♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■神の面子にかけて / 関根弘興

2023年12月08日 | Weblog

2023/9/5放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今週はイエス・キリストがお語りになったたとえ話から、祈りについてご一緒に考えています。

 イエス・キリストは、こんなたとえを話されました。ある日の真夜中頃です。旅の途中の友人が突然家にやってきました。しかし、家には何も出してやるものがありません。そこでこの友達は別の友達の所に行って、「パンを3つ貸してくれ」と頼むのです。するとこの家の友人は、「おいおい、こんな夜中に面倒かけないでくれ。もうみんな寝ているんだよ」と断ってしまいます。でも、しつこく求めればこの友人もパンを貸してくれるだろう、という話なんですね。そこで前回は、とにかく失望せずに祈り続けていくことが大切だ、ということをお話をしました。

 このたとえの中で、友人があくまで頼み続けるなら必要を与えてくれるだろう、とイエス・キリストは言われましたね。この「あくまで頼み続けるなら」と訳される箇所は、「恥知らず」と訳されたり、「恥をかかない」とも訳される不思議なことばなんですねえ。
 どういうことかと言いますと、「頼む側の恥知らずと思えるような行動の故に必要な物が与えられる」とも訳せるし、「頼まれた側が恥をかかないために必要な物を与える」とも訳せるわけです。

 旧約聖書の箴言3章28節に、
 「あなたに物があるとき、隣人に向かって、『帰って、また来なさい。明日あげよう』と言うな」
 と、このように書かれています。

 これは、友達に頼まれたものが手元にあるなら、その場ですぐに与えるべきだ、ということですね。ユダヤの社会に生きているなら、よく聞かされていたことばだったはずです。ですからイエス・キリストのたとえ話を聞いていた人たちは、「友達がパンを貸してくれと頼みに来たら、夜中であっても、すぐに貸してやるのがあたりまえだ」と思ったかもしれません。いくら真夜中に起こされて迷惑だったとしても、貸さなければ後で、「友達に頼まれたのに断った男」として恥をかくことになるかもしれません。ですから、自分の面子にかけて、頼まれた友人は自分が恥をかかないためにも必要なパンを貸すだろう、というような意味にも取ることもできるというわけです。

 だとすると、まして私たちの愛なる神様は、ご自分の面子にかけて、ご自分の名にかけて、私たちの祈りを放っておかれるはずがない、聞かずにはおられない方だということを知ることが出来るのです。

 失望せずに祈り続ける、それは神様がご自分の面子にかけても聞いてくださる、ということなんですねえ。


 ( PBA制作「世の光」 2023.9.5送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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