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バンコクの川沿いの高床民家はマレーシアの高床民家に類似=文化交流の証?

2017年03月01日 | 旅行

1984 バンコクの高床民家 /1984  写真はホームページ参照。                             
 マレー半島を北上するとマレーシアからタイに変わる。マレー半島はおよそ1300kmに及ぶから、それだけでも暮らしぶりが変わりそうに思えるし、ましてマレーシア国からタイ国に変わるのだから、同じマレー半島でも、生活文化や建築様式が独自に発展するはずだと思える。
 実際、マレーシアはイスラム教を国教とし早くから工業化を目指してきたし、かたやタイは敬虔な仏教国で長く農業を主産業としていた。それぞれの国柄を紹介する写真からも、人々の立ち居振る舞いや町の様相の違いが一目瞭然にうかがうことができる。

 その一方で、地図を見る限り、両国は陸続きで行き来に支障を来すほどの山脈や大河も見あたらないし、現に、マラヤン鉄道はシンガポールを発し、クアランプールを経てバンコクに向かうのだから、当然、文化交流は古くからあったはずだとも思える。
 鉄道敷設の資料がないので断定できないが、古くからの交易路がなければ鉄道化されなかったのではないか。とすれば、独自に発展した両国でも、さまざまな文化交流を反映した建築様式がありそうである。

 もし文化交流があったとするならば、しかも民衆のレベルで交易・交流があったとするならば、建築は形として文化が表現されやすいため、文化の独自性にまじって交流による異文化性が民家に表出されると考えられる。
 言い換えれば、異なった土地の異なった民族建築に共通の文化表現を見いだすことができれば、両者のあいだに文化交流があったことの証明になろう。
 そして、幸運にもマレーシアを旅した翌年の1984年にバンコクを訪ね、マレーシアで見た民家と実によく似た民家を見つけることができた・・その後、タイにも数度訪れ、内陸で同様の民家を確認した・・。
 その民家は、日本ではメナム川として知られるチャオプラヤ川に沿ってあった。川に沿ってというより、川にせり出し、あるいは川の上に、建っているといった方が正確かもしれない。

 バンコク一帯はチャオプラヤ川によって形成された三角州に位置していて、チャオプラヤ川の支流、あるいは人工的に灌漑でつくられた運河が無数に走っている。1983年は予想外の雨量で洪水がなかなか引かず都市機能に支障が出たほどで、平年でも乾期は陸地だったところが雨期になると川になることも少なくなくないそうだ。そのこともあって、水路の方が信頼できると水運を発達させてきたのかも知れない。
 そもそも水運は古来より大量の荷物や重い荷物を運ぶのに利用されてきた。バンコクでも、人々は電車かバスに乗るように船着き場から水上ランチに乗ったり、マイカーに乗るように自宅の前の小船に乗って仕事や買い物、学校に出かけていた。
 早速、船に乗り込んでみた。視点がぐっと下がり、陸路とはまったく異なった風景が展開していく。
 川の上にテラスを張り出している商店や屋台の物売りのように小舟で野菜を売る人、水路の水を使って洗濯をする人、人・・、始めは水上の風景に気を取られていたが、そのうち見覚えのある民家形を発見した(写真・左手の民家)。
 屋根はトタン張りになっているが、マレーシアの民家に似てかなりきつい勾配の切妻で、そのプロポーションはそっくりであった。
 外壁は板張りで開口部も少なく、壁のプロポーションもよく似ている。写真の民家にはテラスが隠れているが、開放的なテラスを設けている家が多く、共通性を示唆する。
 川にせり出したり、川の上に建っているため高床は当然だが、川と地面の違いを除いて、高床から上の形はそっくりである。

 偶然の一致、あるいは同じ風土が同じ形を生み出したとも考えられるが、形は観念を規範する力があるから少なくとも両者の観念に類似性をみることはできる。
 これが文化交流によるものかどうか実証するためにはなお詳細な調査が必要だが、少なくとも形の連想から両者が結びつけることができる。
 不確実な推測の実証、これこそ新たな民族建築探訪の動機づけになる。

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