よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長崎街道を歩いています№7(彼杵宿~嬉野宿)

2011-02-16 17:55:16 | 長崎街道歩き
(№6からの続き)
彼杵(そのぎ)宿は、千綿から約1,5kの所にあります。
34号線沿いに歩くと「鯨料理屋」さんの看板が立っています。
江戸時代このあたりは鯨漁が盛んだったのでしょう。

彼杵宿に着くとやたら千部塔、万部塔が見られます。
説明文を見てみると「江戸時代初頭、キリスト教の追放が強化され大村藩内仏教に
改宗が進められた。
明暦3年(1657)大村市内で隠れキリシタンが発見された「郡崩れ」で街道沿いや
集落の中に仏教徒の証として寛文4年(1664)に15基の宝塔が建立された。」と
記されています。

彼杵川の橋を渡ると日本二十六聖人乗船地跡の看板が立っています。
川沿いの道を海に向かって進みます。
その右手にこの記念碑はありました。
私たちが行った時には、ベールをつけた信者の方が30人ほど集まってミサが
行われていました。

この「日本二十六聖人」とは
「慶長2年(1597)2月長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒である理由で
処刑された日本最初の殉教者である。
スペイン人のフランシスコ会司祭ペドロ・バウチスタはマニラで布教の後
フィリピン総督の使節として1593年来日。肥前名護屋で朝鮮陣本営で秀吉と
会見するなど日比通商条約締結に努力したが、サン・フェリベ号入港事件を
契機とする豊臣秀吉のキリスト教禁教令強化により6人の外国人フランシス会、
18人の日本人修道が捕らえられた。秀吉は殉教者達を厳しく罰することで
人々への見せしめにしようと左の耳たぶを切り落としたり、鼻をそぎ落として
京都、大阪、伏見、堺の市中を引き回した。
1月9日堺を発った24人のキリスト教信者達は、堺、姫路、岡山、広島を通り
1月31日博多に到着。翌日肥前名護屋近くの村、山本で2人捕らえられ
26人となり長崎へと進んだ。やがて苦しいのぼりの道を超えて大村領の
俵坂峠にたどり着くと足元に湖のような静かな大村湾の素晴らしい景色が
広がっていた。そこで休息したペドロ・バウチスタは岩の上に腰を下ろして
黙想した。今、死地へ向かって進んでいる
然し、自分が全身全霊を傾けた布教が始まったばかりなのにそれを継ぐべき
同僚までも共に死んでいく・・・
ペドロ・バウチスタがすべてを捧げた仕事はガラガラと崩壊していくかに
思えてとめどなく涙が落ちた。
昼を少し過ぎた頃殉教者達は彼杵に行った。やがて殉教者のうち
フランシスコ会以外は皆手を縛られ彼杵の浜を降りるとそこには3艘の船が
繋いであった。それぞれの船に乗船させられた殉教者達は水路時津に向かった。
空には残月が光り始め岸のあちこちに漁村の灯火がまばたき船は単調な櫓の音を
響かせながら静かに水面を分けていった。翌2月5日26人の殉教者達は
長崎・西坂の地で処刑された。
1862年6月7日荘厳な祭典のうち教皇ビオ9世は西坂の26人の殉教者を
聖者の列に入れた。」
(日本26聖人乗船地跡説明文より)

彼杵の浜辺です。


元禄船着場跡
日本26聖人の碑を戻ると彼杵の港がある。
ここは元禄年間築港された港で江戸時代から明治にかけて長崎からの
商品や各地の産物を始め、五島近海で捕れた鯨もこの港に荷揚げ
されたあと九州各地へ運ばれていった。
そういえば、この港の倉庫に「鯨倉庫」というのがあった。

再び街道に戻ると追分石がある。
ここから長崎街道と平戸街道(佐世保方面)に分かれている。

彼杵宿本陣は、彼杵神社の
中にあった。寛永10年(1633)幕府巡見使の視察に併せ472坪の敷地に
五棟が造られ彼杵宿本陣として幕府の要人、大名が利用した。
明治13年(1880)この本陣跡に彼杵神社が遷座された。

彼杵宿脇本陣跡
当地で商業を営んでいた森家の一部を本陣の補助的な宿泊所として利用
されていたが、宝暦2年(1752)改築され脇本陣に指定され上級武士の
宿泊所として利用された。
現在は更地になっている。

その森家ですが、彼杵神社の横に「森英示翁頌徳碑」というのがある。
森英示氏は地元で酒造業をされていたが中央に出られ三楽オーシャンの
礎を作られた方である。体育館、役場用地などを寄贈されている。

街道は彼杵宿を出て今回街道の終点の「嬉野宿」を目指す。
嬉野宿まであと12km余り。
時間は3時40分をまわっており、5時半から6時までの到着を予定
しているので少し急ぎ足になる。
千部塔を抜け彼杵橋を渡る。

彼杵川沿いに歩き長崎道橋脚の下を通る。
愛宕神社鳥居、鞘原大明神を過ぎるとこの街道
名物の大楠跡に出る。

この大楠は、江戸時代長崎街道一といわれた楠の大木があり、シーボルトは
江戸に上る途中この木を測り周囲16.88m、直径5.347m、中は空洞で
面積14.577㎡、畳8畳敷きの広さで15人が座れると記録している。
この大楠は昔、弘法大師が田の畦に突き刺した杖から芽が出て枝を伸ばし
大木になったという伝説がある。
長年人々に親しまれてきた大楠であったが、明治20年代後半樟脳の原料に
するため切り倒された。その跡に1本の苗木を植えたところその脇から
もう1本の芽が出てどんどん大きくなり今ある姿になった。
大楠の生まれ変わりといわれている。

その二代目大楠がこれです。

大楠の横には「大楠小学校」が建っている。

小学校を抜けると山道に差し掛かる。
道が二手に分かれる。左は勾配のある坂道、右は緩やかな下り道。
さあ、どっちだろう?案内板もない。
ふと、左側を見ると松の苗木が植えられている。
長崎街道松並木再現という言葉を思い出し左の勾配のある道を進む。

途中鳥越一里塚がある。
江戸時代主要街道に一里塚が設けられたのは慶長9年(1604)以降とされる。
一里塚は街道の並木と違って修繕や築造についての指示はなかったようで
そのまま放置され、今残っているのはわずかである。
長崎県内ではこの鳥越一里塚がほぼその形態を保っている。

鳥越一里塚を出るとまた国道34号線に出てきた。
街道は、国道を行ったりすぐ脇道にずれたりしている。
時間もだいぶん経ってしまった。
立春を過ぎたとはいえ、暗くなるのが早い。
地図を見てみるとほぼ国道と平行している。
旧街道に入って若し迷ったりすると大変だからここは国道を歩いていく
ことにする。ただ、この国道、歩道がなく道路の端を歩いているが
車にも気をつけなくてはいけない。

16:57国道の県境に到着。
これから「佐賀県嬉野市」に入ります。
2年前だったか、シンクロの原田早穂さんが言ってたように
「長崎の皆様、有難うございました。」「佐賀の皆様こんにちは」と
言ってみる。

国道の県境を過ぎると領境石があります。
その横には俵坂番所跡がある。
この俵坂番所跡の説明によると
「江戸時代になると長崎街道として大村、佐賀両藩の藩境の要地となり
特にキリシタンの取締りが厳しかったといわれる。
敷地面積200坪、建物は間口4間(7.2m)奥行き7間(3.6m)の構えで
※注)7間というと12.6mですので看板間違っていると思います)
侍1名、足軽9名が監視にあたり通路には門柱が建てられその両脇には
竹の柵が巡らされていた。大名行列の際には番所役人は威儀を正して
平伏し送り迎えした。

陽もだいぶん落ちてきた。
遠くに嬉野温泉の灯が見える。
嬉野宿まであと少し。

17:57嬉野宿西構え口に到着。
江戸時代嬉野の町は平野部を蓮池支藩、山地側を佐賀本藩が管理しており、
長崎街道を通過する嬉野宿は蓮池支藩の支配でした。
宿場は当時嬉野湯宿、嬉野湯町とも呼ばれ宿場の東西端には街道に
町木戸を構え宿場の境界を示し、この場所を構口と呼んでいた。
構口の木戸には東口が和多屋別荘の本通入口付近と西側は大正屋入口
付近に建てられており宿場の長さは約500mで平時は監視する人も
扉もない木戸でしたが変事の時は防御地点となる重要な役目を持っていた。
宿場内には30軒余りの旅籠、木賃宿や商家など百軒程のわら屋根の家が
街道沿いに建ち並び宿場の中央には「豊玉姫神社」その隣に御茶屋、
人馬継立所、高札場等があり嬉野川沿いには藩営の温泉が設けられた。
又、長崎奉行などが宿泊する本陣は街道から300mほど離れた
瑞光寺が利用された。


構え口に到着後、本陣のある瑞光寺に行くともう陽が暮れかかっており
暗くて写真が撮れず写真は次回の街道歩きの時にしよう。
今回はここでゴール。万歩計を見ると51000歩になっていた。

ゴールのあと「シーボルトの湯」に直行。
温泉で足を伸ばし今日の疲れをとった。


※本日の旅費
博多~大村(特急代含む)4,200円
タクシー嬉野温泉~嬉野インター 820円
高速バス嬉野インター~福岡天神1,850円
お風呂代400円