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2020.5 高麗・秩父を歩く2 高麗王若光の菩提寺・聖天院は行基、弘法大師空海とも縁がある

2020年07月26日 | 旅行

日本の旅・埼玉を歩く>  2020.5 高麗・秩父を歩く2  高麗王若光の菩提寺・聖天院

 高麗神社駐車場脇に聖天院近道の道しるべが立っている。この時点では聖天院について知らなかったが、来る途中の道沿いに標示があり、ナビにも聖天院の名が出ているのでよく知られた寺のようだ。急ぐ旅ではないので足を延ばした。
 高麗神社・水天宮の建つ丘陵が西に伸びていて、その南裾に民家が建ち並び、民家のあいだを縫う細道を4~5分歩くと、丘陵の中腹に建つ本堂らしき建物が見えてくる。

 こんもりとした斜面が境内のようだ。聖天院と書かれた広い駐車場もある。高麗神社に向かう通称カワセミ街道から境内に向かって北西-南東軸の参道が伸びていて、境内入り口あたりに天下大将軍・地下女将軍の将軍標チャンスンが立てられていた。朝鮮由来、高麗神社との縁を予感させる。
 チャンスンあたりから見ると、池に架かった橋の先に歴史を感じさせる楼門が石段の上に建ち、その奥の中腹に森を背にした本堂が建つ。

 楼門は間口3間、唐破風を付けた入母屋瓦葺きで、軒下の扁額には「高麗山」と記されている(写真)。1830年ごろに建てられたそうだ。
 1層目には雷門と墨書きされた赤提灯が下げられていて、案内図などにも雷門と記されている。左右の木像が筋肉隆々たる姿で拝観者をにらみつけている。よく見ると、右の木像は袋を持った風神、左は太鼓を持った雷神だった。風神、雷神を祀ることから雷門と呼ばれているようだ。

 天井画は、天空を駆け巡る龍、天空を飛び回る鳳凰(写真)で、色はややあせているが細やかな表現で、生き生きとしている。風神、雷神、龍、鳳凰ともに江戸時代の作だそうだ。

 一礼し雷門を抜ける。砂利敷きの広場の正面の石段の上に門が構えている。石段には「ここより有料」の札が下げられている。受付は、石段横の境内案内図に「階段上中門」と書かれている。説明がなくても想像はつくが、石段の札に「受付 階段上中門」と書けばことは済むと思うが。そういう雑念が未熟の表れかも知れない。

 石段を上がり、呼吸を整える。中門受付には、新型コロナウイルス感染予防のため無人、拝観料は皿にお願いします、といった意味合いが書かれていて、皿には先客の拝観料がむき出しで置かれていた。賽銭ドロが横行しているから不用心な気もするが、参拝者を信じる、といったおおらかな気分が寺の方針なのであろう。拝観料を皿に入れ、隣に置かれたパンフレットをもらう。
 
 聖天院はショウデンインと読み、正式名称は高麗山聖天院楽勝寺で、高麗王若光の菩提寺として、751年、楽勝上人によって創建された。若光の守護仏聖天尊を本尊とし、当初は法相宗だったが、1345年、秀海上人によって真言宗智山派に改宗された。
 1584年には、圓満上人によって弘法大師作の仏像を胎内仏とする不動明王が、聖天尊とともに本尊とされた。
 高麗王若光の霊を祀るのが高麗神社、菩提を弔うのが聖天院である。神様仏様を気兼ねなく祀るのが日本流である。

 中門を抜けると、砂利敷きの大きな広場に出る(写真)。茫洋としていて、心を空にせよと呼びかけているようだ。広場の右奥に池を配した庭園が造られていて、その右手が庫裡、書院のようだ(前掲写真右、写真やや左は本堂の屋根)。
 広場左に阿弥陀堂が建っている(写真)。1700年代に建立されたそうで、聖天院最古の木造建築である。本尊阿弥陀如来三尊は行基作だそうだ。奈良時代、信望を集めた行基(668-749)も教科書に登場する。合掌。

 阿弥陀堂右手の石段を上ると、筋肉が盛り上がった阿吽の石像が待ち構えている。
 直進すると、新しい鐘堂が建っていて、なかに国指定重要文化財の梵鐘が下げられている。鎌倉時代の著名な鋳物師の作で、経文が刻まれているが判読はできない。
 戻って本堂に参拝する。本堂は2000年の建立で、モデルは高野山真言宗・京都神護寺である・・2018年4月、京都神護寺を訪ねた(2018.8ブログ/⑤空海、高雄山寺で真言密教を広め、神願寺と合併し神護寺と改める 参照)・・。
 本尊の不動明王の胎内仏は弘法大師空海(774-835)作である。本堂のモデルが京都神護寺だった縁だろうか。胎内仏は見ることはできないが、燃えさかる炎を背にし目を光らせた不動明王に合掌する(写真)。
 それにしても行基、弘法大師空海作の仏を所蔵するとは、聖天院が名刹として広く知られていたことをうかがわせる。
 
 本堂前の境内を東に進むと、本堂横手に、本堂造成時に出現した石灰岩の大きな塊が展示されている。ごつごつした岩肌は石灰岩というより花崗岩のような硬さを感じさせる。雪山と名付けられている。日射しで岩が白く反射すれば雪山のイメージになりそうだ。

 砂利広場南側に見はらし台が設けられている。見下ろすと、丘陵の麓に町並みが広がる。丘陵の東に高麗神社、南に聖天院が位置し、丘陵を遠巻きにして流れる高麗川のあいだが稲作地として開墾され、丘陵の麓に家並みが並び、いまの町並みに発展したようだ。さいたま新都心の超高層ビルも見えるらしいが、霞んでいる。

 麓を見下ろしながら、聖天院の構造は山城の構えに似ていると感じた。境内の入口前の池は高麗川を引き込めば堀になり、雷門を抜けた先の広場は三の丸、石垣+斜面+石段の防御、中門を抜けた先が二の丸で庭園+御殿、石段を上がって本丸、本堂あたりに天守閣を構えれば城になる。
 ・・「QED鬼の城伝説」(book508参照)、「十津川警部 吉備 古代の呪い」(book510参照)は、岡山鬼ノ城が朝鮮ゆかりの城との伝説を下敷きにしている。高麗郷も朝鮮ゆかりだから聖天院あたりに城構えがあった?。高麗王はじめとする高麗人は地元と融和していたようだから、考えすぎだろね。

 
 見はらし台で2人の中学生が談笑していた。学校は休校、図書館、映画館などは閉館、商店街も営業自粛、行き場がないので誘い合い、宿題・課題持参で東松山から自転車で走ってきたらしい。
 休校や外出自粛をすすめるなら、あわせて自習内容や日常生活の仕方を明示し、相談や支援する体制を整えるべきではないだろうか。せめてオンラインで授業や相談・支援ができるよう、タブレットを支給あるいは貸与してあげれば良かったのにと思う。
 中学生2人の明るい笑顔に安堵しながら、石段を下りる。
 中門で若い女性とすれ違った。聖天院で出会ったのは計3人、外出自粛を実感する。

 中門を下った左に高麗王若光の王廟がある。手前に遍路姿のブロンズ像が立っている。像は、真言宗の宝号(念仏、題目に同じ)である南無大師遍照金剛を唱えているようである。王廟に一礼して、駐車場に戻った。
 12:40、食事処を探しながら鎌北湖に向かった。 (2020.7)

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