3/30(水)奥州街道(道中)3日目。
奥州街道は、「ちゃんと歩ける奥州街道」というガイドブックを参考にして歩いています。このガイドブックの発行が2018年です。
この本には、各宿場への交通手段も書いてあり非常に助かっています。歩く前に一応その交通機関を調べてみると、ある宿場へは、コミュニティバスしかなく、しかも前日午後4時まで
予約しなければいけない、また、ある宿場へには、バスが一応運行していますが、それは朝と夕方の1便だけ。
発行された2018年から4年しか経っていませんが、交通事情が大幅に変わっています。
明治18年に開通した東北本線は、奥州街道の宿場を通っていません。東北本線の駅からタクシーでその宿場に行こうかとも考えましたが、帰りのタクシーが拾えるかどうかわかりません。
考えた末、レンタカーを借りてこの区間「大田原~鍋掛~越堀~芦野~白坂」廻りました。
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【大田原宿~鍋掛宿~越堀宿】
宇都宮駅近くのレンタカーで車を借り、前日のゴール地大田原に向かいます。
大田原城址に車を止め近くを歩いてみます。
大田原城は、大俵資清(すけきよ)によって築城され、姓を大田原と改称しました。天文12年(1543)あるいは天文14年(1545)にそれまで本拠としていた町島(まちじま)の水口居館から移ったと
いわれます。以後、明治4年(1871)の廃藩置県にいたるまでの大田原氏の居城でした。
本丸・二の丸・三の丸に区画され、この外、北と西の曲輪(くるわ)・馬場・作事場等がある複郭式の平山城(ひらやまじろ)でした。
徳川家康は特にこの地を重視し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い前、上杉景勝(かげかつ)の挙兵の際にはその備えとして急ぎ城の修理を命じ、さらに3代将軍家光は、常時玄米千石を城中に
貯蔵させ奥州への備えとしました。文政8年(1825)には火災によって焼失しましたが、同9年新たに修造されました。
戊辰戦争では、大田原藩は新政府軍につき、大田原城は会津攻めの拠点となりました。そのため、慶応4年(1868)会津軍の攻撃をうけましたが、火薬庫の爆発により落城はまぬがれました。
明治5年(1872)、城は兵部省に引き渡され取り壊されました。明治19年(1886)長野県出身の渡辺国武(くにたけ)(大蔵大臣)の所有となりましたが、昭和12年(1937)、子の
渡辺千冬(ちふゆ)(司法大臣)により当時の大田原町に寄贈され、のちに龍城公園として整備されました。(大田原市HPより)
城址には、河津桜でしょうか?きれいです。(ソメイヨシノは、まだでした)
大田原城址から歩道橋を通り、大田原神社に向かいます。
大田原神社は、大同2年(807)創建。主祭神は大己貫神と小彦名神。当初は温泉神社と呼ばれ、大田原歴代藩主の保護を受けてきました。龍城公園の北側丘陵にあり、うっそうとした楠の大木や老杉に囲まれた本殿は見事です。(大田原市HPより)
ホテルみつやが旅籠上州屋跡ですが、みつやが見つからない!ホテルの名前が「ホテル那須大田原ヒルズ」に変わっていました。
河原の信号を左折すると中田原工業団地があります。ここには、富士電機、資生堂などの工場があります。
その先に行くと「平家之豪族瀬尾家居館跡碑」があります。碑文には、「古来九世紀前半 當地より西に 二〇〇間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる 平成二十一年十月吉日 瀬尾家本家 四十一代當主 隆志書」。
天喜5年(1057)源義家は奥州征伐の際、秋葉山瀬尾神社に戦勝祈願し、那須資晴の子藤王丸を引見しました。
その横には、道標「東山道(旧奥州街道)北 陸奥の国・出羽の国 、南 奈良の国へ」
また、曾良が那須野で詠んだ「かさねとは やえなでしこの ななるべし」の句碑が立っています。
意訳:かさねとは、(たとえて言えば)八重撫子の名前だなぁ。
芭蕉が奥の細道の旅で那須野を行くとき、道に迷うと危険だからと馬を借りました。すると馬のあとから女の子がついてきて、名前を聞くと「かさね」と言います。
珍しいけど上品な名前だなと、同行の曾良がこの句を詠みました。
中田原一里塚 江戸日本橋よりより38里目。子の一里塚は当初道の両側にありましたが、南側の方は、宅地建設の際、取り壊されました。北側は半分切り取られた形で残っていましたが、
道路拡幅の際、平成12年(2000)に約1,5m後方に移築されました。
棚倉追分道標 正面に是より左奥州道、右側面に是より右たなくら道、左側面に南無阿弥陀仏。
寛永6年(1629)8月「紫衣(しえ)事件」によって江戸幕府の怒りを買った僧、沢庵宗彭と玉室宗珀が流罪としてここまで流され、この追分口に至りました。
沢庵は、奥州路、玉室は棚倉路を北に進むに際し、訣別の詩を作り、袂を分かったという歴史的な地点です。
那須塩原市に入ります。
樋沢の不動明王 祠の中に明暦2年(1656)造立の寄木作り不動明王像が安置されています。地元では、「お不動様」と呼ばれ親しまれています。
道路の擁壁の所に「鍋掛一里塚」があります。階段になっていて登っていきます。一里塚の案内板の横には、「鍋掛(愛宕)神社」があります。
鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つとされた那珂川を控え、対岸の越堀宿と二つで一宿としての務めを果たしていました。
鍋掛の名の起こりは、那珂川が増水して川止めになったとき、旅人たちは川が減水するまで逗留しなければなりませんでした。その時、旅籠のみでは人手が足らないため、
宿場の人々が相助けて鍋・釜を幾個となく掛けて炊き出しをしたのが地名の由来といわれます。那珂川が川留になると大いに賑わいました。
天保14年(1843)奥州道中宿村大概帳によると、鍋掛宿宿内家数は、68軒、うち本陣1,脇本陣1,旅籠23軒で宿内人口は、346人(男160、女186人)でした。
本陣跡を探しますが、ガイドブックにも載っておらずわかりませんでした。
昭明橋の袂の所に鍋掛の渡し跡があるそうですので近くで工事をされている方に聞きますが、わからないとのことで多分、馬頭観音のある所だろうと思い写真に撮りました。
昭明橋を渡ると「越堀(こえぼり)宿」です。
越堀宿は江戸時代初期の寛永12年(1635年)、仙台藩の藩主伊達家が参勤交代で仙台の帰国途中に大雨となり那珂川が増水し渡れなかった為に仮の宿所を設営したのが始まりとされ、
正保3年(1646)に正式に奥州街道の宿場町となりました。江戸日本橋からは24番目にあたり、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10~11軒、総戸数113軒、
人口569人(男283人、女186人)が軒を連ねていました。享和2年(1802)旧暦6月19日(西暦7月18日)には第三次伊能測量隊も越堀宿を利用しており本陣河内屋源蔵邸で
宿泊しています。越堀宿は黒羽藩領に属するものの、天領に属した鍋掛宿と距離も近く2つの宿で1つの宿場の役割を担い、藩領が入り組んでいた為、江戸時代後期には数箇所に藩の境界石が
建立され、その内の1つが浄泉寺の境内に移築保存されています。現在は緩やかな曲線道路ですが宿場の出入口は枡形だったようで越堀公民館前には「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」と
彫り込まれた石碑が建立されています。明治時代の大火により多くの建物が焼失し、道路の拡幅工事などで当時の宿場町の雰囲気は失われています。
本陣は、藤田平次が勤め、現在の町田屋商店の所にありました。
黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩の境界を明らかにするため、文化10~11年(1813~1814)何か所かに境界石を建てました。ちょうど増業が大阪城勤務の時で碑は大阪で造られ船で
運ばれました。ここ浄泉寺にある境界石は、「従此川中東黒羽領」と刻まれています。もともとこの境界石は、那珂川の左岸越堀宿(黒羽領)側に建てられていました。
川を挟んで向こう側は、鍋掛宿(幕府領)で両宿は奥州街道の宿駅でした。大正7~8年(1918~19)頃、保存の為現在地に移されました。
街道の上の方に墓標が立っています。これは、江戸時代末期の画家「高久靄厓(たかくあいがい)」の墓です。渡辺崋山と並ぶ南画の巨匠。
靄厓は1796年に、旧黒磯市(現那須塩原市)の画商の長男として生まれました。幼いときから絵を好み、成人してからは各地を遍歴して、その才能を深めました。
28才の時江戸に上って谷文晁の門下に入り、程なく文晁自慢の高弟となり、さらに池大雅の南画に傾倒し、その名声を高めました。
代表作・六曲一双屏風『歳寒三友図』等が栃木県県立美術館に所蔵されています。
走っていると、富士見峠があります。ここは、標高295,5m、往時は富士山がはるかに望めたそうです。
ここに馬頭観世音があります。説明文を見ると、「馬頭観世音は、荷役として世話になった馬の供養と旅人の交通の安全を祈り、道標として建てられた石仏である。
安永4年(1775)12月寺子村を施主村とし、寺子村25ヶ村のうち14ヶ村が協力して碑を建立したようである。
地元の古老の話では、かつて奥州街道富士見峠には、2~3軒の茶屋があり行き交う旅人の休息地でもあったという。」
寺子の信号の所に寺子一里塚公園があります。 奥州街42番目の一里塚。江戸42里(165km)。最初の一里塚は、現在地から50m白河寄りにありましたが、学校建設や道路の拡張に
よってなくなり、この一里塚公園に復元されました。
余笹川を渡り那須モータースポーツランド(サーキット場)の手前に、弁慶の足踏み石があります。
馬頭観世音の横に草鞋のような形の大きな窪みがあります。地元の言い伝えでは、源義経が平家との戦いの後、兄の源頼朝と対立し、家来の武蔵坊弁慶らとともに奥州街道を通り、
奥州平家へ落ち延びる道中、石田坂で一休みし、さて、出発しようと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が履いていた草鞋の形に
窪んでしまったとされています。後にその石を三つに切り分け、その一つに馬頭観世音の文字を刻み、街道を往来する荷駄馬の守り神にするためここ石田坂に設置したそうです。
街道は、那須郡那須町に入りました。民家の所に「道標」が立っています。ちょっと文字が消えかけ読みにくいですが、「右新田ヲ経テ黒羽ニ至 左芦野町ヲ経テ白河ニ至」
<つづく>