【佐久山宿~大田原宿】
佐久山宿からの続きです。
箒川に架かる岩井橋を渡ります。桜観音には、馬頭観音が6基並んで立っています。
那須与一の墓は、ここから1kmぐらいの「玄性寺」にあります。
「イトヨ」(糸魚)は、トゲウオ科イトヨ属の魚で、背中に3本、腹部に1対のトゲがあります。イトヨには、川で生まれ海に下る降海型と、一生を淡水域で過ごす陸封型とがあります。大田原市では陸封型のみが見られ、湧水を中心に夏でも水温が20度以上にならない所に生息しています。成魚の体長は4から5センチメートル程度で、オスは春の産卵期になると水草などで巣を作り、ジグザグダンスと呼ばれる特異な求愛行動をすることが知られています(オランダ人動物行動学者のティンバーゲンはこの一連の行動を研究し、1973年にノーベル賞を受賞しました)。
田谷川は湧水から続く小川です。当初は田谷川、加茂内川、念仏川、深川の4河川が生息指定地となっていましたが、昭和60年(1985)に田谷川以外では生息が確認できなくなったとして指定地が解除されました。また田谷川も一時生息数が少なくなりましたが、生活雑排水の流入を防ぐなどして環境が回復し、生息数は回復しています。(大田原市HPより)
この辺りは、裕福な農家が多いのでしょうか、立派な長屋門が立っています。
街道は、親園地区に入りました。
蒲蘆碑(ほろのひ)
文化9年(1812)10月、那須野に一隊の兵士が刀をかつぎ槍をうち立て行進する蜃気楼(しんきろう)が現れました。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚(あんぎゃ)僧が目撃し、
その光景を書き残して去りました。それが蒲盧碑原文で、のちに石に刻んで建立したのがこの碑です。
土地の者は蜃気楼のことを「ほろ」と呼んでいました。当時親園(ちかその)地区は天領で八木沢(やぎさわ)村と呼ばれ、代官山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていました。
山口鉄五郎は水路を開削し新田を開発するなど、農村の振興に努め領民から深く親しまれていました。
人見伝蔵(でんぞう)は著書「那須野蜃気楼 蒲盧碑考」の中で、中国の書「中庸」の中に「政治は蒲や盧のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲盧に
結び付けたものとしています。
町初碑
碑は楕円の長い自然石で、その表面に「此町初 寛永四ひのへ卯年」、裏面には「國井与左衛門」と刻されています。
この碑の立っている場所は、大田原宿まで4キロメートル弱の奥州道中沿いで、当時は八木沢村といいました。奥州道中は慶長年間(1596から1615)から整備が行われ、それに伴い
寛永年間(1624から44)に街道筋に八木沢村も開かれたもの「間の宿」と思われ、それを記念しての建碑と思われます。
國井与左衛門は、八木沢村の名主役をつとめ、同家当主は代々与左衛門を名乗りました。寛永4年(1627)の干支は正しくは丁卯(ひのとう)ですので、本碑は後年の建立とも考えられますが、
いずれにしても町初の年を石に刻して、起源を明らかにしている点で歴史的価値があります。
八木沢村は那須氏の領地でしたが、那須資弥(すけみつ)が延宝9年(1681)2月に加増されて、福原から烏山に転封(てんぽう)となり、それに伴う烏山の近郷地との替地により
天領となりました。享和3年(1803)から文政5年(1822)まで、付近の天領61ケ村を支配する吹上陣屋の出張陣屋があった所です。
百村川(もむらかわ)を渡ります。橋の名前が「筋違い」とは、面白いですね。何でも百村川の流れに対し斜めに架橋されているそうです。
大田原市街地に入りました。大田原領は古くから那須氏の家臣大田原氏が支配してきた地域です。大田原氏は那須七党(那須七騎)と呼ばれ那須氏の有力家臣でしたが豊臣秀吉による小田原の陣で
秀吉に謁見することで独立を図り、7千石が安堵されます。関ヶ原の戦いで東軍に与し、対上杉景勝の拠点の1つとなった事で5千石が加増され1万2千石(3代藩主高清の代で弟の為清に
1千石を分知した為、以降は1万1千石となった。)の大名となり大田原藩を立藩します。大田原氏は小大名ながら城持ち大名として格式が高く、中世から明治維新まで同じ領内を支配すると
いう極めて異例な存在でした。戊辰戦争では新政府軍に組した為、奥羽越列藩同盟側から攻められ大田原城の一部や城下町が被害を受けています。明治4年(1871)に廃藩、大田原県となり、
宇都宮県を経て栃木県に編入されています。
「忍精寺」は、文政11年(1828)十一代藩主大田原愛清が開基しました。
「薬師堂」 雨薬山薬師堂は、大田原城四方固めの一つ西薬師と呼ばれ、薬師如来像が祀られる小堂宇を、寛永年中(1624から1644)に大田原氏が再建したと伝えます。
宝暦7年(1757)大田原宿の大火により焼失、寛政5年(1793)に大田原庸清(つねきよ)により再建されたものが現在の建物で、修復を重ね現在に至っています。
斗拱(ときょう)は三斗組(みつとぐみ)、三手先(みてさき)の詰組(つめぐみ)となっており、二段の尾垂木(おだるき)を用いた化粧垂木は扇垂木(おうぎだるき)の二重垂木となって、
深い「軒の出」を構成しています。向拝(こうはい)柱は角柱で四面に細かな彫刻があります。外壁は貫(ぬき)を用いず、欅(けやき)幅広板を柱間に落とし込み横張とし、
長押(なげし)付きです。和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、江戸中期の寺院建築として特筆されます。(太田市HPより)
大田原の盆踊り唄(大田原市指定無形民俗文化財) - Bing video
大田原市は唐辛子の生産が日本一だそうです。(我が福岡県も生産高は多いのですが・・・(福岡県全国第3位))
大田原宿は、大田原藩12、000石の城下町として発展し、日光街道、黒羽道、塩原道の要衝を控え賑わいました。
天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、総家数245軒、うち本陣2(上町と中町),脇本陣1,旅籠42軒、宿内人口は1428人(男672人、女756人)でした。
本陣は、印南家が勤め、問屋も兼ねていました。敷地980坪、建坪381坪で奥州街道最大でした。
もう一つの本陣と脇本陣は探したけど見つかりませんでした。(ガイドブックにも記載がなかった)
大田原信用金庫の前には、「幸矢の与一像」があります。裏には、この像は郷土が生んだ英雄若き日の弓の名手那須与一公である。「源平屋島の合戦の折、乾坤一擲、一発必中見事扇の的を射抜いたのは時に文治元年(1185)のことであった。若き与一公は那須の山野にあって烈しく厳しい修練の時を過ごされた。その昔弓矢を幸いと称したように、今、手練の弦を離れた与一公の幸矢の
彼方には、人々の幸せと郷土発展の願いがあることに思いをいたし、私たちは千歳に敬仰の念を込めて、この像を建立した。仲町商店会」
金燈籠(かなとうろう)にやってきました。ここが大田原市中心部です。
文政2年(1819年)、大田原宿の有志38人により防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し上町十字路に建てられたものです。
初代金燈籠は、太平洋戦争末期の「金属回収運動」により応召。二代目は、三斗小屋宿から譲り受けましたが、昭和53年に黒磯市に返却されました。
三代目は、昭和54年、地元商店街有志により初代そっくりに再現。初代の心意気と意志を継ぎ、市街地の中心にあって通行者を見守っています。
余談ですが、大田原市には、昔、東野鉄道という鉄道が通っていました。栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)の西那須野駅から同郡黒羽町(現・大田原市)の黒羽駅を経て同郡小川町(現・那珂川町)の那須小川駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社です。黒羽 - 那須小川間は1939年(昭和14年)に、西那須野 - 黒羽間が1968年(昭和43年)に廃止されました。
時間も16:30になりました。今日はここまでとします。
金燈籠バス停よりJR西那須野駅行きのバスがありましたのでこれに乗って西那須野駅に向かいます。
3/29(火)のGPSです。
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