以前読んだ高田郁著「銀二貫」の重要な舞台として大阪天満宮が登場する。2023年11月、大阪天満宮を訪ねた。
地下鉄谷町線南森町駅で下りる。大阪の地理には詳しくない。大阪天満宮方面の階段を上り、アーケードの架かった天神橋筋商店街を南に歩く(上写真)。アーケードの途中で右側の商店が途切れ、小雨に濡れた小路が東に延びている。この小路の先だろうと直感し、小径を少し歩くと石鳥居が見えた(中写真)。
大阪天満宮の石柱が立つ。石鳥居で一礼して境内に入り案内図を見る。石鳥居は北鳥居で、北鳥居の隣に大将軍社(下写真)、境内中央に本殿、境内南に表大門、境内東に神楽殿、参集殿などが配置されている。
奈良時代650年、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮(なにわのながらとよさきのみや=現在の難波宮跡)を造営し、都の西北を守る神として大将軍社を祀る。以来この地は大将軍の森と呼ばれ、菅原道真を祀ってのち天神の森と呼ばれた。地下鉄駅名の南森町はその名残だそうだ。
平安時代901年、菅原道真(845-903)が太宰府へ向かう途中、大将軍社に参拝し旅の無事を祈願する。道真は太宰府で失意のうちに903年に亡くなる。949年、大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたそうだ。これを聞いた村上天皇は、大将軍社の地に道真の御霊を祀る社=現在の天満宮本殿を建てた。天満宮建築の際、大将軍社は北鳥居の隣に移されたようだ。
境内は砂敷きで水はけが良いのか、小雨が降っているがそれほどぬかるんでいない。社殿を通り過ぎ、表大門に向かう(写真)。本瓦葺切妻屋根の堂々たる構えで、太い注連縄が下げられている。天井中央に十二支を描いた方位盤が飾られている。それぞれの理由は分からない。奉納だろうか。
正面の拝殿に一礼する。拝殿は銅板葺入母屋屋根で、向拝を前面に伸ばす(写真)。構えが大きいのは参拝者が多いからであろう。学問の神、学業成就のみならず五穀豊穣、厄除け、立身出世、開運など、大阪ならば商売繁盛も祈願されるのかも知れない。
11月ごろから右股関節・大腿骨頭のあいだの石灰の炎症=石灰沈着性腱炎で歩くのもままならない痛さをこらえての参拝だったから、早期回復快癒を願って、二礼二拍手一礼する。
側面に回ると拝殿と本殿のあいだも社殿になっていて(写真、左端が拝殿、右端が本殿)、唐門が設けられている(次頁写真)。
説明板よると、織田信長は石山本願寺との戦いのとき大阪天満宮を本陣とし、徳川家康の大坂の陣では戦禍を逃れて大阪天満宮は吹田に避難し、戻ったあとも江戸時代には7度もの火災にあい、1837年の大塩平八郎の乱で全焼していて、その都度、修復、再建されたようで、社殿は1845年の再建である。拝殿と本殿のあいだの唐門はもともとあったのか、1845年増改築されたのかの説明はなかった。
唐門は東西にあり、それぞれ東登竜門、西登竜門と名づけられている。試験合格祈願、就職成就祈願、学徳向上の御守り、または祈祷を受けると参拝券が配られ、開門日に東登竜門から入場し、本殿に祈願して、西登竜門から退場する仕組みらしい。
社殿を一回りする。社殿は境内の中ほどに建ち、回りは火除け地のように空けられている。「銀二貫」では大火のときに大阪天満宮に避難してきた人々の様子が描かれていたから、避難場所にもなったのであろう。
大将軍社に一礼する。拝殿に一礼する。表大門を出て、直線で南西に800mほどの大阪市中央公会堂に向かう。
大阪の地理に疎い。小雨が降り続く。右足の石灰沈着性腱炎の痛みで少し歩いては休みを繰り返しながら進む。天満警察署を過ぎ、高速道路の高架をくぐると大阪市中央公会堂が見えた(写真)。あと一息、堂島川に架かる鉾流橋を渡り、公会堂正面に立つ(写真、重要文化財)。
大阪市中央公会堂は1918年、岡田信一郎原案、辰野金吾(1865-1919)+片岡安の実施設計で竣工した。北の堂島川と南の土佐堀川に挟まれた中州の中之島に建つ鉄骨煉瓦造、地上3階地下1階、辰野金吾が得意としたネオルネサンス様式の公会堂である。
竣工後、オペラ、コンサート、著名人の講演会などが開催され、大阪の文化・芸術の発展に貢献してきた。2002年、創建時への復元改修と耐震性を高めるための免震レトロフィット=免震改修が完了し、文化・芸術の発信、市民活動の拠点として活用されている。
館内を案内してくれる事前予約制のガイドツアーがあるが、この日はガイドツアー開催日ではないうえ、ホールを市民団体が利用していて上階への立ち入りができなかった・・もっとも足が痛むので歩き回る元気は無くなっていた・・。休むところを聞いたら、地下に休憩室やカフェなどがあると教えてくれた。
地下に下りると、松杭が展示さていた(上写真)。辰野金吾は日本銀行、東京駅でも地盤に松杭を打ち込んでいる(門井慶喜著「東京、はじまる」に詳しく書かれている)。耐震+免震改修で不要になった松杭らしい。
平面図(中写真)と断面図がパネル展示されていた。パリ・オペラ座 =ガルニエ宮などヨーロッパのオペラ座は楕円形平面が多い。西欧建築を手本にした明治時代、大正時代なので楕円形平面を採用したようだ。
足が痛いと興味への執着心が薄れる。説明も雑ぱくに目を通し、ほかの展示は通り過ぎ、カフェに入って崩れるように座る。小雨に煙る風景を眺めながら痛みが治まるのを待つ。このあと土佐堀川を渡り、地下鉄淀屋橋駅から新大阪駅に向かい、ホテルに戻った。 (2024.10)