ペチュニアの苗を買ってきて庭に植えたのですが、虫に食い荒らされたりして、小さくなるばかりです。仕方なく鉢植えにして、回復を待っていますが、隣家では白いペチュニアが咲き誇っているのです。花言葉は「心の安らぎ」です。
原始時代から、牙や鋭い爪など、戦う武器を持たない弱い人間は、棒や石、火などで猛獣を防ぎ、洞窟などに身を隠し、集団でひっそり生き延びていたのです。私は幼い頃、毎晩のように悪夢に悩まされていました。猛獣に追いかけられ、一生懸命逃げるのですが、足がのろく、ついに追いつかれ、「助けて」と悲鳴を上げて夢から覚めるのです。原始時代の遺伝子が、私にも刷り込まれていたようです。集団から離れ孤立した人間は、忽ち空腹の猛獣たちの餌食になってしまうのです。
人間は遺伝子的に、安全な集団の中で初めて「心の安らぎ」を得られるのです。それが人間の究極的な幸せなのではないでしょうか。神は、そうさせるため人間を「さみしがり屋」に創ったのです。高齢者クラブや同好会に人が集まるのは、「さみしがり屋」が「心の安らぎ」を求めている姿だと思います。
瀬戸内寂聴が好んで口にする言葉に、「利他」があります。バラバラに漂っている人々を集める凝集剤のようなものです。母が私に望んでいた「世のため人のために尽くす」と同義語のように聞こえます。30代の私は、失敗した農林省の協力事業を収束させるため、捨て駒としてマレーシアに派遣されました。ところが、現地の人達に信頼され、全面的協力を得て懸案問題を解決し、看板プロジェクトに育て上げてしまいました。定年退職後、土浦に定住し、高齢者クラブ・囲碁クラブ・健康体操クラブなどに加入すると、忽ち会長に祭り上げられてしまいました。これらは母の遺訓「世のため人のため」精神に徹して行動した賜と思っています。
皆から言わせると、厄介で誰もが嫌がる役を押しつけてやったと、陰でほくそ笑んでいることでしょう。しかし、「世のため人のため」を信奉する私には、皆さんに「心の安らぎ」を配達する「他利」の天職を頂いたと、感謝し職務に励んでいるのです。「利他」の反意語「利己」では、嬉々として天職に励む今の私の姿はなかったでしょう。
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