Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「チチカット・フォーリーズ」フレデリック・ワイズマン

2009-09-25 00:56:49 | cinema
チチカット・フォーリーズTiticut Follies
1967アメリカ
監督:フレデリック・ワイズマン
(ドキュメンタリ)


【公式サイトより引用】
マサチューセッツ州ブリッジウォーターにある精神異常犯罪者のための州立刑務所マサチューセッツ矯正院の日常を克明に描いた作品。収容者が、看守やソーシャル・ワーカー、心理学者たちにどのように取り扱われているかが様々な側面から記録されている。合衆国裁判所で一般上映が禁止された唯一の作品であり、永年に渡る裁判の末、91年にようやく上映が許可された。

***

渋谷ユーロスペースで開催していた「フレデリック・ワイズマン監督最新作『パリ・オペラ座のすべて』公開記念 ワイズマンを見る/アメリカを観る ― アメリカ社会の偉大なる観察者、フレデリック・ワイズマンの世界。」特集(長い)から、67年のドキュメンタリ作品を観る。

ワイズマンは名前だけは以前から知っていて、観てみたいと思っていたのだけれど、ここにきて突然実現。上映全18作品の中から、どうやら最初の作品らしい「チチカット・フォーリーズ」を観てみる。

最後エンドロールの後を除いて、全編まったく説明に属する言葉はなく、ただひたすら矯正院の内部を映し続ける。TV番組的ドキュメンタリになれた耳目には新鮮である。まさに「観察者」という肩書きがぴったりである。

もちろん言葉がないからと言って思想やメッセージがないわけではないし、純粋客観的観察が行われたというつもりもない。むしろその無言の視線によって訴えられる恣意性が圧倒的であることに驚いたのだ。

カメラは例えば支離滅裂な演説をぶつ「収容者」の姿を延々撮り続ける。あるいは小児性愛犯罪者とカウンセラの赤裸々な問答を撮り続ける。職員に小突き回される「収容者」を、周囲監視のもと入浴する「収容者」を、全裸で検査をされる「収容者」を、ひたすら凝視する。
これは見ることによってしか行うことのできない一種の告発であり、それは見たことによって様々に問題を提起する告発前告発であり、そしてフィルムはそれを観る者を残さず告発の当事者にしてしまう。
これは見ることの切実さを知っている者の手になる鋭い矢だ。

******

ある種のフィクション映画はこの作品によく似ていると思う。冒頭なにかの催しで歌う「収容者」たちの影像は、なにがはじまるのかという期待を呼び起こさずにはいられない。説明なく断ち切られつなぎ合されるシークエンスは、68年以降のゴダールの(晦渋な)フィルムを思わせる。「現場主義」的な製作過程はネオリアリスモやヌーヴェルヴァーグと通じる手触りをもたらしている。その「不親切さ」に関わらず『チチカット・フォーリーズ』を一つの作品として楽しんでしまうこと。そこにはフィクションとノンフィクションの境界にいる自分がいるだろう。

そういう点でこの作品は映像の恣意性とその隠蔽力を逆手に取りつつ暴きつつ成立する極北の映画作品たちと共犯関係にある。



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