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2018.5金沢を歩く6 にし茶屋街~長町武家屋敷街

2019年01月11日 | 旅行

石川を歩く>  2018.5 金沢を歩く6 寺町寺院群~にし茶屋街~長町武家屋敷街

 時計は11時過ぎ、帰りの新幹線は15:55の予約なので、にし茶屋街~ランチ~武家屋敷街を歩くことにした。
 鈴木大拙館から南西に700mほど歩くと犀川に架かる桜橋に出る(写真)。犀川は穏やかな流れだった。春になれば南の飛騨の山並みからの雪解け水が平野を潤し、北の日本海には北前船が行き交い、その立地が加賀百万石の豊かさを支え、その豊かさが徳田秋聲(1871-1943)、泉鏡花(1873-1939)、室生犀星(1889-1962)や鈴木大拙(1870-1966)、西田幾多郎(1870-1966)らの文人、哲学者を生んだのであろう。
 地図には川の東沿いに室生犀星詩碑、西側には井上靖文学碑や中原中也文学碑が記されている。文人が文人を呼ぶようだ。
 桜橋を渡る。川の西は高い石垣が積まれ、石垣沿いに犀星のみちの案内板があったが、大通りの坂道を選んだ。息を切らしながら上ると寺町通りに出る。1616年、加賀藩主3代=前田家4代・利常は城の防備、寺社の管理、一向宗対策として、城下の寺を南東の小立野、北東の卯辰山山麓、そして犀川南西の高台に集めた。南西の寺々が寺町寺院群で、70ほどの寺社があり、寺町台地伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 
 寺町通りに並ぶ寺院を山門からのぞきながら北に歩く。1kmほど歩くとにし茶屋街に着く。
 1820年、加賀藩主11代=前田家12代・斉広時代、金沢城下の遊女を浅野川卯辰と犀川石坂の2ヶ所に集め、茶屋町がつくられた。浅野川卯辰は城下の東、犀川石坂は西になるので、ひがし茶屋街、にし茶屋街と呼ばれた(当初は東郭、西郭と呼ばれ、たらしい)。
 ひがし茶屋街は南北約130m、東西約180mに伝統的建造物がよく残っていて、保存の気運も高く整備も進められ、ひがし茶屋街として重要伝統的建造物群保存地区に指定されている(写真、1999年ごろ)。
 金沢観光の目玉の一つで、大勢の観光客で賑わっている。ひがし茶屋街は訪ねたことがあり、昨日の周遊バスからも混雑ぶりが見えたので、今回はにし茶屋街を選んだ。
 にし茶屋街で茶屋を見学したとき、同席した婦人がひがし茶屋街はたいへんな混雑だったので見学をあきらめ、にし茶屋街に来たと話していたから、にし茶屋街の選択は正しかったようだ。

 にし茶屋街はひがし茶屋街に比べ規模は小さく、100mほどで茶屋街は終わってしまう(写真)。伝統的なたたずまいを残す茶屋も少ない。
 反面、観光客が少なく、静かに街並みを楽しみながらかつての茶屋のたたずまいをじっくり鑑賞できる。
 中を公開している「華の宿」を見せてもらった(写真)。主人いわく、ひがし茶屋街は商人が多くにし茶屋街は武士が多かったそうだ。武士の多いにし茶屋街の方が格式が高いことになるが、商人の方が金回りのいいからひがし茶屋街が華やかなつくりになっただろうと想像できる。
 どの茶屋も間口3間≒5.4mほどで、1階の2間は虫籠ほどに細かい格子の出窓、1間は格子戸、2階は明かり取りの付いた雨戸が共通し、整った街並みをつくりだしている。
 茶屋の間口は3間≒5.4mと狭いが、奥行きはおよそ13間≒23.4mと長い。どの茶屋も壁を接して隣り合っているので、採光通風のための坪庭や奥庭が設けられる。坪庭は玉石を並べ、灯籠を配置した植え込みにして、閉じた座敷に対し開かれた息抜き空間になっている。
 2階への階段は客と芸者が並んで上れるよう広めで、内部の造作材は漆塗り、壁は赤や青で鮮やかに仕上げられ、非日常性を演出している(写真)。
 2階座敷で床を背に座ると、お大尽になったような気分に浸れる。いまも宿泊や宴会で使われているから、茶屋の残像がいまに引き継がれたようだ。お大尽の気分で茶屋を後にした。

 にし茶屋街を出て、12:40ごろ犀川大橋を渡る。手元の地図は観光用だから見どころや主要な目印は記されているが、正確さには欠ける。だいたいの方向をにらんで、片町交叉点を左折する。地理に不案内だが、ひたすら北に歩く。長町交叉点手前で右手に水路が現れた。案内表示はないが、武家屋敷街の気配を感じ、水路に沿って右に曲がる。勘は当たった。右に前田家の流れをくむ前田土佐守家資料館、左に大きな商家づくりの老舗記念館が建っている。いずれも復元のようだ。
 このあたりは長町武家屋敷街と呼ばれている。執政を務めた長氏を始め、前田家の家臣が住んでいた地域で、長氏にちなみ長町と呼ばれているらしい。長屋門を構えた多くの元武家屋敷はいまも人が住んでいて公開されていないそうだ。
 水路は大野庄用水と呼ばれ、灌漑用水、治水、火除け・消火、排雪、水力、染料洗いなどその土地ごとにさまざまに利用された。武家屋敷では用水を引き込んで庭園を潤し、曲水もつくられたそうだ。

 大野庄用水沿いに歩いていて、一の橋が架かった角に四季のテーブルという食事処を見つけた(写真)。ガラス越しに武士の献立というポスターが見えた。
 加賀藩に仕えた武士を主人公にした「武家の家計簿」が2003年ごろに出版され、2010年ごろに映画化された。2013年ごろには同じく加賀藩の武士を主人公にした「武士の献立」が出版され、映画化された。
 本も映画も知らなかったが、テレビで武士の家計簿か武士の献立のどちらかが放映されたのを見た記憶がある。武士の献立の料理監修の一人が青木悦子氏で、青木氏のクッキングスクールがこのビルで開かれていて、1階は青木氏がプロデュースしたレストラン・四季のテーブルになっている。
 といったことは店のスタッフに聞きあとでwebで補足したのだが、このときはテレビで見た映画を思いだし、どんな店かとのぞいていたらスタッフが出てきて、お勧めの治部煮丼、海鮮日本海丼を説明してくれた。治部煮は鴨肉がベースなので、日本海の幸を使った海鮮日本海丼をいただくことにした。店内は明るくモダンなつくりで、家具にも気を遣っている。いい店に出会えた。

 四季のテーブルを出て、二の橋で右の路地に入る。左右ともに土塀が続く(写真)。かつての武家屋敷のたたずまいが想像できる。地図には右手が直臣平士武士だった大屋家の屋敷と記されている。もちろん門は閉じている。
 路地はL字型に折れる。L字型の路地は敵を混乱させるため、武家屋敷街ではよく用いられる。車が通りにくいための不便さもあろうが、歩行者は車を気にせず歩くことができる利点もある。左手は鏑木商舗・金沢九谷ミュージアムで、陶磁器が展示、販売されていた。外国人観光客も九谷焼をじっくり眺めていた。武家屋敷の面影が残る店だから、街中の土産店よりも思い出になりそうだ。
 土塀の路地を戻る。大野庄用水の左の坂口邸長屋門をのぞく。かつて召使いの住まいとした長屋と門を結合させたつくりで、武家屋敷では一般的な門形式である。

 三の橋の角に野村家が建っていて、公開されていた。加賀藩重臣野村家の屋敷跡だが、建物は加賀藩の豪商の邸宅の移築である。移築とはいえ豪商がしばしば藩主を招いたそうだから、当時の武家屋敷に匹敵しよう。
 庭は曲水を取り入れた造園で、当初の庭園のままのようだ(写真)。ミシュラン観光地にも取り上げられているそうで、そのためか外国人観光客が大挙して入館してきて、身動きが取れなくなった。外国人であれ日本人であれ、観光に適した人数に制限しないと建築、庭園の良さがつかめないと思う。グループツアーなら、グループを少人数のAコース、Bコース・・などに分けて観光を分散させてはどうだろうか。工夫を期待したい。
 四の橋近くの高田家跡には長屋門、池泉回遊式庭園が復元公開されていた。六の橋右手には足軽だった清水家、高西家を移築し、足軽の暮らしなどを展示した足軽資料館がある。

 ここで長町武家屋敷街の散策を終え、東の坂道をひたすら歩く。400mほど上ると尾山神社に着く。尾山神社を抜けて左=北に進み、尾崎神社で右=東に折れ、大手堀に沿って歩き、ホテル山楽に15:00ごろに着いた。キャリーバッグを受け取り、白鳥路を歩いて兼六園下から周遊バスに乗る。
 余裕を持って15:55発のかがやきに乗った。18:00過ぎ家に着く。新幹線のお陰で北陸がずいぶんと身近になったことを実感した。今日は19800歩だったが、実りの多いいい旅になった。 (2019.1)

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