♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■罪責感という重荷

2007年01月23日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日も一日さわやかに過ごしていきたいですね。

 今月はイエス・キリストが語られた大変有名な招きのことばからお話をしています。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイの福音書11章28節

 まあ私たちの人生には様々な重荷があります。孤独感、虚しさ、罪責感、そして例外なしに襲ってくる「死」という現実です。もし死が全ての終わりであるなら人生はあまり深く考える必要はありませんね。楽しけりゃいいじゃない!で終わってしまいます。しかし永遠の世界があるなら私たちの人生設計の中にちゃんと永遠への備えをすべきなんです。

 イエス・キリストはこんな例え話をされました(ルカの福音書12章16節から参照)。ある金持ちの畑が豊作になりました。金持ちはこう言いました。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」 そして彼はこう言ったんです。「そうだ、あの倉を取りこわして、もっと大きいものを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」 しかし神様は彼にこう言われるんです。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(そうして)「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とキリストはおっしゃいました。

 目先の計画は立て、安心を手に入れたかのように見えても、永遠への備えが出来ていなければ何の役にも立たないという訳です。

 死ということについて人は話題にすることを嫌いますよね。病院に行けば四号室がありません。なるべく避けたいテーマ、それが「死」ということです。

 しかしイエス・キリストは不思議なことばを言われました。こう言ったんです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11章25節) こう語りました。イエス・キリストは死という現実を無視されたのではなく、死んでも生きる世界があるのだと告げたのです。死は辛い悲しい現実ですよね。しかし悲しみが悲しみで終わらない永遠の世界があることをイエス・キリストは告げたのです。

 そしてイエス・キリストは二千年前に来られ、あのむごたらしい十字架につけられて死にましたが、三日目に復活されたんですねえ。イエス・キリストこそ死を打ち破ることのできるお方なのです。この方によって私たちの人生の重荷を降ろすことができるんですねえ。

 ( PBA制作「世の光」2007.01.23放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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