(その1)からの続き
【白河宿】
天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると、白河宿の宿内家数は、1285軒、うち本陣1,脇本陣2,旅籠35軒で宿内人口は、5959人(男3041人、女2918人)でした。
本陣は、現堀川印刷所。芳賀源左衛門が代々勤めました。また、本陣の所には、白河医術講義所(白河県立病院)があり、のちの福島県立医大へと発展していきます。
本陣の向かい側には、脇本陣柳屋跡があります。
この脇本陣には、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いに参戦した新選組斎藤一隊長率いる隊士が宿泊し、最大の激戦となる5月1日、ここから出陣しました。
ここから街道を外れて天恩皇徳寺に向かいます。このお寺の墓地には、福島民謡「会津磐梯山」に登場する「小原庄助のお墓」があります。
小原庄助は、架空の人物と言われていますが、この地には、小原庄助の墓があります。小原庄助は、会津の塗師の久五郎のことで、当時画壇で有名な谷文晁の高弟で羅漢山の麓に住み、
絵を描いていた羅漢山のもとへ絵付けを習いに度々訪れていました。羅漢山人は大酒客として白河で知らぬ者はなく、また久五郎も大の酒好きで二人は、肝胆相照らし、会うたびに連日連夜
酒盛りをしていました。その酒の為か、安政5年(1858)6月、久五郎は、山人のもとで客死してしまい、この皇徳寺に葬られました。
墓石は、杯と徳利を型取り、表面に「会津塗師米汁呑了居士」裏面には、「朝によし、昼はなほよし、晩もよし、飯前飯後其間もよし」と刻んでいます。
久五郎の死から3年後、羅漢山人も亡くなりました。遺言により墓は、酒飲み仲間の久五郎の墓に並んで建てられました。
白河ハリストス正教会聖堂 大正4年(1915)に建てられたピザンチン様式の教会。正八角形のドームと白い壁が印象的です。
銘酒「白陽」大谷忠吉商店 詩人「萩原朔太郎の妻・美津子の生家」
大谷忠吉本店は、明治12年(1879)に酒造業の蔵元として初代大谷忠吉氏によって創業され、現当主で5代目を数えます。3代目大谷忠一郎氏は詩人としても活躍した人物で、酒造業の傍ら
詩人萩原朔太郎に師事し、福島県詩人協会長なども務めました。萩原は、当地の大谷忠一郎のもとを度々訪ねており、そのような縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938)に結婚しました。
菓子舗玉家は、明治45年頃に本町四辻の玉屋菓子舗より分家した初代大槻恒次郎氏によって創業され、現当主で4代目を数えます。菓子舗としては、江戸時代の文久年間(1861~64)に
白河藩主御用達の菓子舗であった由緒を持っています。
建造物は、明治末期頃に建築された伝統的な切妻・平入りの町屋建築で、近年修復がなされています。2階は全面格子を設け、軒はせがい造りとなっています。
国道294号線と合流しました。四ツ辻交差点には、「道標」があります。白河城下を東西に走る奥州街道は、ここから北に方向を変え、城下を出た女石の追分で会津街道と分岐し、
桑折宿(福島県桑折町)では、羽州街道と分岐して仙台方面に向かいました。
西側は「左、せんだい(仙台)、あいづ(会津)、でハ(出羽)、ゑちご(越後)」、北側は、「右、日光、江戸左 たなくら(棚倉)、いハき、水戸」と書かれています。
国道294号線を進み東北本線のガードを潜ります。この辺り道路工事中で少し歩きづらいです。右側には、白河だるま屋さんがあります。
白河だるまは寛政の改革で有名な松平定信公の「市民の生活をより元気に」という想いから幸運をもたらす縁起物として誕生しました。家族の健康や会社の繁栄、高校や大学の合格や選挙での
当選など古来より人々が何かを願う際は必ず白河だるまがそばにあり、たえず人々の夢や希望を応援し続けてきました。白河だるまは幸運の象徴とされている「鶴亀松竹梅」が顔の中に
描写されているのが最大の特徴であり、そのデザインはかの有名な絵師・谷文晁が行ったとされています。また、願いごとをする際はまず、だるまの左目に目を入れ、成就したら右目を
入れるという風習があります。
ガードを潜ると田町大橋です。この付近白河バイパスの工事中です。ガードマンの方の指示でバイパスの方を歩きます。
田町大橋からは、那須連山が見えます。阿武隈川は、この那須連山、旭岳(1896m)を源流とする川で白河から須賀川、郡山、福島を経て宮城県岩沼市と亘理町の境で太平洋に至ります。
田町大橋を渡り「褜姫神社」を探しますが、わかりません。近くの人に聞くと、旧田町大橋の方にあるそうです。新橋から旧橋の方に歩きなおします。
褜姫(えなひめ)神社
義経は、兵法を学ぶため、平泉から京にいる陰陽師・兵法家・鬼一法眼に身許を偽って会い、 鬼一の娘皆鶴姫に近づき、その手引きによって秘伝の書を手に入れ習読し、奥州へ帰った。
その後、義経は平家軍を滅ぼすが、追われの身となり金売吉次と共に平泉に逃亡した。皆鶴姫も旅装を整え恋する義経を慕って奥州に向かった。しかし、旅慣れぬ身故に、京都からの長旅で
白河北辺の峻険に歩行困難となり、病をえて此処に辿り、宿もなく、雨露を防ぐ術もなく、旅の衣を傍の楓に掛け横臥快復を待ちましたが、この地で病に倒れ命を落としたと伝えられている。
里人たちは、姫の死を悼んで社に祀り、皆鶴の懐にあった梅の実をそばに植えた。梅は成長して「八房の梅」となった。 現在は、その跡に若木が植えられている。
また、社の傍らには姫が着衣を濯いで枝に掛けた「衣掛の楓」がある。皆鶴の泪が注がれるためか春や秋に、 晴天の時でもこの樹の辺りだけは、なぜか時雨が降ることから
「時雨の楓」ともいわれている。現在は、根株を残すのみとなっている。
仙臺藩士戊辰戦没之碑 戊辰戦争の時、ここは会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点で、東軍の小峰城奪還戦で激戦が展開された場所。白河口の戦いで戦士した
坂本大炊(さかもとおおい)ら仙台藩士150余名の慰霊碑です。
遊女志げ女の碑 戊辰戦争時、悲劇の死を遂げた遊女しげについて記す碑で、昭和二十九年(一九五四)の建立である。
碑によれば、しげは越後国三条の生れで、白河の旅籠坂田屋に抱えられていた。閏四月上旬に奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵(長州藩出身)が小峰城に入った際に世良と馴染みになったという。
しかし世良は、白河は危険と察して白河を逃れた。その脱出を助けたと疑われたしげは、世良を敵視していた会津藩士に殺害されたという。享年二十二歳。法名を梅質貞顔信女と伝える。
しげが殺されたと知った坂田屋の下男は会津藩士を追い、この女石の地でしげの仇を討ったという。
女石追分 徳川幕府道中奉行管轄の奥州道中は、ここまでです。
奥州街道(道中)完歩しました。
2019年5月ちょうど年号が「令和」になったころ江戸日本橋をスタートし、途中コロナで身動きができませんでしたが、2021年11月に再開し、2022年4月に白河迄完歩しました。
足掛け3年、実数は11日間、距離数約200kmでした。
帰りは、女石から白河駅まで歩きました。白河駅は、明治20年(1887)7月東北本線が開通したときにできました。
現在の駅舎は、大正時代に建てられました。待合室にあるステンドグラスが特徴です。現在無人駅です。
白河の地名の由来は、白河の関跡の下を流れる「白川」という小川に由来するという説とアイヌ語で❝自陣❞を指す「シラガー」という言葉が転じたものという二つの説があり、古くは
白川と表記されていました。
白坂宿から白河宿までのGPSです。
次回の街道歩きは、「京街道」を予定しています。