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新教育基本法を手掛かりに、愛国心について考える

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」。これは、先般、「やらせタウンミーティング」などで、さんざんケチが付きながらも、国会を通過した新しい教育基本法で、最も論議を呼んだ箇所の一つ、第二条第五項です。

私が、先入観無しに(と、努力して)この文章を読んだ場合に、この文章自体には、そう悪い印象は持ちません。むしろ、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とある点が、偏狭なナショナリズムを排していて、好ましい、と思うくらいのものです。

但し、この条文が、さまざまに解釈されて、何らかの強制力を持つ法として機能する可能性を考えると、幾つか、疑問な点、心配な点が出てきます。その中でも、最大のポイントは、「我が国」を愛する、と言う場合に、愛する対象が、具体的には何で、どうすれば「我が国を愛した」ことになるのか、ということです。

しかし、直観的に言って、日本国を愛することと、日本の政府を愛することとは、本来、別のことであり、両者は明確に区別されるべきではないでしょうか。取りあえず、ここから、考え始めたいと思います。(但し、この前提は、後から訂正されるので、注意して下さい)

そう考えると、かつての政府である、天皇家や幕府などといったものは、伝統や文化を理解するために知っておきたい知識の一部ではあっても、愛国心の対象とは別物だろうと思います。では、「我が国」とは一体何なのでしょうか。

先の条文の文章を拡大解釈すると、「我が国」とは、伝統と文化をはぐくんできたものだと読むことが出来そうです。

たとえば、多くの伝統と言えそうなものは、日本語で表現されていますから、日本語を使う「人」が「国」の実体なのでしょうか。では、デーブ・スペクター氏や邱永漢氏は「我が国」として愛すべきものの一部なのか。私は、それでも構わないと思いますが、言葉を便利に定義することを考えると、それなら、何も、「我が国」という区分を設ける必要はなさそうです。別に、その人が日本語を話さなくてもいいし、現に、外資系の会社で一緒に働いた外国籍の人物に、面識のない日本国籍の人よりも親近感を覚えることはありますし、それが悪いこととは思えません。

また、我々が文化と考えるものの相当部分は外国の人々が「はぐくんできた」ものです。ファッションが文化なら、洋服は、まさに西洋ではぐくくまれてきたし、音楽についても、我々が聞いているものの大半が、クラッシックにせよ、ポピュラー・ミュージックにせよ、外国の影響を受けています。今日読まれている日本語で書かれた文学や哲学も大半がそうでしょう。もちろん、日本人が「はぐくんできた」ものもたくさんありますが、両者の価値を区別することは無意味ではないでしょうか。教育のための法律としては、単に、「文化と伝統を理解し尊重する心をやしなう」とでも書けばよろしい。

「我が国」を敢えて定義しようとすると、幾らか循環的になりますが、現在、我が国とされている地域、つまり、日本の国土上に存在する、もの全体、あるいは、もう少し狭く考えると、人間の社会、ということになるのでしょう。

但し、たとえば、北海道と九州がなぜ同じ国でなければならないのか(余談ですが、北海道の人と、九州の人は、割合に「ウマが合う」ことが多いように思いますが)という疑問が湧きます。国土を決めているものは何でしょうか。また、現在、日本には、日本国籍を持たない多くの人が存在しますが、彼らを日本人と区別するのは、どのような理由によるのでしょうか。お互いの助け合いの関係を重視するなら、人種や国籍よりも、たとえば納税しているかどうか、といったことの方が重要でしょう。

こうして、順に、考えると、結局、国土は時の政府が決めており、人や物の出入りに対して、何らかの強制力によってこれをコントロールしているのであり、また、人に関しても、これを「日本人」とするかしないかを、日本国政府がコントロールしています。結局、「国を愛する」とは、時の政府を愛すること及び、政府が国と認め伝統や文化とみなすものを愛すること、とならざるを得ません。

新しい教育基本法の条文では、国を愛することが、郷土を愛することと巧妙にくっつけられていますが、先に見たように、愛国心の正体が政府に従属した愛だとすると、これは、郷土愛とは、明らかに別物でしょう。

私の場合、郷土というか、地域への愛着は、生まれ育った北海道の一部の地域(生まれは、旭川市、育ちは、札幌市です。この周辺の地域は今でも懐かしい)に対する懐かしさと愛着、同様に、北海道よりも随分長く住んでいる東京の幾つかの場所に対する愛着もあれば、漠然とアジアはいいなと思うこともあり、西日本と対置して東日本への親近性を感じることもありますし、行ったことのない韓国よりも、行ったことのあるロンドンやニューヨークに親近感を覚えるということもあります。私に限らず、地域に対する愛着は、自分の経験や知識、考え方によって変化するものでしょう。

また、この事情は、人に対しても同様でしょう。個人的な感情としては、外国人でも好きな人は好き、良いことをする人は良い人だ、と思うでしょうし、日本国籍を持った人でも、嫌いな人は嫌いであり、悪いことをする人に対して敵意を抱くことはあるでしょうし、それで拙いとは思えません。生物としての人間が、お互いに、協力し合い、寛容であることが望ましい、という一般的な倫理を導入するとしても、そこでは、「国」を区別する必要はありませんし、国への拘りは、むしろ、いけないことであり、抑制しなければならない悪習である、と言えるでしょう。

思い切って言ってしまえば、愛にとって、「国」というものは、「余分」なのではないでしょうか。国は、それをどのように考えるとしても、何らかの政府を前提としなければ定義できないものです。また、その有り様は、多くの場合、排他的であって、「愛」とは、相容れません。

よく、「自分の国を愛せない人が、他国も愛することはできない」ということを、無前提に当然のように言う人が居ますが、これは、そもそも問題意識のズレた無意味な言説であって、「自国の人も、他国の人も、国に拘らずに、愛する」ことが重要なのではないか、と私は考えています。

また、政府というものは、結局単に人間が営んでいる組織であって、そのものに別個の生き物のような意志がある訳ではありません。要は、一群の人間が、たまたまその時に利用している制度に過ぎない、ということであって、「国」とは、政府がその影響範囲に貼ったラベルに過ぎません。敢えて国の「実体」といえば、暴力と徴税を中心とした権力のことになるのでしょうが、これを実行しているのは、国の立場を取っているとはいっても、あくまでも個人(複数の、でしょうが)です。

「国」に対して、人に対するように、「愛する」とか「裏切る」とか「捨てる」とか言うことは、比喩としては成立しても、人に対するのと正確に同じ意味ではありません。たとえば、外国で酷い目に遭ったのに十分な救済を受けられなかった人が、「国に捨てられた」と言うかも知れませんが、実際には、「日本国」という意志を持った主体が、その人を「捨てた」のではなくて、その判断に関わった外務省の役人さんなり政治家なり、何人かの個人がその人を捨てたのです。この点については、個人が、「国」をいわば隠れ蓑代わりに使っているということなので、注意が必要です。

結局、国の正体は政府です。もう少し細かく見ると、世俗宗教が神をでっち上げて人を支配するように、「国」とは、政府が国民をコントロールするために、あたかも実在するかのように作り上げた概念だ、ということでしょう。従って、この小論のスタートの「日本国を愛することと、日本の政府を愛することとは、本来、別のことであり、両者は明確に区別されるべき」だという前提条件は、実は、間違っていた、ということになるように思われます。

ここに至って、人や地域を自由に愛したいという感情と、いわゆる「愛国心」とが、どうにも相容れないことの理由が、分かってきましたし、新教育基本法が、国民に「愛させたい」ものが何なのかも分かってきます(もちろん政府及び、政府が決めたものを愛させたいのです。しかし、ここで政府を利用して愛国心の対象を決めるのは、複数でしょうが特定の個人です)。不気味な法律が制定された、ということが、理解できました。この不気味な愛人(=政府)は、「本当に愛しているなら、愛するもののために、何でも出来るはずだ、命も捨てられるはずだ・・・」と言い出しかねません。

先に私が挙げた前提条件の間違いの原因を探ると(実のところ、私は、この前提条件が正しいと思って、書き始めました)、「国を愛する」ということには、政府を愛する以外の何らかの実体があるはずだ、という先入観が働いていたことと、「愛国心」というものは、自然な感情として誰にでも存在する筈だという、これまた先入観の刷り込みが存在したことの二つが挙げられると思います。

私のように、どちらかというと、政府に対して疑いを持ちやすい性格を持っていても、「本来の愛国心」というものが存在する、という先入観から自由になれないくらい、愛国心というものが、方々で周到にプロパガンダされているのでしょう。

もちろん、自分が利用する政府を取り替えることには大きなコストが掛かり、日々の生活にとって、政府には便利な点も多々あるので、「国」の正体が政府だからといって、この政府の全てを、しかも、はじめから憎む必要はありません。「なるべく、いいものにしていこう」と考えることが、利用者にとっては、自然なことでしょうし、私も、その程度に考えています。

私個人は、たぶん、日本国政府を意図的に選んで生まれてきたわけではありませんが、その後、日本に居続けて、法律や制度を含む日本国政府の利用者を続けて居るところを見ると、今のところ、制度としての日本国政府に、不満はあっても、総体としてはそこそこに満足しているのでしょう。但し、将来、子供が徴兵されるようになったり、税金があまりに高くなったりすれば、利用する政府を変える、つまり、海外移住して、日本を離れることは選択肢の一つとしてあり得ます。今のところ、一利用者としての私の、日本国政府に対する気持ち、即ち、敢えて言えば私の愛国心の内容は、「私は、兵隊には行かないけれども、税金は払ってもいい、しかし、税金を払う以上は、なるべく良くなるように意見も言いたい」というものです。

ただし、私としては、日本国政府が、必ずしも、今のままのようなものでなくても、構いません。それが、自分にとってより便利であれば、アメリカと共通の政府でもいいし、中国、或いは韓国と一緒であっても構いません。私にとって、現在の日本及び日本国政府は、現状がそうである、という以上に、特別な意味を持つものではありません。

具体的には、国益、防衛、外交、ナショナリズム、経済政策、国際スポーツ大会における応援、諸文化に対する態度、など、多々論ずべき内容はありますが、それらに対する私の個人的な意見と、上記の愛国心に関する理解とは、今のところ整合的であるように感じています。

簡単に例を挙げると、「国益」とは、多くの場合、政府を利用する特定の個人ないし集団にとっての利益であって、国民にとって、無条件かつに存在するものではない、怪しい概念だと考えていますし、人や地域については「国」に拘らずに愛することが重要であって、「ナショナリズム」というものは、自己抑制すべき風土病のようなものだと考えています。もちろん、サッカーのワールドカップでも、オリンピックでも、国にこだわらずに、好きなチーム、好きな選手を応援するのが、正しい姿だと思っています(日本人を応援することも、しばしばあります)。

尚、以上は、私が考えたことをメモした程度のものであって、もちろん私個人の意見ですし、他人に同調を強制しようとするものではありません。また、この問題について、他の考えの方と、論議の白黒を付けよう、というような情熱は、現在持ち合わせていません。
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石原真理子さんの過去の暴露について

女優の石原真理子さんが、過去の男性関係を実名で明かした本が話題になっている。

そろそろ掲載誌が発売される頃ではないかと思うのだが、「日経ビジネスアソシエ」に連載しているコラムで、彼女とつき合った男性にとって、石原真理子さんが「プット・オプション」(「プッツン」ではなくて、「プット」です)であった、という思いつきの原稿を書いた。

オプションの原資産は「石原真理子さんの商品価値」で、行使価格は、彼女が過去の関係をバラすことによって得る話題・印税その他のメリット、期限は(恐ろしいことに)彼女が生きている限り、という超長期のプット・オプションだ。つき合った男性の側は、その時のイイキモチをプレミアムとして受け取って、このプット・オプションをショートした、という形になると考えた。

男性達は、人気のあった頃の女優・石原真理子の商品価値を考えると、まさか彼女が自分との関係をバラす、とは思っていなかっただろう。しかし、もろもろの経緯や経年変化で世間における彼女の知名度は低下したし、率直にいって、商品価値は暴落した。そうなると、本の印税にも魅力があっただろうし、何よりも、スキャンダルを使うことによって注目が集まることに価値が生じたのだろう。(ちょっと専門的に言うと、男性達は、原資産のボラティリティーと長期のオプションをショートすることの怖さを過小評価した。)

ご興味のある方には、是非、「日経ビジネスアソシエ」を読んでみて頂きたいが、1ページのコラムに書ききれなかったことを、少し補足しておこう。

法的にも、倫理的にも、良く分からないけれども、気になる問題は、「二人の経験」というものの、所有権、あるいは著作権は、誰のものなのかだ。これは、当事者のどちらかが、勝手に使っていい物なのか否か。推察するに、法的には、一般に秘密にすべき事柄を公にした石原真理子さんの側が分が悪そうだが、男性側がこれを訴えたりすると、話題として長く引っ張られることになり、かえって逆効果にもなるから、かなり腹を立てたり、迷惑を被ったりした人が居ても、苦虫を噛みつぶして我慢して、やり過ごすしかないのだろう。

しかし、考えようによっては、昔つき合った相手が、落ちぶれたときに、自分との過去の関係を、利用することが出来て、それが役に立つというなら、利用させてやる、というのも太っ腹の美談ではある。(それにしても、森本レオさんの「実績」とその後の堂々かつ飄々とした態度は、凄いなあ! おおっぴらに感心すると、怒られるのでしょうが・・・)

ところで、石原真理子さんがこの話題ではじめてTV画面や雑誌の写真に出てきたとき、私は、申し訳ないが、彼女の容姿や表情の動きに、「なにやら気持ちの悪い見苦しい中年女性が出てきた」と思った。それが、マスコミの注目を浴びて何度もメディアに登場するようになると、こちら側が見慣れてきたということもあるのだろうが、明らかに、きれいに、少なくとも「見やすく」なったように思う。女優のような注目を浴びることで成り立つ職業に就いている人は、こんなものなのだろうか。これは、長期間のブランクの後に芸能界復帰した元アイドルなどにも言えることだ。

それにしても、つき合う相手というものは重要だと思うし、これは、男女の付き合いに限らない。たとえば、表に出られない立場の人とかつて交遊のあった政治家も、かつての事実をバラされることを心配しなければならないし、ビジネスマン同士であっても、羽目を外して遊ぶ時の相手は慎重に選ばなければならない。プット・オプションのショートの喩えでいうと、相手の社会的価値が暴落するリスク、さらに行使価格に影響する(このオプションは行使価格の修正条項が付いている)自分の社会的価値の変化も気にしなければならない(将来、出世しようと思っている人は特に)。

どんな人とでも、縁があれば、フランクにつき合う、というのが理想だと思うが(私は、できるだけ、そうしたいと強く思っている)、人間が社会的な生き物であり、世評その他に影響されることを思うと、そうも行かないらしいのは残念なことだ。
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今年のベスト読書

先日、「週刊現代」さんが、今年の「ビジネス本」のベスト3を挙げてくれ、という取材に来たので、スティーブンJ.レビット、スティーブンD.ダブナー「ヤバイ経済学」(望月衛訳、東洋経済)、梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書)、須田慎一郎「下流喰い」(ちくま新書)の3冊を挙げた。

「ヤバイ経済学」は経済系の多くの方が絶賛される通り、先入観をデータと推理で打ち破る面白さがあって、やはり読むべき(加えて、読んで損しない)本だ。「ウェブ進化論」は賛否両論があるようだが、最近のウェブ・ビジネスの状況を前向きに展望できる本だし、「アメリカの模倣プラスど根性営業」で尽きてしまいがちな日本のネットビジネスと、グーグルのような真の参入障壁を作ろうとしているグローバル企業の凄さの違いを教えてくれる。「下流喰い」は、金融というビジネスのどう猛さを良く教えてくれる本で、「下流」が現在の労働をピンハネされるだけでなく、金融を通じて将来の所得と人生の可能性もむしり取られていく様が分かる。

上記は、今年出版された本で、広義ではあっても「ビジネス本」の範疇に入るものという制約の中での3冊だが、私が、今年読んだ本全ての中でのベストは何かということになると、村本治「神の神経学」(新生出版)を挙げたい。「脳に宗教の起源を求めて」というサブタイトルがついている。

著者は、アメリカ在住の脳のお医者さんであり研究者だが、倫理的な思考や、良心の働き、他人への共感、さらには超自然的な認識を得る脳の機能について、詳しく述べ、さらに主な宗教の教義とこれらの脳の機能の関係について論じている。著者が下した結論は、宗教的な思考(かなり広い範囲を含む)と認識は、脳の神経ネットワーク上に実現している機能によるものであり、このいわば「内なる神」を外に投影したものが、世俗的な宗教の正体であるが、この「外なる神」を奉って人間を組織化して支配しようとする宗教は好ましいものではなく、人は、「内なる神」を取り戻す(必ずしも信心の形を取らなくても、自分の良心を肯定すればいい)ことで、より精神的に豊かに、かつ、自然に、つまり幸せに暮らすことが出来るはずだ、という一本に貫かれた壮大な構想で書かれている。

倫理的な感情も含めた感情と脳の機能との関係が分かりやすく書かれていることが、私の現在の関心と合致していたこともあり、私にとって情報が豊富で有り難かった。近年、自分が所有する本を読むときには、気になる情報を含むページの角を折ることにしているが(折り方によって、ページのどの辺か、が分かるように折っている)、この本の特に前半は折り目だらけになった。後半にも、まだ翻訳されていない著作に基づいたショーペンハウエルの倫理的考察なども紹介されているなど、随所に情報収集の観点で読み所があった。

宗教の歴史は、人間の脳神経系の「進化」に伴うものではないか、という脳の「進化」の時間的な感覚にもう一つ納得できない(そんなに急速に「進化」するものなのか?)点があったが(こらは、私が「進化」についてよく知らないので、リアルに納得できないだけだろうが)、宗教的な認識が脳の神経ネットワークの機能を反映したものだ、という考え方には説得力があったし、日本人著者の著作にありがちな、ぐずぐずとした引用に頼るのではなく、著者自身の言葉で、著者の意見を突き詰めて書いている点は、読んでいて気持ちが良かった。この本が1200円というのは(1500円異常でないとアマゾンで配送無料にならないし)安すぎのミスプライシングだと思った。

明日(24日)が、父の80歳の誕生日なので、今日は、これから久しぶりに札幌に帰るのだが、行き帰りの飛行機の中でも、眠くならない、面白い本を読みたい。
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持ち家か、賃貸か その2

持ち家と賃貸の問題は、ご関心が高いようですね。両論共に参考になります。(雑誌のコラムなどを書く時の参考にもできそうです)

ご意見が多いので(嬉しいことに、コメントの総数だけではなく、参加者が多い)、エントリーをもう一度立て直すことにします。

議論がアツクなりすぎないうちに、ご説明しておきますが、「~派」という立場を作ってディベートする方が時に面白く、また、活発な論者が集まると、議論が深まりやすいと思うので、私は、今回、実生活と同じ、「賃貸派」の側から立論していますが、エントリーをよくお読みいただければ分かると思いますが、「賃貸か、持ち家か」は、不動産の価格による、と言っているのであって、常に賃貸が良い、と言っているのではありません。

この点は、お忘れなきように!

また、たまたま良い(悪い)時に買った話や、値下がりしない物件を選べばよい、という話は、インチキな株式評論家(個別の推奨銘柄まで出すタイプ)の株式投資話のようなものであり、ここで論じようとしていることとは、別次元の話だと思います。

たとえば、都心で駅近の物件でも、高すぎる状態になることもあるでしょうし、その状態で買えば、損をします。後講釈を言うのは簡単ですが、「いい銘柄」を自分だけ選べる、というような前提の議論は、価値がありません。(いい投信を事前に選ぶことが出来る、という前提の投信弁護論と一緒です)

話の収斂先は、不動産投資には、どのくらいのリスク・プレミアムが適切か、という辺りなのでしょう。

自分で住もうが住むまいが、リスクを取って資産を持っていることは同じなので、単純に「賃貸」にかかるコストと、「持ち家」の取得・ローンの総コストとを較べるアプローチは、ファイナンス的には、債券と株式のリターンをリスクの違いを考慮せずに較べるような、間違いです。

高い価格で不動産を買ってしまった人は、たとえば日経平均連動投信を、日経平均が1万6千円の時に2万円で買ってしまったようなものでしょう。長期的には、2万円を上回る可能性がありますが、その場合でも、意志決定自体をその時点に戻して考えると、少なくとも相当の、「損」だった、ということになりますし、後から見て、たとえば、もっと使えるはずのお金を使えなかったという結果になっています。(注:この種の意志決定を、結果が儲けであったことから、「損ではない」と強弁する癖が付くと、金融機関にとことん騙されやすい体質になります)

ただし、持ち家の投資利回りが悪い時でも、賃貸派が必ずしも、経済的に成功しているかというと、そうでもなく、投資するお金を作らずに無駄遣いでもしていれば、持ち家派の方が、利回りが悪くても不動産の価値の形で貯蓄したことになっている、という点は、自戒と共に、指摘しておきましょう。

あと、大家さんを事業として行っておられる方は、リスクを取って、また、あれやこれやと手間を掛けておられる訳ですから、そのリターンはあっていいでしょう。但し、それなりに大きな事業リスクを負っているのだ、という理解が必要でしょうし、簡単ではないと思います。

結局、大まかな市場原理が働けば、平均的な嗜好をお持ちの方にとって、賃貸と持ち家のリスクを考えたコスト比較は、「いい勝負」に落ち着くはずです。

賃貸で住んでいると大家さんの利益部分の家賃もしばしば払わなければならないし、賃貸の場合でも将来の家賃上昇や契約更新のリスクがありますし、持ち家の場合にも各種の損とリスクがあって、いい加減、ということでしょう(たぶん橘玲さんがお考えなのも、こういうことでしょう)。

すると、ここから先は、
(1)個人のライフスタイルにあって、賃貸の自由度・身軽さを取るか、持ち家の安定感・使い勝手を取るか、
(2)ファイナンシャル・プランニングの問題として考えて、「持ち家」が(ことにローンまで背負う場合に)適切なのか、
という問題になります。

この点で、今回の朝日新聞のインタビューで、私は、(1)の点のメリットを強調したわけですが、(2)の点についても、もっと注意が払われるべきだろうと思っています。この点に関しては、現在のファイナンシャル・プランニングのテキストは、「家は買うもの(買ってもいいもの)」という前提で考えられているようであり、結果として、無用に窮屈な家計を多産している面があるように思えます。

また、もちろん、不動産にも「相場」があるので、全体感としても、個別にも(たとえば「マンション」というのは不利な投資対象ではないか、など)、高いか・安いか、これから上がるか・下がるか、は、精一杯考えてみるべきでしょう。

たとえば、バブルの時期に、不動産を買ったファンドマネジャーを何人も知っていますが、あの利回りでどうして買えたのか、不思議でもあり、「土地神話」なるものの怖さを思い出します。

結局、最終的に私が是非とも言っておきたいことは、家の購入という重大な経済的意志決定にあって、「自分で住む家は特別だ」、とか、「家は、買うのが普通だ」、とか、「家の投資利回りは普通の投資と同じように考えてはいけない」といった、不動産業界と、過去に持ち家を景気対策に何度も使って来た政府が半ば作った先入観を解体して、通常の経済的意志決定の一つとして、特別扱いせずに、シビアに考えよう、ということなのだろうと、思います。

 この点については、結局、「賃貸派」でも「持ち家派」でもない、ということになります。
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持ち家か、賃貸か

 家は買うのがいいか、賃貸がいいか、について取り上げる約束であった。

 基本的には、家の値段が十分に安いか、或いは安くないか、による、としか、言いようがない。先日、朝日新聞の取材に答えた時にも、基本的な意見はそういうことだった。問題は、家の値段をどう判断するかだが、賃貸物件として考えた時に十分に客が付くし、自分が払ってもいい家賃の見込み収入から、税金も含めて諸経費を引いて、実質利回りを計算して、せいぜい8%までで、それ以下の利回りになるようなら、価格が高い、というのが私の感覚だ。

 マンションのセールスマンがよく言うような、「持ち家は、お金を払ううちに自分のものになるけれども、賃貸はいくらお金を払っても自分のものにならない」という、自分のものに「なる・ならない」という二分法にごまかされるのは、賢くない。(バブルの頃は、ファンドマネジャーでも、この点が分からない人が、結構居たのだが・・・)

 株式に投資する場合の、機関投資家の期待リターンは計画ベースでだいたい7-8%(長期金利プラス5-6%のリスク・プレミアム)である。これは、分散投資された、年率の標準偏差で見て、15%-20%くらいのリスクを前提とし、換金の流動性にはほぼ問題はない、という前提での期待リターンだ。

 不動産全体の価格の変動性の統計は手頃なものが存在しないが、過去十数年のデータを、東京中央三区のオフィス価格のボラティリティーで見て、株式よりも少し低いくらいの数値だったと思う。ただし、自宅不動産の場合は、何町の何丁目、何番地という特定の物件であり、分散投資できないので、実質的なリスクは小さくないと見なければならないし、売ろうとしたときのコスト、つまり流動性の問題もあるので、資金の効率として、8%くらいには回っていて欲しい、というのが私の「感じ」である。

 自宅として自分が住む場合は特別かどうかだが、これは、自分が店子だと考えるといい。当面、確実に住んでくれるお客さんがいるというのは強みだが、後述のように、後から事情が変わると、これは、自分にとっての重荷になる。

 加えて、住宅ローンの利用にも問題がある。マンションのようなものの場合、家の価格にはざっと3割程度の利益部分が乗っていると見ていいと思うが、この他に、ローン金利のスプレッド部分(その時の金利情勢に見合った金利が問題なのではなく、銀行の儲けとなるスプレッド部分の現在価値が、自分にとっての「損」だ)が問題であり、条件にもよるが、全額ローンで考えると、購入金額の2割くらいになるのではなかろうか(固定金利ローンのスプレッドが2%あるとして、徐々に元本が減るとしても、20-35年のローンのスプレッドは大きい。また、保証料や生命保険料のような出費もある)。

 また、資産運用の一環として、キャッシュで買えるならいいが、ローンを負ってまで自宅を買った状態は、負債を持ってバランスシートを膨らませて、しかも、資産の大半を「ある住宅」という一資産に投資した、何とも危うい財務状態となる。家に株式並みのリスクがある、ということを考えると、株式投資で言えば、超長期の信用取引をしている状態に近い。株なら心配で、家なら安心、というのは、後者の価格変動を毎日見るわけではないから、というだけのことであって、経済的には錯覚だ。

 一方、賃貸住宅の家賃にも、大家の利益分が乗っているし、大まかな市場原理が働いているとすれば、賃貸で住むか、家を買うかによって、時々の相場による得失はあるとしても、大きな損得は、いい加減のバランスに落ち着くと考えることは出来る。従って、ローンを負わなければ家を買えないような、分不相応な家計は別として、資産の中の一部が不動産になるような家計が、持ち家を買うことは、大筋としては構わないだろう。

 但し、「時々の相場による得失」を考えると、たとえば、首都圏のマンションは、どう見ても供給過剰ではなかったかと思えるし、今後の人口動態を考えると、不動産価格に対して強気になれない。個人的には、将来、都心のマンション価格が下がった時に、お金があれば(あって欲しいが!)、買えばいいかも知れないと思っている。

 また、朝日新聞のインタビューで私が強調したのは、買うか・借りるか、で損得無しと考えるとした場合、賃貸の方が、ライフスタイルや、働き方・働く場所の変化に対応しやすいということだ。主に、生活の自由度の拡大と、変化への対応、という意味で、賃貸暮らしに優れた面がある、というのが、私の意見のポイントだった。

 「場所」ということだけ考えても、たとえば、通勤時間が一時間余計に時間が掛かるということは、仮に時給が5千円の人であれば、一日に1万円の損であり、月間の損失は20万円以上に及ぶ(通勤電車がお好きでも、この半分くらいは損をしていると考える方がいいだろうと思う。もっと厳密に生産性を考えると、時給の倍くらいの損をしていると考えないと、ビジネスマンとしては物足りない)。

 他方、賃貸の物件には、家族の事情に合った間取りの、程良いものがなかなか無いとか、家を住みやすく改造する事が難しいといった、不自由はある。自分は市役所にでも勤めていて、転勤も転職も心配や意志がなく、子供の学校も近所で問題ない、といった超安定的な家族の場合、価格にもよるが、持ち家に対していくらか積極的になってもいいだろう(私には、幾らか退屈な人生に思えるが、この点の好みは、人それぞれだ)。

 しかし、若い頃と、家族が増えてからでは、住みたい場所や、住みたい家の構造も違うだろう。多くの人が私ほど転職しないとしても、転勤もあれば、転職もあろうし、家族の事情によって、住んで便利な場所は変化する事が多い。この点で、心配なのは、働く独身女性のマンション購入だ。後から、家族構成が変わることもあるだろうに、ローンでマンションなど買って大丈夫か、と思う。

 価格を筆頭とする物件の個別事情にもよるし、個人の事情にもよるが、日本の場合、これまでの持ち家推進の国策もあって、高い価格で、分不相応に、家を持ってしまい、その結果、財務的にも、人生設計上も、負担になっている人が多いのではないだろうか。

 些か刺激的な言い方になるが、家を買うぐらいしか、自分で決められる大きな意志決定が無いのかも知れないが、「人生、もっと面白いことはないの?」と言ってやりたくなるような、持ち家の奴隷が少なくない。もっと身軽に生きる方が、よさそうなものに思えるのだが。

(注:上記は、ある読者のリクエストにお応えして、私の「一般論としての意見」を述べたもので、個々の方の人生や住宅にケチを付けることを目的として書いたものではありません。念のため、感情的になりませんように、とご注意申し上げて置きます)
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オヤジには、取りあえず「お洒落ですね」と言うといい

他愛のない話だが、最近気付いたことを書いておく。真面目な読者は、お読みにならないように。

幾つかの雑誌で仕事をされていて、時々取材にお見えになる女性ライター(30歳代前半)が、先日、取材に来たときに、「山崎さん、いつもお洒落ですね」と言うので、私は当惑した。現在の仕事を考えると、仕事の際にスーツにネクタイでなくてもいいのだが(厳密には、もう一段洒落た格好が出来れば、その方が、もっといい)、取材を受ける場合は95%以上判で押したように紺無地のスーツにワイシャツ&ネクタイである。その日も、いつもの格好だった。

数年前までは、ワイシャツも白無地と決めて更に単純化していたのだが、妹(11歳下)に、「兄、せめてテレビに出るときは、ワイシャツぐらいカラーにしたら」と言われて、ワイシャツとネクタイをセットで貰い、それ以来、主に青系の無難な色だが、ワイシャツはカラーにしているのだが、どうやら、彼女は、私のワイシャツとネクタイを指して「お洒落」と言っているらしい。

しかし、以前にも書いたことがあるが、私の場合、スーツとネクタイの姿でばかり暮らしていたせいで、もともと乏しいファンションセンスが発達しないばかりか、使わない筋肉が萎縮するように、更に退化してしまっており、同年代と比較するとしても、ファッションセンスの偏差値は40台前半というところだろうと、自己評価している。

さて、何となく、話の主導権を握られながら、そのライターさんと世間話をしているうちに、ある大物の評論家氏の話になった。

彼女は、最近その方を取材したらしいのだが、写真撮影のあるその取材で、評論家氏はピンクのセーターにオレンジ色のマフラーをして現れたのだという(記憶は定かでない。色が逆だったかも知れない)。正直に言って、風采のぱっとしない方なので、その格好が似合うとは、私にもとうてい思えず、頭の中には、オレンジ色のカメムシが口を尖らせているような珍妙な映像が浮かんで来た。

さすがに、カメラマンも含めて、取材スタッフは息を飲んだらしいのだが、その女性ライターは少しも慌てず、「センセイ、お洒落ですね~っ! 本当にお似合いです!! 私は、そのセーターとマフラーのコーディネートがとても好きなのですが、今回の話題は随分堅い話ですし、編集部のアタマはもっと堅いので、もうちょっと無難なヤツで行きませんか」と話を向けると、自己顕示と自信と不安がない交ぜになっていたらしい評論家氏は、褒められたことに満足しつつ、「そうだね。もう少し、無難に行こうか」といって着替えてくれたのだ、という。服装の構造改革は、無事成功した。

もちろん、その女性ライターも、評論家氏の当初の服装が良いなどとは少しも思っていなかったのだが、「オヤジは、ファッションを褒められると舞い上がるんですよ」とホンネを教えてくれた。

私の場合は、自己評価が低いから、舞上がるところまでは行かないが、それでも、「お洒落ですね」と言われると、自分に注意が向いて、浮き足立つような感覚を覚える。

考えてみると、「お洒落ですね」という言葉は、本当にお洒落なオヤジを、取りあえずいい気もちにするが、自分のセンスに100%自信があるオヤジは殆ど居ないのではないか。本当は、どの程度イケているのだろうか、と少し心配に違いない。一方、お洒落に自信のないオヤジには、自分自身に注意を向けさせて、幾らか不安にさせる効果がある。何れにせよ、心理的な主導権を、女性の側が取ることができそうだ。

商談でも取材でも、取りあえず女性がオヤジ世代を相手にするときは、「お洒落ですね」と褒めておくと、物事が上手く行きそうな気がする。相手が本当にお洒落であっても、そうでなくても、構わない。

もちろん、手の内が分かったので、私は、もうその手には乗らないが・・・!
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石原都知事の出張旅費と四男の問題

魚住昭さんが、「週刊現代」の連載コラムで、石原都知事の過大な出張旅費(15回の出張で、2億4千4百万円)と、四男(画家)に対する公費支出問題を取り上げておられる。

そもそも、彼のガラパゴス島のクルーズや、パリでコンサートを聞くことがが都民生活のために、何ら役立つ訳ではないし、知事が首相の出張場合の2-3倍の部屋代のホテルに泊まることが、都民の名誉なわけでもない。2億4千万円の半分が過大な支出なら、やっていることの意味は、1億2千万円の使い込みと一緒だ。

また、さしたる額ではなかったようだが、四男の作品に公費を払ったり、彼に(もう40歳の大人だ)作品発表の機会を与えるために、「天の声」を行使することは、息子を甘やかし過ぎでもあろうし、もちろん、政治家の態度として好ましいことではない(「李下に冠を正さず」という言葉がありますね)。現在、議員で閣僚経験もある長男の伸晃氏以下、4人の息子さん達が何れも頼りなく見えるのは、慎太郎さんが子供達を甘やかして育てたからではないか、と勘ぐりたくもなる(正しくは、ご本人達の資質の問題だろうが)。

本来なら、彼の息子の何れかが、「オヤジ、はした金を使い込むような、みっともないことは辞めろ! もう衰えが隠せないから、これ以上見苦しくなる前に、早く引退せよ」とでも引導を渡すようだと麗しいのだが、そのような展開は望めそうにない。

石原都知事は、四男問題を追及した共産党の質問に関して、「いかにも共産党らしい貧しい発想だ」と反論したが、「違法でなければ」、自分は公費を無駄遣いしても良い、という彼の態度と行動の方が、「貧しい」という言葉の定義によほど適切に当てはまっているのではなかろうか。お金が無いわけでもなかろうに、少々の贅沢支出は、自腹で出せば格好が良かろうと思うのだが、どうして、その位のことが分からないのか。

それにしても、魚住氏のコラムにある通り、メディアによっては、明らかに石原批判を遠慮ないしは、避けており、石原批判が、ある種のタブー化しているような状況があるようで、困ったことだ。

石原氏の、思想や都政については、また別の機会に論じるとして、ともかく、彼は醜くなったし(言動が、だ)、もともと自分を客観視できない傾向が、最近、ますます昂進してきているように思う。特に、出張旅費問題の扱いが、多くのメディアで、あまりにも小さいので、先ずは、この点について、批判というよりも「軽蔑」を表明しておきたい。

尚、私は、彼のアドバイザーを買って出るつもりなどさらさら無いが、余計な「威張り」を止めて、「可愛く」振る舞えば、彼は大いに人気が出るだろうに、とも思うのだが、どんなものか(そうなると簡単に再選されて困るが)。
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「Y’s Bar」の収録に行ってきました。

日経CNBCが、制作・放送した番組で、「Y’s Bar」という番組があったのを、ご記憶でしょうか。私と森下千里さんがホスト側で、バーにお客様をお迎えする設定で、第一回、第二回のゲストは、経済アナリストの森永卓郎さん、米長邦雄将棋連盟会長でした。

番組タイトルは、同意したのだから、自己責任ですが、不遜にも「山崎」の「Y」とwise=賢い、をかけたものですが、これが「偉そう」なのと、かつて、村上龍さんがホスト役の番組で「Ryu’s Bar」という番組があり、このパクリっぽいタイトルである点が少々気になっています。

この番組の第三回目、四回目を制作することになり(それぞれ30分番組です)、先日、収録に行ってきました。

ゲストは、作家の渡辺淳一さん、漫画家の蛭子能収さん、でした。渡辺さんは、言うまでもなく恋愛小説の大家で、来年公開予定(1月13日)の映画「愛の流刑地」の原作者でもあり、恋愛・SEXの話題が大いに出るであろうことは予想されましたが、蛭子さんも、19歳下の女性とのご結婚が決まったところとあって、パワフルな性欲をご披露され、両熟年(72歳と59歳)のお元気さに圧倒されそうになりました。

ただ、この話題はテレビでもあり、あまり露骨にも聞けないので「あのー、年齢が上がってくると、例えば、野球のピッチャーで言えば、登板間隔が空いたり、一試合の球数が減ったりしますよね・・・」などといった比喩を交えて、話を進めました。

番組の放映は、12月31日の25時(正確には元旦の午前1時)から日経CNBCで放送される予定になっていますが、その後、何度か再放送されることになると思います。

インタビューの内容は、編集でどの部分が使われるかまだ分からないので、まだ披露できませんが、渡辺さんには、「愛の流刑地」のお話をたっぷりお聞きしましたし、蛭子さんとは、ギャンブル論を戦わせました(競艇と競馬と株式投資とどれがいいか、等)。

敢えて、楽しみな箇所をご紹介すると、先ず、渡辺さんに「脈あり」の女性の見分け方を教えて貰いました。「男は、女性をどんどん口説いて、振られるといいのだよ」とも教わりましたが、無駄玉を減らし、自尊心のダメージを少なくすることも大切でしょうから、これは、実用的な知識だと思います。

蛭子さんのお話で印象に残ったのは、蛭子さんが、なぜタレントとして多くの出演依頼を受けているか、という、いわば「蛭子商店」の経営に関する信条をお聞きした話です。なるほど、テレビ局が、蛭子さんを使いたがる訳だ、と思いました。

共演者の森下千里さんは、話への絡み方が上手くて、番組を、明るく、スムーズに進行してくれたので、素人出役である私としては、大いに助かりました。今までこの種の番組やイベントなどで競演した何人かの女性タレントの中でも、ピカイチの話しやすさです(中には、話しやすくない方もいらっしゃるのです)。

どんな出来上がりになるか、心配でもありますが、お暇な方は、是非、ご覧になってみて下さい。放送予定の詳細が固まりましたら、また、このブログでもお知らせいたします。

「Y’s Bar」は今のところ不定期営業ですが、チャンスがあったら、またやってみたいと思っています。
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日本のIT企業は法人営業に弱点がある

ある有名IT企業(取りあえず楽天グループの会社ではないと申し上げておきましょう)の経営の内情に詳しい友人に、食事をしながら、面白い話を聞いた。法人営業が、IT企業の大きな弱点になっているというのだ。

広告モデルで収益を得ているIT企業の場合、大きな広告を取るためには、たとえば三菱グループの企業のような、古い大企業とも契約をまとめる必要がある。大きな案件であれば、たとえば、○○重工とか○○電機、あるいは○○○自動車といった会社の広報担当の執行役員あるいは部長クラスを訪問して、話をまとめてくるのが普通だろう。

ところが、このような場合、件の友人のよく知るIT企業では、彼の言葉を借りると、以下のような仕儀となる。

「だいたいさあ、こっちから訪ねていく奴の年が若過ぎて相手の役員クラスと釣り合わないし、話が合わない。それに、こんな髪(自分の頭の上に手で三角を作って)をした奴が、カラダにぴたぴたの服着て行って、しかも、アポの時間に遅れていたりするんだな。」

「それに、相手の関心に合わせた、気の利いた世間話も出来ないから、役員の前で、いきなりカタログ拡げて、商品説明を始めからしたりするんだ。話し始めると、携帯の着メロが鳴ったりするしさ。これじゃあ、まとまるものも、まとまらないよ」

「結局、経営者からしてアンちゃんだし、企業経験があっても、たとえばR社みたいな社員の若い会社しか経験がないから、大企業や金融機関を担当する”法人営業担当者”がどんなものなのかが分かっていない。目標と、根性と、ノリだけで、何とかなると思われては困るんだけど、分かんないんだねぇ・・・」

彼の言葉を補足すると、大企業の役員は時間に遅れるような相手は論外だし、細かな商品の内容はあらかじめ相手の部下に根回しが済んでいなければならないし、学園祭に資本金とノルマをくっつけたようなR式経営が通用する相手と、通用しない相手は、やはり、ある。

日本のIT企業の場合は、Googleのように技術的なアドバンテージを参入障壁として持っている訳ではなく、割合成功している会社でも、「日本のIT企業」=「アメリカのITビジネスの真似」×「ど根性営業」というパターンが多いだけに、「営業」のあり方を見直すことは必要かも知れない。

たとえば金融機関勤めで法人営業担当のゼネラリストで(マーケットも、金融工学も、英語も、法律も、何にもゼネラリーに詳しくない)これまで転職市場ではパッとしなかったような人材が、案外、こうしたところで生きるのかも知れない(彼/彼女がIT企業になじめるか、という問題はあるが)。

尚、上記は、一般論であって、若くてトンガリ・ヘアーでも魔法のように年上の顧客を落とす有能なセールスマンはいらっしゃるだろうから、読者がこれに該当する場合は、気を悪くされないで下さい。
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株価が高過ぎる場合のエージェンシー問題

先日、ある大学の大学院で、かつての同僚と一緒にファイナンスの授業をした。ライブドア、村上ファンド問題が題材で、事実の経緯と、法的な問題点などについては彼が話をしてくれたので、私は、ライブドアとニッポン放送の問題についてコメントした。これまでに何回か取り上げた問題だが、ファイナンスの授業の観点から、まとめてみる。
 
授業の題材として取り上げるとすると、ライブドアとニッポン放送、フジテレビの問題の面白い点は、決着の評価と、そもそもライブドアがニッポン放送を買った動機だ。

周知のように攻防戦の決着は、(1)フジテレビがライブドアが保有する日本放送株をほぼライブドアの取得価格で引き取り、(2)フジテレビがライブドアに出資する(時価で12.75%)、というものだった(形だけに終わった「提携」は無視しよう)。これに加えて、ライブドアは、(3)リーマンブラザーズ証券にMSCBを引き受けさせて、リーマンは百数十億円儲けた、とされている。

この決着について、ライブドアの宮内元取締役は「フジテレビをカツアゲしてやった」と言ったそうだが、果たしてライブドアは幾ら儲かったのか?

実は、ファイナンスの理屈的には、この決着で、ライブドアは儲かっていない。(1)は損得ゼロだし、(2)は<この時点のライブドアの株価が正しいとすれば>時価発行増資をフジテレビが引き受けただけのなのでこれも損得無しであり、そうすると、(3)リーマンがほぼ確実に大儲けできるように発行したMSCBのディールの分だけ(厳密には発行時点の期待値で評価すべきだが、大雑把には、リーマンが儲けた分ということになる)ライブドアの株主は損をしたことになる(これは、大株主であった堀江貴文氏も一緒だ)。

しかし、「ライブドアの株価が本来評価されるべき実体よりも相当に高かった」という仮定を置くと、この決着は、「わたあめの様に過大評価されていた」ライブドアが時価総額の一部を、もともと「より実体価値のあるニッポン放送株(フジテレビ株というあんこが入った鯛焼きのようなものだった)」に入れ替えようとしたところ、もっと実体価値の確かなキャッシュに変わった(ざっと1400億円)のだから、大成功なのだ、ということができる。(この点には、賢い学生さんは、授業中に気がついた)また、こうした意図がライブドア側にも多少はあったことは、大鹿靖明氏の「ヒルズ黙示録」にライブドアの熊谷取締役のコメントからも窺える。

ところで、株価が、企業の実体よりも相当に高く評価されてしまった場合に、経営者はどう行動したらいいだろうか。

証券取引の神様の前では、実質的に「我が社の株価は、実体の約○倍です」と告白することが望ましいのかも知れないが、すると、その時点の株主は大いに怒るだろうし、株主構成によっては経営者のクビが飛ぶだろう。それに、経営者自身も株価が下がるのは良い気持ちではあるまい。通常の経営者にとっては、高すぎる株価が「当然の株価」であるがごとく振る舞う以外の選択は難しいかも知れない。

高すぎる株価を経営者の立場で利用するためには、株式でファイナンス(=資金調達)することが考えられる。これは、高すぎる株価で、発行株の一部がキャッシュになるのだから、倒産リスクが低下して、また投資に使えるお金も(同時に、社長が無駄遣いするお金も)増えるので、なかなか心地のよい話だが、単にキャッシュを蓄える、というのでは、ファイナンスの名目が立たない。

一般論としては、ここで、大風呂敷を広げた投資計画(=資金需要)をでっち上げることが考えられるが、そうそう素晴らしい事業計画のアイデアが湧くものでもないとすれば、手軽なのはM&Aだ。利益を生む事業を買収すると、見かけ上も、収益を膨らませることができて、成長したようにも見える。

「大風呂敷経営」でも「M&A」でも、その会社にとって最適な事業計画とはずれていくし、ひいては、資源の最適な利用からもかけ離れて、やがて、化けの皮がはがれて、会社の株式価値が正しく評価されるようになると、株主も大損する。

経済学的には、これは、エージェント(代理人)である経営者と、プリンシパル(委託者)である株主との利害関係が異なると同時に、両者の持っている情報に非対称性があることによって、生じた損失であり「エージェンシー・コスト」だ、ということになる。

学生さん(といっても社会人だが)の理解の上では、「株主価値を最大化するような合理的な経営者」といった「建前」の先入観が理解の邪魔をするようだが、正しくは「自分の経済的利益を最大化するような合理的な経営者」を考えないと、分析として、正しい前提条件にはならない。

エージェンシー問題の概念を定式化したのは、マイケル・ジェンセンで、そのジェンセン(現在もハーバードの教授のようだ)が最近取り上げている問題でもあるが、株価が高すぎる場合、こうしたエージェンシー問題は、益々エスカレートする可能性が大きく、経営者の暴走を止めることが難しく、エージェンシー・コスト(最適な状態からの損失で測る)は莫大なものになる可能性がある。具体的にはエンロンやワールドコムのケースは、そういうことであったと言えるだろう。

上記は、雇われ経営者をモデル化した場合だが、経営者が大きな持ち株を持っていたり、オーナー経営者であったりした場合でも、問題は起こる。

一つにはライブドアのケースのように、「わたあめを、鯛焼きに」変えるようなM&A(それ自体に建設的、創造的な意味のない、単なる事業ポートフォリオの入れ替え)に走る可能性があるし、或いは、ミスプライスをさらに拡大させて、自分の持ち株を売り抜けようとするかも知れない。

また、ポートフォリオの一銘柄として会社に投資しているはずの一般株主と、自分の資産の大半を自社株が占める経営者の利害関係は異なる可能性がある。典型的には、前者は、ハイ・リスクなプロジェクトへの投資を好むだろうが、大株主経営者は安定した資産や事業ポートフォリオを望む可能性がある(社会的な地位の問題もあるし、株式を高く売り抜けることが難しい場合には、特に、そうなりそうだ)。

株式投資をする上では、取りあえず、(1)M&Aによる利益と本業の成長を分けて評価し、(2)M&Aによる利益は少なくとも単純に利益成長にカウントして評価しないことが大事だし、(3)M&Aに積極的な会社や大風呂敷経営に見える会社の場合事業ポートフォリオの入れ替えや現在の株価での株式売却に意図がないかを疑う、つまり、経営者(=自社の情報を持っている人ではある)が、実は、「自社の株価を高すぎると思っているのではないか」ということに注意をすべきだ、ということになる。

また、社会・経済の仕組みとして、株価が高すぎる場合のエージェンシー問題に対応できる仕掛けを考える事は容易ではない。一つには、経営者の評価尺度をある程度株価から引き離すことが重要だろうし(たとえば、ある種のEVAのようなものを尺度にする)、もう一つには、経営者個人が、将来にわたって企業の長期的な評価を気にしなければならないような仕組みを導入する(たとえば将来の利益にリンクした年金を払う)、ということだろうが、これらと、一般にモノ言う株主が望むような、株主から経営者へのプレッシャー(これ自体にも大切な面はある)とを両立させることは容易ではなさそうだ。

尚、ライブドアのケースについては、事実の経緯を追うと、フジテレビが出資した後、ライブドアの株価が二倍以上に上昇し、事後的に見ると(たとえば2005年の年末で見ると)、そもそもライブドアの株価は、割高ではなかった、とも言えた、という問題がある。

さらに、同社が摘発された時点では、外資系の大手運用会社2社がそれぞれ6%程度ライブドアの株を持っていた、という、投資家の株価評価能力を考える上で脱力するような事実があったことも、ファイナンスの授業の題材に使える話だ。
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