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ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

「ヨブ記」の解説

2014-02-26 15:17:47 | 聖書
ヨブ記は、旧約聖書中の*)知恵文学の一書で、人が何の理由もなく苦しまなければならないことがなぜあるのかを問題とする。

本書の中心的問題の背後に、不条理の苦しみの中にある者と外にある者が異なる次元に立っているという事がある。
後者による苦しみの説明が前者の現実の解決にならない、つまり、諸民族にある知恵の伝承において、善を行えば幸いを得、
悪を行えば災いを招くという因果応報の観念が常識であるが、何の悪も行っていないのに災いのどん底に落とされるという現実がある。
主人公ヨブの嘆きはその現実の中からの叫びである。

このヨブの目から見れば、因果応報というモラルの秩序ではこの世界は無意味であり、神がいるとも思われない。
ヨブ記の著者によると、そのような秩序は人間が捉えた限りの秩序であって、これを超える神の秩序がある。
これを認めなければ、現実にある不条理の苦しみは無意味に終わる。

それゆえ、いかなる災いに襲われようと、神を畏れ敬う心を貫くヨブにこそ、真の神の信仰者像がある。

このヨブは、神とその民との契約の仲介者であり、自ら何の罪もなかったにもかかわらず、約束の地を前にネポ山で死んだ主の僕モーセと、
また主の僕の歌(イザヤ書42:1-4、49:1-6、50:4-9、52:13-53:12)の僕とも重なって通じている。


↑「聖書事典」ヨブ記の項からの抜書きです。
今回は読み終わってから解説を読みました。 
な~るほど、そうなのか~と勉強になりました。


*) 知恵文学(ちえぶんがく、英語: Wisdom literature)とは、
  古代イスラエルの宗教文化を始めとして、古代オリエント世界における国際的な文学活動によりできた特定グループの文学である。
  旧約聖書の正典の中ではヨブ記、箴言、伝道者の書、詩篇の一部がそれに属する。
  正典以外は、「ベン・シラの知恵」「ソロモンの知恵」「トビト書」「第四マカベア書」などが挙げられる。



公園の水場に梅が咲いて、そこに<ルリビタキ(♂)>が止まります。
絵のような(笑)美しさです。


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毎週日曜日午前10時半から礼拝がもたれています。 教会の扉を押して、どうぞお訪ねください。
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「ヨブ記」1章

2014-02-14 17:52:57 | 聖書
「ヨブ記」1章~3節
ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。
七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、
使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。


9節~12節
サタンは答えた。
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。
彼の手の業をすべて祝福なさいます。お蔭で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。
面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。
「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」 
サタンは主のもとから出て行った。



この後、ヨブの牛はシェバ人に略奪され、牧童たちは切り殺され、
天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死に、
カルデア人がらくだの群れを襲い奪って行き、牧童たちはきりころされ、
長男の家で息子、娘が宴会を開いているところに大風が来て四方から吹き付け、家が倒され
若者は皆死んでしまいました。


20節~22節
ヨブは衣を裂き、神をそり落とし、地にひれ伏して言いました。
「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。



ドラマチックな「ヨブ記」書き出しです。
全財産を失っても神をほめたたえるヨブ、立派です。
果たして私は・・・・・と、ここを読んだだけでも深くもの思ってしまいます。



川の<ハクセキレイ>です。


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今日も東京には「大雪」の予報が出ています。
明日の朝には雨に変わって、日曜日は晴れの予報です。 今週は礼拝、大丈夫!ですね。 (^-^)
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エステル記

2014-02-12 20:58:02 | 聖書
エステル記はペルシア帝国で起こった迫害からのユダヤ人解放を祝う「プリム祭」の起源説話で、
女主人公エステルの名をその書名にしている。
エステル記は歴史的枠組みをもって記され、当時の宮廷の様子や駅伝制度など歴史的に確認されている事柄もあるが、
述べられている出来事がそのまま史実とは言い難い。
しかし、このような文学が書かれる背景には、離散のユダヤ人が直面した迫害などの困難な状況と、
そこからの奇跡的な脱出経験が核としてあることは否定できない。

本書は「神」という語は一度も用いられておらず、契約や律法や祈りへの言及も無い。
女主人公エステルは、異邦人の王と結婚し、当のプリム祭もバビロニア・ペルシアで始まった異教的起源をもつ祭りで、
モーセ五書にも何の規定も無い。
また私怨ではないとはいえ、復讐が肯定され、民族主義的傾向も強い。
にも関わらず本書が正典に入った理由は、プリム祭の圧倒的人気と、どのような危機的状況にあっても、
「ユダヤ人の解放と救済」は神の意志であることを言外に訴え続けていることによる。

物語は・・・・・・
王が開いた酒宴への召しだしを拒んで退位させられた王妃ワシュティに代って王妃の座に就いたエステルを描く。
エステルは捕囚民の子孫モルデカイの養子であった。
王に重用されていた宰相ハマンは自分に敬意を払わないモルデカイに憤り、ユダヤ人絶滅を図る。
このハマンの謀略にエステルは命がけで立ち向かう。
エステルはハマンの策略を自らが主宰する酒宴で王の前に暴露して、ハマンを失脚させ、モルデカイとハマンの運命を逆転させる。
ユダヤ人迫害は取り消され、さらに王の命令で、ユダヤ人には仇敵を征伐する許可がおりる。

ユダヤ人の復讐と勝利、プリム祭制定の次第が記され、クセルクセス王の繁栄に並んでモルデカイの栄誉の記述を持って終わっている。

以上、「聖書事典」からの抜き書きです。
いつも、事典からの抜き書きが多くて恐縮ですが、私自身の勉強のためなのです。 m(_ _)m



公園にはまだ雪が残っていました。
<カシラダカ>が四羽、地面の餌を啄んでいました。


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先週は大雪のため礼拝に行けませんでした。
上田先生から説教のファイルがメールで送られてきました。本当にうれしく感謝なことです。
週報のファイルも欲しい・・・・・と言ったら、叱られますね。 (^^;)
今週末も東京は雪になるかも知れません。 今週は絶対に礼拝に出られますように!!
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エルサレム城壁の再建

2014-02-06 18:55:36 | 聖書
ネヘミヤ記を読み始めました。

ネヘミヤが首都(バビロンの?)スサにいた時、ユダから来た兄弟の一人に
捕囚を免れて残っている人々の様子を尋ねました。
「捕囚の生き残りの人々は大きな不幸の中で恥辱を受けていて、エルサレムの城壁は
破られ城門は焼け落ちたままです。」
これを聞いたネヘミヤは幾日も嘆き、食を断ち、神に祈りを捧げました。
落ち込んだネヘミヤの様子を心配して尋ねるアルタクセルクセス王に、ネヘミヤは
エルサレムに派遣してほしいと頼みました。

王が持たせてくれた通行手形(手紙)を持って無事エルサレムについたネヘミヤは
ユダの人々に「エルサレムの城壁を立て直そう!」と呼びかけました。
皆は呼びかけに「早速建築に取り掛かろう」と応じ、この企てに奮い立ちました。

ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは「お前たちは
何をしようとしているのか」とネヘミヤたちを嘲笑いさげすみました。
ネヘミヤは「天にいます神御自ら、この工事を成功させてくださる。
あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利もない」
と反論して、城壁の再建に取り掛かりました。

3章には、大祭司エルシャブや仲間の祭司をはじめ、多くの多くの民が必死に城壁の再建、
補強に参加した様子が描かれています。

33節
サンバラトは、わたしたちが城壁を建てていると聞いて怒り、激しく憤慨した。
ユダの人々を嘲笑い、彼は仲間とサマリアの兵士を前にして言った。
「この哀れなユダの者どもに、何ができるか。修復していけにえをささげるつもりなのか。
一日でしあげようとでもいうのか。灰の山から焼け石を拾い出して、生かして使おうとでもいうのか。」
アンモン人のトビヤはそばから言った。
「できたとしても、そんな石垣など、狐が登るだけで崩れてしまうだろう。」


ネヘミヤはこの不当な中傷に怒り、神に祈り訴えました。
ネヘミヤたちは城壁の全長にわたって高さの半分まで築きました。
民には働く意欲がありました。

3章はここで終わっています。
このあと7章「城壁の完成と警備」まで、いろいろな妨害や中傷があるようです。




公園の<シジュウカラ>です。 梅の蕾が大分膨らんできました。


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聖句を書いたり、旧約聖書のあらすじを適当に書いたり、讃美歌を載せたり、説教の要約を載せてみたり・・・・・
およそまとまりのない私のブログのただ一つの目的は「美竹教会」の事を知っていただくことです。
そして、このとっ散らかったブログを読んで、教会に興味を持ち、教会の扉を叩く方が出現したら本当に嬉しいです。
まさか、伝道の妨げになっていたり・・・・・・はしてないでしょうね~ それが心配です。
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エズラ記・ネヘミヤ記

2014-02-04 21:04:47 | 聖書
「エズラ記」を読んでいます。

エズラは大祭司の家系の出身で、ペルシア宮廷ではユダヤ問題を担当していたらしい。
エルサレムでの任務は「掟と法を教えること」とされている
エズラの業績としては、異民族との結婚の禁止と解消(エズ9-10)と律法の朗読(ネヘ8)が記されている。

エズラ記・ネヘミヤ記は元来一つの書物である。
エズラ記・ネヘミヤ記はバビロン捕囚からの帰還と神殿の再建、エズラ・ネヘミヤによる共同体の形成が記されている。
アレクサンドロスによるペルシャ帝国の征服までが描かれている。

エズラ記・ネヘミヤ記は物語の構成に併せて「真のイスラエル」を限定していく。
最初の区別はバビロンからの帰還者かどうか、その中でも「自分の家族と血筋がイスラエルに属するかどうか」が重大であった。
第二の指標は異民族との結婚をしないこと。
第三の境界は物理的なものでエルサレムの城壁の再建と帰還者の居住地の決定である。 (ン? よくわかりません)
こうして「イスラエルに属する」ことの定義が狭められ、最後に律法の朗読と誓約が行われ、律法に従う者が「真のイスラエル」として設定される。
「排除の原理」によって民を「浄化」してゆく過程が描かれている。

・・・・・だそうです。  
以上「聖書事典」からの抜書きです。 相変わらず分かり難い (^^;)


「歴史」の流れはいついつに何があって、それから以後はキッパリとこうなりました、と言うものではなく、
何となく事態が変化して、いつの間にか様変わりしているものなので、その流れを思い描くのは本当に難しいです。
エズラ記も出来事が多く、いつどうなったのか中々理解できません。
自分の頭を整理するために、当時の出来事を書き出してみました。(自分用のメモです。)


前721 アッシリア帝国のサルゴン二世、サマリアを占領(北イスラエル滅亡)
前612 メディア、バビロニア連合軍によりニネベ陥落(アッシリア帝国滅亡)
前598 バビロニアのネブカドレツァル王、エルサレムを占領
     ユダの王ヨヤキンはじめ上層階級が捕らえられ、バビロンに移される 第一回捕囚
前587 バビロニア軍によってエルサレム陥落(ユダ王国滅亡) 第二回捕囚
前539 ペルシャのキュロス二世、バビロンを占領(バビロニア帝国滅亡)
前538 キュロスの勅令
     シェンシュバツァルによる第一回帰還
     神殿の再建が着手されるが、まもなく頓挫(行政官レフムと書記官シムシャイからアルタクセルクセスへの
     再建妨害の手紙)
前522 ダレイオス一世の帰還許可
     この第二回目に、ゼルバベル帰還
前520 ゼルバベルとヨシュアの指導の下、第二神殿の建築始まる。(ユーフラテス西方の長官タテナイとシェタル・ボゼナイおよび
    その仲間からダレイオス王への建築妨害の手紙)
     ハガイ、ゼカリヤが激励
前515 第二神殿完成
前445 ネヘミヤが「ユダの総督」として派遣され、エルサレムの城壁を再建
前398 エズラが「天にいます神の律法の書記官」としてエルサレムに派遣される
前333 アレクサンドロス、ペルシャのダレイオス三世を破る
前330 (ペルシャ帝国滅亡)

これで大体の時代の流れがつかめました。 
と、せっかくまとめてもすぐに忘却の彼方に消え去る自分の貧困な記憶力が嘆かわしい。 (T__T)



川の<翡翠(♂)>です。


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ユダの王ヨシヤ

2014-01-30 20:03:32 | 聖書
「歴代誌下」34章、35章にはヨシヤ王のことが記されています。

8歳で即位した彼は成年になると「宗教改革」を行い、列王記の記者からは「主の目にかなう正しいことを行い、
父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」と非常に評価されました。

修復中の神殿から「律法の書」が発見されると、それに基づいてユダの国から偶像礼拝を一掃しました。
この書は、現在の申命記の中心部分だと考えられています。
礼拝所をエルサレムに集中するべきだと書かれていることに基づいて、ヨシヤはエルサレム以外の地方の聖所を閉鎖させました。

ヨシヤはユダ王国内での改革にとどまらず、かつてのダビデ王国の支配を回復すると言う思いに駆り立てられ、
当時アッシリア帝国の一つの州となっていた北イスラエルのベテルやサマリアにまで踏み入ってそこの偶像を取り除きました。
最期は、瀕死のアッシリアを助けようとしてパレスチナを通過していたエジプト軍を迎え撃とうとして、逆にファラオ・ネコに
撃ち破られ命を落としました。


この時代の預言者エレミヤはヨシヤの死を悼んで哀歌を作りました。
「男女すべての歌い手がその哀歌によってヨシヤを語り伝えるようになり、今日に至っている。それがイスラエルの定めとなり、
歌は「哀歌」に記されている。」(歴代誌下35:25)とあります。




川の水を飲みに来た<雀>です。
幼鳥はともかく、雀って意外と強面で恐い顔をしています。 (^-^)


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ユダの王ヒゼキヤ

2014-01-28 19:40:56 | 聖書
「歴代誌下」29章から32章まではユダの王ヒゼキヤの記事です。

29章1節~2節
ヒゼキヤは二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった。
その母は名をアビヤといい、ゼカルヤの娘であった。
彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。



ヒゼキヤは治世の第1年の第1月に神殿修復を開始し、国内の偶像を破壊して宗教改革を断行した。
彼の時代は物質的に繁栄した時代だったが、政治的には困難な時代だった。

この時期、アッシリア帝国内では到る所で反乱が頻発し、バビロニアもメロダク・バルアダンのもとで独立を遂げた。
アッシリア王サルゴンの後継者センナケリブは東方の支配を固めねばならなかった。
このような状況の中で、ヒゼキヤ王はアッシリアへの朝貢を中止し、隷属関係を破棄することができたし、父王アハズが
エルサレムに導入することを強いられたアッシリアの偶像も排除することができた。
このため、彼は列王記の記者によって「イスラエルの神、主に依り頼んだ王、その後ユダの全ての王の中で彼のような王は無く、
また彼の前にもなかった」(列王記下18:5)と高く評価された。

しかしアッシリアは混乱が収まるとシリア・パレスチナの鎮圧を開始し、ユダの国にも侵入し、エルサレムを包囲した。
エルサレムは絶体絶命の危機に陥ったが、かろうじて危機を免れた。

これについては聖書に二つの伝承が保存されている。
ヒゼキヤが神殿と宮殿の倉庫の莫大な裁縫をアッシリアに収めて滅びを免れた、というものと
主の使いがアッシリア軍を滅ぼしてセンナケリブは退却したというもの。
後者は、アッシリア軍に疫病などの何らかの災害が起こったか、本国に政治的異変が起こって急遽退却せざるをえなかった、
という事が考えられる。

いずれにせよエルサレムが滅びを免れたことは事実で、エルサレムは不滅であるという迷信的信仰が広がったようである。

これ以後ユダは、再びアッシリアの属国となり、ヒゼキヤの後継者マナセとアモンは、ヒゼキヤが排除したアッシリアの偶像を
再びエルサレムに導入しなければならなかった。
  
↑ 解説は、樋口進著「よくわかる旧約聖書の歴史」よりの抜書です。



公園の<エナガ>です。 
そろそろ番になって巣を作り始めますが、今の時期は群れで行動しています。


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ユダの王ヨタム

2014-01-23 14:38:57 | 聖書
「歴代誌下」27章1節~6節 ユダの王ヨタム

ヨタムは二十五歳で王となり、十六年間ンエルサレムで王位にあった。
その母は名をエルシャといい、ツァドクの娘であった。
彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。
ただ主の神殿に入ることだけはしなかった。 民は依然として堕落していた。
彼は主の神殿の上の門を立て、オフェルの城壁に多くの工事を施し、ユダの山地に町を築き、森の中に城塞や塔を築いた。
かれはアンモン人の王と戦ってこれを征服した。
その年アンモン人は銀百キカル、小麦一万コル、大麦一万コルを献上してきた。
アンモン人は二年目も三男目もそうした。
ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。



10章でイスラエル王家が北イスラエルと南ユダに分裂したことが書かれていましたが、
その後、11章以降、レハブアムからずっとユダの王に関する記述が続きます。
主の目にかなう正しい行いをした王や、主の目に悪とみなされる行為しかしない王など様々な王がいます。
↑のヨタム王は主の目にかなう正しいことを行ったようです。

南ユダは、国土も勢力も北イスラエルよりは小さかったのですが、ダビデ王朝と主とエルサレムを受け継ぎ、
比較的安定した歴史を歩んだそうです。
それは、北イスラエルは、さらにその北のシリアと国境を接していたことでシリア(アラム人)との闘いが絶えず、
またメソポタミアの大国の侵略も受けやすかったが、ユダは南の側からはそれほど敵の攻撃が少なかったことにもより、
そのため北イスラエルが滅ぼされてなお135年生き延びたそうです。



公園の水場に居ついた<ルリビタキ(♂)>
暫く会いに行ってませんが、元気でしょうか。


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ユダの王アサ

2014-01-16 21:36:38 | 聖書
「歴代誌下」
ソロモン→レハブアム→アビヤの次にユダの王となったのは、アビヤの子アサでした。

14章1節~5節
アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った。
彼は異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を壊し、アシェラ像を砕き、ユダの人々に先祖の神、主を求め、
律法と戒めを実行するように命じた。
アサはまたユダのすべての町から聖なる高台と香炉台を取り除いた。
こうして彼の統治の下で国は平穏であった。
主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争が無かった。
そこで彼は、ユダに砦の町を次々と築いた。


15章13節~19節
子供も大人も、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はだれでも死刑に処せられるという契約を結んだ。
彼らは大声で叫び、ラッパと角笛を吹いて主に誓った。
ユダの皆がこの誓いを喜び祝った。皆が心の底から誓い、喜んで主を求めたからである。
主は彼らにご自分をお示しになり、主は、周囲の者たちから彼らを守って、安らぎを与えられる。

更にアサ王は母マアカがアシェラの憎むべき像を造ったので、彼女を太后の位から退けた。
アサはその憎むべき像を切り倒して砕き、キドロンの谷で焼き捨てた。
聖なる高台はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった。
彼は父の聖別した物と自分の聖別した物、金、銀、祭具類を神殿に納めた。
アサの治世第三十五年まで戦争はなかった。



こういう立派なアサ王でしたが、治世第三十六年目にイスラエルの王パシャがユダに攻めのぼって来た時、
ダマスコにいたアラムの王ベン・ハダトに金銀を送り、イスラエルとの同盟を取り消すように、イスラエルを
ユダから追い払うように頼んでしまいます。
先見者ハナニが来て、アサがアラム王と頼みとし、神、主を頼みとしなかったことを、愚かであったと責めます。

アサはハナニの言葉に怒り、彼を獄に投じ、民の中のある者たち(ハナニの同調者?)を虐待しました。
アサはその治世第三十九年に極めて重い足の病にかかりましたが、病の中にあっても、彼は主を求めず、
医者に頼った、とあります。

治世三十五年まで信仰深かったアサになにが起きたのでしょう。
「歴代誌」のこの箇所を読んでもそれは分かりませんが、
人間が信仰の生涯を全うするのは難しいことなのかも知れません。

(そして、またまた疑問です。 アサはアビヤの子で、アビヤの母はマアカだったと思うのですが、
 アサの母親もマアカという名前だったのでしょうか?)



ピラカンサの赤い実に<オナガ>の群れがきました。


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私事ですが、連れ合いが今日入院しました、明日手術を受けます。
五十代後半の発病から、入院手術はもう何度目でしょう、七度目かな?
闘病生活は加齢も加わって、健康な私には想像できない痛みや苦しみ、不安があることでしょう。
手術のことは医師にお任せするとして、私にできることとして、連れい合いの心の平安を
いつも神様にお祈りしています。

ブログは休みがちになるやもしれません。 m(_ _)m
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アビヤのお母さんは誰?

2014-01-14 19:13:17 | 聖書
ソロモン王が亡くなると、その子レハブアムが代わって王となりました。

レハブアムはエジプトから戻ったネバトの子ヤロブアムに父ソロモン以上の重い軛(くびき)を負わせ、
そのことが民の反発を買いました。
結局、民の願いを聞き入れなかったレハブアムは民に受け入られず、たった一つの部族、ユダの町に住む
イスラエル人に対してのみ王であり続けました。

そして、ネバトの子ヤロブアムがソロモン王国の残りの十の部族を主から与えられました。
このことは「列王記上」11章26節~36節に記述されています。
シロの預言者アヒヤが道でヤロブアムに出会い「十の部族をあなたに与える」という主の御言葉を
告げたのです。

そして、主は僕(しもべ)ダビデのゆえに、また主の選んだ都エルサレムのゆえに一部族を
ソロモン(の子、レハブアム)のものとされ、ダビデのともし火が絶えず燃え続けるようにされました。
ダビデ、ソロモンと続いたイスラエル統一王国は分裂しました。


レハブアムの死んだあと、ユダの地で王となったのはアビヤでした。
13章にはアビヤの母の名はミカヤで、ギブア出身のウリエルの娘と書かれています。
ところが、11章20節からには 
そののち、レハブアムはアブサロムの娘マアカを妻として迎え、彼女はアビヤ、アタイ、ジザ、シェロミトを産んだ。
レハブアムは十八人の妻と、六十人の側女を持っていたが、その妻と側女の中でアブサロムの娘マアカをことのほか愛した。
二十八人の息子と六十人の娘をもうけたが、レハブアムはマアカの子アビヤを頭として立て、
兄弟たちの指導者として王位を継がせようとした。 
・・・・とあります。

さて、アビヤのお母さんはマアカか、ミカヤか? 
・・・・・と、ここまで書いて思い当りましたが、マアカ=ミカヤ ではないでしょうかね、音が似ています。 

細かいことなのでどうでもよいのですが、妙な所に引っかかるゆうゆうです。 (^^;)


11章13節から、面白い記述がありました。

イスラエル中の祭司とレビ人は、そのすべての領土からレハブアムのもとに集まって来た。
レビ人が自分の牧草地を所有物を捨ててユダとエルサレムに来たのは、ヤロブアムとその子らが彼らを遠ざけ、
主の祭司であることをやめさせたからである。
ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた。
またレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族の中から、イスラエルの神、主を求めようと心を
定めた者たちが、エルサレムに出て来て、先祖の神、主にいけにえをささげた。
かれれは三年間ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを支援した。


ユダとエルサレムはしっかり、先祖の神、主にささげられた王国となったようです。
そして、北イスラエルの王となったヤロブアムはこの先「主の道を歩まなかった王」として事あるごとに登場します。



すっかり葉の落ちたユリノキに<オオタカ>が止まっていました。
後からそ~っと一枚撮らせてもらいました。

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