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2022.6北口本宮冨士浅間神社を歩く

2022年12月03日 | 旅行
山梨を歩く>  2022.6 北口本宮冨士浅間神社を歩く


 山中湖から国道138号線=旧鎌倉往還を北西に走ると左に北口本宮冨士浅間神社の叢林が見える。
 北口本宮冨士浅間神社は2017年4月にも参拝した。世界文化遺産「富士山」の構成資産でもあり、杉並木の長い参道の先に建つ本殿は重厚で、霊験あらたかに感じる。神社の周辺には第1から第7までの駐車場があり、広く信仰されていると推測できる。
 参道入口の鳥居の横の第4駐車場に車を止める。銅製の鳥居は背が高いのだが、その高さを感じさせないほど参道には杉林が伸びている(写真)。
 鳥居で一礼し、砂利を踏みしめ、参道を進む。参道は南西から北東に向かって緩やかに上っている。参道の杉林は緑の壁のよで、一列に並んだ石灯籠が参拝者を迎えている(写真)。
 緑の壁の彼方の隙間が明るい。明るい隙間に向かって、砂利を踏むシャリシャリを耳にしながら進んでいるうち、気持ちが穏やかになってくる。


 途中に注連縄を掛けた角行の立行石が置かれていた(写真)。説明によれば、藤原武邦=角行東覚(1541-1646)は霊峰富士を遙拝し、生涯で128回も富士山登頂を成し遂げ、富士講の開祖とされる。
 角行69歳のとき、この石の上で30日間、爪立ちの荒行をしたそうだ。128回も富士山に登頂し、石の上で爪立ちの荒行をするとは、相当な胆力の持ち主のようだ。106歳まで長生きしたのも頷ける。
 少し先に丸い仁王門礎石が並んでいる(写真)。説明板には、かつての神仏混淆時代に仁王門、三重塔、鐘楼などが建てられた。
 明治4年の神仏分離令でいずれも失われ、仁王門の礎石だけが残されたそうだ。神仏混淆の名残だが、説明板がないと見落としてしまいそうである。


 参道入口からおよそ300m歩くと杉並木が終わり、視界が開け、朱塗りの冨士山大鳥居が現れる(写真)。
 話はさかのぼって、12代景行天皇のときの西暦110年、皇子の日本武尊が東方遠征に出る。その途次、当地の大塚丘で富士山を遙拝し、霊峰富士はこの地より拝せと勅され、直ちに大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神が祀られた、と伝承されている。
 781年、富士山が噴火する。甲斐国主・紀豊庭は、788年、浅間大神を祀る社殿を現在地に移し、大塚丘に日本武尊を祀る社を建てた。
 ということで富士山大鳥居は日本武尊の創建とされる。大鳥居は60年を式年とし、現在の大鳥居は1945年に建てられた。高さは17.72mで、木造鳥居としては最大級といわれる。
 大鳥居手前に清流が流れ、石橋が架かっている。北口本宮冨士浅間神社は富士登山道吉田口の起点にあたる。富士登山を目指す富士講、修験者は、この清流で身を清めたのかも知れない。


 大鳥居で一礼する。右に稲荷社、左に八幡社が建つ。
 正面に、間口3間、奥行き1間、銅板葺き切妻屋根の随神門が建つ(写真、重要文化財)。左右に石柵が伸びている。随神門が神域への入口のようだ。
 江戸時代に富士講が盛んになる。江戸の富士講村上派を率いる村上光清が資金を集め、1733年~1738年に、弊殿、拝殿、神楽殿、手水舎、随神門を建てたそうで、随神門は1736年に建てられた。
 一方、随神像(写真)には1520年の銘があるそうで、1736年は再建と推定されている。


 随神門で一礼し、門を抜ける。正面に、間口1間、奥行き1間、銅板葺き入母屋屋根の神楽殿が建つ(写真、重要文化財)。村上光清により1737年ごろに建てられた。
 富士山御師により太々神楽が奉納されたそうで、現在も地元神楽講により太々神楽が奉納されている。
 控えめながら彩色豊かな装飾、彫刻が施されていて、桁を受ける蛙股には十二支が彫刻されている。


 神楽殿左に手水舎が建つ(写真、重要文化財)。間口、奥行きとも1間に銅板葺き入母屋屋根をのせているが、柱間に対し屋根が大きく伸び出していて、重々しく感じる。手水舎も村上光清により、1745年に建てられた。
 四方に石柱を立て石柱の内側に朱塗りの木柱を立てる二重構造のうえ、柱上部の木鼻に龍、獅子を彫刻するなど、手が込んでいる。
 富士山の溶岩から削り出された水盤の龍口から出る水は、富士八海の一つである泉瑞の霊水だそうだ。


 神楽殿と手水舎のあいだを抜けると、拝殿手前左に富士太郎杉(写真)、右に富士夫婦桧が空に向かって枝振りを広げている。樹齢千年の神木である。枝振り、葉の勢いからも生命力を感じる。


 太郎杉、夫婦桧の先に北口本宮冨士浅間神社拝殿が建つ(写真)。拝殿の左右に石柵が伸びている。最奥の神域を示す玉垣であろう。石柵沿いに回り込むと、拝殿、弊殿、本殿(いずれも重要文化財)が並ぶ権現造であることが分かる。
 拝殿、弊殿とも、1739年に村上光清により建てられた。村上光清は江戸の富士講を率いているから、江戸幕府→徳川家康→東照大権現→権現造を連想したのではないだろうか。
 拝殿は間口7間、奥行き3間、銅板葺き入母屋屋根、千鳥破風をつけているが、唐破風の向拝1間が伸びだしていて前掲写真では千鳥破風は隠れている。幣殿は間口4間、奥行き1間、銅板葺き切妻屋根である。
 本殿は側面に回らないと見えない。788年、甲斐国主・紀豊庭によって浅間大神を祀る社殿が現在地に建てられたのが始まりになる。由緒によると、1615年、徳川家康の家臣で甲斐国領主・鳥居成次が現在に残る本殿を建立し、1688年に改修された。間口、奥行きとも1間(一間社)で、桧皮葺入母屋屋根に唐破風の向拝をつけている。
 祭神は、富士山の女神である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天照皇大神の孫神で木花開耶姫命の夫である天孫彦火瓊瓊杵命(てんそんひこほのににぎのみこと)、木花開耶姫命の父である大山祇神(おおやまづみのかみ)である。
 拝殿は入母屋屋根を低く抑え、比べて唐破風の向拝が大きいので親しみやすい感じになっている。二礼二拍手一礼する。
 
 石柵に沿って社殿の裏側に回ると、本殿の真後ろに恵比寿社が祀られ、東に東宮本殿(左写真web転載、重要文化財)、西に西宮本殿(右写真web転載、重要文化財)が建つ。
 東宮本殿は、1223年に北条義時が創建、1561年に武田信玄が造営した檜皮葺流造の一間社、西宮本殿は、1594年に浅野左衛門佐が建立した桧皮葺流造の一間社である。
 歴史に名を残す人々が霊峰富士山を信仰し、社を寄進したようだ。それぞれ一礼する。


 西宮本殿を左に回ると、奥に祖霊社が祀られている(写真web転載)。50m先が富士山登山道吉田口の起点になり、登山者は祖霊社で登頂を祈り、歩き始めたようだ。
 一礼し、50mほど先まで歩いたが、ここが起点といった印は見つからなかった。300mほど先が日本武尊が富士山遙拝をした大塚丘になるそうだがパスをして、祖霊社からUターンする。


 左=北西側にずらりとが並ぶ(写真)。奥から日御子社、池鯉鮒社、倭四柱社、日降社、愛宕社、天津神社、国津神社、天満社の9つの社、左に折れて三殿社、三神社、風神社が続き、堂々たる諏訪神社拝殿の前に出る(写真、重要文化財)。
 諏訪神社は地主神で、古くから信仰を集め、1649年(1737年の説もあり)に拝殿が建立され、1976年に本殿が再建された。
 拝殿は間口3間、奥行き5間、鉄板葺き入母屋屋根、本殿は流造の一間社である。
 もともと地主神の諏訪神社が信仰されていたが、富士講が盛んになり、富士講、修験者が吉田口から富士山登頂を目指すようになり、北口本宮富士山浅間神社が信仰を集めたようだ。
 一礼し、駐車場に戻る。 (2022.12)

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