よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№2梅島駅~草加(東京都足立区~埼玉県草加市)

2019-05-24 11:29:42 | 奥州街道(日光街道)

4/28(日)晴れ 前日ゴールの東武梅島駅に移動。8:25ウォーキング開始。

しばらく歩くと「将軍家御成橋 御成道松並木跡」の標識があります。隣には、写真には写っていませんが、「南無妙法華経題目碑」があります。

 

マップを見ると「国土安穏寺」というのがこの近くにあります。名前に興味を抱き、コースからは外れますが、行ってみました。

国土安穏寺は、応永17年(1410)創建。安穏寺八世日芸上人が「宇都宮釣天井事件」を予言した所から徳川家の祈願寺となり「葵の紋」の使用が許されました。将軍専用の御成門が建てられ、御成道が

造られました。境内には、家光公御手植之松があります。

   

鷲神社は、文保2年(1318)創建、島根村の鎮守。享和2年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区有形文化財指定。

 

増田橋道標から増田橋を渡ると、埼玉県草加市になります。

 

谷塚駅入り口の所に「富士浅間神社」があります。浅間神社の創建年代は不詳ですが、他所に祀られていた当社を明暦年間(1655-1657)当地へ遷座したといいます。明治6年村社に列格、

明治40年・明治42年に周辺の無格社9社を合祀したといいます。

火あぶり地蔵尊
昔々、千住の掃部宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生懸命働きました。

生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。

ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、

娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に

面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、

しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。

悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。

幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。

しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所に

お堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。お地蔵さんは現在、旧四号国道の激しい車の往来を何事もなかったかのように眺めています。

   

草加といえば、煎餅の町です。歩いていると煎餅のお店が建ち並んでいます。

草加は昔から米どころと言われ、多くの米がとれたことから、農家の人たちは余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていました。

江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになりました。このころから保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まっていったと考えられています。当初は生地に塩を練りこんだもの

でしたが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになりました。

明治後半になると煎餅屋が増えていきますが、当時はお煎餅屋としてではなく、雑貨などの商売の片手間に行われていました。

大正時代以降、煎餅の認知度は高くなります。そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品として天皇に献上されたことにあります。これが「天皇家が召し上がったおいしい草加の

煎餅=草加せんべい」として名称が広がっていきました。このころから煎餅づくりは地場産業として発達していきました。(草加市HPより)

東武草加駅前には、「おせんさん」が煎餅を焼いている像があります。

因みに「草加」の由来は、千住から越谷間は沼地が多いため、東側の八条(八潮市)から古利根川沿い迂回する遠回りのコースを強いられていた。 これを慶長11年(1606)に地元の大川図書が、

低湿地帯を草を束ねて敷いた上に土で固め、その上にまた草を束ね敷いて土で固めるというやり方を繰り返して、千住と越谷をほぼ一直線の新往還道を造成した。 この「草」を「加」えて道を造成したところで

あったので、「草加」と名づけられたという。 その後この道を通る人々が急増したため、寛永7年(1630)大川図書が幕府に願い出千住と越谷の間の宿として、草加宿が成立した。といわれています。

現在東京にも近く、都市化が進み、人口24,4万人の市です。

   

江戸の豪商、浅古氏が 子育て地蔵尊として寛 文7年(1667)に建て た。旧大和屋本宅角に あった屋敷神で現在市 役所の一角にある。12 月を除く毎月24日に扉 が開き、この日にお参 りすると子供の

病気が 治ると伝えられています。草加市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡。主の浅古半兵衛は、江戸店を出し、全国第二位の質屋でした。

  

回向院は、浄土宗のお寺で元禄14年(1701)創建。旅籠屋武蔵屋が抱えていた飯盛り女のお墓があります。

  

八幡神社:草加宿下三町の鎮守。獅子頭雄雌一対は市の指定有形文化財です。

  

草加宿は、この地一帯は、沼地が多く街道は大きく迂回していました。大川図所は、幕府に願い出て千住~草加間をほぼ一直線に結ぶ新道を開削し、慶長12年(1607)草加宿を創設した。

天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳によると、宿内家数は723軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠67軒で宿内人口は3619人(男1693人、女1926人)でした、宿並は、天明4年(1784)と明治3年(1870)の

大火で灰燼(かいじん)に帰してしまいました。

  

藤城家住宅は、明治初期の町屋造りで国登録有形文化財建造物に指定されています。

 

おせん茶屋公園

 

  

草加宿神明庵: 江戸時代末期の町家建築「久野家(大津屋)」を改修・保存し、草加宿を訪れた人たちや草加市民のための「お休み処」として、2011年7月にオープンしました。

現在、草加宿神明庵運営協議会のメンバー18人と、運営ボランティアスタッフの40人で運営され、4人のスタッフが常駐しています。1階は観光案内所、お休み処、2階はギャラリー。

  

神明交差点の所に「おせん公園」があります。どうも紛らわしいのですが、先ほど通った公園は、おせん茶屋公園です。

ここには、「草加煎餅発祥の地」の碑が建っています。草加の茶屋のおせんがつくる団子は、旅人に評判だった。それまで売れ残った団子は川に捨てていたのだが、ある日それを見た武者修行の侍が

「団子を捨てるとはもったいない。その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売ってはどうか」と教えた。早速作って売り出したところ大評判になり、日光街道の名物になったという。

そのすぐ横には、「河合曽良」像があります。河合曽良は、芭蕉の門人で「奥の細道」に随行し、「曽良旅日記」を著しました。信濃の国下桑原村(現長野県諏訪市出身)

 

草加松原にやってきました。

草加市は、江戸時代の日光街道の宿場町で、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の第1日目にも記されている。松並木のある地域は札場と呼ばれ、古くから草加宿の北の拠点で、綾瀬川の舟運で栄えた札場河岸があった

太平洋戦争後はこの日光街道は一般国道4号として東京と東北地方を結ぶ重要な幹線道路となり1967年(昭和42年)の草加バイパス完成後は埼玉県に移管されて1973年(昭和48年)に県道足立越谷線になった。

日光街道の草加松原の松並木は、一説によると1683年(天保3年)の綾瀬川改修時に、関東郡代伊奈半十郎忠篤が植えたと伝えられており、「千本松原」と呼ばれ古くから親しまれてきた。

1877年(明治10年)頃には806本あったマツが、戦後高度経済成長期のモータリゼーションによって急速に普及した自動車の排ガスの影響で枯死が続き、一時は60本余りまで減少した。このため、

地域住民により保存の機運が高まり、1976年(昭和51年)には草加市民による「松並木保存会」が結成され、マツの植樹と手入れが行われた結果、現在の520本余りまで回復した。1983年(昭和58年)には、

松並木の保存を図るため都市計画街路事業により松並木内にあった県道足立越谷線の車道を外側に移築して遊歩道化を行った。また1985(昭和60年)からは、埼玉県と草加市の協力により、

埼玉シンボルロード整備事業に着手し、その3年後に歴史ゾーン、イベントゾーン、シンボルゾーン、松原ゾーン、せせらぎゾーンという水と緑の調和する5つの空間エリアを完成させた。(ウィキペディアより)

現在、松の数は、東京スカイツリーに因み、634本だそうです

  

草加松原は、1,5kmの遊歩道です。芭蕉の像も建っていました。

ここには、芭蕉の句の他に、高浜虚子、水原秋桜子などの句碑もありました。

  

太鼓橋の矢立橋からは、何と富士山が見えました

  

 

 

遊歩道の真ん中あたりに「お休み処」がありました。入ってみると、お茶と草加煎餅をサービスしていただきました。

  

 

  

 


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