ゆうゆうの教会便り

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キリスト教の「愛」

2015-12-26 11:03:35 | 今日の聖句
今日の聖句は「コリントの信徒への手紙 一」 13章1節~7節です。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な
信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

中略
13節
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

キリスト教の「愛」とは具体的にどのようなことなのでしょう。
愛は行為でしょうか、感情でしょうか。キリストへの私たち人間の「愛」とは?
分からない私は、少なくとも聖書を読み、神に祈り(お願いばかりの祈りですが)日曜日、教会の兄弟姉妹と
礼拝を捧げることだけはしようと考えています。
私たちの神様への愛、神の私たちへの愛、について考えながら眠った昨夜、夢を見ました。
数年前に死んでしまった、以前飼っていたワンコと私の夢でした。
私がプールに飛び込むと、ワンコは私を追って転がるように水に飛び込みました。彼女は泳げるのでしょうか?
ひょっとしたら溺れてしまうかもしれないのに・・・・・私めがけて飛び込んだのです。
彼女の一途な姿、行為を見て私は愛おしくて胸が詰まりました。
神様への愛は私のワンコのような前後、過去未来を顧みることなく飼い主をひたすら見つめて生きること
なのでしょうか。夢の中で私は納得したような、相変わらずわからなかったような・・・・・
夢の中では私は神様の立場だったようで(笑)神の愛も分かったような気分がしました。
愚かな私の愚かな夢です。


「聖書事典」の「愛」の項には・・・・・
“イエスの言葉”として
『イエスの言葉として、有名なものはまず、山上の説教の中での戒めに見られる。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
もう一つ重要なイエスの言葉として挙げることができるのが、律法学者の問いに対する答えの形でいわれている、
最も重要な掟と言われるものである。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、
「隣人を自分のように愛しなさい」)(マタイ22:37、39)』・・・・と書かれ、

“信仰としての愛”として・・・・ 
『聖書には愛について多く語られるが、その究極的なものはⅠコリント13章に見られる。単に抽象的な愛を賛美している
のではない。信仰、希望とのかかわりにおいて愛が語られているのである。それは神から出たものであり、キリストの
出来事において具体化され、ここにわれわれの所為の根源がある。終末の時の完成を待ち望みつつ、生けるキリストに
従う時にのみ愛の業が可能となるのであって、それは信仰に他ならないのである。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、
この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント 13:13)
ルカには、この戒めに続いて“善いサマリア人”のたとえ話が続いており、愛の具体的な形が示されている。』
と書かれています。

ブルッゲマン著「旧約聖書用語辞典」の「愛」の項には
『愛するとは、決定的な政治権力に基づく命令に服することである。「愛」という言葉は、厳粛で公的な契約上の
関わりを示すために用いられている。そこには、情緒や意図性を超え、教勢的な義務への向かわせる公的な具体的要求が
込められている。』と書かれています。 旧約聖書の「愛」らしい、と思いました。

キリスト教って、難しい?


紅葉を背景に、公園の<山鳩>です。

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ご一緒に礼拝を守り、神様の愛に包まれ平安のうちに過ごしませんか。
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