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ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

アモス

2014-07-26 08:36:24 | 聖書
「アモス書」を読み終わりました。
↓ 下は例によって「聖書事典」の解説から抜書きです。 
抜書きが多くて恐縮ですが、私はこうして書き出すと聖書がよりよく理解できるので・・・・ m(_ _)m
この項の解説は木田献一氏です。

アモス
ユダのテコア出身の預言者。 
北イスラエルの王ヤロブアム(前787-747)とユダの王ウジヤ(前783-739)の在位時代、ユダに大地震が起こる2年前、
おそらく前752年ころ、北イスラエルの聖所ベテルと首都サマリアにおいて、繁栄に慣れて横暴な支配を行っていた
支配階級に対して、厳しい批判の言葉を語りかけ、北イスラエル王国の滅亡を預言した。
このことによって、彼はベテルの祭司アマツヤによってユダに追放された(アモス12-13)

アモスという名は、この預言者以外に旧約の中では見られない。
名の意味は「担う」あるいは「担わせる」という動詞の分詞形で、「担う者」あるいは「担わせる者」の意味である。
人間は、それぞれ神の課せられた責任を担うべきであると言う意味に解すれば、この預言者にとって
ふさわしい名であると言ってよい。
自分の名を巻頭に記された預言者の書を遺した最初の預言者である。

アモスは預言の書を遺した最初の預言者であるが、その文体・内容ともに古典的は拡張を持つ最もすぐれたものである。
古代イスラエル預言の真骨頂を示すものと言ってよいであろう・・・・・・・


ユダのテコヤから神に召されて北イスラエルの聖所や首都に出かけて預言をしたアモス。
しかも、当時繁栄の絶頂にあった(繁栄を享受していたのは支配階級だけでしたが)イスラエルの滅亡を
預言したのですから勇気のあることです。
神からの召命は個人の思惑や逡巡を赦さない強烈なものなのですね。



友人たちとブルーベリー摘みにゆきました。
ブルーベリーの実が色づく様はとても綺麗です。
病気の連れ合いに留守を頼んで山梨の友人の家に遊びにゆきました。
一面の緑、八ヶ岳、甲斐駒を望む絶景の中で命の洗濯をしてきました。
こうして出かけられることに感謝です。(神様に感謝、そして連れ合い感謝。)


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
明日は午前10時半から主日礼拝、礼拝前の10時から10時20分まで「聖書の学びの会」の5回目です。
聖書について、明日はどんなお話が聴けるのでしょう、楽しみです。
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ダニエル書の解説

2014-07-12 22:05:54 | 聖書
最初に美竹教会からのお知らせを・・・・
明日は「伝道礼拝と茶話会」の日です。
初めての方もどうぞ、東京渋谷区の美竹教会にお出かけください。



今日の写真は公園の<合歓の花>です。


私の数少ない聖書関係の参考図書に、木田健一さんの「旧約聖書の概説」があります。
ダニエル書を読み終えて、この本の「ダニエル書」の解説で、下のような文章を読みました。
こういう解説は状況が目の前に現れるようで、本当に聖書の理解を助けてくれます。
神との契約である律法に従って生きる、そのことを固く守っているユダヤ人は
やはり他の民族とは違うということも実感できました。
(ブログに載せるために)自分で書いてみるとさらに理解が深まりますね。


『第一章の物語は、ネブカドネツァルによってバビロンの捕囚とされたダニエルをはじめ
四人のユダヤ人青年が、宮廷で仕えるたまの教育を受けていたが、彼らは王の食物で身
を汚さないようにに、侍従長に求めて、菜食で食事の律法を守り抜こうとしたことを述
べている。 彼らは菜食をしても、他のどの若者よりも健康で、優れた知識と能力を示
したので、王によって重く用いられたという。 こうしたことは、すでにバビロン捕囚
時代でも、最後の王ナポニドス(紀元前556-539年)の治世などには十分可能であったが、
ペルシア時代やプトレマイオス王朝の時代になれば決してまれなことではなかったろう。
ネヘミヤはペルシアの都スサで重用されていたし、既に述べたように、プトレマオス二世
の時代には、アレクサンドリアで、王の命令によってモーセ五書が翻訳されたという伝説
が「アリステアスの手紙」に記されている。 ユダヤ人は常に弾圧され、迫害されていた
わけではない。 彼らは律法を守るゆえに、他の民族と自らを区別していたので、迫害を
受ける可能性は常にあった。 しかし、それだけに努力して、知的能力を磨き勤勉な生活
を行っていた。 したがって、その働きが認められることも少なくはなかったのである。
ユダヤ人の儀礼的遮断は選民としての自覚を保ち、環境世界に埋没してしまわないために
たいせつな歯止めの役割を果たしていた。 敬虔なユダヤ人は常に伝統的慣習と律法を
守り抜くことを務めていた。第一章は四人のユダヤの青年の態度を模範として描いている。』


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「ダニエル書」

2014-07-05 13:59:15 | 聖書
『ダニエル書』は、旧約聖書の中の一書。
キリスト教では「預言書」のひとつとして『エゼキエル書』の後におかれているが、ユダヤ教の分類では
(「黙示文学」として)「諸書」に入る。
本書はマカベア書の時代に書かれたものであり、旧約聖書中もっとも新しい時代にかかれたものであるという学説もある。
福音派の中には、その説を退ける教派もある。
題名はこの書の主人公であるダニエルに由来する。 彼は捕囚の民の一人としてバビロニアに連行されてくるが、
その賢明さによってネブカドネツァル2世に重用されたとされる人物である。
2章4節~7章28節は、アラム語で書かれており、それ以外の箇所はヘブライ語で書かれている。

1~6章はネブカドネザルの宮廷で教育を受けたダニエルとその3人の友人、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴという
知恵に富み律法に忠実な若者の物語。
ダニエルによる王の夢の解き明かし(2~4)、ベルシャザル王の宴会の際壁に現れた文字の解き明かし(5)、
偶像礼拝を拒否し、炉に投げ入れられた3人の友人(3)と、王礼拝を拒否して獅子の穴に投げ入れられた
ダニエルの試練と奇跡的救出(6)が記される。       (以上、ネットからの引用です。)

セレウコス朝シリアのアンティオコスⅣ世エピファネスは、前175年に即位し、ユダに対してヘレニズム化政策を推し進め、
前167年待つからは大規模な宗教迫害を開始し、神殿を冒涜する。
それに対してマタティアの一族(マカバイ族)が武装抵抗運動を開始し、ここにマカバイ戦争が始まる。
マカバイ派は前164年待つにエルサレムを奪還し、神殿浄化をする。
ほぼ同時期にアンティオコスⅣ世も当方で死に、迫害は事実上終結した。

ダニエル書はこの迫害の末期に苦難の中にある人々を励ます目的で書かれたと思われる。

著者はマカバイ派とは一定の距離を置く敬虔派グループに属し、武装抵抗路線に対してはあまり評価しない。
それによれば、過去にユダを支配した強大な諸帝国は、いずれも時が来れば「人手によらず」打ち砕かれた(ダニ2:31-35)。
そのように、現在猛威を振るっている暴君も同じ運命を辿ることであろう(ダニ8:23-25)。
既に天上の法廷では、審判の決定が下されている(ダニ7:9-10)。
歴史を支配しているのは神であり、この苦難は真の神の民となるための試練である(ダニ11:35)。 
このように著者は、神支配の思想によって、受動的待望の態度こそ苦難の民にとって必要であると訴える。
(以上「聖書事典」より)


旧約聖書はダニエル書を読み始めました。
「聖書事典」やネット検索で、解説を読んで、一応頭に置いて聖書を読みます。
読み終わってみると解説が忘却の彼方に消えていることが多くて悲しい!です。 (^^;)



バラ園で<トラフシジミ夏型(♂)>を見ました。
4年ぶりの対面で、嬉しいことでした。


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「哀歌」

2014-06-07 20:28:54 | 聖書
「哀歌」を読み終わりました。
昔、私が持っていた聖書では「エレミヤ哀歌」となっていたような気がします。
聖書事典によると、これは著者が預言者エレミヤであると考えられていたからだそうです。
エレミヤ著者説は長く支持者が存在したのですが、今日では否定されているそうです。
当たり前と言えば当たり前ですが、聖書も研究されるほどに、新解釈が生まれますね。
それでも、聖書が正典(聖典)、私が依り頼む信仰の書物です。

ヘブライ語で語られる(歌われる?)哀歌はココをクリックすると聴かれます。

ココをクリックするとトーマス・タリスという人が作曲した素晴らしい、私にとっては
魂を奪われるような旋律の哀歌(The Lementation)が聴かれます。 

今夜から旧約は「エゼキエル書」を読み始めます。 
旧約は(言葉は適切でないかもしれませんが)とても面白いです。



公園に新しい<カルガモファミリー>がいました。
今度の雛は四羽です。


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明日の礼拝は午前10時半からです、教会の扉を開けてお訪ねください。
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牧師も人間

2014-05-08 09:38:26 | 聖書
今日から「ヘブライ人への手紙」を読みます。
何か参考になるサイトは? と、いつものようにネットで検索してみると
荒川教会の国府田牧師による「ヘブライ人への手紙」の連続説教に出会いました。
第一回の説教で、国府田牧師はご自分の迷いについて語られています。
罪びとであることを実感し、主の十字架に依り頼まなくてはいられない心情を語っておられます。
様々な問題に悩んでいる私は主に依り頼むことによってのみ、生きている意味をようやく見つけて
いるような日々ですが、牧師もまた信仰に苦しみ悩む人間である、ということを改めて知りました。
人間の牧師に導かれ、神様を中心とした教会に連なっていてよかったとも思いました。
そして、よい参考書に巡り合いました。
「ヘブライ人の手紙」読み進んで分からないことがあったらこのサイトを参照いたしましょう。

******************************************************************************

今日から『ヘブライ人への手紙』をご一緒に学びながら、神様の御声を共に聞いて参りたいと思います。
なぜ『ヘブライ人への手紙』を、みなさんとご一緒に読みたいと思ったのか。
年末年始の12月30日の礼拝と1月6日の礼拝で、私は最近の心境について皆さんにお話しをしました。
一言で言えば、私は今、自分の罪深さを恐れるほどに気づかされているのです。
キリスト教の教理として、おきまり文句の「人間は罪人である」ということを申してあげているのではありません。
自分自身の罪というものをはっきりと見て、自覚して、恐れおののいているのです。

そういう中にあって、当然のこととして、自分の資格の問題を問うてきました。
はたして、私にはこのまま牧師を続けていく資格があるのだろうか。
偉そうに皆さんの前で御言葉の説教を続けていく資格があるのだろうか。
しかし、神様が教えてくださったことは、そもそも自分に資格があるなどと思ってきたことが、あなたの傲慢では
なかったのかということなのです。 はじめから資格など誇れない人間が、ただただ神様が愛と憐れみによって、
イエス様の十字架による罪の贖いと、復活による再生の恵みが与えられて、今日あるのではないかということに、
今更ながら深く気づかされているのです。

そのことを知らなかったわけではありません。今までの信仰生活の中で、わたしは何度もそこに引き戻されてきました。
しかし、逆に言えば何度もそこを離れてきたのでありました。
このような私が今、皆さんの前で語り得ることは、イエス・キリストの十字架しかありません。
十字架の愛、十字架の福音、十字架の救い・・・これこそが今の私の希望であり、慰めであり、今皆さんの前に立ちうる根拠なのです。

『ヘブライ人への手紙』は、いつ頃、誰が、どこに宛てて書いた手紙なのかということについてははっきりしません。
「ヘブライ人」というのはユダヤ人ということでありまして、それ以上でも、それ以下でもないのです。
そもそもこれが手紙なのかどうかも学者たちの意見の分かれるところです。
その上、旧約聖書の神殿の話、祭司制度の話、礼拝儀式の話などがたくさん出てきまして、ユダヤ人でもなく、
また時代も違う私たちにはたいへん読みにくい、とっつきにくい書物でもあります。

けれども、この『ヘブライ人への手紙』が言いたいことは、非常にはっきりしているのです。
それは、十字架にかけられて死なれたイエス・キリストこそ、神様と私たちを結ぶ唯一の架け橋であるということです。
イエス様によって、その十字架の救いによって、私たちは罪深い者でありながら、再び神様との親しき交わり、
結合のうちに生きる者されるのです。
そのことを、これからご一緒に読んで参りたいと願うのです。     日本キリスト教団 荒川教会 牧師国府田祐人

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原っぱにはわんさか<ベニシジミ>が生まれています。

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「雅歌」

2014-03-21 22:47:20 | 聖書
「雅歌」を読み始めます。

↓ 「聖書事典」の「雅歌」の項の抜書きです。

雅歌は、エステル記などと並んで、最後まで正典性が問題とされた書物である。
情熱的な恋愛の言葉があふれている、まぎれもない恋愛抒情詩の雅歌がどうして正典にいれられたのか。
ユダヤ教もキリスト教もこれまで隠喩的解釈を施して、その存在を擁護してきた。
雅歌に描かれる一見人間的な愛は神とイスラエル、あるいはキリストと教会の間の存在する愛を表すのだ
としてきたが、今日では、雅歌を恋愛抒情詩として認め、それが旧約聖書に含まれていることの意義を
求めるべきだと考えられるようになってきた。

雅歌の構成にははっきりした筋書きは無いものの、おとめと若者が相手を求め合う様が言葉を尽くして歌われている。
かつては、バビロニアの植物神の死と再生の神話や、王と高級女祭司の結婚の儀式などが背景にあるとした筋書きを
見つけようとする傾向があったが、本文を前提なしに読んでも理解するうえで大きな無理は生じない。

雅歌は前4世紀後半から前3世紀初めにかけてパレスチナで成立したものと考えられる。

雅歌を読む意義は大きく二つあると考えられる。
一つは身体やエロスへの関心である。
キリスト教においては身体よりも精神、エロスよりもアガペーが重視されてきた。
生きることはエロスや欲求を持つ身体があって可能になる。
雅歌は人間として当たり前のこの事実に読者を向かわせ、身体やエロスという観点から人間を見直すよう迫る。

もう一つは個人の素朴な哀しみや喜びに注目することである。
旧約物語は宗教や倫理、民族は政治という「大きな」物語である。
これはともすると個人の喜びや悲しみをおしのけて「次元の高いもの」を優先させる。
「小さな」ことに関心をむける雅歌を読むことによって読者は「大きな」ことや「次元の高い」ことの
うさん臭さを感じ、旧約聖書全体を見つめ直すように促される。

これまでの宗教的な概念に疑問を抱かせ、再考させることこそ、雅歌が今日、旧約全体に対して、
また宗教に対して持っている意義だということができる。


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↓「日々の聖句―<ローズンゲン>による日の聖務日課―」3月21日の「祈り」です、共感する思いがありました。
主よ、飢えた人々に食べさせるために、み弟子たちの手をお用いになりました。
今も、あなたは、人々が満ち足り助けられ癒されるために働くものの手を必要としておられます。
わたしたちの貪欲な思いが他の人々を貧しくさせたり孤独のうちに見捨てることのないように、
主よ、わたしたちをご用のためにお用い下さい。   (アイルランドの婦人たちの祈り)



今日の野鳥は寄生木に集まった<ヒレンジャク>です。
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「エフェソ信徒への手紙」

2014-03-18 20:51:59 | 聖書
新約聖書は「エフェソの信徒への手紙」を読み始めました。
例によって最初は「聖書事典」を読んでお勉強です。


本書はパウロ自身が著わしたものではなく、パウロの死後、パウロの名を借りて書かれた手紙であることから
「パウロの名による手紙」あるいは「第2パウロ書簡」として位置づけられる。

冒頭と結びの挨拶を別にすると大きく1:3-3:21の前半部と4:1-6:20の後半部の二つに区分される。
前半部は、神への賛辞、感謝、執り成しの祈り、賛歌、頌栄など教会での典礼的特徴が際だっている。
後半部はカテキズム伝承、徳・悪徳目録、家庭訓などを使用した倫理的勧告的特徴が顕著である。
本書は総じて典礼的説教を想起させる。おそらく礼拝の中で朗読されることを意図した手紙であろう。

特に19世紀以来、パウロの手紙としての真正性が問題視されてきたが、現代においても多くの研究者が
真正性を否定する立場をとる。
それには三つの理由がある、第一は単語の組み合わせによる特異な表現や、関係詞、接続詞などを用いた
きわめて冗長な文章、第二は同義語や意味が関連する語の連鎖、第三は名詞を属格(~の)でつなぎ合わせた表現である。
これらの特徴の累積から、著者がパウロ以外の人物であることが示唆される。

執筆の場所は「コロサイの信徒への手紙」への文書的依存、パウロの同労者ティキコの名が異邦人読者に何らかの意義を
持ったことを考慮すると小アジア、特に西部であったと思われる。

執筆年代は「コロサイの信徒への手紙」はもちろんのこと、パウロ書簡を知っていたこと、使徒集団(使徒と預言者が教会の土台)
の特別な権威の重視が前提されていること、しかしイグナティオスが本書に依存していることなどを考慮すると、
後90年代のおそらく初頭であろう。

最大の思想的特色は教会論にある。
教会は、例外なく一つの聖なる宇宙的意義をもつ全体教会を意味している。
ユダヤ人も異邦人もないとのパウロの福音は、イスラエルと異邦人という図式を超えたまったく新しい一つのキリストの体としての
全体教会論に組み込まれている。
異邦人信徒の教会論的自己同一性を強化することが意図されたのであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・だそうです、分からない所もありますが勉強になりました。
ただ聖書を読み下すのではなく、解説や注解なども読む必要がありますね



対岸の竹林にいる<トラフズク>を川のこちら側から撮りました。
遠すぎて私のカメラでは上手く撮れませんでした。 
拡大写真は大トリミングしたものです。 (^^;)
耳のように見える羽は飾り羽で聴覚には全く関係ありません。


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「コヘレトの言葉」

2014-03-14 15:30:29 | 聖書
昨夜「箴言」を読み終わりました。
今夜から「コヘレトの言葉」を読み始めます。 まずは「聖書事典」で解説を・・・・・・

「コヘレトの言葉」
コヘレトの言葉は12章からなっていて、新共同訳の聖書では例外的にまったく小見出しをつけていない。
冒頭の「なんという空しさ、すべては空しい」という有名な言葉にはじまり、きわめて特色ある思想を展開しているが、
容易に論理的一貫性を見極めることはできない。

万物の無常を認め実体性を拒否する思想は旧約聖書では他には見られたい。
構成としては、全体として脈絡を書いた金言を集めた印象があるが、内容は固有性の強い、考え抜かれた
知恵の言葉を集めたものである。

コヘレトの言葉の思想は一切は空しいことに根底を置いているのが特色だが、これは現実を透徹した認識であって、
単に「なんという空しさ」という詠嘆を意味するものではない。
一切のことはめぐりめぐって循環しており、一定の確固たる目的があるものとは思えない。「かつてあったことは、
これからもある」「太陽の下、新しいものは何ひとつない」と断定している。

コヘレトは神を畏れ敬うことを否定しているのではなく、むしろ、結局神を畏れ敬うことのみが根本的に重要であることを
確認しているのである。
神は全世界を創造され、その美しさを否定するのではないが、創造世界の矛盾や悪と思われるものも限りなくある。
それらすべてのことを含めて、人智で量り難い神の知恵と慈しみを忘れてはならない。
人間はどこまでも謙虚で、神を畏れることが大切であると言っている。

天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのことについての責任、これらは聖書の根本的な教えであるが、
これらすべてを固定的に考えてはならない。
人生には悲惨も多いが、また神が与えられる幸福と快楽も感謝すべき賜物である。
これらの思想はヘレニズム時代に到達された認識である。


コヘレトはヘブライ語の「招集する者」を意味するが、職務を表すと考えられる。
コヘレトは「エルサレムの王、ダビデの子」(コヘ1:1)と記されているのでソロモンを指すことになる。
ソロモンは偉大な賢者であり、箴言も巣櫓門の著作とされている。
しかし箴言の現実的な教訓とコヘレトの言葉の「空」のおしえとは性格が異なる。
多くの学者は、コヘレトとヘレニズム時代になって無常観や、さらには仏教的思想などの影響も受けた
前2世紀後半の知者であると推定している。

                           (↑ 以上「聖書事典」より抜書き、解説は木田献一氏による)



春浅い公園の小川で<クイナ>がザリガニを捕っていました。


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讃美の言葉

2014-03-08 15:35:15 | 聖書
聖書を読む

「レントカレンダー」第4日(土)の聖書は「イザヤ書」58章9節~11節 と 「詩編」86篇です。

詩編86篇5節~10節
主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。
あなだを呼ぶ者に 豊かな慈しみをお与えになります。
主よ、わたしの祈りをお聞きください。
嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。
苦難の襲うときわたしが呼びもとめれば
あなたは必ず答えてくださるでしょう。
主よ、あなたのような神は神々のうちになく
あなたの御業に並ぶものはありません。
詩よ、あなたがお造りになった国々はすべて
御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。
あなたは偉大な神 驚くべき御業を成し遂げられる方
ただあなたひとり、神。



一応毎日、旧約聖書と新約聖書、最近はそれに加えて「レントカレンダー」の当日分と
「日々の聖句―ローズンゲン」の当日分、を読むようにしています。
そして祈りの前に「詩編」を一篇読みます。

私の祈りは「神様ああしてください、これをお守りください」と言った願い事が多くて
感謝の言葉が少ないのですが、さらに神への賛美の言葉となると祈りの最初の「聖名を讃美します」
だけと言えるくらい少ないのです。
これではイケナイ、と「詩編」を読んで神様を讃美する言葉を学ぼうと思っているわけです。

今日の「レントカレンダー」の「詩編86篇」はダビデの詩ですが、神様への讃美の言葉が
美しく詠われています。
このように神様への讃美の言葉が祈れたら素晴らしい、と思います。



白梅の蜜を吸いにきた<メジロ>です。


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重荷を負って苦しんでいる方、生きる目的を持たないで悩んでいる方、
どうぞ一度、教会の扉を押して訪ねてみてください。
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「箴言」

2014-03-01 14:55:26 | 聖書
昨夜から「箴言」を読み始めました。


旧約のヨブ記、コヘレトの言葉、続編のシラ書、知恵の書等とともに知恵文学に属する。
書名の「箴言」は漢訳からきたもので、「箴」の意味は裁縫や医療に用いられる「はり」である。
箴言は「警句」と同じような意味であり、「戒めとなることば、教訓を含み短い句」の意味が含まれる。
本書は一人の作家によって書き記されたものではない。
民衆が古くから部族の生活の中で言い伝えてきた知恵の言葉、王国時代にエジプト等の周辺諸国の教訓文学の影響下に
教育の場で成立した格言や教訓詩などが複雑な編集の過程を経て現在の姿になったものである。  
                           
↑ ・・・・・・以上は「聖書事典」より抜き書きです。


『箴言』(しんげん, mišlēy, Liber Proverbiorum)は、ユダヤ教では「諸書」の1つであり、キリスト教では
知恵文学の1つとして『詩篇』の後に置かれる。
題名はヴルガータ訳におけるタイトル『Liber Proverbiorum』に由来する。
内容は教訓の集合で、様々な徳や不徳とその結果、日常における知恵や忠告等である。
『箴言』中の格言の多くはソロモン王によって作られたとされてきたが、現実は無名の教育者によって書かれたものである。

その内容は    • 序文(1:1-1:7)
         • ソロモンの格言1(1:8-9:18)
         • ソロモンの格言2(10:1-22:16) - 対句表現が多用されている。
         • 賢人の教訓1(22:17-24:22)
         • 賢人の教訓2(24:23-24:34)
         • ソロモンの格言3(25:1-29:27)
         • アグルの言葉(30:1-30:33)
         • レムエルの言葉(31:1-31:31)   

↑ ・・・・・・以上はWikipedia より抜き書きです。


ネットで面白いサイトを見つけました。
箴言の聖句が一節ずつ英訳されて並んでいます。
英語の聖書、読んでみるとそれほど難しくないようです。
興味のある方はココをクリックして英語の「箴言」をお読みください。

ご参考までに、英語聖書の箴言 1章1節~10節 を載せてみますね。

1:1ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
1:1 The proverbs of Solomon, the son of David, king of Israel:

1:2これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉をさとらせ、
1:2 to know wisdom and instruction; to discern the words of understanding;

1:3賢い行いと、正義と公正と公平の教訓をうけさせ、
1:3 to receive instruction in wise dealing, in righteousness, justice, and equity;

1:4思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
1:4 to give prudence to the simple, knowledge and discretion to the young man:

1:5賢い者はこれを聞いて学に進み、さとい者は指導を得る。
1:5 that the wise man may hear, and increase in learning; that the man of understanding may attain to sound counsel:

1:6人はこれによって箴言と、たとえと、賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
1:6 to understand a proverb, and parables, the words and riddles of the wise.

1:7主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
1:7 The fear of Yahweh is the beginning of knowledge; but the foolish despise wisdom and instruction.
("Yahweh" is God's proper Name, sometimes rendered "LORD" (all caps) in other translations.)

1:8わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。
1:8 My son, listen to your father's instruction, and don't forsake your mother's teaching:

1:9それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。
1:9 for they will be a garland to grace your head, and chains around your neck.

1:10わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
1:10 My son, if sinners entice you, don't consent.



  名前は分かりませんが、ほんのりと優しい梅が咲いていました。


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明日は月の第一主日礼拝で、聖餐式がもたれます。
どなたでも、東京は渋谷の美竹教会の扉を押してどうぞお入りください。
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