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「使えるノート」へのあこがれ

 以前に「手帳に目標を書いておくとこれが実現する」という類の主張を持つ手帳(使用)術の論者を、いくらか小馬鹿にして「手帳系」と呼ぶエントリーを書いたことがある。私は、正直なところ、「手帳系」のキャラクターのばかばかしい迄のポジティブシンキングが鬱陶しいのだが、実用書の一カテゴリーとして、手帳術が受ける理由は、何となく分かるような気がする。
 よくできた手帳本は、自分(=読者)にも出来そうな少しの工夫で驚くほど変わった自分を手に入れることができそうな「お得感」への期待を喚起すると共に、読書中には、自分の能力が急に伸びたような「一時的高揚感」が得られるからだろう。この辺りは、ダイエット本も、英会話本も、株式投資のチャート分析本も、よく似ている。

 「週刊文春」の10月2日号の記事(「目からウロコの『東大ノート』200冊大公開)によると、このジャンルに新しい本が登場したようだ。
 この記事は「東大合格生のノートは必ず美しい」(太田あや著、文藝春秋)という書籍を紹介したものだ。同書の著者は東大合格者の高校時代のノートを200冊集めたというが、現役で東大に合格する生徒のノートは、「情報が整理されていて美しく」、「最初のページから最後のページまでノートのテンションが変わらず」、「受験が終わってからもノートを残している」という傾向があり、「ただ美しいだけではなく、迫力のある美しさ」なのだという。本自体はまだ読んでいないが、記事からは、ノートを上手に取ることが、効果的な勉強法であり有効だという趣旨の内容だと推測される。
 勉強の成果を上げたい人は多いだろうし、ビジネスマンも興味を持つかも知れない。タイトルが「東大」を強調する点がいいような悪いような気がして判断に迷うが、実用書としては、売れる可能性がありそうな気がする(このエントリー執筆時点でのamazonの順位は29位だ。既に売れているのかも知れない)。

 私は、ノートに関して、いくばくかの劣等感を持っている。自分でノートを取って、満足の行くノートが出来たことはないし、ノートが役に立ったという実感を伴う経験を全く持っていない。ノートを的確に取れないということは、理解力なのか、表現(要約)力なのか分からないが、重要な能力が劣っているのではないか、と思うのだ。
 記者や編集者などで、実に的確にノートを取っておられる方を見かけることがあるが、いつも羨ましいと思う。時には、仕事のノートで真似をしたいと思うことがあるのだが、上手く行かない。だいたい途中で投げ出すか、書くだけ書いて二度と見返すことがない。

 高校時代はノートを持っていなかった。
 レポート用紙をいつも持っていて、勉強法は、もっぱら問題集を解くことだったので、レポート用紙に解答を書いては、正解を見て赤ペンで添削して、点数を集計して捨てる、ということの繰り返しだった。授業で聞いた話で重要と思ったことがあれば(あまりなかったような気がするが)、教科書の欄外に書き込んでメモしていた。
 学校もおおらかだった。ある時、現代国語のN先生が、ノートを提出せよ、と言ったのだが、「私はノートを持っていない。だいたい先生はノートが要るような授業をしていないではないか。教科書の欄外のメモで十分だ」と答えたら、先生は「そうか」と言って、笑って許してくれた(いい先生だったのだが、現在どうしておられるのだろうか・・・)。
 大学時代は、有名なセンセイがいたこともあり、4年間で通算3、4冊のノートを作ったが、読み返した記憶がない。板書と教師の話を自分なりにまとめて、なるべく洩れのないように書いたつもりだったが、自分が書いた字を見るのが嫌だったものか、後から見ることはなかった。
 会社員になってからは、必要を感じて時々ノートを作ることがあるが、多くの場合最後のページまで続かないし、会議のメモなどで数字を確認するといった一時的備忘の用途以外にノートが役立ったことがない。
 結局、必要があればレポート用紙(格子状の線が入ったものが好みだ)に落書きのようにメモを書いて、その都度捨てている。敢えていえばマインドマップ風に真ん中にテーマを大書して、周りに落書きがあるメモが多い(それにしても、マインドマップとはノウハウというほど大げさなものなのか?)。
 雑誌などに書いた文章のPC内のファイルや、メールが記録になっていることがあるので、ノートが無くてもぎりぎり間に合っているとはいえる。しかし、忘れたことを他人に聞いたり、改めて調べ直すことは少なくない。

 脳科学的には紙に手で字を書くといった行為は記憶の定着にも思考にも好ましいことだろうし、急いで物事を記録するにはPCよりも紙に手書きが速い。また、私は、もともと記憶力が優れている方ではないので、効果的な記録のノウハウには大いに助けられるはずだ。それに、物としての筆記用具(万年筆もボールペンもシャープペンシルも)もノートも好きだ(単なる物欲だが)。
 私にも出来る、気持ちのいいノートの使い方があれば、是非身につけたいと思っている。簡単でいい方法があれば今までやっていないことが悔しいし、今の秀才君達が使っている方法が私には出来そうもないと思うとそれはそれでまた残念だが、とりあえず、東大生のノートの本を注文してみることにする。
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投資銀行ビジネスモデルの弱点

 「にわかリーマン評論家」であるとしても、テレビで短時間のコメントをするだけではつまらない。少しは理屈をこねないと気分が出ない。楽天証券のホームページの私の連載「ホンネの投資教室」に、「ビジネスモデルとしての投資銀行の終焉」と題したレポートを書いた。
 以下は、そのレポートの一部分で、投資銀行のビジネスモデルを要約した部分だ。(全文は楽天証券のホームページで無料で見られます。良かったら、ご一読下さい)

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 リーマンブラザーズのような投資銀行のビジネスモデルでは、(1)市場から資金を調達し、(2)多くの場合レバレッジを掛けて、(3)リスク商品への投資/トレーディングを行う、というものだ。加えて、(4)トレーダーから経営者に至るまで、成功報酬のシステムで処遇されるので、彼らには、取れる限り最大限のリスクを取る経済合理的なインセンティブがある。
 成功報酬制度は経済的には「コール・オプション」なので、ボラティリティー、つまりリスクが大きいほど価値が上昇する。即ち、投資銀行型のモデルにあって、リスクは可能な限り上限まで拡大する傾向がある。つまり、経営基盤のしっかりしている投資銀行は、その基盤が許す限り最大のリスクを取ろうとするので、投資銀行は大きくても、小さくても、一つの失敗で一気に危機に至る性質を持っている。
 従ってプレーヤー(担当者)レベルでも会社をごまかしてより大きなリスクを取りたいというインセンティブが働くし、経営者も成功報酬なので、会社が大きなリスクを取ることで自分の持っているオプションの価値が上がる。
 ここでリスクをごまかすための小道具が、リスク評価の難しい証券化商品のようなものを作り出す「金融工学」や、土地は値下がりしないとか、ネット企業は無限に成長するといった「○○神話」の類だ。
 金融工学やその産物であるデリバティブは建前上、リスクをヘッジし、制御する手段だということになっているが、使用者の利害を金融工学的に理解すると、これがむしろリスク拡大の手段に使われ勝ちであることが、容易に理解できるはずだ。プレーヤーは資本家から、リスクの形で富を盗み出すのだ。リスクと価値が交換可能であることは、オプションの初歩が理解できれば分かることだ。
「『個人』を制御することが難しくて、リスクが過大に拡大する傾向があること」が投資銀行ビジネスモデルの第一の弱点だ。
 加えて、成功報酬というオプションが行使される期間が1年で、将来大損をしても、過去の報酬を返さなくてもいい点にも、問題がある。将来の損失の可能性と引き替えに、1年だけ収益を膨らませることが出来ると巨額の報酬が手に入る。しかも、多くの場合、利益の評価は在庫の時価評価に基づいて行われる。この場合、自分のトレードが価格を一時的に動かすことが出来れば、将来のリスクと引き替えに、一年分の好業績を手に入れることが出来る。ALM(アセット・ライアビリティー・マネジメント)風に言うと、株主の利益と社員個人(しばしば経営者も含まれる)の利害のセッティングに、期間のミスマッチが存在するのだ。
 この第一の弱点に関しては、かつてのゴールドマン・サックスのような基本的に無限責任のパートナーシップ制の経営体であれば、投資銀行のオーナーとプレーヤー(社員)の利害のミスマッチにある程度対処することができるだろう。
 しかし、大きな資本の必要性と株式によって調達した他人の資金を使うことのプレーヤー(経営者を含む)にとっての魅力もあってか、今や、大手投資銀行は株式を上場している。この形を取ることで、現代の投資銀行は、プレーヤーが資本家をカモにする舞台装置となった。
 また、特に米国型の投資銀行のビジネスモデルでは、市場から比較的短期の資金を大量に調達している。今回のリーマンブラザーズのように業績が悪化した場合や、市場からの信用が低下した場合には、直ぐに資金コストが上昇しやすいし、資金調達自体が難しくなる。これが、直接的には、今年に入ってから、全米3,4,5位の投資銀行が吸収されたり、消えたりした原因だ。
 投資銀行と比較すると、商業銀行は、預金という比較的安定的な資金源を持っている。
 たとえば、メリルリンチが大手商業銀行であるバンク・オブ・アメリカに吸収されると、投資銀行としてのメリルリンチは安定した資金供給源を得て一息つくことになるかも知れないが、さて、金融システムとしては、それでいいのだろうか、というのが次の問題だ。ギャンブラー達を銀行の金庫の中に呼び込んでも大丈夫なものなのだろうか?
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 たとえば、最近出版された「すべての経済はバブルに通じる」(小幡績著、光文社新書)では、機関投資家の運用競争のようなプロ間の競争が、破綻の可能性を知りつつ、しかしバブルから降りられないような状況を通じてバブルを生むことを説明している。確かにそうして面もあって、この論理は日本のサラリーマン・ファンドマネジャーの世界でもバブルが起こりうることを説明できるが、ネットバブルも、サブプライム問題も、上記で述べたような成功報酬オプションによるリスク拡大効果の方がより直接的で、大きな要因になっていたのではないだろうか。
 尚、ヘッジファンドのビジネスモデルも、上記の投資銀行のビジネスモデルに近い。カジノ(のインフラ)を自分で持っているギャンブラー集団が投資銀行で、カジノを自分では持っていないギャンブラーがヘッジファンドだという程度の違いだろう。
 バブルの発生と成長にあって、また金融システムの安全性にとって、最もリスキーな金融商品は間違いなく金融マンの成功報酬(制度)だと思う。
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にわかリーマン評論家

 9月15日の米国リーマンブラザーズの破綻から3日間、にわかに取材やテレビ出演の依頼が増えた。16日と17日の前半までリーマン、17日の後半から18日にはAIGが話題の中心だったが、ライブドア問題並の忙しさとなった(ライブドア問題のように長く続くと困るが)。
 テレビは自分のオンエアを一つも見ていないので、生放送のもの(「めざましテレビ」、「とくダネ!」)以外に、自分の発言の何がどう放送されたか分からないが、リーマンとAIGに関連して一つずつ補足しておく。

(1)リーマンも高額所得社員ばかりではない

 17日の「とくダネ!」で、デーブ・スペクター氏と共にリーマンの社員がサブプライム問題の前までは大いに稼いでいたはずだということを大いに強調した。
 成功報酬制度を得た投資銀行の個々のプレーヤー(経営者を含む)が、株主の資本までカモにしつつリスクを拡大したことは、サブプライム問題をはじめとするバブルの重要な原因だから、このポイントは重要だし、私は、ポールソン財務長官の「(リーマンに公的資金を使うことは)一度も考えたことがない」という言い切りと今回の処置を支持する(日本の新聞の社説は6紙中4紙が批判的だったが)。
 しかし、帰り道の車の中でどうにも気になったのだが、リーマンといえども、たとえば日本法人の1300人(こんなに居たんだ!)の全てがビッグ・ボーナスを手にする高額所得者ばかりではない。いわゆるバックオフィスのスタッフをはじめとして、高額所得者のカテゴリーには入らない範囲の報酬で地味に働いてきた人が多数居るはずだ。おそらくはこれから職を失い、しかし、同情もされないというのでは、彼らは少し可哀想だ。また、入社が内定していた学生が20人ほど居るらしい。
 発言全体として間違ったことを言ったとは思わないのだが、出来れば一言この点に言及してバランスを取りたかった。テレビの発言は反省し出すときりがないのだが、無反省もいけないと思うので、書いて置く。

(2)AIGグループの保険契約の安全性に関して

 AIG本体が危機に陥ったことで、アリコジャパンなど、日本のAIGグループの保険会社の保険契約の安全性について問い合わせが殺到しているらしい。
 17日の朝の段階ではそこまで分からなかったが、保険契約者の中には心配な人がいるだろうと思ったので、「めざましテレビ」でも「とくダネ!」でも、日本の保険会社は基本的に独立した会社なので、契約の安全性の面で、現在の保険契約者はAIGのアメリカ本社の経営危機の影響を殆ど受けないから、まずは安心していい、という旨を、私の判断で付け加えた(正直に言うと、フジテレビに大して気を利かせてあげた、という面もあった)。
 案の定というべきか、他局の番組も含めて、他番組からも、この点についてコメントして欲しいという依頼が、この後相次いで舞い込んだ。重要なスポンサーに対する配慮から(おそらくはスポンサーか代理店の意向もあったのだろうが)、日本のAIGグループの保険は大丈夫だ、というニュアンスのコメントを求めてきたものだろう。
 この問題に関心を持つ視聴者は多いはずだ。また、日本法人の保険会社の財務・経営内容に問題がなければ、保険契約の安全性に問題はない筈だから(契約期間が長いので将来の変化は少し気がかりだが)、コメントとしては概ね適切だったし、言うべきだったと思うのだが、自分からはじめたこととはいえ、結果的に保険会社の片棒を担いでいる感じは少し居心地が悪い。(敢えていえば、あわてて解約して他の保険会社の保険を契約すると大損になる公算が大きいから、他社の火事場泥棒営業を邪魔したともいえる)
 当ブログの読者はご存じの方が多いかも知れないが、私は、日本の各種生命保険商品の付加保険料率の高さと、これが非公開であることについて批判的であり、外資系も含めて、日本の生命保険商品の殆どが嫌いである。
 発言内容は正しいと思いつつも、どちらかといえば敵方だと思っていた相手を利しているという意味で、自民党の政策を褒めているような気分だった。
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首相候補たちをドリンクにたとえて品定め

 福田首相の辞任発表を受けて、自民党は「総裁選祭り」に突入した。報道によると、自民党は、メディアを騒がせつつ、この「祭り」の勢いで、臨時国会冒頭に解散総選挙に持ち込む戦略のようだ。経済対策の補正予算を決めないまま解散に及ぶことの得失は本来微妙だが、与党の一翼を担う「選挙マシーン」である公明党としては、国会での矢野氏の参考人招致を何としても避けたいだろうから、このスケジュールの可能性は大きい。民主党としては、矢野氏の問題を取り上げる機会を別途是非つくるべきだろうが、公認調整に追われることもあって、そこまで手が回らないかも知れない。

 何はともあれ、政治の季節がやってきた。

 以下は、基本的にまじめな話ではない。各候補の経済政策その他は別の機会に「まじめに」論じるとして、以下は、自称多称首相候補達について、「飲み物」に喩えて印象を述べてみるものだ。アメリカの大統領選挙では、インテリ層の間でも、「この候補者は一緒にビールでも飲みたい人物か」というイメージが重要になっているらしい(マーク・J・ペン「マイクロトレンド」NHK出版、参照)。首相として、また、酒を飲む相手として、よさそうなのはどいつだ?
(たかだかブログの上でのいい加減な話なので、「いい加減だ!」と怒らないで欲しい)

・麻生太郎氏: 「銀座で飲むブランデーの水割り」。香りはいいが、何とも軽い。今回も、自分が仕切り役の幹事長なのに、出馬表明が早すぎた。彼がよく行くらしい銀座のクラブ「G」には何度かお邪魔したことがあるが(直接会ったことはない)、彼の評判は悪くない。酒を飲むだけなら楽しい相手かも知れない。しかし、首相としてはどうか。私は彼の失言の中では「アルツハイマーでも分かる」発言の背景に見える人物の薄さが気になる。

・小池百合子氏: 「バーボンのロック」。臭いがきつい、氷がカチカチ鳴ってうるさい。度胸は満点だが、「コク」はない。政策的には中川秀直氏のお面の役回りのようだが、勝手にしゃべる口が付いている仕様が中川氏にとってはどうか。本当は中川氏本人が立つ方がスッキリする。

・石原伸晃氏: 「缶入りの発泡酒」。飲んでも薄味。二世議員によくある「代用品」の感じあり。最初だけ泡が出て、直ぐに気が抜ける。度胸なら小池百合子氏の方があるだろう。小泉内閣時代に道路改革で抵抗勢力を相手に逃げ回った印象が抜けない。

・与謝野馨氏: 「養命酒」。いくら甘くしても、何となく薬くさい。これが体にいいと信じることができる人のみが続けることができる。

・石破茂氏: 「甘すぎるオールド・ファッションド」。オールド・ファッションドはウィスキーベースのカクテル。語り口は妙に甘いのだが、テープに起こすと文語調の独特のもの。普通の人には、何杯も飲める味ではない。

・山本一太氏: 「焼酎抜きのホッピー」。にぎやかなだけで、いくら飲んでも、酔えない。だれかが「ナカ」(中身の焼酎のこと)になってあげないと、商品にならない。

・小沢一郎氏: 「日本酒の熱すぎる熱燗」。普通の人が素手で持つには熱すぎる人づきあいの悪さ。同時に、熱しやすいが冷めやすい性格。いつまでも同じでないところが熱燗。賞味期限は長くなさそう。

・岡田克也氏: 「紙パックに入ったウーロン茶」。体には良さそうだが、話は盛り上がらない。角張っていて持ちにくいし、へこんだ時の姿はいかにも不景気。もう少し愛想はないものか。ウーロン・ハイくらいに自己改造してくれるとファンが増えるだろうが、今の時点では頑張っても、紙パックからウーロン茶を注ぐような野暮ったさがイタい。

 私自身は酒飲みだが、相対的に最もいいと思うのは、ウーロン茶に喩えたオッサンだ。目的合理的には、濃いめの「ウーロン・ハイ」くらいを目指して欲しい。
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福田首相辞任の夜

 福田首相の突然の辞任会見は昨夜(9月1日)午後9時半からだった。私は、外で飲んでいたので、通常なら見られなかった筈だが、以下のような経緯で、会見を見ることが出来た。
 午後7時半頃、某ギャラリーの小さなパーティーに出ていたが、ある雑誌の記者から携帯電話に取材の電話が掛かってきた。取材内容は、民主党が政権を取った場合の経済政策はどうなるかというものだった。20分くらい電話で話した。概ね、以下のように答えた。

「先ず、民主党の財政・金融政策に対する基本的な態度がわかりにくい。行政の『支出のムダ』を削減するという総論はいいのだが、財政支出の何を削減するのかを結局同党は明らかにしていない。
 また、武藤日銀総裁に反対したこと自体はいいとしても、反対理由として低金利政策を長く続けたことを挙げた金融政策理解もトンチンカンだった。デフレの時期に金利を上げるような政策を主張されるのでは大変だ。
 また、前回選挙のマニフェストでは、農家の所得補償や高速道路の無料化など個別の産業・業界・商品に対する介入的な経済政策を列挙していたことも、旧自民党的で、心配だ。
 また、「文藝春秋」に載った岡田副代表の論文を見ると、経済政策に関しても民主党が一本化されていない印象を持つ。
 しかし、先週末に発表された与党の経済対策はどう見ても効果が乏しい。結局のところ、今の時点では、自民党も民主党も経済政策は期待できそうにない。私もそうだが、民主党の支持者の多くは、『政権交代に賛成』ということであって、民主党の政策を長期的な視点から信用し支持しているということではあるまい」

 正確でない部分もあるかもしれないが、率直に答えた。もう少し褒めるところを探すべきだったかも知れないが、そのときも、今も、直ぐには見つからない。

 ところが、8時半くらいになって、二軒目の新宿のスナックに到着して直ぐに、先の取材記者から電話が掛かってきた。「すみません。9時半から福田首相が緊急の記者会見を行うようです。申し訳ないのですが、先ほどの取材ネタは、次号に掲載されないことになりそうですので、一応ご連絡しておきます」ということだった。
 何とも丁寧な記者さんで、感じが良い。しかし、記者も私も、それでは福田首相の会見が何なのかは予想できなかった。大田農水相の罷免か、北朝鮮にでも行くというのか、あるいは解散か?
 幸い、その時間は外に客が居なかったので、店の女の子のワンセグ携帯で、福田首相の会見を始めから終わりまで見ることが出来た。
 会見の模様は新聞にも出ているので、読者はご存じだろうが、最初に「へー」と声が出たのは、福田氏が、首相就任後の実績を訴える際の冒頭に道路財源の一般財源化を挙げたことだ。消費者庁(←私は無くて良いと思うが)よりも先に、道路財源を挙げたのは意外だった。ご本人としては、かなり思い切ったことだったのだろう。
 また、前任の安倍氏の辞任との違いを、「私の場合は国会に入る前だからちがう」と説明したときにも声が出た。「どっちも、いい勝負じゃないか」
 8月に組閣を行い、先週末(29日)に総合経済対策を発表し、それらを具体的に機能させることなく福田氏は、首相を投げ出す。無責任以前に唐突である。予定の行動ということはあるまい。真相は分からないが、報道されているように公明党のプレッシャーがきつかったのかも知れないし、これを利用して、麻生氏が一種のクーデターを今度こそ成功させたのかも知れない、などと思いながら小さな画面を見ていた。
 記者達の質問は低調だったが(「丁重」ではない。冴えなかったのだ)、最後の二つが良かった。最後から二番目、確か毎日新聞の記者が、内閣改造から直ぐに辞めるのはおかしくないかと訊いた。なぜそれをもっと早く訊かないのか、と思っていた。最後の記者は、喧嘩腰だった。「あなたの言葉は他人事のように聞こえるが」と福田氏に言った。これに対して福田氏は「私は客観的に自分が見えており、あなたとはちがう」と語気強く言い放って会見を終えた。
 「客観的」を自称する福田氏には、何が見えていたのだろうか。支持率に対する言及もあったが、推測するに、次の国会での困難だったのではないか。大田農水相の事務所費の問題が追及されるのは確実だろうし、話は福田首相の任命責任に及ぶと予想できる。そうした事態になっては、もう保たないと先の局面が読めたのではなかろうか。
 政策を円滑に実現するためには「布陣を変える」必要があると判断したとの会見での福田氏の説明に説得力は無かったし、次の人が上手くいくという保証はないとも彼は言っていたが、福田氏がやるのと「次の人」がやるのとに違いがあるとすれば、農水相の問題はあったのかも知れない。また、一般論として、実は福田氏自身に関わる現段階では報道されていない何らかの問題があったのかも知れない。
 いずれにせよ、振り返って見ると、福田氏は、小泉政権時代に、国民年金の未加入問題で早々に官房長官を投げ出したくらい「追求される」ことが嫌いな人だし、もともと総理大臣を強く目指していた人ではないから、嫌気がさしたか、半ば怒ったか、して、気持ちが切れたのだろう。しかし、印象として、寂しい幕切れであったことは否めない。

 さて、午前二時前に帰宅してみると、一つ問題が残っていた。火曜日の夜にアップする予定のダイヤモンド・オンラインの「山崎元のマルチスコープ」の原稿の書き直しだ。先週末に発表された総合経済対策を取り上げた原稿なのだが、さすがに、首相辞任を反映させないわけにはいかない。考えてみると、このいかにも中途半端で作りかけの経済対策は、定額減税をはじめとして「次の人」が手を加える余地を大いに残したものだ。
 結局、「次の人」を麻生太郎氏と想定して、経済政策として彼が何をやればいいかを書き加えることにした。ご興味のある方は、ダイヤモンド・オンラインの拙文を読んでみていただきたいが、経済政策については、いわばじゃんけんの後出しが出来る麻生氏は有利な立場にある。
 私は、簡単に言うと、金融政策のサポートのために現在財政赤字を追加的に作ることはいいことだが、裁量的な財政支出を拡大して「大きな政府」を作ることは阻止すべきだと思っている。構造改革の目的は財政再建ではないのだが、改革を主張する人たちは、この点を混同しているように思う。具体的にいえば、減税プラス構造改革という組み合わせがあるはずだ。
 麻生氏は、先ず、現対策を継承し(いったん出してしまったものは引っ込められまい)、さらに上げ潮派の政策を全て呑み込んで、加えて財政再建目標を先送りすればいい。財政的な景気対策は基本的に減税だけで行うべきだ。また、これは、財政再建目標をそのままに単年度でやっても効果はほとんど無い筈だから、恒久減税で行うべきだ、ということになる。
 実は、私は、現在発売中の「日経ビジネスアソシエ」の連載コラムにも麻生氏の立場から同様のことを書いていた。コラムの文脈とはいえ、政治的には、麻生氏を続けて応援することには相当の違和感があるが、経済政策にあっては、彼は有効なことが出来るかも知れないオプションを持っていると思う。
 経済政策に関する麻生氏の次の一手に注目したいが、しばらくは政治の季節の喧噪に、経済の話題がかすんでしまうのかも知れない。
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