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なんとなく怖かった話

今日、午後3時半頃、銀座の路地を歩いていた(シャツとネクタイを買いに行くつもりで)ところ、高級乗用車が近づいてきて(いかにもというような黒のベンツなどではないが、高級車だということは分かる)、助手席の窓が開いて、50-60代くらいのグレーのスーツを着た紳士に呼び止められた。

彼は、私を呼び寄せて、和光の袋の中から箱を取りだし、「これを差し上げますので、使ってください」と、私に渡そうとする。見ると、(たぶん)ロレックスのペア・ウォッチだ。「奥さんと一緒に使って下さい」。

「こんな大層なものを頂くいわれはありません」と断ると、「あなたはまじめそうな顔をしているし、名刺を貰いたいとか、名前を聞きたいと言っているのではないのだから、安心して受け取って下さい。私は御徒町に宝石屋を開業しようとしており、その宣伝の意味もあって、差し上げるものです」と言う。さらに、木の箱に入った財布を見せて「これも持って行って下さい。オーストリッチの財布で十数万円くらいの品物です」と説明する。(幸か不幸か、ロレックスは私の趣味ではないし、横長タイプの高級財布を使うほどのお金持ちでもない)

昨日来の寝不足もあって、どうしたらいいか分からなくなりかけたが、リスク回避の本能が働いて、「お気持ちだけで結構です。私はマジメなので、やはり、受け取ることは出来ません」と言って、頭を下げて固辞した。

私が去ろうとすると、件の男性は「いいですか。人生はまじめなだけでは、うまくいかないのですよ」と言う(これは、これで、印象的ないい台詞だ!)ので、私は「はい。ありがとうございます。お言葉を胸に刻んでおきます」と言って、車から離れた。念のため、車のナンバーを見てはおいたが、さて、一体、彼(正確には運転者がいたので彼ら)が何を意図していたのかは分からない。

何か落とし穴があるとしても、それは何なのだろうか?ただ、たとえば、たまたま今日の読売新聞の一面には私の顔写真が出ているし、雑誌やテレビなどで、私の顔と名前が割れることは十分考えておかなければならない。場合によっては、相手が既に私の顔を知っていた可能性もゼロではない。でも、何なのだ?

可能性の問題としては、純粋な親切だったのかも知れないし、私は具体的な危害にさらされたわけではないので、「被害に遭った」と言うつもりはないし、だから車のナンバーも書かないが、何となく不気味な出来事ではあった。何くれとなく、身の周りに気をつけることにしよう。

記録方々、ご報告しておきます。
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まだ続く永田メール問題

民主党・永田議員の偽メール問題がまだくすぶっている。情報提供者とされる西沢孝氏を証人喚問すると自民党が言っているわけだが、これは自民党の立場に立って考えるならば、当然の戦略であり予想できたことだ。

民主党は、早い時点で永田議員辞職を打ち出すべきだったし、時間経過後は前原代表の辞任くらいの処置が必要だった(時間が経った後の謝罪はスケールアップが必要だ。これは、提出が遅れた仕事の質が高くなければいけないのと同じだ)。もちろん、国会はこれだけをやっているわけではないが、メディア的には、依然としてこのニュースの露出が多い。政治的には、国会の実質的に後ろ半分を棒に振ったといっても過言ではないだろう。

偽メール問題の解明は、明らかに「国民生活に影響のある国政上の一大事」ではない。しかし、ここまで来ると、あまりにもだらしがない野党の実態を解明することが、国民にとっても重要だという気がしてくるので、西沢氏の証人喚問には反対しない。虚言癖がある記者と報じられているが、どのくらい下らない人物に民主党が引っ掛かったのか、また、民主党がどのような意思決定で永田質問に至ったのかが明らかにされるならば、まんざら無駄ではないような気がする。

それにしても、民主党は、これが絶対多数与党を牽制すべき野党第一党なのかと思うと、あまりの情けなさに気が遠くなりそうだ。当事者にとっては、民主党内のポジションや勢力争いが大切なのかも知れないが、この体たらくを見せられる国民の身にもなって欲しい。かつての社会党以下だと思う。
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側頭葉てんかんと宗教の誕生

ここのところ「倫理」をどう扱うかに興味を持っているので、「脳の中の倫理」(マイケル.S.ガザニガ著、梶山あゆみ訳、紀伊國屋書店)という本を読んでみた。

倫理に関する考え方の収穫としては、「責任」という概念は複数の人間がいてはじめて生じるものであり、個人単独では存在せず、したがって、行為が脳の器質に起因するものであるか否かとは無関係なのではないか、という著者の考え方が参考になった。確かに、誰に対してということもなく、個人が世界に対して(?)「責任を取る」というような「責任」という言葉の使い方には違和感があったのだが、他人と関係のない状況で「責任」という言葉を使うことは、ギルバート・ライル流に言うと、カテゴリー・ミステイクなのだろう。

倫理以外に面白いと思ったのは、脳という臓器が、①辻褄を合わせようとする(左脳の「解釈装置」で辻褄の合う物語を作る)臓器であり、②記憶も書き替えられるし、③不都合なことは忘れる臓器だ、という研究の紹介だ。著者自身が、特に、左右の脳を分離した状態の研究の大家であり、左脳の「解釈装置」に詳しいので、この本の後半の説明は面白い。犯罪の目撃証言がいかにあやふやなものかがよく分かるし、自分の記憶も簡単に信用してはいけない、ということもまた分かる。

「信じたがる脳」と題された第9章では、宗教的な体験と側頭葉てんかんの関連性についての面白い仮説があった。

側頭葉てんかんは、てんかんの一種だが、意識の喪失や痙攣を伴わない。患者は発作が起きると、聴覚、視覚、嗅覚、触覚に異常を覚え、しばらく茫然自失状態となったり、くちをぺちゃくちゃ動かすような症状が現れたりする。側頭葉てんかんの患者は、発作が起きていない状況でも、ゲシュヴィント症候群と称せられる特色を持つとされこれは、①過剰書字(たくさん文章を書かずにいられない)、②過剰な宗教性・道徳性、③攻撃性、④粘着性、⑤性に対する極端な態度(非常に強まるか、弱まるか)を示すという。典型的には画家のゴッホがそうだ。

ゴッホ以外にも側頭葉てんかんと考えられている有名人は、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ギュスターブ・フローベールなどの天才、さらには、パウロ、ムハンマド、モーセ、仏陀、ジャンヌ・ダルクなどの宗教関係者が伝記からてんかん発作を経験していると思われる、という。

側頭葉は強烈な宗教体験を知覚するときや、幻聴が聞こえるときに活動するとされており、弱い磁場を発するヘルメットで、側頭葉を刺激して、側頭葉てんかん発作のような明確な宗教体験をした(カナダのローレンシアン大学のマイケル・パーシンガーの研究)という研究もある。かつての、オウム真理教のヘッドギアも似たような効果のものだったのだろうか。

ガザニガの仮説は、大まかにいえば、教祖の側頭葉てんかん発作ないしはそれに近い脳活動が宗教体験のもとになって、これが左脳の解釈装置で現実と(ないしは物語と)一緒に解釈され、ゲシュヴィント症候群の特徴を持った教祖が他人に影響を与えることによって、宗教が生まれ、これが現実生活に合ったものであった場合に、その宗教が大きくなっているのではないか、というようなストーリーだ(大まかな要約なので、詳しくは原著にあたって下さい)。

尚、最後の「宗教の超自然選択」とも言うべき考え方は、『アトランティック・マンスリー』のトビー・レスターというジャーナリストの仮説で、彼によると、発展する宗教は、①健康を増進し、②安心感を高め、③配偶者選びを促進する、ものが多いのだそうだ。たとえば、発生後1世紀半しか経っていないのに、数百万人の信者がいるモルモン教は、福祉活動に力を入れており、こうした条件を満たす宗教だという。

なるほど、このような誕生の仕方があるのと思えば、宗教の存在にも納得が行く。それにしても、側頭葉てんかんの持ち主本人は人生が楽ではないのかも知れないが(ゴッホもドストエフスキーもお気楽な人生とは思えない)、これだけ錚々たるメンバーが並ぶと、自分が側頭葉てんかんを持っていないことが少し残念に思えてくる。
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リフレ派を批判した山崎元氏のその後

田中秀臣氏の「ノーガード経済論戦」というブログを読んでいたら、野口旭氏の新著「エコノミストたちの歪んだ水晶玉」に関する記事があって、この本には『声の出るゴキブリ』とリフレ派を批判した山崎元氏のその後」が出ているという記述があった。自分のこととあっては、なかなか興味深い。早速、書店に行って、その本を買ってみた。

尚、私が、野口旭氏にお会いしたのは、TV出演の際に一度だけであり、喧嘩したことがあるわけではないし、同氏に対して何ら悪感情は持っていない。また、田中秀臣氏とは残念ながらお会いしたことがないが、氏のご著書を編集した編集者(現在私の本を編集中)が「尊敬している」と言うので、一度お会いしてみたいものだと思っている。

該当ページを探すのに苦労したが、76ページから77ページにかけて、私がJMMに書いた記事の引用が二つある。

最初の引用はJMMの2005年7月11日号のもので、村上龍さんの「国民がもっとお金を使うようになると、日本経済は復活するのでしょうか」という問に対するものだという。

途中を省略して書くと次のようなことが書かれている。
「GDP統計で見た経済活動が活発化することを日本経済の復活と考えると、国民がもっとお金を使うこと、すなわち消費が拡大することは、日本経済の復活に直結するといっていいでしょう。・・・・・(失業率が高いことなどから生産要素の完全利用でないという現状認識)・・・・。つまり、経済活動の活発化を制約する要因は、供給よりも、需要の側にあるということなので、需要が増えることが『日本経済の復活』につながるという認識は間違いないと思います」

これに対して、野口氏は「つまり山崎氏は、リフレ派と同様に、これまでの低成長がサプライサイドの構造問題ではなくて総需要の不足によるものであり、その高失業率は構造的失業ではなく需要不足による失業であると認識しているのである」と述べて、「かつては」として、次の引用に続く。JMMの1999年9月20日号のものらしい。

「インフレ期待、ISバランス、需給ギャップ等々といったいい加減なマクロ概念だけで現実の経済に介入する意見をいおうとする『マクロ馬鹿』は”声の出るゴキブリ”のようなものであり、駆逐されるべきである」が引用されている。

続いて野口氏は、「と述べていた山崎氏の政策的立場が、リフレ派と根本的に相容れない物であったことは明白である。その山崎氏が、リフレ派と基本的に同様の診断を行っているという事実は、結局はリフレ派の見方がより真実に近かったことを裏付けるものであろう」

文章の綾とはいえ、私の「診断」がリフレ派の正しさの「裏付け」になるとは、過分の取り扱いとも言え、恐縮である。尚、野口氏のご見解及び「リフレ派」の考え方に対する、私の意見は、せっかく本を買ったことでもあり、この本を読んでから、別の機会にまた書くとして、「山崎元の認識」について、幾つか補足説明しておきたい。(意見を正確に伝える、というのは、なかなか難しい作業だと改めて思う)

① 国民がもっとお金を使う、つまり需要が増えると、GDPが増える、というのは設備・労働に関する制約がない限り、殆ど自明の事だ。Yes/Noの質問であれば、ハイエクに訊いても、マルクスに訊いても、これはYesとしか答えようがないと思う。ある意味では質問が悪いのだが、JMMでは、質問をきっかけとして、回答者が気を利かせて意味のあることを考えることになっている。質問としては、本来、「国民にもっとお金を使わせる方法はあるか?」とか「「・・・ということなら政府がお金を使うべきなのか?」といったものであれば、もっと論じやすかったのだろうと思う。

② 「失われた10年」以来の不況が、需要の不足を伴っていたという認識は正しいと、私は、かつても今もそう思う(この点は、たぶん、「リフレ派」と同じだろう)。だから、たとえば、日銀がベースマネーを供給しても、前向きの資金需要が乏しくて銀行貸し出しが伸びないのだから、マネーサプライが増えず、量的緩和によって、ただちにインフレを起こすことが出来なかったのだろう。尚、実験のしようがないから、単に私の印象論に過ぎないが、日銀が当時「物価上昇率0%以上を目指す」ではなくて、「2%インフレを目指す」と言っていたとしても、需要不足から銀行貸し出しが伸びない状況に大きな変化はなかっただろうと考えている。

③ 「供給に対して、需要が不足している」ということは、論理的に「供給サイドには問題がない」ということを常に意味する訳ではない。特別な意味を込めて「構造的な」と言いたい気持ちは私にはないが、企業も政府も、相当に非能率的だったと認識していたし、今でも多々問題はある(特に政府に)と思う。その後、企業(供給側)の改善が設備投資という需要をもたらして、景気を後押ししているように、供給側も景気に関係がある。但し、不況そのものは表面に表れる現象としてほぼ常に「需要不足」の形態を取るし、そこで何らかの需要追加があればGDPに対しては即効性があることは否定しない。

④ 経済の状況認識には大きな違いがないとしても、たぶん「リフレ派」の主張と、私の意見が大きく異なるのは、私は「総需要不足であっても、(お金の使い方にもよるが、概ね)政府が不足を埋めるべきではない」と考えている点だろう。総需要拡張的な政府の活動は、第一にこれがアンフェアな富の移転を大きく伴いやすいことと、第二に資源の有効な使用になっていない公算が大きいこと(たとえば何兆円もの有効かつ効率的な「投資」を毎年考える才覚が官僚にあるとは思えない)、の二点に問題がある。リフレ派が重視する「失業(の解消)」と、私が気にする「所有権のフェアネス、投資の効率性」の間にはトレードオフがあり、これをどう考えるかが問題である。(この点については、私自身も、経済倫理的な認識をもっと深めて、且つ整理した議論を行うべきだと考えている)

⑤ 私がマクロの見地から政府が需要を追加すべきだという意見(たぶん「リフレ派」の意見)に対して批判的なのは、これが、何にカネを使うのかという「何に」と、誰が損をして誰が得をする形で需要追加(或いは期待実質金利の大きな操作)を行うのかという「誰」と「損得」の問題に対して、無関心ないしは、あまりに楽観的に思えるからだ。結果として、「政府による総需要追加」という処方箋が、政府の非効率性や、政府と癒着した業者の儲けと業界を将来生活の糧に利用する公務員の存在などに加担しているのではないか、と思うのだ。冗談の通じにくそうな人達なので、リフレ派を敢えて再びゴキブリ呼ばわりする積もりはないのだが、マクロの集計量よりも「何に」お金、ひいては資源が使われて、「誰が」得をし、損をしているか、という「フェアネス」の問題に対してもう少し触覚ならぬアンテナを働かせるべきではないのだろうか。私も、もっと勉強が必要だが、「リフレ派」ともし議論をするとすれば、経済倫理の問題について論じてみたい。たぶんこの点を放置して、経済政策を論じても無駄である。

⑥ 現在の一応の景気回復状態は、政府の総需要追加政策によるものではなく、主として、(当初は主に)幸運な外需の拡大と、(最近は主に)民間企業の自発的努力によるものだと思う。また、需要と供給のバランスが取れてきたことと、貸し手・借り手共に体力が改善したことが、金融環境の改善につながり、物価上昇率のデフレ脱却につながってきた(今後は分からないが・・)。つまり、景気回復は民間によるものであって、政府・日銀のリフレ政策によるものではない、と思っている。

⑦ 先の該当ページで論じられている訳ではないが、野口氏は「清算主義」(詳しくは氏のご著書をご参照下さい)について詳しく論じて、批判している。私の意見は、清算主義的と取られることがしばしばあるが、私は、たとえば、銀行や重債務企業を、「助けるな!」と言っているのであって、「潰せ!」と言っているのではない(同時に、実体を隠すことを許すなとも言っているが)。これが清算主義に該当するのかどうかのご判断は読者にお任せする。尚、自主廃業時に山一證券に勤めていた者の感想としては、山一の「清算」は(私にとっては大変だったが)経済倫理上も、資源(特に人的資源)の社会的な利用効率の上でも、正しかったと思っている。



物を書いたり、公の場で話したりする機会があれば、何らかのリアクションがあってもおかしくない。とはいえ、自分の書いた物が他人の議論の対象になることがあという事実には、身の引き締まる思いがする。私も間違うことがあるし、批判は歓迎なのだが、それ以前に、自分の意図を正確に伝えることの難しさ・厳しさということに思い至る。

それにしても、野口旭先生は、1999年のJMMまでお持ちとは、物持ちがいい。私は、これまでに自分が書いたものですら、すっかり散逸しており、「ゴキブリ云々」も他人に指摘されてやっと思い出す始末だ。リフレ派の学説と共に、文書管理の態度も、野口先生に学んだ方が良さそうだ。

(尚、この記事は、田中秀臣氏の該当記事にトラックバックさせていただいています。充実した内容のブログなので、今後も読ませていただこうと思っています。もちろん、田中先生及び田中先生のブログの読者の、当ブログへのご来訪は歓迎いたします。コメントもあるので、どうぞ)
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取材源の秘匿とメディアの特殊な創造力

先日、マネー関係の取材を受けて、「では、原稿の確認はどうしましょうか?」とライターに訊いたら、ライターと一緒に来た編集者(記者かも知れない)が「申し訳ありませんが、原稿はお見せできないことになっています」と割って入った。メディアには「編集権」という概念があることは知っているので、「取材を受けた以上は、そちらに、勝手に書かれることは覚悟しています。編集権に介入する積もりはないので、ご安心下さい。まあ、そのかわり正確に書いて下さいよ」と言って了承することにした。

現在、いろいろなメディアから取材を受けるが、①原稿を丸ごとチェックする形が5割、②カギ括弧の中(つまり私の直接の発言の形を取る内容)だけチェックする形が4割、③原稿は一切チェックできない形が1割、というところだろうか。③は新聞系のメディアに多いような気もするが、新聞そのもので①のようなケースもあるから、会社・媒体・担当する個人によってちがうと申し上げて置こう。

誤解を自分の発言として書かれるリスクはあるが、メディアは、ある意味では、私の意見や私個人を広報してくれる相手なのだから、なるべく協力して仲良くしよう、というのが、山崎元個人としての現在のポリシーだ。取材に対しては、②を希望することが多いが、先方のポリシーによっては③でも仕方がない、と思っている。

ただ、マネー運用のような割合当たり障りのない話なら、誤解を書かれても(ニュアンスまで含めると、正確に書かれる事の方が少ないくらいなのだが)、別の機会に訂正できるし(同じメディアでは無理だが)、個人の名誉にそれほど影響はないと思うので問題ないが、たとえば私が企業の経営者のようなポジションにあったり、社会・政治に影響するような問題の当事者になったりする場合には、③の形で取材を受けて大丈夫なのか、というのは難しい判断になることがあるだろう。

私が、ある種の希望的性善説といっても良いくらいに、メディアに対する「セキュリティー・レベル」を下げているのは、私の立場上・商売上の判断であると考えて頂いていい。もっと「立場」が大切な読者は、メディアの取材を心して受ける方がいいし、場合によっては拒否すべきだろう。

一方、ここのところ、記者の「取材源の秘匿」を認めるか否かが裁判で問われるケースが何件か続けて登場している。

これも立場によっていろいろな意見(少なくとも利害)がありそうな問題だ。記者本人や情報提供者の立場としては、裁判ごときで情報源を明らかにされてはたまらない。記者としては、有罪になっても情報源を守るべきだと思うし、私が記者でもそうしたいと思う。

一方、一読者としては、日本のメディアの報道が、情報ソースを全く明示しないケースが多いことに、情報の質に対する不満と共に、一抹の「いやな感じ」を持っている。

たとえば、結果的に嘘を書いても、取材したという事実と取材ノートなどがあれば、メディア(たとえば新聞)側が事実だと判断するに十分だと思っただけで、メディア上では「事実」として報道される。仮に、意図的に、誰かを貶める目的を持って記事を作ろうとすると、関係者などへの取材を形ばかりに行って、記者が「確かに私はこう聞いたと思う」という内容をノートに認めておけば、メディア上の「事実」を簡単にでっちあげるととができる。第三者が、プロセスそのものの正当性を反証することができないのだから、メディアは強い。そして、いったん事実として書かれたことを、裁判などで訂正して、被害を取り戻すのは、まあ無理だろう。

「取材源の秘匿」、「編集権」といったものの存在で、メディアは、あたかも銀行の信用創造のように、「事実」を創造する特殊な力を持っているのだ。

もちろん、メディア側も自分の媒体の信用というリスクを取りながら情報を発信してはいるのだが、メディアが強すぎるのも気持ちが悪いし、逆に、メディアが弱すぎる(たとえば政権に対して)のも危険である。メディアにどの程度の力をどのようなルールの下に持たせるのが社会設計上望ましいのかは、誰をどこまでメディアと認定するのかという問題も含めて、難問である。

ともかく、メディアがある種の「事実の創造力」を持っていることは確認しておこう。
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「行方不明3年の小学生に卒業証書」は美談なのか?

報道によると、大阪府熊取町教育委員会は24日、約3年前の2003年5月に下校中に行方不明になった町立北小6年、吉川友梨さん(11)に、卒業証書を発行する方針を明らかにしたという。3月17日の卒業式当日に発行し、校長か担任が友梨さんの両親に渡すことを検討しているらしい。同町教委は友梨さんの中学進学について「卒業式までに方針を決めたい」としている。

昨日のニュースGyaOに出演中に聞いた話で、コメントする時間が無かったのだが、果たしてこれは「美談」なのか。

仮に、行方不明中の3年間が義務教育を受けられない形で過ごされていたのなら、本人や家族の意向によっては、小学校の何れかの学年に編入させてあげるのが親切であるような気がする。中学校入学という選択肢を与えること自体は悪くないかも知れないが(3年間の過ごし方によるが)、機械的に学年を進めて、いわば予定通りに義務教育の学校を追い出してしまうような方針を、本人がいないところで決めるのは如何なものだろうか。

この件に限らず、たとえば発達の遅れた子には義務教育を長く受けさせてあげるのが親切だろうし、学習の進んだ子には飛び級をもっと認めることが本人の才能を伸ばすことにつながると思う。硬直的に学年を進めて行く行政と学校の現在のやり方には暖かみと柔軟性が欠けている。たとえば、本人や家族が留年を希望しても、校長の判断で学年を進めて卒業させてしまう。校長ごときがなぜぞこまで強力な判断権を持つのか疑問だ。「校長」は、本来、サービス業の店舗の「店長」のようなものに過ぎない。

もちろん、吉川友梨さんのケースについては、何はともあれ、ご本人が無事に戻ってきてくれることが一番重要な問題だ。従って、仮にコメントする時間があったとしても、ニュース番組のような場では、上記のような問題について論じるべきではなかったのかも知れないが、私は、番組中に行政・学校の方針が何とも気になったので、ここに書き留めておく。
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ライブドア特需・最終便

ライブドア株上場廃止発表及びUSENによるライブドア支援発表をうけて、ライブドア関係のテレビ出演依頼が多数あって、今週は、ライブドア特需の(たぶん)最終便が到来した。

フジテレビ「とくダネ!」が火曜生、水曜VTR、木曜VTR、金曜通常のコメンテーター出演の中で解説、テレビ朝日の「報道ステーション」に月曜生、当事者でもあるUSENのGyaOのニュースGyaOが生で月・水・金、木曜日には午後5時-6時半の記者会見の生解説、などとTV出演が続いた。さすがに、些か、忙しかった。

ライブドアがトップニュースレベルで話題になるのは、おそらく、これが最後だろう。B級経済評論家への解説需要の”特需”も、たぶんこれで終わり。ニュースGyaOはまだ週に3-4回出るだろうから、当面は、何かあれば、そこで少し話す程度になるだろう。

しばらくは、単行本の仕事にでも専念したい。

当面、日本実業出版から「よくわかる証券業界」(鈴木雅光氏と共著。学生、若者向けの業界ガイド)が出て、次は講談社から、投資に関して陥り易いミスから投資家を救う適切な疑問(「絶対儲かるなら、どうしてあなたは自分のお金を運用しないか?」と金融機関に訊くような)を取り上げた本(タイトル未定!いい案はないものか・・)が出ます。後者は、これから二回目の著者校正で、あと一息です。次には、新書で運用の本を書きたいと思っています。
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金融マンの適性の具体例

3月6日配信のJMM(村上龍さんが編集長の経済メルマガ)に書いた金融業界に就職する人へのアドバイスの一部に以下のような文章を書いた。

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尚、詳しい説明は別の機会に譲りますが、いわゆる金融工学的な理論の後のファイナンスの理論として今や広く普及した「行動ファイナンス」の理論は、顧客が非合理的な選択をするケースを一般化した法則として、つまり、金融業者側が儲けを作るヒントとして、金融業界では広く応用されています(顧客の側から見ると単なる「応用」より「悪用」と言いたいところですが)。強い金銭欲を持った人は、こうした原理を直感的に理解する傾向がありますし、これを「利用」するにあたって躊躇がありません。
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具体例を一つ挙げよう。

現在、日本の投信マーケットで売れ筋No.1は、外債に投資する毎月分配型ファンド(代表は通称「グロソブ」、国際投信のグローバル・ソブリン・オープン)だが、業界大手の野村アセットマネジメントは、この種のファンドに大幅に乗り遅れた(かなり後から、内容の違う妙な多分配型のファンドを出したが)。

漏れ聞いた話によれば、グロソブが大売れし始めた頃、野村アセットの経営者は、「これは運用商品として合理的な商品ではないから追随しない」と判断したという。(かなり前に関係者から漏れ聞いただけで、ご本人には確認していないので、読者は、以下の拙文をそのつもりで読んで欲しい)

投資家にとって、合理的ではないというのは経済合理性の上で正しい判断だ(プラスの利回りがあるなら、毎月分配するよりも複利で運用して1年後に分配する方が明らかにいい。もっとも、それ以前に手数料が高すぎて話にならないのだが)。証券会社から天下った運用会社の経営者の社長としては、優れた判断力を持っているといえるし、運用会社の経営者として一つの見識だとも評価できる。人間として、この人は正しい。

しかし、想像するに、毎月分配型ファンドは、非合理的でも、顧客のツボに入っているから売れる!というところに、この経営者は嗅覚が働かなかったのだろう。べつに、行動ファイナンスを勉強しなくても、これが「バカの壁」の向こう側にいる人達に売りやすい商品だ、ということについては、壁の向こうの臭いをかぎ分ける嗅覚(カネの臭いに関連する嗅覚だ)か、自分自身が壁の向こうにいると、よく分かったのではないかと思うのだが、当時の野村アセットの経営者はある意味では賢くて原理原則を尊重する方だったのだろう。また、他社が儲かっているからといって、露骨な後追いをするにはプライドが高かったのだろうし、多分、それほど金銭に貪欲ではなかったのだろう。

しかし、野村アセットマネジメントが、「稼ぎ!」を最大の価値観としていたはずの野村グループの会社であることを、考えたら、果たして、これで良かったのか。これは、この経営者が、金融ビジネスには向いていないなかった例だと理解できるのではないだろうか。

しかし、この経営者は、その後、野村グループの持ち株会社の幹部に出世された。たぶん、ある種の組織をわたる能力と対人力(自分を大物風に見せる「大人力」も)、それに地位を獲得することに対するモチベーションが大変高い方だったのだろう。(何れも、筆者の想像に過ぎないが、素晴らしい能力であり、羨ましいといってもいい資質である)

興味深い別の問題は、この経営者が出世するような土壌を育み、彼だけでなく、その他の幹部の方々も、金融ビジネスに向いていない人ばかりなのではないか(勉学欲や出世欲はあっても金銭欲は平凡な人々・・)、と思われるところに(現象としては、東大出の役員が増えた)、近年の野村グループの意外な停滞ぶりの原因があるのではないかということだ。株式市場が好調なのに、同社の株価は、過去の最高値の半分にも及ばない。

敢えていえば、これは「野村の興銀化」という病だろう(決して、褒めているのではない。興銀は実質的には潰れた会社だ)。
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量的緩和解除の効果が逆転

明日の朝が早い(フジテレビ「とくダネ!」出演のため)ので、簡単にコメントします。

3月9日の日銀の政策決定会合で量的緩和解除が決まったが、このニュースを受けて株価は大幅上昇した。量的緩和解除は株価の下落材料ではなかったのか?

この点を解く鍵は、「ゼロ金利政策が続くと予想される期間」にある。

これまでは、量的緩和解除はゼロ金利解除の前提条件であり、ゼロ金利の解除が近づくとの予想から株価にはマイナス材料であると見られていた。

ところが、日銀は物価の「安定」を意味する消費者物価上昇率を0~2%、中心値を1%との声明を発表した。これを上方に超えない限り、ゼロ金利ないしどんなに上げてもも0.25%くらいの短期金利であろう、ということがここから予想できる。現実問題として、望ましい値である1%を超えない状態でゼロ金利を解除するのは無理だろう。

ところが、消費者物価上昇率は、今のところ、2%はおろか1%も超えそうにない。下手をすれば、今夏から秋にかけてマイナスに落ち込む可能性さえある。つまり、ゼロ金利を解除を日銀は自ら封印してしまったのであり、ゼロ金利はこれまで考えられていたよりも長く続きそうな情勢となった。これは、これまでの心配材料が、一転して、株式にとってかなり強い買い材料になった、ということだ。

事実上のインフレ目標で当面日銀の手を縛りたいと考えているらしき、竹中・中川・安部各氏らとしてはかなり満足の結果だろう。

日銀は、量的緩和の解除は意地でもやりたかったものの、金利や株価に対する悪影響を非難されることを恐れて、具体的な数値の呈示に踏み切ったのだろうが、これは、中期的には「日銀の負け」と捉えられるような気がする。但し、将来本当にインフレになった時には、かなり強力な引き締めが正当化される可能性もあり、「長期的に勝ち」に変わる可能性もある。まあ、勝ち負けで判断する問題ではないが・・・。

当面1、2年は、些かバブル的な様相を呈するかも知れない。

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〆切

8本、6本、8本、7本、10本、・・・。

手帳に原稿の〆切予定を赤字で書き込んで、書き終わると青字か黒字で消す、という原始的なタスク管理をしているので、手帳を開くと、いつ何本原稿を書いたかが大体分かる。

冒頭の数字は、今週から遡った毎週の〆切本数だ。月に30本強くらいのペースなので、「毎日のお勤め」あるいは「一日一善」の気分で原稿を書けば、そう苦しくないはずなのだが、これに単行本の校正などの作業が加わって、ここ3、4日は何だか息苦しかった。

もちろん毎日1本ずつ〆切があるわけではないし、計画的に仕事量を調節している訳でもないので、原稿や校正など期限のある作業が、集中する時には集中する。

こうした時に起こりがちなことは、短い原稿や、テーマの決まっている原稿など、手の付けやすい仕事から手を付けて、後に大物が残ってしまうことだ。

また、それでも単行本の校正のように期限があると、何とかこれを終わらせることになるが、これから原稿を書こうかというような本にはなかなか手が付かない。また、少々先だと、大物ではない原稿依頼を断り切れずに入れてしまうことが多い。かくして、自分で企画する単行本のような仕事は、気持ちの上のやる気や掛け声だけがあって、実施時期がどんどん先に延びてしまう。(これでは、小泉政権の構造改革を嗤えないではないか!)

ところで、この息苦しい日々に、多少の現実逃避もあって、「ドラッカーの遺言」という本を読んだのだが(日曜日に)、彼は、良い経営者の習慣として、第一に「やりたいことから始めない」ことを挙げている。「やりたいこと」「できること」ではなく、「やるべきこと」を明確に認識して忘れないことが大切なのだ。

この次に、彼が挙げる大事な習慣は「自分の仕事は何か問う」ことだ。このアドバイスも、ともすれば目的を忘れがちな、山崎元商店の経営者には耳が痛い。そもそも、自分の目的をもっとはっきり定義すべきなのだろう。ちなみに、目下の目的は「正しくて、面白いことを、できるだけ多くの人に伝える」ということなのだが、これでは漠然としすぎている。「社酒」なんてものばかり決めて喜んでいる場合ではない。

最後に(三つ目に)ドラッカーが挙げるのは、「不得手なことは、決して自ら手掛けない」ことだという。言うは易く、行うは難し。もう少し良い仕事をするためには、他人ともっと深く関わらないと難しいのかも知れない。
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偽メール問題、民主党の処分人事

偽メール問題をめぐって、民主党の処分・人事は、①永田議員:懲罰委員会に付議(今のところ多分1月くらいの登院停止か。議員辞職は無しの形勢)、②野田国対委員長が辞任、③前原代表、鳩山幹事長は留任、④後任の国対委員長に渡辺恒三氏(73歳、最年長)、となった。

三つ感想を述べておこう。

(1) 処分が、遅くて・軽い。これでは、ダメなのだ(=ダメな野田!)。これは民主党の党勢にとっても、与党を追求するという目的にとっても不適切だった。ここには、会社員の日常に応用できる一般原則が二つ(裏目に)働いている。

アウトプットは、一つは、早く処理するほど「軽い」もので済む、ということ。企画書などの出来映えがあまり多くを望めない時には、早く提出する方が良い。同様に、提出が遅くなる書類は高いレベルに仕上がっている必要がある。「早さ」と「アウトプットのレベル」にはトレード・オフが働くのだ。今回の民主党の場合も、超初期なら、永田議員の辞職で済んだだろう。これは、問題が起こったときに、短時間で見極めを付けることが出来なかった前原氏、野田氏の、能力の問題だと思う。彼らは、多分、ネタがつながるのではないかという、根拠のない希望を捨てきれずに、数日の時間を空費した。無能である。

もう一つは、引責処分には、サプライズが必要だということ。世間の期待の一歩先を行くレベルの処分をしないと、ムードの流れを逆転することはできない。たとえば、事態発生後に2日くらいで前原氏が代表を退けば、民主党は反転攻勢に出ることが出来ただろう。この場合も、相手や世間の期待は時間と共にどんどん膨らむから、早く手を打つことが肝心だ。

(2) 次に、永田議員の身の処し方だが、割合最近の「議員辞職」という意味で思い出されるのは、昨年3月の中西一善議員(自民)のわいせつ行為(六本木の裏通りで、酒に酔って、通りがかりの女性の乳を揉んだ)による議員辞職だ。乳揉みは間違いなく悪いことだが、今回の永田氏の根拠薄弱な質問の方が悪質だし、国民全体にかけた迷惑は大きい。「正義」を売り物にするしかない少数野党が、与党よりも身内への処分が甘いのでは話にならない。

(3) 最後に、なり手が居なくて渡辺恒三議員が就任した国対委員長人事。管直人氏ら3人ほどが、候補に挙がって、就任を依頼されたらしいが、何れも固辞したので、渡辺氏が就任した。この状況の国対委員長は確かに得なポストではないが、「困ったときだから、私が一肌脱ごう」という人物が民主党にはいない。負け試合のリリーフは嫌だとごねるようなピッチャーしかいない。

これで思い出すのは、かつて、横路孝弘氏(私の実家のある北海道一区選出で、歳は随分違うが高校の先輩にもなる)が長らく日本社会党のプリンスと言われ、党首を期待されながら、結局、御神輿が整うまで首を縦に振らず、そうこうしているうちに、社会党自体が衰退してしまった経緯だ。

伝統的に、野党の幹部が保身に傾斜するようになるような、独特の雰囲気と伝統が日本の政治にはあるようだ。民主党には、男気のある奴が(女でもいいが)がいないのか!?
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