♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■主の祈り 5  / 大嶋重徳

2015年02月17日 | Weblog
2015/2/17 放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書にはイエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」という祈りが記されています。主の祈りは「天にまします我らの父よ」ということばで始まります。ここで私たちの祈りを捧げる神様は天に場所をもっておられる神様であり、父と呼ばれる神であることを教えてくれます。

 良い親とは子どもと一体化しているのではなく、子どもの願いや子どもの抱えている問題をある一定の距離をもって見つめているものです。

 私の息子が2歳になった頃に、「お父さん、ハサミを貸して!」と泣きわめいたとしても、まだハサミをうまく使えない息子にハサミを渡すことはしません。「お父さんは僕のことが嫌いなんだ。」と幾ら言ったとしても私は貸しません。むしろ、「お父さんに対してそのことばはいけない!」と、叱るわけですね。しかし息子が小学校に入って「お父さん、ハサミを貸して!」と言うならば、「どうぞそのハサミを使って自由に遊びなさい。」と言うわけです。

 「天におられる父」と呼ばれる神様は、天という場所から私たちの人生を見つめていてくださり、父親のように私たちの人生にその祈りが聞かれる一番相応しい時を知っておられる神様だということをこの祈りは私たちに教えてくれるのです。

 祈りは本当に聞かれるのか、という疑問を私たちはよく申します。しかし、私たちが聞いてもらえなかったと思う祈りにも神様の答えがあるということが分ります。それは、まだ今は待ちなさい、という神様の答えであったり、その判断はあなたにとって良くないものだ、という神様の答えであったりする、と言うことです。その意味では神様に聞かれなかった祈りという神様の祈りの答えがあるのです。

 塚本虎二という牧師は、「私の祈りが願い通りになったら、地獄の子となっただろう。自分の願い通りにならなかったということで感謝したことの方が多い。」と言いました。

 私たちが願っても叶わない祈りに向き合う一つの姿勢は、天にいて見ていてくださっている神様にしか分からないことがある、その神様が今最善のことを私にしようとしてくださっている、という信仰の姿勢なのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.2.17放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■イチジクの木の下 / 関根弘興

2015年02月16日 | Weblog
2015/2/16放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今日はイエス様の弟子の一人でナタナエルという弟子のことをお話ししましょう。ナタナエルには友人のピリポという人がいました。そのピリポがやってきて、「私たちは救い主に出会った。その方はナザレ人だ!」(参照 ヨハネ 1章45節)と、ナタナエルに報告したんです。するとナタナエルはすぐに反応しました。「ばかなことを言うな。救い主? キリストがナザレから出るなんて、聖書のどこにも書いて無いぞ。ナザレのようなつまらない所から良いものが出るはずが無いじゃないか。」と、懐疑的な反応を示したんですねえ。するとピリポは決して議論しようとせず、「それなら来て、そして見なさい。」(参照 ヨハネ 1章46節)と言って、ナタナエルをイエス様のもとに連れて行きました。

 さてイエス様はこの懐疑的なナタナエルを見るこうおっしゃったのです。「これこそ本当のイスラエル人だ。彼の内には偽りがない。」(参照 ヨハネ 1章47節)と。何だかちょっと誉め過ぎのような感じではありませんか。イエス様は、なぜ彼をこんなに誉められたのでしょう。その理由はイエス様が語られたことばに隠されているようですねえ。イエス様は「わたしはピリポがあなたを呼ぶ前にあなたが無花果の木の下にいるのを見たのです。」(参照 ヨハネ 1章48節)と言われたんです。するとこれを聞いたなナタナエルは態度が一変しまして、「あなたこそ神の子です。」(参照 ヨハネ 1章49節)と告白したんです。何とも不思議な会話ですね。

 イエス様が、「あなたが無花果の木の下にいるのを見た。」と言われただけでどうしてナタナエルの態度は一変したのでしょう。私が、「私はあなたがお城の松の木の下にいるのを見ました。」と誰かに言っても誰も感動しませんよね。「ああそうですか。それが何か?」で終わってしまいます。ではイエス様が語られた「無花果の木の下にいるのを見た」ということば、これはどんな意味があったのでしょう。実は無花果の木はユダヤ人にとって平和と静けさの象徴でした。また無花果の木は葉が茂って日陰を作るのでその木の下に座って黙想・瞑想する習慣があったと言われます。ですからナタナエルが無花果の木の下にいたのは、疲れたから木陰で一休みしましょう、というわけではなかったようです。彼は無花果の木の下で、人生の意味や救い主のことについて思いを馳せ、静かに祈っていたのだと思いますねえ。そういう意味では彼は真実を求める心をもった求道者だったのでしょう。イエス様はこう言われました。マタイの福音書7章7節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 
 ナタナエルは自分の心の奥底にある思いや願いまでも読み取られるこのイエス様を知って感動して、「あなたは神の子」と告白したのです。そして今日、イエス様はあなたの心の思いも御存知です。「求めなさい。そうすれば与えられます。」

 (PBA制作「世の光」2015.2.16放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■汚れときよめのおしえ / 羽鳥頼和

2015年02月14日 | Weblog
2015/2/14放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。旧約聖書 のレビ記の11章から15章には汚(けが)れと清めについて教えられています。11章には動物について、汚れたものと清いものが教えられています。12章から15章には主に人の身体における汚れについて教えられています。またそこには人の身体だけでなく衣服や家に関する契約について教えられています。汚れとは人間が決めたものではなく神によって定められたことで、聖なる神の基準に合わないものです。神は何が汚れているかを教えるだけでなく、汚れてしまった場合、どのようにすればきよくなれるかを教えています。神は、「わたしは聖であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。」(参照 レビ記 19:2、1ペテロ 1:16 )と言われています。神は人が聖なる者となり、清い生活を送ることを望んでおられるのです。

 イエス・キリストは汚れについて更に教えられました。
 「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ 7章21節から23節 )

 これらは罪のリストです。心の中のことを言われたら誰も「私は清い」と言えないでしょう。

 しかしキリストはこのように人の罪を指摘しただけではありません。キリストは私たちを愛しておられ、私たちをこの罪から救ってくださいました。キリストはこれらの罪から私たちを清めるために十字架にかかってくださったのです。神も私たちのことを愛しておられます。神は私たちを愛しておられるので、私たちの罪をきよめ、聖なる者として清い生活を送ることができるように御子イエス・キリストを遣わされたのです。

 今日はバレンタインデーです。愛を告白する日ですね。ぜひ神に愛を告白してください。神はずっとあなたに、「わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書 43章4節)と愛の告白をしてくださっているのです。

 明日は日曜日です。愛の神を礼拝するために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.2.14放送でのお話より )
 
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が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■祈りの答えとチャレンジ  / 岩井基雄

2015年02月13日 | Weblog
2015/2/13放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 先月から旧約聖書の中に登場するヤコブという人の人生について学んでいますが、彼は波乱万丈の人生を歩んだ人でした。それは彼の誕生の時から始まります。ヤコブの母リベカは不妊の悩みを抱えていました。現代でも不妊の悩みは痛みを伴うものですねえ。しかし聖書の多くの女性たちも同じ問題を抱えていたのです。もちろんそれは夫イサクの痛みでもあり、彼は神様に祈りを捧げていました。聖書には次のように記されています。

 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。 
           旧約聖書 創世記25章21節から23節

 いのちを与える権威を持つ神は祈りに答え、リベカに子どもを与えてくださいました。妊娠や出産は神のわざであり祝福でもありますが、時には痛みやチャレンジをも伴います。リベカが産んだ双子の兄弟は出産の時も、成長の過程でも、様々の争いや確執を生じ、リベカはその都度心を痛める経験を重ねていくのです。神様は私たちに恵みとして子どもを与えてくださいますが、その子によってもたらされる訓練や苦難を通して神様は私たちを整え、私たちの人生を豊かに取り扱ってくださいます。そして神様は決して私たちに耐えられない試練をお与えにはなりません。試練と共に脱出の道を備え、私に訓練と恵みを与えてくださるのです。
 
 聖書のことば
 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
          コリント 第一の手紙 10章13節

(PBA制作「世の光」2015.2.13放送でのお話しより)

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こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■やみがなくなる / 福井 誠

2015年02月12日 | Weblog
2015/2/12放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「闇がなくなる」です。それではイザヤ書9章1節から読んでみましょう。
 「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。

 イザヤ書9章に出て来る地名、ゼブルンの地とナフタリの地はイスラエルの北側に位置しています。そこにはガリラヤ湖という湖がありますが、その北側の領域でその昔アッシリヤ帝国に真っ先に侵略された地域です。しかしその同じガリラヤに今度は神の恵みが真っ先にくだされる、というのです。アッシリヤの軍隊に踏みにじられ、苦しめられたその土地に、今度は神の祝福が真っ先に訪れる、と。それはどんな祝福なのか。6節にはこうあります。
 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 つまり神様はその地に一人の人を遣わしてくださるのですが、その人は偉大な永遠の主権を持ち、神のような方であり、地に真の平和をもたらす方である、と言うのです。この人物を巡って様々な議論がありますが、今は約2000年前に生まれたイエス・キリストがその人なのだと理解されています。確かにイエス・キリストはガリラヤ湖に近いナザレの出身であり、イエスの平和の福音はガリラヤ湖周辺、まさにゼブルンとナフタリの地で広められたのです。

 その地はかつて侵略を受け、闇に覆われ、嘆きと悲しみで引き裂かれた地でした。誰もが、そこに何の望みがあろうか、何の祝福があろうか、と背を向ける地になっていました。しかしイザヤは、これから先そこには光が訪れ、平和と喜びで満たされるうちになるだろう、と預言しています。そしてイザヤが語った通りに、約700年後に、その地にイエスが現れて、心貧しい者、悲しめる者たちがイエスの救いと祝福に与ったのです。
 「苦しみのあった所に、やみがなくなる。」 このことばは今なお私たちに向けられています。私たちのやみも解決されるのです。聖書を読んで今もなお生きておられる永遠の神であるイエスがそのようにしてくださることを知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2015.2.12放送でのお話より )

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■悪い事態 / 板倉邦雄

2015年02月11日 | Weblog
2015/2/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「悪い事態」という題でお話ししましょう。改善や改革をしようと思って行動すると様々な抵抗にあって前よりも事態は悪くなると言うことがありますね。

 さて、イスラエルの人々の指導者たちはエジプト王様の所へ行き、現状を訴えました。「私たちしもべたちに、なぜあなたはこんな酷なことを命じるのですか。私たちは藁 を与えられないのにレンガは作れと言われているのです。その上、できないとしもべたちは鞭で打たれているのです。」 

 王様は怒って答えました。「あなたがたが怠け者だからだ。怠け者だ。だから『荒野に行かせて神を礼拝させてくれ』などと言うのだ。さあ行って働け。藁は与えないが、定めた数のレンガを納めなければならない。」

 さあ大変なことになってきました。イスラエルの人々の指導者たちは悪い事態になってきたことを感じ始めていました。彼らが王宮から出て来るのを心配していたモーセとアロンを見つけた指導者たちは二人に詰め寄って言いました。「主なる神様がお前たちをご覧になって裁かれたらいい。あなたがたは私たちを王様と家来たちに嫌われるようなことをやったのだ。剣を彼らの手に渡して私たちを殺させようとしてしまったのだ。」

 指導者たちの苦情を聞いたモーセは、主なる神の前に立って祈りました。「主よ、あなたはなぜ我が国民をひどい目に遭わせるのですか。何のために私を遣わされたのですか。私がパロ王のもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、王は私の民をひどい目に合わせるばかりです。あなたはちっともあなたの国民を救おうとはなさいません。

 さて、長い間長い紐に巻かれていた人は、長い紐を解かれて自由になるよりは長い紐の上に更にきつい鎖で巻かれることを嫌うようです。主なる神様はモーセを通して長い紐の苦役からヘブル人を解放します。同様に主なる神はイエス・キリストを通して私たちを長い紐である罪の奴隷から解放したいのです。

 イエス・キリストのことばです。
 「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。・・・(神の)(であるわたし)があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。
        ヨハネの福音書8章34節、36節

 (PBA制作「世の光」2015.2.11放送でのお話より )

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■主の祈り 4 / 大嶋重徳

2015年02月10日 | Weblog
2015/2/10 放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。聖書にはイエス・キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」という祈りが記されています。主の祈りは「天にまします」ということばで始まります。この祈りのことばで私たちの信じている神様は天と言うところに場所を持っておられる神様だということを私たちここで知るのです。

 天と言うことは私たちの目を上に向けさせることばです。そのことば通り、天とは全体を見渡せる最適な場所であり、何者からも神様の視野が妨げられることはありません。富士山に登るときに山梨、長野、神奈川、静岡、さらに東京までも見渡すことができます。神様こそがその視野をもっておられ、そして今どこで何が起こっていて、どんな必要があるのかが見えるところに神様はおられるのです。

 以前、家族でキャンプをしようと車で出かけたことがありました。途中で大雨になってきて、すると子どもたちが後ろの座席で「神様。雨を降らないようにしてください。」とお祈りをし始めました。しかし雨は一向に止む様子がありません。それを見て、「お父さん。お祈りしても神様は全然聞いてくれないよ。」 そう子どもたちは言うです。そこで私はこう言いました。「もしかするとキャンプをやる場所近くの農家の人たちがずうっと農作物のために雨を降らしてくださいとお祈りをしてきたのかもしれないよね。神様は今日その人達のお祈りを聞く事にされたのかもしれない。だから今夜はテントの中でトランプ大会をやって盛り上がろうよ。」 

 私達は自分の必要しか目に入りません。しかし、天に場所をもっておられる神様は、私の必要も御存知ですが、すべての人の必要をも御存知です。この神様がすべてを見渡せる場所で私たちの最善を願い、今、祈りに答えようとしてくださっているのです。そして天におられる神様に祈ることで、今日も神様は最善の選択をなされているのだ、そう私たちは安心しして私たちの祈りの結果を受けとめることができるのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.2.10放送でのお話しより )

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■大決断 / 関根弘興

2015年02月09日 | Weblog
2015/2/9放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日は聖書のことばをまずお読みします。

 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
  ルカ福音書5章27節から28節

 イエス様は収税所に座っていたレビという人に、「わたしについて来なさい。」と招かれました。すると何とレビは何もかも捨ててイエス様についていたんです。でもこれはちょっと勇気のあることですよね。ガリラヤの収税所の椅子から立ち上がってイエス様に従って行ったら、もうすぐにガリラヤ地区収税所の後任人事が行われて違う人がその椅子に座るようになったでしょう。レビは二度と古巣には戻れないんです。つまり、退路を立ち切ってイエス様に従っていくという大変大きな決断をした訳です。それでもレビはイエス様に従う道を選びました。取税人としての人生に何か空しさを感じていたのでしょう。そしてここから新しい生き方が始まっていったのです。

 さてイエス様に従って行ったレビが最初にしたことは何だったのでしょう。彼は自分の家にイエス様を招き、大盤振る舞いをしたんです。そこには取税人や他の大勢の人たちが招かれていました。あれ?と思いませんか、レビは何もかも捨ててイエス様に従ったはずなのにどうして大宴会が開けるんだろうと思う方がいらっしゃるかもしれませんねえ。どうぞ誤解しないでください。何もかも捨てるというのは持っているものを粗大ゴミのようにポイと捨てるという意味ではありません。自分の持っているものを神様から託されたものとして用いていくという意味です。私たちは一人ひとりが良い管理者として生き方を見つめるように備えられてるんですね。すべては自分のもの!という思いから、一つ一つが神様から託されたもの、という意識に変化させながら生きていくこと、これが何もかも捨てるという意味であるわけです。

 レビは大宴会を開きました。職業柄、今までも頻繁に宴会を開いていたでしょう。でも今までとは違います。なぜならばその中心にイエス様がおられるからです。そこでイエス様はこう言われました。

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ福音書5章31節、32節)と言われたのです。

 イエス様は、自分は正しい、自分はきよい、と考えている人たちを相手にはなさいません。しかし自分は確かに罪人だ、変えられる必要があると自覚している者の友として来てくださいました。一人ひとりが人生を、神なしの人生から神有りの人生に方向転換することをイエス様は願っておられるのです。

 (PBA制作「世の光」2015.2.9放送でのお話しより)

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■一致する秘訣 / 羽鳥頼和

2015年02月07日 | Weblog
2015/2/7放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 誰も喧嘩が好きな人はいないと思います。でも喧嘩をしてしまいます。それも自分にごく近い人と喧嘩をしてしまうのです。喧嘩は必ずしも悪いものではありません。昔のアニメの歌で「仲良く、けんかしな」ということばがありましたが、喧嘩をしても仲良くなれれば良いのです。今日は、人が仲良くする秘訣をお話ししたいと思います。

 使徒パウロがピリピの教会にあてた手紙の中で教会の人々に「仲良くしてください」と言っています。教会に行く人はみんな立派な人だと思います。しかし実際にはそうではなかったのです。昔から教会の人々は普通の人だったのです。ピリピの教会では、ユーオディアとスントケという2人の女性の間に何か問題があったようです。

 パウロは二人に「一致してください。」(ピリピ 4章2節 )と言います。この二人は熱心に伝道していました。しかし一致できなかったようです。パウロは教会の人々にも、「彼女たちを助けてやってください。」(ピリピ 4章3節 )と勧めます。パウロは更に続けて教会の人々に言います。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」 (ピリピ 4章4節 )  この「主にあって喜ぶ」ことこそ、一致する・仲良くする秘訣だと私は思います。

 「主にあって喜ぶ」とは、主であるイエス・キリストによって与えられる救いを喜ぶことです。キリストは今も生きておられ、人を守り、導き、支えてくださっています。またキリストの救いは人に神の平安を与えます。平安とはどんな状況でも安心できる心です。いつも安心している心は寛容な心になります。寛容な心の人は喧嘩相手を赦し受け入れることができるようになります。ですから、パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」 (ピリピ 4章4節 ) と言ったのでしょう。

 キリストによる救いは人を救い、人と人との関係をも良い関係にします。あなたもキリストによる救いを受け取ってください。そうすれば神との良い関係を持てるだけでなく、人とも良い関係を持ち、喜びに満ちた平安の人生を送ることができるのです。

 明日は日曜日です。キリストによる救いを知るために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.2.7放送でのお話より )
 
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■神への賛美の深み  / 岩井基雄

2015年02月06日 | Weblog
2015/2/6放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 「教会」と聞けば礼拝で歌う讃美歌を思い浮かべる方も少なくないようですね。賛美とは天地万物を造られた神様を誉めたたえ、その愛や恵み に感謝することです。今日は旧約聖書の詩篇89篇から神様への賛美の深みを共に味わいたいと思います。

 まず1節と2節をお読みします。
 私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる。」と。
          旧約聖書 詩篇89篇1節、2節

 この詩篇の作者は、エズラフ人エタンという人で、知恵者であり、音楽の指導者でした。彼は、「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」と神様を賛美し、何よりも神様の真実を誉めたたえています。私たちは不誠実で不真実な者ですけれども、神様は常に真実です。

 更に作者は、「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる。」と語り、神様の恵みの確かさを歌っています。そしてその賛美はこう続いています。
  「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」
   詩篇89篇3節、4節

 神様の真実は神の御子でありダビデの子孫として生まれたイエス・キリストによって豊かに現わされ実現したのです。イエス・キリストは苦難の中を生きる神の民と共に歩まれ、神が共にいてくださるという臨在と恵みと愛を豊かにお示しなりました。ですから私たちも、どんな苦難や喜びの時も、神様を見上げ、神様に祈り、そして賛美を捧げることができるのです。神様が素晴らしい真実の方だからこそ私たちは自分の状況がどうであったとしてもこの神様を賛美し、誉め称えることができるのです。あなたもあらゆる状況の時にも、神様の真実に信頼し、祈り、賛美を神様に捧げていきませんか?

(PBA制作「世の光」2015.2.6放送でのお話しより)

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