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「捨ててこそ空也」斜め読み(2)

2023年02月19日 | 斜読
book547 捨ててこそ空也 梓澤要 新潮文庫 2017

 第3章 板東の男」後半で平将門との出会いが描かれる。
 空也は頑魯と会津を発ち、筑波山の西、鳥羽の淡海と呼ばれる湖の東岸に建立された東叡山承和寺を目指す。筑波山西麓に居館を構える常陸大掾・平国香も承和寺を崇拝している。平国香の祖は桓武天皇の第5皇子葛原親王で、葛原親王の孫・高望王が890年、平氏として上総介に任じられ、この地に住み着いた。高望王は長男国香、2男良兼、3男良将を要所に分置する。
 良将の2男が平将門(903-940)になる。良将没後の伯父たちと将門の領地争いの話が展開するが空也の求道とは直接関係ないので、割愛する。


 空也は頑魯と常陸をあとにし、赤城を通り、甲斐に入る。請われれば死者供養をし、念仏を説く。行脚の途中、937年の富士山噴火に遭遇する。空也は自然の猛威の前で人間は無力な存在と思う。
 二人は7年ぶりに京に戻る。頑魯が風邪をこじらせ倒れたが、秦道盛の妻だった草笛に出会い、助けてもらう。草笛は道盛亡きあとの暮らしに行き詰まるが、春をひさぎながらもささいな喜びに生きる道を選んだという。
 それを聞き、空也は、人間は愚かで弱く、心乱れて悩み苦しむ、だからこそ南無阿弥陀仏と唱えれば仏のほうから手をさしのべてくれる、と涙を流す。


第4章 乱倫の都 」は空也が何をすべきか気づき、市聖として認められる展開である。
 冒頭で、938年の天慶の地震が起きる。愛宕山月輪寺にいた空也が京に下る。助けられず息を引き取った娘に「南無阿弥陀仏」を唱えたら、父親から縁起でもない念仏のせいで娘が死んだと恨まれる。空也は無力感にうなだれる。
 草笛と頑魯は無事だった。頑魯に死んだみんなは本当に阿弥陀様の浄土に行けたのかと問い詰められ、空也は涙を流しながら頷く。すると、草笛が「あなたに泣かれたら私たちは何を信じればいいのか、あなたがしっかり受け止めてくれなければ生きる気力を失ってしまう、誰よりも強く、誰よりも毅然としていて」と言う。
 草笛の言葉=梓澤氏の言葉が空也の転機になったようだ。
生きるためには水が欠かせない。地震の影響で井戸に腐った汚水が溜まっているので、空也は頑魯に支えてもらって井戸に降り、腐った汚水をかき出し始める。初めは遠巻きにしていた民衆が手伝い出す・・鬼界坊たちと井戸掘り、水路の開削をした経験が生きた・・。
 空也は、水脈は地下で繋がっている、皆、同じ根の一本の木、一つの命、みなが力を合わせ、京中の井戸を直すように説得すると、群衆はおまえさんの言う通り、と動き出す。
 空也は、おのれの信じることを貫くことが人の心に響くことを実感する。・・いよいよ空也が胎動し始める・・


 16歳の朱雀帝が寝込んだこと、宮城の建物が倒壊し圧死者が出たこと、東国で将門が争乱を起こしていること、地震が収まらず不安な民が怪しげな新興宗教にすがり始めたことなどは割愛する。


 空也は、ねじ曲がった左の肘に金鼓を掛け右手の打具でコーン、コーンと鳴らし、「南無阿弥陀仏」と唱えながら京の街を歩く。
 少し飛んで、清水寺の顔なじみの堂守が、空也に末法の世が近づいていると話す。空也は、世の仏法者が朝廷、貴族のために祈祷しているだけで、民を置き去りにしている、民は何かにすがりつきたいと願っている、私はそのために念仏を唱えるのだがまだ道のりは遠い、と感じる。
 それでも信じることを貫こうと、東市で乞食をし、辻に立って念仏を唱え続ける。1年を過ぎて、ようやく市聖の存在が知られるようになる。


 939年、平将門軍が動き出す。朝廷は、宇多法皇の孫の寛朝(空也の従弟)に京都・髙雄山神護寺護摩堂の本尊で弘法大師作と伝わる不動明王像を下総に奉じさせ、護摩行を行わせた(成田山新勝寺の始まりになる「ブログ2018.5覚朝大僧正、成田山新勝寺」参照)。
 940年、将門は新皇を宣言するが、下総の藤原秀郷が両軍激戦の末、将門を討ち取り、将門の首が京に送られ、東市にさらされる(=平将門の乱、東京神田明神の祭神は平将門である、京と関東では将門の評価が異なるようだ)。
 征東軍編成でもめていたとき、副将軍と期待された藤原師氏は死にたくないと空也に助けを求る。空也は、自分さえ助かればいいというのは自分可愛さの我欲、ときめつけるエピソードも挿入される。・・なかなか人は我欲を捨てられない。空也は「捨ててこそ」に阿弥陀如来の救いがあると言いたいようだ。
 平将門の身内や残党のことなども語られるが割愛する。

 「第5章 ひとたびも」では市聖空也が阿弥陀仏の教えを民衆に広めようと活動する展開である。
 市門の前で空也が念仏を唱え乞食していると、猪熊が現れ多額の喜捨をしてくれた。その喜捨で、空也は、将門の首がさらされた場所に高さ八尺の阿弥陀仏が浮き彫りされた石の卒塔婆を建てる。側面に空也の歌「ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の 蓮の上にのぼらぬはなし」が彫り込んである。
 石塔婆の塔頂に乗せられた傘屋根の六隅の金銅の風鐸が、風でチリン、チリンと長く音を引く。それを聞いた獄舎の囚人が「南無阿弥陀仏」と唱える。念仏はさざ波のように群衆に広がっていった。空也の願った民衆のための念仏が巷に広まっていく光景である。
 草笛のこと、瀬戸内海での藤原純友の乱が挿入されるが割愛する。


 空也は浄土思想をもう一度探求しようと、奈良・興福寺の空晴を訪ね、誰でも自由に仏を想い念仏を唱えられる道場を市門の北東の市舎の裏に建てたい、民衆に浄土のありさまを見せるため浄土曼荼羅を描きたいとの希望も伝える。
 浄名院を止宿にするが、水に困っていると聞き井戸を掘り始め、周りがあきらめかけた数日後、清らかで澄んだ水がこんこんと湧き出す。空也の存在は揺るぎなくなる。
 空也は浄土思想の仏典を書写し、興福寺の九品往生図を見たあと、當麻寺に詣で中将姫が蓮糸で織った織曼荼羅に目を見張る(私も當麻曼荼羅を拝観した、HP「奈良を歩く8~9 2013.3當麻寺」参照)。


 京に戻った空也は喜捨を頼むため藤原師氏に会う。師氏は「貴族も無明の闇を手探りで歩いている」と話す。師氏は身ごもった妻が急死し命のはかなさ、人の世の無常に憔悴していたので、空也は「人の痛みがわが痛みとなる、そうやって生きていくのが人間」と諭す。
 市堂が8割がた完成したころ、空也は市堂に居を移す。「南無阿弥陀仏、夢に示現させたまえ」と念じ、眠りに落ちると、夢に極楽浄土が現れた。「極楽は遙けきほどと聞きしかど つとめていたる所なりけり」と思い、夢に現れた浄土変相図を自ら描く。
 さらに、長谷寺の火災で十一面観音像が失われ世情が混乱しているので、観音三十三化身図、補陀落浄土図を画師に依頼する(私も長谷寺の再造された十一面観音像を拝観した、HP「奈良を歩く14 2013.3長谷寺」)。


 空也が乞食の帰り、二条の神泉苑に通りかかると病に苦しむ女のうめき声が聞こえる。空也はそれから毎日、乞食をして女に食べ物と薬を与え続けた。元気を取り戻した女は、空也に、精がついてからだが疼く、抱いてくれと体を寄せてくる。空也は悩んだ末、破戒僧に堕しても衆生のために行動しようと決意する。
 ここで女は脅され謀ったことを詫び、「あなたは御身を汚してまでも賤しい望みを叶えてくれようとした」うれし泣きするエピソードが挿入される。・・私も六波羅蜜寺を訪ねた翌日、空也のエピソードは知らず、偶然、神泉苑を歩いた。このエピソードは形を変えながらも伝承されているらしい。「捨ててこそ」救えるということで、梓澤氏もエピソードにしたようだ。
 朱雀帝譲位、村上天王即位、京で天然痘が流行し赤痢も併発するなどの世情が語られるが、割愛する。


 天台座主延昌が空也を訪ねてきて、空也の活動、市堂の存在が社会に大きな影響を及ぼしていると話し、受戒を勧める。延昌は、宇多法皇が仁和寺で催した童子の不断念仏の一人であり、空也が比叡山を訪れ仏の教えを学ぼうとしたときも会っている。
 空也は人々の求めるものが変わり始めていると感じていたので、比叡山戒壇院で得度を受け、正式な大僧になる。延昌がつけた大僧名は「光勝」である。光勝国は仏国土に由来し、維摩教では仏国土は空なりとする。延昌は、空也の「・・深義は空なり・・」の思いを汲んで光勝と名づけたようだ。


 空也は、民が求めているものに応えようと、十一面観音像、守護諸尊像の造立、大般若経600巻の書写、手狭になった市堂に代わる新たな道場の建設(のち西光寺と呼ばれる、現在の六波羅蜜寺)を発願する。その過程、情景が「第6章 捨てて生きる」に描かれる。
 三井寺随一の学侶である千観が、空也に、上品上生の往生をするための修行を教えてくれと執拗にたずねる。空也は「何もかも捨ててこそ」と言い放す、といったエピソードが挿入される。
 「第7章 光の中で」に963年の完成供養会のありさまが描かれ、「終章 息精は念珠」は空也が「息精は即ち念珠」と唱えて往生するまでの情景である。  


 大作である。仏教、教義もていねいに紹介されている。宇多天皇から村上天皇までの朝廷や京の世情もよく理解できた。梓澤氏は仏教や歴史に通じているようだ。
 人は弱い。生まれる、病気になる、歳をとる、死ぬ、いわゆる生老病死は、自分ではどうすることもできない。にもかかわらず、自分だけは恵まれた人生を送りたいと我欲を張る。仏の教えまでも自分の都合の良いように解釈しようとする。
 寺を訪ね、仏像を拝し、念仏を唱える、その一瞬は仏に帰依しようと念じるが、寺をあとにしたとたん俗人に戻ってしまう。空也の捨てて生きるを貫いた生涯を見習わなければと思うが、果たして為せるか。せめて、日々「南無阿弥陀仏」を唱えようと思う。
  (2023.1)

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