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2024.4東京品川 御殿山庭園を歩く

2024年05月13日 | 旅行

日本を歩く>  2024.4品川 御殿山庭園を歩く

 目黒川上流の桜並木が連日のようにテレビで報道され、たいへんな人出が映し出されている。人混みは苦手である。目黒川下流、品川エリアにも桜並木が続いていて、目黒川から少し離れるが御殿山庭園も品川エリアの桜の名所として案内されている。御殿山庭園なら目黒川上流ほどの人出はないだろうと勝手に予想して出かけた。京浜急行北品川駅から徒歩5分、山というほどではないが丘陵に造園された庭園である。

 話は飛ぶ。室町時代、鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉一門である扇谷上杉家太田道真に道灌(1432-1486)が生まれる。1438年に鎌倉公方と関東管領の争いが起き(永享の乱)、1455年、5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことで室町幕府と山内上杉家・扇谷上杉家は成氏征伐に動き、成氏は古河に居を移し初代古河公方を名乗る(享徳の乱の始まり、HP「2024.3茨城 古河桃まつり」参照)。
 1455年ごろ太田道真・道灌は品川湊(目黒川河口)に近い現在の御殿山に館を築く。江戸湾の舟運と江戸湾の見張りのためであろう。1456年、太田道真・道灌は古河公方陣営の防御のため河越城(埼玉県川越市)、続く1457年に現在の桜田門あたりに江戸城を築く。
 ・・享徳の乱は1483年まで続き、室町幕府と古河公方は和睦する。太田道灌の活躍はめざましく人望を集めた。主君扇谷上杉定正は道灌に取って代わられてしまうと邪推し、1486年、道灌を暗殺する。器の小さい主君を支えてきたのにひどい仕打ちだったことから人心が離れ、扇谷上杉家は衰亡する・・。

 その後関東は北条早雲が起こした後北条家が主君になり、豊臣秀吉は後北条家を滅ぼして、徳川家康(1543-1616)を江戸に転封させる。
 1590年、徳川家康が江戸城に入る。家康は道灌の館跡に御殿を建て茶会、鷹狩り、馬揃いをしたそうだ。仮御殿だったらしいが品川御殿と呼ばれた。
 1635年、3代徳川家光の代に、小堀遠州により本格的な品川御殿が建てられ、庭園が造園された。4代家綱の代に吉野の桜が植えられ、桜の名所となった。
 1702年、品川御殿は焼失し、その後、再建されなかったが、御殿山の桜は無事だったようで、1831~1834年に制作された葛飾北斎の「富嶽三十六景 東海道品川御殿山の不二」(写真web転載)や1856~1858年に制作された歌川広重の「名所江戸百景 品川御殿やま」(写真web転載)などに桜の名所として描かれている。
 
 京浜急行北品川駅を出て、国道15号=第1京浜を渡り、東海道線・東海道新幹線・京浜東北線の跨線橋から電車を眺めた右先に御殿山庭園が広がる。
 斜面に造園されているようで、のぞき込むと石柱が何本も並んだあいだを水が流れ落ちている(写真)。桜は高い側に植えられていて、滝の上に満開を過ぎた花が伸び出している。
 水の音を聞きながら低い側に下り、回遊するように斜面に設けられた散策路を上る。
 庭園の西、木立のなかに1992年、磯崎新氏設計で建てられた茶室「有時庵」が佇む(写真web転載)。アプローチ路は進入禁止だったので細かなことは分からないが、四角い平面に円形の屋根を乗せ、トップライトからも光を採り入れていて、側面の壁は石積み、屋根を支える円柱は節のある野趣味な木柱である。磯崎氏らしい現代的な感覚を盛り込んだ茶室であろう。

 木立のなかの散策路を上ると桜が風に舞う外周路に出る(写真)。桜祭りの跡が残っているなかを気楽な姿で行き交う人が多い。近所の人が散策を楽しんでいるようだ。桜は満開を過ぎ、見上げると高層ホテル、高層ビルが空を圧倒している。薄いピンク色のソメイヨシノは青々と広がる空が似合う。花を散らした桜に高層ビルは気分が盛り上がらない。気分を変えようと芝離宮に向かうことにする。
 御殿山庭園の外周路を北に歩き、大通り=都道317号を渡って、道なり北東に歩きJR品川駅に向かった。 (2024.5)

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