ所は宇陀市室生の小原

どちらも玄関戸口に取り付けてモチなどを供える。

藁製ではなく注連縄のユズリハに供える雑煮或はご飯。

私はこれを餓鬼さんではなく、見えない「外の神さん」に食べてもらう正月迎えの形態だと推定した。

そんなことを思い出しながらの時間つぶしも飽いてきた午後の12時。

ようやくの呼び出しに診察室へ入る。

医師はH血管外科医師。

心エコーの結果を診られて、特に異状は認められないと云う。

安静状態の脈拍は低いが運動をすれば一般的な脈拍値になる。

脈拍値といっても手前の数値だが・・・。

エコーの状況から判断するには多少の逆流はみられるようだ。

逆流と聞いただけで僧帽弁閉鎖不全したころの身体を思いだす。

あれほどの呼吸困難には陥りたくない。

呼吸ができずにほんまに死んでいくのかと思った症状は二度と体験したくない。

医師がこの場で云う逆流はそれではなく、何も感じない普通の健康体の人でもあるらしい。

それと同じくらいの逆流だから心配することはない、と云われる。

毎日の自宅歩行リハビリは時速4kmの早さで2kmを歩いている。

その歩行も速度をあげても良いという。

ウォーキングではないジョギング程度の早さも構わないという。

心配を安心に繋ぐためにも半年後も心エコーをしましょうと予約された医師に一つ聞きたいことがある。

先だって咳や痰がからむ毎日に心配したかーさん。

近くの山本耳鼻科で診てもらいなさいと云われて診察した。

結果は特になにもなし。

ときおり発生する咳や痰の発生源は逆流。

溜まってくれば身体自身が反応して吐きだす。

色はないが「キアゲ」のようなものだ。

それによって喉が反応する。

喉の奥も診たがなにもない。

血管外科医師の診たてもそういうことだ。

それも大丈夫、だと念を押された。

待ち時間は長かったが、診察時間はあっという間。

次は予定時間が20分も過ぎていた循環器内科の診察。

受付したとたんに入ってくださいと案内される。

心エコー視察結果は直ちに現主治医のI医師に伝わっていた。

結果はもちろん問題なし、である。

2月後の状況は変化もみられない現状維持。

BNPもヘモグロビンも基準値には達していないが、異常を示すものはなく安定している。

今後も運動は欠かさず、であるが、負荷すぎないように・・ということだ。

心配していたγ-GTPの値は3桁から2桁になった。

これも基準値に達していないが問題はない。

薬剤も変わらずで、次回は3カ月後。

忘れないようにいろんな処に印をつけておく。

そして午後はリハビリ運動。

その前に摂っておきたい昼食は前日に買っておいた惣菜パンである。

買った店は富雄南イオンタウン内にあるシーカくんのパン屋さん。



前日の車中食はニンジン・コーン煮込んだ豚バラカレーパン・まるごとエッグベーコンパン。

本日は外来棟食用に特別製のカレーパン・まるごとエッグカレーパン。



二日も続けば飽いてきたかのように思えた。

食事を終えたら丁度の時間。

リハビリ運動の受付を済まして入室する。

前週よりはじめた心電図機器の装着。

色で見分けがつく心電図機器を右や左にぺちゃ。

粘着によってぴったりと身体に貼り付ける。

機器は正常に取り付けられて波形も正常。

早くも2度目で慣れたが、時間はかかる。

装着時の脈拍は47-49拍。

スクワット運動時は54-55拍。

運動によっては57-60拍になる。

エルゴメーター付きの自転車のペダル漕ぎに乗って測る血圧は114-61。

58rpmで漕ぐが脈拍は53拍だ。

回転しだして2分後の脈拍は60-62拍。

順調な上がりであるが、この日は不整脈を示すランプがチカチカする。

いつもより多いように感じるが・・・。

6分後の血圧は135-56。

脈拍は68-69拍。

汗は早くも出だした。

16分後の血圧は137-56。

脈拍は68-69拍。

21分後の血圧は138-58。

脈拍は69-70拍。

26分後の血圧は119-47。

脈拍は68-70拍で終えた。

毎週、リハビリ運動で診てくれリハビリ療法士のIさんやK循環器医師には本日の診察結果を伝えてら「ジョギングねぇ・・・」と渋い顔をする。

血管外科医師は太鼓判を押してくれたが・・・。

朝からずっとの外来棟滞在時間は6時間。

やっとのことで会計を済ませて帰ろうとしたらまたもや出合い。

待合室ロビーは出合いの場、である。

出会ったのは市観光ボランテイアガイドのIさん。

3カ月診察の親父さんの付き添いで来ていた。

彼女と出合うのは今年の1月末以来。

場はやまと郡山城ホール。

会場で講演があった水木十五堂授賞式記念講演である。

展示品、出演者に演舞など、細かいこともよく覚えていた。

ちなみに循環器内科で計測した本日の血圧と脈拍。

受付直後の9時半は血圧が156-70で脈拍は41拍。

循環器内科診察を終えた直後の血圧は127-61で脈拍は39拍。

リハビリ運動を終えた直後の血圧は141-79で脈拍は60拍。

とにかく運動をすれば心臓のポンプは問題なく動くということだ。

(H28. 9. 5 SB932SH撮影)
(H28. 9. 6 SB932SH撮影)
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飛鳥の弥勒さんの祭り

2017年04月26日 09時24分52秒 | 明日香村へ
飛鳥のミロクさんを知ったのは昭和61年7月に発刊された『季刊明日香風19号』に掲載されていた「明日香村の民俗点描-飛鳥のミロクさん-」記事だった。

明日香村のどこにあるのか下見した平成28年6月19日

場所はわかったが、何時、行事をされるのかわからなかった。

後日というか翌月の7月23日にも訪れた立地の場。

村人に聞いた立地大字は岡だった。

場所は岡であるが、行事をしているのは大字飛鳥と聞いてようやく目にすることができる。

受付をしている男性に申し出た行事取材。

承諾してくださって村総代のSさんにお会いできた。

ありがたいことである。

飛鳥のミロクさんは「弥勒石」。

真神原(まがみはら)の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。

この「弥勒石」は飛鳥川を川渡りする飛び石にあったという。

小さい子供のころはここで川遊びをしていた。

ごっつい石があった。それが「弥勒石」。

石仏は飛び石利用していた渡り橋だった。

それを邪魔になると云ってどかした。

そのときからもう既に立っていた。

小屋は朽ちていたので建替えた。

地番は大字岡である。

ここは小字木葉。



井出の名で呼ぶ井堰がある。

灌漑用水に水を引く井堰である。

小屋を建てたのは8年前。

カミナリが鳴っても隠れて避難。

そういう状態でも参られるように整備したという

木葉井出より北方に2km少し行った処に橿原市の木之本町がある。

そこは大字岡から見れば小字木葉の幹の部分。

飛鳥川を下った下流が木之本町。

つまり木の本になると云う。

そういう話は大和郡山市と天理市にある。

天理市の櫟本町は大きな櫟の木の本。

枝になる地は大和郡山市の櫟枝町。

すぐ西隣にある村は横田町。

つまり櫟の木が西に倒れて枝は櫟枝町で櫟の大木が横たわったかた横田町になったということである。

物理的にはあり得ない伝承であるが、よく似た事例が明日香村の大字岡の小字木葉と橿原市の木之本町に繋がる話しが面白い。

総代が話すもう一つの話題は小屋の内部にある埋もれた石にある。

「弥勒石」の腰を触れば腰から下の病気が治ると信ぜられた。

弥勒堂の三方を戸板で隠している。

その三方とも刳りぬきの穴がある。

穴の形はまるで瓢箪のようにも見える。

そこから手を突っ込んで「弥勒石」を触る。

そうすると腰より下の病いが治るというわけだ。

ご利益を求める参拝者は小屋の椅子に腰かけて足を置く。



その置く位置にあるのが「くつぬぎ石」と呼ぶ埋め石である。

何故にそこで靴を脱ぐかといえば、「くつぬぎ石」に足を置くことで足を清めてもらうのだというのだ。

そんなありがたい「弥勒石」を覆う弥勒堂には多数の藁草履を吊るしている。

6月19日に訪れたときは大きな藁草履もあった。

県内事例ではあまり見かけることのない大草履であったが、この日にはそれがなかった。



実はこの日の午前中にお焚きあげ法要によって古くから奉ってあった藁草履を焚き上げたのだ。

草履はすべて外すのではなく大字役員が振り分ける。

その件については総代名で文書が発行されている。

但し書きに「古い草履とか新しい草履とかの判断は当大字の役員が行います。まだ残したかった方があればご容赦お願いいたします」とある。

文書期日は8月10日。

猶予期間は一か月以上もあるからお許しいただきたいと書いていた。

この日は古い藁草履のお焚き上げと午後に行われる大字飛鳥の弥勒さんの法要である。

いずれもすぐ近くに建つ飛鳥寺の住職が小字木葉の弥勒さんに来られる。

お供えの受付は当日設営されたテント張りの受付場で行われる。

参拝者は大字飛鳥の人たちだけでなく橿原市の飛騨町の人たちも。

昔から来られている飛騨町の人は信仰心から始まったようだ。

医者も手放すぐらいの病理だった。

それが弥勒さんに参ることで治った。

それを聞きつけた人たちが弥勒さんのご利益を求めてくるようになった。

口コミで広がった信仰心の繋がりのようだ。

また、弥勒さんは命の恩人であると信心している総代の話しもある。



この川で泳いでいたら身体を流され。

このまま流れていったら死んでいくのかと思ったそのときだ。

首を掴まれて助けられた。

弥勒さんが助けてくれはったというありがたい話しである。



また、役員さんは住職が来られるまでに果物盛りや餅御供を並べていた。

御供は他にも高野豆腐や海苔、鰹節にカップ麺などまである。



受付された人の中には手を合わせて真剣なお顔で弥勒さんに願いを伝えていた。

そうこうするうちに住職が来られた。

お顔を拝見して挨拶をさせてもらう。



実はU住職とお会いするのは初めてではない。

以前から存知している住職は大和郡山市内の行事に来られていたのだ。

初めてお会いしたのは平成23年に行われた丹後庄町の十日盆である。

もう一つは平成24年の2月15日の涅槃会

いずれも法要してくださったお寺は丹後庄町の松本寺(しょうほんじ)である。

あれから4、5年も経っているのに私のことを覚えてくださっていた。

この場でもう一度お会いするとは予想もしていなかった住職はテレビで度々拝見するように優しく接してくださる。

弥勒さんの御前に座って唱えるご真言。



まーかーはんにゃーしんぎょーと唱えるときは拍子木を打つ。



その間に参拝者は焼香する。



こうして法要を済ませたら幕を下ろす。



その幕に隠れていた大草履が現われた。

(H28. 9. 5 EOS40D撮影)
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黒田孝霊神社のヤマモリ

2017年04月25日 08時53分51秒 | 田原本町へ
8月7日に取材した田原本町・佐味のヤマモリで聞いた黒田のヤマモリ。

今でもしていると佐味の人たちが云っていた。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に黒田のヤマモリの記事がある。

「以前のヤマモリは9月1日の早朝から村中の人が川の雑魚取りをし、それを弁当のご馳走に加えて、夕方からお宮さんの庭で帖地を吊り、むしろを敷き、そこで弁当を開いた。ヤマモリに参会した者は村から少しの振る舞いが出た。現在はこの日に婦人会、老人会、子供会が歌をうたったりして楽しむ」と書いてあった。

『田原本町の年中行事』は続けて次のようなことを書いていた。

「日待、風日待、ヤマモリ、八朔のヤマモリなどの呼称があるが、多くは八朔の村行事で共同祈願の夜籠りの姿が顕著である。ヤマモリはやまごもり(やま籠り)であろう」である。

たぶんに調査・執筆された保仙純剛(ほせんすみひさ)氏の判断であろう。

私もそう思うが「やま」とは何ぞえ、である。

以前、このことについて教わった同町法貴寺の藤本保宮司が云った「夜」は「よる」であるが、「よ」或は「や」でもある。

「よるごもり」が訛って「やごもり」。

さらに濁音が消えて「やこもり」から何故か「やまもり」に転化したと考えられるのだ。

「やま」は「山」でもない。

「夜」なのである。

夜の間に籠るから「ヤマモリ」であるが、未だ、他の論証はみられない。

田原本町の黒田で行われていると聞いて予め訪れた鎮守社は孝霊(こうれい)神社。

辺りを見回しても人影が見当たらない。

境内に登ってとりあえず参拝した日は8月24日である。

神社には祭神や由緒を書いた掲示板が立っていた。

孝霊(こうれい)神社は元々あった法楽寺の鎮守社であるが、明治時代の初期にこの地に遷座した。

旧地より移した際に移した灯籠に明和七年(1770)の記銘があると書かれてあった。

今より247年前に寄進された灯籠のようだ。

また、田原本町観光協会が立てた掲示板には明治二年(1869)の『申請状之事』文書に遷座のことが書いてあったと伝える。

むしろその掲示板に書いてあった長禄三年(1459)の「法楽寺伽藍坊院図板繪(絵)」に当時の孝霊神社に法楽寺本坊、本堂、多宝塔、御影堂、鐘楼、宝蔵、山門などを配置した様相を伝える絵図でよくわかる。

もう一つは明治21年に築造した黒田池築造絵馬を紹介する映像に興味がわいた。

それぐらいしか得るものがなかった下見の日。

鳥居を潜って階段を下りたら道路向こうにある角地に立つ婦人がおられた。

行事日が何時であるのか尋ねてみれば毎年の9月1日。

午後6時には村の人たちが参詣して境内でヤマモリをしていると話してくれた。

日程・時刻がわかれば早めに着いて関係者に取材を申し出ようと思って出かけた。

着いた時間帯は午後5時。

少し早いと思っていたが境内にはブルーシートを敷いて準備を整えていた人たちがおられた。

数人の人たちは婦人会の役員さん。

30年前の昔は綺麗な服を着て子供連れの婦人が着ていたと話す。

何人かの男性もおられる。

その中におられた男性が私の名前で呼んだ。

なんという奇遇であろうか。

男性は存じているSさん。

かつて大和郡山市の職員の教育関係者だった。

ずいぶん前のことだがお世話になっていた大和郡山市の施設である少年自然の家の館長だった。

Sさんの名前は橿原市の飯高町でも聞いたことがある。

平成20年の3月2日に行われた飯高町のお綱祭の取材のときにお会いした地区役員のMさんはSさんのことを長年の友人だと云っていたことを思い出した。

その年はたしか大和郡山市内の校長先生になっていた。

矢田山の自然観察でばったり出会ったことも思い出。

取材に来てくれたことは驚きでもあるが嬉しさあってお互いが手を握るのも自然にそうなった。

この日は自治会の役員の務め。

会費を徴収するなど受付をしていた。

時間も午後5時半を過ぎるころには次から次へと村の人たちがやってくる。



まずは氏神さんに向かって手を合わす。

そうして境内に戻って準備されたシートに座る。

黒田は105戸の大字であるが旧村戸数は80戸。

他所から転居された新しい人たちもおられるが旧村戸数としては多いほうになるだろう。

一人の婦人が云った言葉に黒田のヤマモリは八朔と重なっているかも・・・である。

たぶんに私もそう思う。

8月末にされる地区は若干数あるが、圧倒的に多い日は9月1日である。

田の水の井出があるのは大字黒田の境界地になる三宅町伴堂(ともんど)の境目。

黒田池から流れでた排水は下流の伴堂に向けて流れるが、井出がその境界にある。

井出を開けなければ伴堂への供給はできない。

9月の始めは農作業が忙しくなるのでその景気づけだという人もおれば、井出の水納めに感謝する夜籠りかもという人もいる。

黒田のヤマモリは婦人会、自治会役員、老人会に神社方の世話人もおられるが男性のなかには農家の方も多い。

井出の話しができる人は間違いなく農家の人たちである。

その黒田池が築造された絵馬に「新溜池工事實景之主図 明治廿壱年壱月着手同年五月成功」という具合だから短期間の工事だった。

笠を被ってモッコ運びをしている工夫の姿もあればシャッポ帽を被る工事委員のすがたもなる。

当時の民俗を伝える絵馬は貴重な村の資産。



ガラス張りであるが、神社拝殿内に納めた絵馬を拝見することができる。

そういえば鳥居脇にある灯籠に明治二十一年九月の銘記年がある。

遷座したときに建てた灯籠であろう。

そのすぐ近くの場に建つ石灯籠があった。

刻まれた文字は大神宮。文化四卯(1807)十二月吉日とあるから遷座の際に持ちこまれたのか、それとも元々のこの地にあったのか、断定できない大神宮の石塔である。

やがてブルートーンの夕暮れ時。



午後6時も過ぎれば頼んでいた弁当を貰った人たちで埋め尽くされる。

役員たちはブルーシートをして場を調えてはいるものの村の人たちは座布団、

或は折りたたみ椅子を持ってくる人も・・。

よくよく見れば北と南に分かれて座っている。



北側は女性ばかり。

南の方は男性ばかり。

自然体にそうなっているように思えた黒田のヤマモリは自治会長の挨拶で「籠り」が始まる。

籠りと云っても数時間。

一夜をずっと朝まで籠ることはない。



午後6時半ともなれば神さんに供えたお神酒を下げて皆に配られる。

照明のライトは境内を明るくする。



男性も女性もそれぞれが座った場で談笑を重ねる。



一時解散は午後7時。

残った人たちはその後も宴を続けていたようだ。

ちなみに長老が云った話がある。

「尾崎常次郎が中心となって黒田池を築造した。井出を開いて苗代田に水を入れた。米の神さんやと云ってモミダネを蒔いて田植えをした。農業を営む者にとっては水が一番大切や。井出の一つにジャコ取りがあった」という。

池を浚えて残った池の水がすくなくなったところに魚が跳ねる。

それを掬い捕って食べたのがジャコである。

もちろん生ではない。

ここ黒田ではないが、煮て食べたと話していた老婦の話だ。

続けて話す黒田池に纏わる農水の話題提供。

「米の水が穂も稔らせる。今年も育ったんでお礼に参って神さんの前で食べる。それが神さんとともに食するヤマモリや。この時期になれば田んぼに水は要らん。井出のおった魚を捕るのもこの時期や」と話してくれたのが印象に残る。

この日のヤマモリには神職は登場しない。

秋の祭りなどの祭礼に出仕される神職は大字八尾の鏡作神社の宮司と聞いた。

秋の祭りは10月の第二土曜がヨミヤで翌日の第二日曜が祭りである。

ヨミヤは午後6時の参拝。

鏡作神社里巫女による参拝者鈴祓いがある。

第二日曜は祭りの繁盛日。

奈良県内で二番目に多い地区の行事である。

二番目と聞いて、何でと思われる人は多いだろう。

一番多いのは地蔵盆である。

7月にされるところもあれば8月も。

地区に神社は一つであっても地区にある地蔵尊は辻ごとにあるから数えきれないほどに膨れ上がる。

それはともかく黒田の祭りは桃太郎神輿が町内を巡行する。

神輿に続いて子供が打つ太鼓神輿も出るようだ。

(H28. 8.24 SB932SH撮影)
(H28. 9. 1 EOS40D撮影)
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求める鬼輪の前に出合った入野の子安地蔵尊

2017年04月24日 09時31分42秒 | 吉野町へ
史料名は記憶にない。どこで見つけたのかも覚えていないが、そこから抜き出した簡単なメモ記がある。

平成25年の9月のコメントに付記していたのでメモっていたのはその年だ。

メモの内容は「吉野町津風呂・鬼輪垣内では旧暦の八月十五日にイモ名月があると書いていた。

旧暦の八月十五日は十五夜(じゅうごや)。

いわゆる中秋の名月にあたりサトイモの皮を剥いだダンゴをお月見と称して夕方のころから屋敷内に供える。

そういう風習は今も昔も変わらないが供えるのはサトイモではなく餅若しくは饅頭。

いずれも甘い和菓子。

本来の意味を失っている。

サトイモの皮を剥いだら真っ白。

楕円形ではないまん丸な形のイモはお月さんに見立てたもの。

例年であれば12個のイモを供えるが、旧暦閏年は大の月が13カ月となることからイモの数は13個になる。

そういうことをしていた鬼輪垣内の風習は「芋の子」の名があった。

果たして鬼輪垣内はどこにあるのか・・、である。

カーナビゲーションにセットした津風呂を示す通りに走っていく。

南国栖に抜けるトンネル道。

その手前、右折れを示すカーナビゲーション。

下っていけば右手に本堂が建っていた。



それは入野(しおの)の子安地蔵尊であると案内板書があった。

板書を要約すれば、「地蔵さんは元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。

「現在、安置している子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。

特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。

さて、行事日のことである。

毎年の正月と九月の年二回。

いずれも24日が会式(看板に例祭とあるが仏行事と思われるので会式とした)である。

お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。

平成22年からはいずれも第三日曜日に移したとある。

もしかとすれば拝観させて行事取材も、と思って現地住民を探してみる。

一人の男性がおられたので声をかければ、なんと3週間前に村入りした東京の人だった。

一時的に住んでいた川上村を離れて当地に来たのは農業従事の専門者になるためだそうだ。

そういう男性が紹介してくれた婦人が住む家を訪ねたがお留守だった。

そこら辺りで見渡せば畑に婦人がおられる。

声をかければもともと当地で生まれ育った婦人。

住まいは田原本町だがここで畑仕事をしているという。

娘さん時代にはおばあさんが尋ねるイモ名月をしていたという。

が、離れて云十年。

村の姿は・・・わからないという。

そこよりさらに下った処は津風呂ダム湖の東の端。

旧家があったのでここでも尋ねるが鬼輪のことは知らないというが、子安地蔵のことはご存じだ。

来月の会式にはお菓子を撒くゴクマキがある。

午後の時間帯、浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしい。

とにかく知りたい鬼輪垣内のこと。

場所も判らず、湖畔を回遊するかのような道路を走って探し回るが集落どころか家、一軒も見当たらない。

かつてダム湖に沈んだ村がある。

垣内はたぶん上津風呂に下津風呂であろうか、72戸の人たちが移転を余儀なくされた。

その人たちの一部(20戸)が移住した先は奈良市内。

山陵町(みささぎちょう)内にある津風呂町地区になるそうだ。

さて、鬼輪垣内のことである。

津風呂湖で一番賑わっている場所はといえば津風呂湖観光株式会社があるところだ。

ここなら何かの手がかりが掴めるのでは、と思って尋ねたら社長が一番よく知っていると云われて紹介された。

社長の話しによれば、鬼輪は昭和37年にダム湖が完成する以前の建設が始まった昭和29年ころに移転したという。

ここより見渡す向こう岸。

左手は平尾垣内。

谷を隔てて右寄りに津風呂垣内があったという。

そこら辺りが鬼輪垣内だった。

昭和26・27年発行の地形図に「鬼輪」の文字があるらしい。

村はダム湖建設によって沈んだ。住民は移転したという。

鬼輪の戸数は3軒だった。

うち、一軒は津風呂町に移転した。

2軒は隣村の大字平尾に移転したという。

移転したうちの1軒を教えてもらって探してみたが、結局は判らなかった。

万事休す。である。

(H28. 8.28 SB932SH撮影)
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榛原篠楽・下垣内を散策

2017年04月23日 08時04分28秒 | 宇陀市榛原へ
小字が「モトシノノ」になる宇陀市榛原篠楽(ささがく)の下垣内。

下垣内に神さんはないが、墓がある。

上垣内に神さんはあるが、墓はない。

明治14年、字篠野(しのの)と字極楽寺が合併されて篠楽になった。

字篠野は現在の篠楽の上垣内。

字極楽寺は下垣内のことである。

字極楽寺に八幡神社があった。

その合併期に八幡神社は字篠野の白山神社の摂社に移された。

下垣内に石仏は3体ある。

うち一つが「しゅく」の地蔵さん。

篠楽信号交差点の四つ辻から北に向かう。

しばらく走れば大字柳に下る道と交差する地点にでる。

下る道の反対側に建つのが「しゅく」の地蔵さんだ。

その場で行われる下垣内の地蔵盆には土で作った泥ダンゴを供えるらしい。

イボによく効くという泥ダンゴ供え。

足の願掛けと思われる草鞋もあったと上垣内の人たちが話していた。

その場は確認できなかったが、下垣内にある石仏の場を探した。



3体あると云っていたうちの一つであろう。

屋根付き祠内に安置された石仏があった。

その姿は紛れもない青面金剛石仏像である。



祠はそういうことであれば小型ながらも庚申堂である。

ネットをググってみれば享保十三年(1728)造立のようだ。

そこより急な坂道を登っていけば極楽寺がある。

平成7年に指定された榛原町文化財の木造阿弥陀如来坐像を安置していると案内されていた。

坐像は平安時代の作。

榛原戒場の戒長寺や荻原の宗祐寺に伝わる平安仏と並ぶ優品になるそうだ。

その宗祐寺は融通念仏宗派。

寺什物の鉦に「シノノ(篠野)」の地名を刻印しているらしい。

(H28. 8.28 SB932SH撮影)
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榛原篠楽・上垣内の地蔵さんの祭り

2017年04月22日 08時43分59秒 | 宇陀市榛原へ
宇陀市榛原篠楽の上垣内で地蔵盆をしていると聞いたのは平成28年の5月8日

たまたま拝見した新暦閏の庚申さんのことを尋ねたⅠさんが教えてくださった。

篠楽には15戸の下垣内、23戸の上垣内のそれぞれにあるが、今回取材させていただくのは上垣内の地蔵さんである。

上垣内の地蔵盆は本来が8月24日であるが、今は集まりやすい24日に近い日曜日に行っているという。

この年は24日を過ぎた28日の日曜日である。

地蔵さんがある地は村落から緩やかに上がる道沿いにある。

念のためと思って24日に訪れていた地蔵さんの地。

石仏を拝見するにはどうも地蔵尊のようには思えない。

地蔵尊の姿もなく彫り物の「奉供養西国三十三番」とあった。

刻印は薄く、建之された時代はわからない。

裏面であるかもしれないが祠で背中が見えない。



やってきた村の人らに聞けば、この地蔵さんは「イシガンノン」と呼んでいるという。

「西国三十三番」があるということは、西国三十三カ所の巡礼旅である。

長谷寺は第八番。

この道は長谷街道になると話しているから「イシガンノン」を充てる漢字は「石観音」であろう。

かつてというか大昔のことだ。

長谷寺参りに歩いていた人がいた。

その人は行き倒れになった。

その人が差し出したと思われるお金で、行き倒れになった人の供養のために地元民が建之した。

そういう逸話がある上垣内の地蔵尊の呼び名は「石観音」が相応しいと思うのだが・・・。

ローソクを立てて線香とも火を点ける。



垣内の導師が一歩前に出て般若心経の一巻を唱える。

皆は揃って神妙な気持ちで石観音に向かって手を合わす。

かつては餅御供であったが、今はお菓子御供。

下げて直会の場でお神酒をよばれる。

直会の場は当番さんが所有するガレージ蔵。



テーブルを調えて周りに置いてある材を椅子代わりに座っての団欒だ。

以前は石観音の前に座って直会をしていた。

日差しを遮るものがないから影がない。

直会の時間帯は昼間。

暑うて、暑うて叶わんから同家の作業場を貸してもらっているという。

本来なら導師は年長者がしてくれるのだが、この日は欠席。

やむなく代行させてもらったという。

かつてはここでの地蔵さんの祭りごとはしていなかった。

上垣内の人たちは下垣内の人たちが集まる「しゅく」の地蔵さんに参っていた。

垣内から参るのでお布施を供えていた。

借り物でもないが、上垣内の地蔵尊ではないから気遣いする。

上垣内は上垣内にある「イシガミサン」がある。

そう決断されたのは今から20年前のこと。

下垣内から独立されて今日に至る上垣内の祭りごとである。

ちなみにここで言われた「イシガミサン」が「石観音」である。

10年前までの祭りは「石観音」の前にシートを敷いて歌っていた。

賑やかだったが、日差しを避けたここに落ち着いたようだ。

ちなみに上垣内の祭りは春と秋の彼岸に参る薬師さんの行事がある。

その行事も彼岸の中日に近い日曜日になるそうだ。

彼岸の薬師さんは数珠繰りがある。

場は氏神さんを祭る平成25年に造営事業があった白山神社境内の傍にある。

白山神社の造営に雌雄の鯛を吊った綱を曳く曳き綱神事があったそうだ。

彼岸の薬師さんは導師が鉦を打ってなんまいだー。

数珠繰りは10回するというからここも取材したいものだ。

(H28. 8.28 EOS40D撮影)
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