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サンデル先生の「正義」の授業について思うこと

 年始にNHK教育で、ハーバード大学のマイケル・サンデル先生の授業をTV番組化した番組の再放送を見た。全て見たわけではないが(見てない回が気になるので、その後、DVDを買った)、授業として実に素晴らしいと思った。
 サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」は昨年読んでいた。率直にいって、彼の正義論には賛成できない点があるのだが、授業は実にいい。サンデル先生個人の印象もまた悪くない。付き合ってみると感じの言い方ではないだろうか(もっとも、ああ見えて変な癖がある人物だ、ということなら、それはそれで人間として興味深い!)。
 聴衆はそこそこ以上に優秀な学生なのだろうし、グループ分けして指導者を付けて予習をさせた後で授業に出席させているらしいから、どこの大学、どの先生でも真似できるというものではないだろうが、模範的な授業だと思う。
 サンデル先生に「賛成できない点がある」などと書くと、暇で且つ気の立った人が文句を言ってくるかも知れないので、私見を簡単に述べておく。
 サンデル先生の授業の話の順序はとてもよくできているが、私としては、特に、カントの解釈に違和感がある。
 サンデル先生は、殺人鬼に追われた友達を自宅にかくまった人物が、自宅を訪ねた殺人鬼の「アイツはこの家にいるか?」という問いに対して、かくまった人物はカント式の定言命法に従うと「彼はこの家にいませんよ」という嘘をつけないことをかなり重大な難点だとして指摘しているが、これはいかがなものか。
 カント式の定言命法の倫理で、�嘘は言えない、�人は殺せない、という原則を導くことが出来ることについては、サンデル先生も同意されている。
 そこでだが、そもそも友達をかくまった時点で、問題の人物と友達との間には、実質的に「殺人鬼の追跡からあなたを守る」という約束が成立していると考えるのが妥当ではないか。殺人鬼を誤魔化すことに対して最善を尽くさないのは実質的に嘘をついているのと変わらない。
 嘘の重大性に程度の問題があるかどうかはさておくとして、(仮に)友達に対する実質的な嘘と、殺人鬼に対する嘘とが仮に何れも好ましくないこととして共に嘘一つづつとして相殺できるとすると(後者の嘘の方がより重大だと判断できる根拠がなければ、以下のように考えていいだろう)、残るのは、自分が中途半端な態度を取ったり、まして友人の隠れ場所を教えたりすると、殺人が起こりかねないという状況に対する判断だ。
 カント自身が倫理からの離反について「程度の問題」が存在することを考慮に入れていたのかは、まだ十分カントを読んでいないので、私にはよく分からないが、矛盾した目的に直面した場合の判断原理として「程度の問題」を考えることはごく常識的だ。
 この殺人鬼のケースを、カントの普遍的な倫理がはらむ深刻な難点とすることについては、どうにも賛成しがたい。
 まして、サンデル先生が仰るように、殺人鬼を誤魔化すことの出来る嘘でない事実を伝えるのがいい(道徳の原理に敬意を払ったことになるかららしいが)、という話は、本質から逸れているように思える。この他人を誤魔化そうとする行動は、他人を手段として扱っているし、正解に気付かないことを予期している点で相手をバカにしている。凡そ定言命法の精神に合致するとは思えない。
 思うに、「正義」という言葉はもともと普遍性の文脈において用いられており、(特定のコミュニティーによって)負荷を負った自己を正当化する価値観を正義と呼ぶことは、言葉の誤用なのではないか(ギルバート・ライルの「カテゴリー・ミステイク」みたいな感じ)。
「彼は国籍が違うから、同胞とは扱いを変えても仕方がないでしょう」という発言に対して、これが自然な感情だと思い、現実として発話者の感情を理解する人はいても、これが正義にかなうとは思人は少ないのではないか。普遍的フェアネスの価値観の下に自己を反省し、私的な感情を相対化しつつ行動することこそが、正義の本質ではないだろうか。
 溺れつつある二人の子供のうち、自分の子供から助けるのは、それが正義だからではなくて、ただそうしたいからだと理解するほうがいい。
 ついでに、ロールズについては彼の正義の原理は、コミュニティーや生活の条件が異なる多くの人が概ね普遍的に合意できそうな内容を厳密ではないけれども上手にまとめた、優れた要約ではないかと考える。程度はともかくとして、できれば弱者を助けようというのは、人間がもともと持つ(多少かも知れないが)仲間へ利他性の観点からも、また社会における一種の保険としても、割合同意しやすい原則だと思う。「無知のヴェール」的な状況が現実に存在したかどうかは、どうでもいいことだ。
 もう一つ言いたいのは、個人が特定のコミュニティーに属しているとしても、この人が、このコミュニティーから離脱したかったり、このコミュニティーの価値観を大きく変更したいと思ったときに、正義をどう考えたらいいのか。こうした自由には責任も伴うはずだが、この自由を認めないことが「正義」という言葉にふさわしいとはとても思えない。
 人間の意思が100%本人にとって自由なものかという点については、現実問題として大いに疑問があるが、人間には考え直す自由がないとするなら、「正義」の主要な含意の一つである「責任」が意味を持つことが難しくなる。
 また、功利主義に関しても、現代の功利主義者(経済学者は多かれ少なかれ)なら、異なる人間の効用を単純に足し合わせることが出来るような単純な効用関数で全てを説明せずに、全員の効用をより高める可能性はないのか、その後に、どのような意思決定ルールについて合意できるか、といった手順でモノを考えるのではないだろうか。
 サンデル先生は、功利主義も、カント&ロールズも、批判したい側面をはっきりさせるために、いささか単純化しすぎたのではないだろうか。
 もっとも、教育的にはこれくらい簡単な図式で説明する方がいいのかも知れない。
 あれこれ文句を並べた後に繰り返すのは気が引けるが、一つの授業のサンプルとしては、サンデル先生の授業はあまりに輝かしくて、直視するのが眩しいくらいだ。折に触れて勉強し直すことにしようと思う。
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葬式とお墓について

 新年向きの話ではないが、葬式とお墓について私の考えを述べたい。
 私は、結婚式、葬式などの「式」には出席しないことを基本方針としている。時間が惜しいからということもあるが、パーティーや飲み会は好きだしよく出る方なので、要は「式」の部分が気に入らないのだ。
 たいていは、お祝いなり、香典なりを金一封送って、式は欠席させて貰う。

 結婚式は過去20年くらい出た記憶がない。記憶にある最後は、会社の友人の二回目の結婚披露パーティーだったと思うが、それ以来出席していない。
 私は現在52歳だから、同年代の友人が結婚することは少ないし、まだ子供が結婚する年でもない。そんなこともあって、ここしばらくお祝いも送っていない。
 私自身も結婚式はやっていない。
「結婚する」と北海道にいる父親に言ったところ、彼が東京にやって来て、「親戚への挨拶ということもあるから、結婚式くらいはやれ」と言った。
 私は、「いいや、式はやらない。神社も教会も嫌いだし、だいいち他人をたくさん呼んで、面白くもないパーティーに時間を使わせるのは、社会的罪悪だ。出席者の分も含めて、機会費用を計算するとたいへんな額になる。加えて、あのような下らないセレモニーに何百万円の掛けるということが、カネの使い方として納得しがたい」と言った。
 父は、「カネは俺が出す」と言う。
 しかし、「誰がカネを出すかではなく、結婚式自体がカネに値しないと言っている。あんなものが本当にいいことかどうか、一日頭を冷やして考えてくれ」と言い返した。
 翌日、父がまた現れた。「俺もよく考えた。お前の言うことはよく分かった。ならば、結婚式用にとおもっていたカネだけやるから、好きに使え」と言う。柔軟に意見を修正することのできる点は、我が父ながら、感心だ。数日後、本当に結婚式費用程度のお金が振り込まれていた。当時、ほとんど貯金を持っていなかったから、これは本当に助かった。
 仮に、私が、政治家や俳優、あるいは相撲取りででもあれば、仕事の一部として結婚式をやるだろうが、かつて、或いは今の仕事なら、結婚式はしない方がずっと合理的だと思っている。後輩や、学生にも、結婚式はできればしないほうがいい、と勧めている。

 葬式にも、基本的に出ない。そう決めているのだが、方針を貫ききれない場合もある。昨年、今年と、一回ずつ親戚筋のお葬式に出た。どちらの葬式についても、主催者に不満があるわけではないのだが、出席していて、違和感を覚えた。二つとも、仏教形式の葬式なのだが(宗派は異なる)、端的にいって、私は仏教を信仰していない。それなのに、仏教のセレモニーに従って式に参加している自分が不愉快だ。そして、信仰心なしで葬式を眺めると、奇妙な出で立ちで経を唱え、さらには下手な話の説教までする坊主と、あれこれいちいちカネを取る葬儀屋のサービス業としての姿勢と価格設定に納得が行かない。
 そして、葬式に出ながら考えた。
「これから、自分の結婚式をすることは(たぶん)無いだろう。問題は、葬式であり、墓だ」

 幸い、私の両親は札幌で二人とも健在だ。碁(アマ4段くらい)を打ち、絵を描く85歳の父と、ゴルフ三昧(調子がいいと80台)の76歳の母だ。彼らが元気なうちに方針を決めておきたいし、もちろん、万一自分が先に死んだ場合の問題もある。

 問題の概要は以下の通りだ。

(1) 葬儀。 私は自分の葬儀はして欲しくない。死んでから「偲ぶ会」なんてやって貰うよりも、生きているうちに一緒に酒でも飲む方がずっといい。目下、父は自分の葬儀は簡単にやって貰いたいというくらいに思っている公算が大きいが(改めて聞いてみないと分からないが、近年、軟化してきたようだ)、私は、できれば父の代から葬式抜きの形を確立したい。

(2) お墓。 現在、山崎家の墓は、北海道の某寺にあり、この外に永代供養納骨堂のスペースが「一箱」ある。後者は、寺のセールスに負けて、かつて父が百万円以上出して買ってしまったらしい。何れについても、年間数万円の維持費が掛かる。父は、自分の場合、寺の一般向けの納骨スペースに入れて貰ってもいいと最近言い出しているらしいが、この点も本人の意向は改めて聞いてみないと分からない。母と妹は、自分たちは父と同じスペースに入りたいといっている。私は、子供たちが望むなら同じ場所でもいいが、出来れば散骨して貰うか、あるいは共同で無名の人の骨が収容されているところに入りたい。

(3) 寺。 母から過去の経緯を聞いて判断するに、現在の寺が不愉快である。一軒家(墓)にすむ住人に、もう一つマンション(永大供養ボックス)を売るがごときセールスも不愉快だし、坊主の人格もよろしいとはいえない。しかも、近年商売っ気を強めており、頼みもしないのに彼岸に仏壇を拝みに来て、短時間でカネをまきあげていくようになった。この寺とは、即刻絶縁したい。しかし、先祖の骨を質に取られているし、墓には「原状回復費用」が発生するのかも知れない。もちろん、これまでこの寺と付き合いがあり、多大な出費をしてきた父との話し合いもある。

 私は、自分の死後の処置に関する「遺志」は、古くから割合はっきりしている。高校3年生の時に、母方の祖父の葬式に出て以来、葬式は下らないもので、商売としての坊主は賤しいものだと思っており(純粋に宗教者としての坊主には敬意を持たないでもない)、自分の葬式は絶対にやって欲しくない。
 骨の始末は遺族が考えればいい。敢えて「夢」を述べてみると、フィリピン沖のニホンウナギが産卵するらしい海域にでも散骨してくれると、ウナギを食って、ウナギに食われて、人生が美しく完成するような気がするが、こういう余計な希望は言わないのが、残されるも家族への思いやりだろう。
 自分の家の代々の納骨スペースに納まるか、どこの馬の骨か分からぬ無名の人々と一緒に共同の納骨スペースに納まるかに関しては、ほぼどちらでも良いが、敢えて選べば後者だ。死後に魂があって(そんなもの信じていないが)骨の近くにいるとした場合、家族とはいえ同じ人と四六時中顔を突き合わせているよりも、賑やかな居酒屋のように、いろいろな人の中にいる方がいい。子供たちも、同じように、開放的に考えてくれるといい。
 なお、百歩以上譲って、死後に魂があるとした場合、自分の墓だの骨だのにこだわるようなツマラナイ魂なら、生きているうちから心配してやる価値もない。

 結局、残された問題が三つある。

(A)最も簡素で坊主も神父も関与しないサッパリした死体の始末にはどのような方法があるのか。費用は幾らか。誰に連絡したらいいのか。

(B)寺にある墓を「解約」する手続きと費用。加えて、その後の骨の始末場所にはどのような選択肢があるか。

(C)関係者の説得と合意作り。

 確か、昨年の週刊ダイヤモンドでこの種の特集を組んだ号があったと思ったが、あいにく先日の引っ越しの際に捨ててしまった。これから、自分で調べてみようと思っている。
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