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男の背中ぐらいしか撮るもののない時代

 デジカメの普及と高性能化で、写真はずいぶん撮りやすくなった。特に、普通の生活する人々の表情やしぐさなどを撮るスナップ写真は技術的に簡単になった。しかし、写真を撮ること、さらにその写真を発表することは、以前よりも格段に難しくなっている。
 私はメカとしてのカメラも出来上がった写真そのものも好きだが、今のところ写真を使って他人に向けて表現したいテーマがあるわけではない。ただ、社会的なコンテクストの中での人の表情や動き、あるいは生活の様子などを画像としてコレクションすることには意欲がある。敢えて作家でいうと、ウォーカー・エバンスの写真が好きだ(近所のアート専門の古本屋で買った「THE LOST WORK」という写真集がいい)。
 カメラを持って歩いていると、撮りたいものがたくさん目に入る日もある(一方、ぜんぜん撮りたくならない日もあり、共に原因が分からない)。
 しかし、普通の人の表情やしぐさを撮る上では、誰と特定できるような形で撮られたくない画像を撮られない権利とでもいうべき「肖像権」が写されるの側にはあるし、出来上がった写真の使い方についても、(1)私的使用、(2)公開(Webや印刷物、コンテスト応募など)、(3)商業(的)利用(被写体の「パブリシティー権」に関係する)のそれぞれのレベルで、超えなければならないハードルがある。特に、Webの場合、ブログなどにアップした段階で広く一般に公開したことになるので、手順の簡単さや私的な感覚に比して、起こる問題が大きい場合があるので、注意が必要だ(参考文献:日本写真家協会編「スナップ写真のルールとマナー」朝日新書)。
 加えて、撮り方によっては迷惑防止条例違反の可能性も生じる。いつのニュースだったか忘れたが(今年のニュースではある)、スーパーマーケットのような建物の中で着衣の女性の臀部を写して、迷惑防止条例違反で逮捕された人物がいた。どんな撮り方をしたのか、どのように撮れたのかが分からないので確たる事は言えないのだが、写された側は気持ちが悪くて不愉快だったろうが(これはこれで気持ちは分かる)、写した側は、顔が分からないから誰だか特定できないのだし、公共の場所で普通に(下から写したりせずに)写しているから問題ないと思っていた可能性がある。
 この件については、誰のものだか分からないとしても「尻」は他の誰のでもないその女性の尻なのだから、女性の側の「写されたくない」という権利が尊重されることに、私は賛成だ。
 しかし、迷惑防止条例に抵触する場合、肖像権の問題のように、後で画像を消すとか消さないとか、発表しないからいいだろうとかいった交渉の余地なく有罪になる可能性があるわけで、悪い可能性を考えると、着衣の後ろ姿といえども女性を撮るのは怖い。
 人物を正面から撮ると顔が分かるので肖像権に抵触する可能性が大きいし、後ろ姿でも女性は撮れない、となると、人物が主題の非演出のスナップ写真は男の後ろ姿を撮るしかない。写真家の森山大道氏なら、男の後ろ姿だけで十分写真になるかも知れないが、凡人は男の背中だけでは作品にならないだろうし、写欲も湧くまい。
 写真好きのアマチュアはどんな写真を撮っているのだろうか。「アサヒカメラ」8月号のコンテスト(モノクロプリント、カラープリント、カラースライド、組写真、ファーストステップの5部門)の写真を数えると、入選作約100枚の中で、被写体の許諾が必要と思われる写真(家族やモデル撮影を除く、一般人と覚しき人が被写体で、本人が特定できる写真)は、たったの9枚だった。かつてよりも、明らかにスナップ写真が減っている。尚、同誌に限らず、写真雑誌のコンテスト応募規定には肖像権、著作権に関する注意があるのが普通で、「アサ・カメ」にも「スナップ等で人物を撮影される場合には、コンテスト応募の許諾を得てください」とある。
 一方、名作の誉れ高いロバート・フランクの「THE AMERICANS」は私が生まれた1958年に最初の版が出たようだが、全83点中、先の「アサヒカメラ」と同様の基準で数えた「同意のいるかもしれない写真」は50点にのぼる。もちろん、何度見ても見飽きない素晴らしい写真群だ。
 肖像権を制限すべきだという意見を現在持っている訳ではないし、現状の各種ルールははそれなりに筋が通っていると私は思うのだが、この半世紀の間に、写真が失ったものもまた大きかったことに気付かされる。
 余談だが、我が長年の愛読誌「アサ・カメ」の編集長氏は、風貌・ファッション・ご性格の何れに関しても存在自体が作品ともいうべき強烈な個性をお持ちの方で、何とも写欲をそそられる極上の被写体だ。私は、何度か撮影の機会を得ていて、包帯が巻かれた痛風の足などを撮ったなかなか撮れない(?)写真も持っているのだが、本人の許諾を得るのが怖くて、同誌のコンテストには応募できずにいる。拙作をお見せしたいのはやまやまなのだが、Webという媒体がまた厄介でなので、それもかなわない。
 もちろん、何れも「しかたがないこと」なのだ。
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東国原さんの何がダメなのだろうか?

 自由民主党は、次期総選挙に宮崎県の東国原知事を担ぎ出そうとして、古賀選挙対策委員長が彼にアプローチした。
 これに対して、東国原氏は、自らを自民党の総裁もしくは総裁候補として次の総選挙を戦うことや、全国知事会の地方分権に関する要望事項を飲むなら、次期衆議院選挙に与党側の候補者として出てもいいと条件提示した。二度目以降に持たれた話し合いなどで、東国原誌側は、「総裁」を「総裁選の候補」に、また知事会の要望事項に関しても全てをそのままではなくてもいい、というくらいに条件をディスカウントしたようだが、現段階では、未だ具体的な決定に至っていない。
 自民党の東国原氏へのアプローチは総選挙に向けた人気回復策だと見られていたが、その後の自民党支持率の動きなどを見ると、効を奏さないばかりか、むしろ逆効果になったようだ。
 率直に言って、私も、一連の動きを見て東国原氏に対して「嫌な感情」を抱いた。しかし、東国原氏の何がダメなのかを他人に説得しようとするとなると、理由は案外難しい。

 たとえば、「産経新聞」(7月9日)に櫻井よし子氏は次のように書いた。
「タレント時代、東国原氏が16歳の少女への淫行で事情聴取を受けたのは周知のことだ。氏は、少女が『18歳未満だとは知らなかった』と弁明する一方で、芸能活動の自粛に追い込まれた」(中略)「東国原氏の望みがかなって、自民党総裁となり、さらに日本の首相となりサミットなどで国際舞台にデビューしたとする。諸国のメディアは各首脳の人物紹介で、少女淫行の一件に触れるだろう。国内ならまだしも、日本国の首相に関してこの種のことを国際社会で書かれたくないと思うのは、私ひとりだろうか。東国原氏には、そのような事態を避ける形で活躍を続けてほしいと私は願うものだ」

 この意見には、少なくとも素直には同意しにくい。
 櫻井氏にとって「国際社会」は特別な重みを持つもなのかも知れないが、過去の淫行歴が恥ずかしいから大衆を代表するような立場に立つなという立論を認めるなら、知事のポストもそうだろう。「国内ならまだしも」というのが櫻井氏の本音なら、これはかなり奇妙だ。日本人が立派であることが大切なら、「国内でも(同等或いはそれ以上に)ダメなのだ」というのでなければ、日本人(の世論)を貶めていることにならないか。だとすれば、これは、櫻井氏らしくない。国際社会だけでなく、国内政治でも、たぶん芸能界でも、東国原氏は出てくるべきでないというのが、櫻井氏の本音なのではないだろうか。

 東国原氏の淫行事件は、「18歳未満だと知らなかった」ということで、法的には問題にならなかったが、社会的には大いに批判されて、東国原氏は芸能活動中止に追い込まれた。氏は、フライデー襲撃事件や後輩タレントへの暴行などの事件も起こした過去がある。だが、これらは、何れも少なくとも法的には決着している問題だし、過去の問題だ。
 淫行や暴力を肯定するつもりはないし、私の東国原氏に対する人物評価の中に、こうした事件が影響していることも否定しがたい。
 しかし、過去に起こした問題が将来いつまでも社会的に排除される理由になるという理屈を社会的な正論として通すことには賛成できない。この理屈は、人に失敗を許さないし、何よりも失敗からの立ち直りを許さない点で不健全だ。たとえば、服役を終えた過去の犯罪者を、前科のゆえに排除するという論理を許すと、この人は更生が非常に難しくなる。この点は、社会の側が我慢する節度が必要なポイントなのではないか。東国原氏の淫行問題がどの程度「終わった問題」なのかについては一筋縄ではないが、出所した服役囚程度には「終わっている問題」だといってもいいのではないか。
 「東国原首相なんて、とんでもない」という点で気持ちは同じなのだが、私は、彼の過去の淫行事件をその理由に挙げたくない。できれば、別の理由で批判・反対したい。特に政治のような参加の機会均等が重要なフィールドで、過去の「もうすんだ話」を排除の理由にするのは反則技(=止めた方がいい、下品な行為)だろう。「思っていても、大っぴらには言わない方がいい話」なのではないか。

 ダイヤモンド・オンラインの岸博幸氏の「東国原知事は国会議員として適格か」(http://diamond.jp/series/kishi/10047/)という論説は、少なくとも「反則技」ではない。意見として聞くに堪える社会性を備えている。
 岸氏は、もっぱら東京でテレビに出る東国原宮崎県知事と、大阪でインタビューに答える橋下大阪府知事を比較する。そして、
「テレビに出過ぎ、そのために東京に来過ぎだということです。これだけ頻繁に東京に来ていて、宮崎県でまともな県政改革を進めているはずがないのです」と指摘する。
 さらに、東国原氏の知事としての実績が乏しいことを批判し、
「少なくともまだ地元ではやるべきことが山積みだということです。それなのに任期半ばで国会議員に転出しようというのは、無責任極まりないのではないでしょうか。芸能人的な感覚で自分のステップアップばかりを考えているとしか思えません」と追い打ちを掛ける。
 「東国原氏は、宮崎県知事としてまだまだやることがあるだろう」というのは、傾聴に値する一つの意見だ。
 ただ、東国原氏が国政への転身を目指す場合、これを「芸能人的な感覚でのステップアップ」と決めつけられるかというと、そうとも言い切れない。
 東国原氏が「自分自身が行使できる政治的な資源の大きさは今がピークであり、勝負するとすれば今しかない」と判断したのだとすれば、国政への転出という意思決定は政治家として、それなりに筋が通っている。
 知事の職でなすべきことをまだ十分にやっていないとしても、より大きな問題に対して貢献できると考えるなら、国政での「勝負」は、あってもいいだろう。私は、彼を支持しないが、その理由は「知事の職責を任期途中で放り出すこと」ではない。

 本来の問題は、彼が国政で実現しようと訴える政策であり、同時に彼の能力だろう。この点、地方分権は重要だとはいえテーマの一つに過ぎない。与野党共にマニフェストがはっきりしないので、東国原氏だけが政策の発信不足なのではないが、心配は残る。
 加えて、正直に言えば、私は、メディアを通じて、彼の言葉遣いや態度を見て、彼にはたとえば国会議員の職責を十分果たす能力(知能も人柄も)が無いと思っている。
 だが、こうした「心配」や「能力」への評価は、私の彼に対する評価の説明にはなっていても、他人を説得するコンテクストで主張するには盤石な根拠を持っているとは言い難い。
「ヤマザキさん、それはあなたの好き嫌いであり、単なる印象でしょう?」と言われれば、積極的に「はい!」と答えてしまいそうだ。

 東国原氏と共に、今回メディアの注目を集めている橋下大阪府知事は、東国原氏の一連の動きに対して肯定的だ。東国原氏のおかげで「国民が地方分権を考えるきっかけになった」と言う。
「僕も東国原知事もテレビの申し子の政治家で、役割はひと言でいったら騒ぐこと。(具体的な)分権像を見せるのは知事会や市長会などプロのやること」と述べた(7月11日「朝日新聞」朝刊)。
 これは、橋下氏の本音で、且つ内容的にも正しいコメントだと思う。ただ、内容があけすけに正しいだけに、国民の側の落胆も大きい。「騒ぐのが役割で、地方分権についてプロでないと割り切る人物が知事なのかぁ・・・・」。
 橋下氏の見立てが正しいとすると、東国原氏は、テレビのロケでいうところの「撤収」を上手くやりさえすれば、要は「いい仕事」をしたことになる。東国原氏は、実は「最高の退路」を持っているのかもしれないし、最初から計算ずくなのだとすると、非常に有能な政治家なのかも知れない。
 もちろん、そうではなくて、東国原氏が、頭は悪いし、無用に威張り、相手によって言うことが変わり、横柄で人格の賤しい単なる目立ちたがりなのだ、という「可能性」はある。しかし、公のコンテクストで彼を批判しようとすると、論拠を挙げてトドメを指すことは案外簡単ではない。批判の仕方によっては、批判する側の人格の卑しさを露呈してしまいかねない。政治家としての彼を批判するなら、それなりの材料と覚悟が必要になる。

 当ブログは気楽なブログなので根を詰めて結論を出さないが、今回の東国原氏のケースについて考えてみて、公のコンテクストでの個人批判(特に政治家への批判)というものが案外難しいものであることを改めて感じた。
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元官僚の友人と会った

 数日前、路上でばったり学生時代の友人に会った。概ね同年代だが、彼の方が少し年上だ。ある経済官庁にいわゆるキャリア官僚として就職した。数年に一度くらい会う機会のある相手で、この日も数年振りだった。
 近くの喫茶店でアイスティーを飲みながら身の上話を聞くと、昨年官庁を辞めて、現在はある民間会社の幹部社員だという。
 以下、断片的で恐縮だが、彼の話で印象に残った台詞。

(1)「去年、役所を辞めたのは、もう役所には将来は無いと思ったから。これからは、天下りだってなくなっていくし、どうせ民主党政権なんだろう。役所関係の知り合いは、だいたいが『お前、いいときに辞めたな』と言うよ」

(2)「現在の○○省(注;彼の出身官庁)には、もう『目的』というものがない。人事評価にも『信賞必罰』というものが機能していない。そんな職場は嫌だ」

(3)「この頃は役所の建物もセキュリティが厳しくてね。あれやこれやと手続きを作った。そうしたら、民間の会社の連中が寄りつかなくなって、ぜんぜん情報が入ってこなくなった。仕事していない奴は、静かになって満足なんだろうな」

(4)「50代の半ばを過ぎて役所に居ても、給料も退職金もそんなに増えない。正直なところ、局長くらいにはなる確率が高いと思うが、なったからといって、どうということはない。それからのことを考えると、行き先なんてないかも知れない。現在、年収は次官並み(2千数百万円)だし、今後のことを考えると、経済的には明らかにこちらの方がいい」

(5)「民間の会社だって、活きのいい、これからまだまだ働く人材が欲しい。50歳を超えてからだったから、(自分の)転職はもう遅すぎるくらいのものだった。たぶん、ラスト・チャンスだっただろう」

(6)「官庁の人材(対象はキャリア)には上・中・下がいる。今後、上の部類は、30代、40代で民間会社に出て活躍するようになるのではないか。中は、役所に残って局長でもやればいい。局長なんて、国会答弁さえ出来ればいいのだから、そんなに出来の良くない人材でも十分だ。これは、△△次官も同意見だった。下の人材は、どこに持っていっても使えないから、まあ、迷惑を掛けないように飼い殺しにするしかないな」

(7)「現在の職場は、目下の所環境は厳しいが、俺の担当業務は何れも目標を達成している。もちろん、やり甲斐はこっちの仕事の方がある。まあ、正解だったと思うんだが、ヤマザキはどう思う?」

 最後の問いには、もちろん、「正解だろうね」と答えた。
 彼は、本人が言うとおり、役所に残れば最低でも局長にはなっただろうと思われる。組織で出世する素養を十分持った人物なのだ。しかし、役所の職場環境がそんなに嫌なら、辞めるのは正解だろう。また、細かな経済的計算の話も聞いたが、経済的には確かに彼の選択は正解だと思われた。現在の仕事に張り合いと可能性があるのも本当らしい。

 ただ、別れ際に言おうかと思って、思い直して飲み込んだのだが、「ところで、あなたは、何がやりたくて○○省に入ったのか。在任中にやりたかったことは何だったのか?」と彼に訊いてみたかった。
 一国民として元官僚に問いたいというような意図ではない。かくも嫌な職場で存在自体に意味がないと思う官庁だったのなら、そこに余りにも長く彼が居たことの理由が知りたかったし、友人として不憫にも思うので、その答えが聞きたいということだ。
 そこで訊かなかったのは、もう少しじっくり話す時間があるときに語りたい話題だったからなのだが(しらふで話すのも調子が出ない話題だし)、今も心に引っ掛かっている。

 それにしても、今後は、何をやりたくて、どんな人が官僚になるのか。また、官僚をどう処遇したらいいのか。友人の出身官庁については「廃止」(民営化もしようがないくらい役に立っていないので廃止)でいいが、幾つかの将来も残すべき官庁については考えなければならない。
 答えはほぼ出ているような気がするが、望ましい形に無事に移行できるかということも含めて、心配な問題の一つだ。
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