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大相撲の八百長問題はどうなるのか?

 大相撲に八百長があることは「大人の常識」だったと思うので、今更「ほら、やっぱり!」と言おうとは思わないが、八百長が大問題になっている。
 相撲協会は、大阪場所を中止し、新公益法人認定の申請スケジュールも白紙化して、先ずは、八百長問題の徹底解明に努めるとして、現在、関取全員に対するヒアリングを進めている。トラブルシューティングとして、ここまではこれ以外にやりようのない対応だったと思うが、さて、これからどうなるのか。

 インタビューに応じた、横綱白鵬が、記者の質問に対してなかなか興味深い答えを返した。
 以下のやりとりは、ネットのスポニチ「Sponichi・Annex」の記事からの抜粋だ。(http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/02/09/kiji/K20110209000214530.html)

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―八百長や無気力相撲が取り沙汰されている。


「無気力相撲と八百長を一緒にしてはいけない。体調不良の日もある。(関与した)力士自身の問題でもある。何とも言えない」

 
 
―自身の八百長関与や他に見聞きしたことは。

「ないということしか言えないじゃないですか」
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 先ず、白鵬は、「無気力相撲」は存在すると考えているようだ。八百長との区別の基準については語っていないが、金銭の授受や取り組み前の約束が立証されなければ、「八百長」にはならない、とでも考えることにしたのだろう。
 次の発言は、もっと味わい深い。少し考えてみると、「ないということしか言えない」のは、記者に対してだけではなく、調査委員会や協会幹部に対しても同様だ。つまり、協会が現在やっている調査は意味があるものとは思えない。警察に把握された物証があるわけでなければ、「本人たちは、やっていないという」という説明で、いつでも調査の幕引きが可能だ。当面、どこまで表沙汰になる可能性があるのか、世間の批判がどの程度か、を見極めるために時間が必要だが、どの段階で調査が完了したかは、調査委員会(つまり協会)が決めるしかない。「徹底的な調査」という言葉に、実質的な内容は無い。今回の徹底調査は、それ自体が八百長だと言わないまでも、取り組みの終わりも、勝ち負けも、決まり手も自分で宣言するような「独り相撲」にすぎない。
 経済的な損得を考えると、協会としても、文科省としても、あるいはNHKや、相撲で商売をしている多くの人達にとっても、相撲協会は新しい公益法人にする以外に現実的な道はないように思われる。公益法人認定を得られず、国技館を失い、NHKの放映権料無くなる、ということでは、たぶん、大相撲はやっていけない。
 第三者の立場から見ると、現在の大相撲のしくみでは八百長があることの方が合理的だし、大相撲自体はプロレスのようなショー的な興業なのだから、株式会社でやればいいではないか、と思うわけだが、相撲が観光資源になっていることもあるし、近年、優勝者に総理大臣杯を渡す以外に活躍の場がない首相ばかりであることなども踏まえると、「ほとぼりが冷めたら、元の鞘に収まる」と考えるのが、妥当な「予想」だろう。

 一つ計算外のファクターがあるとすると、どうして、今の時点で警察は相撲の八百長をリークしたのか、その意図が掴みきれない。警察が情報を出したにせよ、文科省が情報を出したにせよ、本来、公務員がその守秘義務を全うしていれば、今回の問題は、世間に知れ渡ること自体がおかしい問題だ。
 たぶん、警察が情報を出したのだと推測するが、この意図として、たとえば相撲に絡む反社会的勢力を一掃しようとしている、といった別の大きな構図があれば、大相撲の存続形態にも影響するかも知れない。ただ、その場合でも、相撲を丸ごと取りつぶすようなことはしないのではないか。

 大相撲は、どうせ元のように再開するのだろう、と割り切るとして、敢えて、改善点を提案すると、審判部をもっと強化する必要があるだろう。部屋の親方が同時に審判部を務める現行制度では、白鵬の言うように「無気力相撲」があっても、公平で厳しい処分ができまい。競馬でいうと、調教師が持ち回りでレースを審査する裁決委員をやっているようなものだ。
 弟子を持たずに、相撲技術の指導や啓蒙、さらに競技の公正の維持にあたる親方がいてもいいのではないか。外資系企業では、しばしば、コンプライアンス部門のトップは会社のナンバー2か3であることが多く、しかも、社長から独立したレポートラインに属している。
 今度こそ、理事長は外部からスタッフ付きで人を迎えて、元力士の最高ポストは審判部門担当の副理事長(部屋は持たない)、というくらいでいいのではないか。加えて、理事会は外部理事を多数とする。
 また、親方株は、全て協会に返納し、いったんリセットすべきだろうし、現役力士の報酬制度もすっかり作り替える必要があるだろう。
 スポーツの体裁で興業を行おうとするなら、この程度の改革は行う必要がある。

 ところで、以下は私の個人的な印象だが、白鵬は「相手が無気力相撲を取ってくれた経験」を持っていると思う。以前にも書いたことがあるが、そう思う理由は、彼が横綱昇進を実質的に決めた(2回連続の優勝を決定した)千代大海戦の相撲が不自然だったからだ。(白鵬は土俵上で千代大海を吊り上げたが、吊り落としにせずに、千代大海を土俵上に降ろした。しかし、千代大海は簡単に寄り切られて、その後に薄ら笑いを浮かべていた。おそらく「おいおい、この相撲で吊り落としは勘弁してくれよ。白鵬は力が入りすぎだよ」とでも思っていたのではないか)
 また、かつて「週刊現代」にも、白鵬サイドが星を買った疑惑が、当時の白鵬の部屋の親方のテープ音声付き(ネットにアップされていた)で報じられていたことがある。
 しかし、事前の八百長合意や金銭の授受については、協会のためにも、自分のためにもしらばっくれることにするのだろう。そうだとすれば、立場があるとしても、悲しい職業だ。
 但し、白鵬は相当に強いと思う。付け加えると、朝青龍も強かったはずだ。時々八百長があるとしても、また、八百長が可能な環境ならばなおのこと、彼らは余程強くなければ、大関、横綱になれなかっただろう。彼らは、歴史的に見ても優秀な相撲取りであることは間違いないと思う。

 このように考えると、今後大相撲が始まったとして、これまでと相撲の見方が変わるわけではない。これは、注射か、ガチンコか、と推理を働かせながら、個々の力士の本当の力を推測するというのは、なかなか高級な楽しみ方かも知れない(NHKの解説者にも、この辺りの機微を解説して欲しいものだ)。「無気力でない、充実した八百長相撲」もきっと見られるだろう。
 今後は、時に八百長があっても怒るのは野暮だろう。その代わり、相撲協会も「過去には一切無い」というような見え透いた嘘をついて、開き直ったりしないことが大事だ。当事者も、バレたら、潔く認めようではないか。相撲の場合、ファンは馬券を買っているわけではない。作られた盛り上がりも、時に漂うインチキ臭さも、全て丸ごと大相撲の世界を楽しめばいい。

 ところで、中学、高校、大学、それに社会人など、アマチュアの世界には相撲を純粋なスポーツとして楽しむ人がいる。彼らのために、大相撲とは別に、八百長なしの純粋な競技としての日本選手権、ひいては世界選手権を催し、これには、大相撲の力士も参加可能という形にしてはどうだろうか(本当は、興業としての大相撲と切り離して、競技相撲の方を伝統的な国技として継承したいところだか)。

 純粋なスポーツとしての相撲も最高レベルの競技を見ることができるようにしてくれると嬉しい。
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「百姓!」という心の叫び

 他人に対してネガティブな感情を持ったとき、読者は何と叫ぶだろうか。もちろん、良き社会人は、面と向かって他人を罵ったりしないだろうから、心の中で叫ぶ。その声を聞いてみて欲しい。
「バカ!」、「屑!」、「嘘つき!」、「畜生!」、「ブタ!」、「悪党!」、その他、いろいろな言葉があるが、人間は、褒めたり、喜んだり、する場合よりも、怒ったり、軽蔑したりする感情を抱いたときにこそ自分の価値観を正直に表すのではないか。

 正直に言おう。筆者の場合は心の底で「百姓!」と叫んでいることが多い。頭の中だけで怒る時に「バカ」と罵っていることがよくあるが、「腹を立てて」感情が波立った時に心の中に湧いて出る単語は「百姓!」だ。意味としては「田舎者」を指して使っているように思う。もちろん、百回中99回は心の中に思い浮かべるだけで、実際に口に出したりはしない。
 筆者自身は北海道の出身であり(生まれは旭川市、育ちは札幌市)、現在住んでいる東京にあっては、相対的には相当の「田舎者」だ。筆者自身もこの点は自覚している。
 一方、価値観の上では、少なくとも表面的には、都会でなく田舎の出身であることを悪いこと、恥ずかしいことだとは思っていない。いわゆる「江戸っ子」を羨ましく思うことがないわけではないが(勇ましくて、さっぱりしているのはいいイメージだ)、道産子の、去る者は追わず、来る者は拒まない「しつこくない人懐っこさ」も誇るに値する美質だと思っている。自分のプロフィールに「北海道出身」と書く時には、毎回少し嬉しい気分になる。
 また、農業に従事する人を他の職業人よりも低く見る考えは断じてない。侮蔑の言葉として「百姓!」が倫理的・社会的に不適切であることは十分分かっているつもりなのだが、筆者の意識の中に「百姓!」という言葉が悪口として埋め込まれている。しかし、説明の付く理由が見当たらない。

 ところで、「三つ子の魂百までも」という諺があるが、筆者の「百姓!」の起源は三つ子以前に遡る。
 一歳半の冬(注;筆者は5月生まれ)、筆者は旭川に居た。母方の曾祖父は、旭川市の開拓に貢献した人物で、同市で大規模に農業を営んでいた。名を善吉さんという。仕事はもう引退していたが、当時、この人物がまだ元気で、ひ孫である筆者を見に来てくれたことがある。
 氷点下10度以下が珍しくない旭川の冬だ。筆者は、分厚いコートの中で母親の背に負われていた。善吉さんは、コートの襟をかき分けて赤ん坊である筆者の顔をのぞき込んだ。すると、筆者は善吉さんに向かって「どんびゃくしょう。どんびゃくしょう」と何度も繰り返したのだという。困ったことに、善吉さんは、間違いなくお百姓さんなのである。
 人格円満な善吉さんなので、それで怒り出したわけではなかったのだが、「ほう、そんなこと言うんか」とずいぶん意外そうだったという。
 困ったのは、筆者の両親で、赤ん坊にそのような言葉を教えた覚えもないし、なぜ息子が繰り返し「どんびゃくしょう」と言っているのか、理由が分からなくて、善吉さんに対して平身低頭して恐縮したという。一歳の赤ん坊だ。状況的には、親が教えて言わせていると解されてもおかしくない。
 今の筆者にその時の記憶はないので、以上は、両親から(何度も)聞いたエピソードだ。
 たぶん、その頃かその少し後には、水原弘の「黒い花びら」の歌詞をそらんじていたというから、筆者は、言葉の覚えは早い子供だった。しかし、なぜ「どんびゃくしょう」という悪い言葉を覚えて、しかもそれを実際のお百姓さんを見分けて使うことができたのかは全く不明である。
 ともかく、筆者にとって「百姓」という言葉は、他の言葉よりも根源的な、印象の深い言葉であるらしい。

 それでは、近時、どんな相手に対して「百姓!」と(心中で)呟いているか。
 最も典型的なのは、無意味な権威を振りかざす人物に対してだろうか。
 たとえば、日本には、外国(この頃は「欧米」だけにとどまらない)の権威に弱い人の一群がいる。「外国のエリートは進んでいるが、日本の大衆は全く遅れている。海外情勢に精通し、彼らと対等に付き合えるこのワタシが、日本の遅れた大衆に知識を授けてやろう」と言わんばかりの物言いをする評論家・コンサルタント・政治家などに出会うと、「この、どんびゃくしょう!」と叫びたい気持ちになる。
 お金の運用の世界だと、欧米人は運用が上手いと真顔で言ったり、「欧米でやっているから」、プライベート・バンクに「特別にいい運用ノウハウ」があると本気で思っていたり、国家ファンドがいいものだと思っているような人物が、私から見ると、かなり深刻な「百姓」である。
 尚、この種の思い込みに、手数料稼ぎなど、自分の商売が絡む人物は、「百姓+悪党」だ。このように百姓と悪党を使い分けたい気分を思うと、私は、「百姓」という言葉を「悪い人」という意味で使っているのではない。
 その他、サラリーマンによくいる群れをなして他人を威圧する人物や、静かなバーで大声でしゃべる人物なども、しばしば「百姓」に分類される。
 しかし、軽蔑していることは確かなのだが、彼らをなぜ他の言葉でなくて「百姓!」と罵りたいのかの理由は相変わらず謎のままだ。
 敢えて、考えると、「田舎者(的)」の反対が「都会的」だとすると、筆者にあって「都会的」を構成する要素は、個人が独立していて、他の個人に対して押しつけがましくない、といったイメージだ。したがって、この逆に、物事に無理解な他人の押しつけがましさに遭遇すると、これに腹を立てて、「百姓!」という言葉が湧いてくるのか。
 それとも、筆者は、自分が田舎者であることに対して、自分でも気付かないくらい深いコンプレックスがあるのだろうか?

 何はともあれ、お百姓さん、ごめんなさい!

(※ 作業員さま、moto金田浩さま、及び、関係者の皆様  「よろしかったら、このエントリーのコメント欄にお引っ越しされませんか」)
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