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「少年タケシ」のストリーミング放送

体感的には29日の夜、正確には30日の午前0時から5時半にかけて、フジテレビのホームページにある「少年タケシ」の、「生出しタケシ」というストリーミング放送のイベントに出演してきました。

「少年タケシ」は、デジタルコミックのホームページですが、この中に「コラム・タケシ」というコーナーがあって、私は、「株のツボ」というコラムを連載しています。(http://www.fujitv.co.jp/takeshi/body.html)

「株のツボ」は、まだ書き方や、見せ方が定まっていない連載なのですが、株式投資について思うことからテーマを決めて、初心者に向けて書いています。

ストリーミング放送(テレビマンには、ネットの動画配信を「放送」と呼ぶことには抵抗感があるようですが)には、読者投稿の審査委員や、討論のメンバーとして参加しました。番組を客観的に見たわけではないので、正確なことは分かりませんが、なかなか盛り上がっておりましたし、MCの女性の優木まおみさんという人(キャッチフレーズは「エロ賢い」だそうです)の司会がなかなか上手くて、良かったと思います。

討論のテーマは、「格差社会」と「放送と通信の融合でした」(生放送を見逃した方も、たぶん、後日、オンデマンドで見られるようになると思います)。

どちらかというと議論がかみ合ったのは「格差社会」の方でしたが、この議論で私が言ったのは、次のような内容でした。

1)所得格差は、「給料階級」「ボーナス階級」「株式階級」といった稼ぎ方の差を通して、拡大しやすくなっている事があり、これは例えば六本木ヒルズにあって、象徴的に観察できる。ただし、格差の発生自体は悪いことではなく、むしろ、これを直接平準化しようとすると、無駄が大きい。

2)現在のジニ係数の拡大で見られるような格差は統計的には高齢者の増加で大半が説明できそうだ。

3)しかし、格差の固定化は、多分これから教育に掛けられるお金の差を通じて進行することが予想される。

4)特に、「ゆとり教育」は低所得層に与えられる教育全体のレベルダウンを通じて、格差の拡大を決定づける役割を果たしている。

5)格差の発生自体は悪くないけれども、その世代を超えた固定化は憂慮すべきことだ。

6)その対策には、公教育のレベルアップ(教育課程自体のレベルアップと、優秀な子供には飛び級を認めるなど、低所得家庭の子弟にも高レベルな教育の機会を与えること)が重要だ。

7)公的に多額の教育のコストを負担することの妥当性は、教育の外部経済効果(教育は自分のメリットになるだけでなく、教育レベルの高い人が増えると、環境が快適になったり、生産効率が上がったりして、他人もメリットを受けること)によって正当化できるのではないか。

格差に関する議論としては、平凡で無難なものだろうと思っています。

それにしても、もともと徹夜に強い方ではないので、仕事での徹夜は、カラダに堪えます。どうしても今日が〆切の仕事があったので、4時間ほど寝てから、ほぼ一日中PCの前に座っていたような感じなのですが(実際には、半分くらいでしょうが)、眠くてどうにもならない時間と、案外大丈夫な時間が、交互に訪れて変な感じです。しかも、夜中になって目が冴えてきました。ボクシングのビデオでも見てから、寝ることにします。
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電子辞書

昨日、電子辞書を買ってきた。ヨドバシカメラの本店に行って探したのだが、あまりの数の多さに、比較に迷ってしまった。

条件は、1)広辞苑付き、2)英英辞典が充実、3)英和はできればリーダーズ・プラスのレベル、といったところ。英文読みに便利で、少々英語の勉強が出来て、字句が広辞苑で確認できる、といった条件を満たす物を探した。「英和中辞典」レベルではファイナンスや心理学などの論文読みに物足りないことが多いし、広辞苑(必ずしも「広辞苑」に限らないのだろうが)が入った辞書は、あちこちにあるほうがいい。

もっとも、私は、文章を書くときに、辞書で言葉を探す、ということは滅多にない。できるだけ、単純な言葉で誤解の無いように書きたいと思うことが多いので、文章に使う語彙量は、自分が知っている語彙全体よりもかなり小さなサイズに意識的に絞っている。だが、明快で誤解のない文意の文章を書くことが大事だとはいえ、安心して使える範囲の語彙を増やして、文章に多少の豊かさを持ち込む努力も必要だとも思う。

結局買ってきたのは、セイコー・インスツルメンツの、英語の辞書が豊富で、発音付きの辞書だった。ヨドバシ定価は39,800円。これにコウビルドの英英辞典をカードで付けた。もう1万円くらい安いコンパクトな物でもリーダース付きのものがあったので、そっちの方が良いかとも思ったが、こちらの方がボディーの剛性が上だと店員が言うし(この種の一言は購買決定に効く。簡単に信用していいのかどうかという問題はあるが・・)、いろいろ較べていると、つい、機能の豊富なものを買ってしまう。発音音声付きが生きる場面はそう無いと思うが、面白そうなので、こちらにした。ただ、コンパクトなタイプの方が、機能が絞られていて使いやすかったかも知れない。それにしても、売り場を見ていて、最近の辞書が便利になったことに驚く。

ともあれ、なるべく持ちあるいて、頻繁に使う事が肝心だ。投資額のモトを取るだけ使えば、少し利口になりそうな気がするが(ボキャブラリーが増えることが「利口」に直結するとも思えないが、「利口そう」との間にプラスの相関はありそうだ)、どうだろうか。

こういうものは、買った時が一番嬉しい、ということになりがちなので、使い倒さなければいけない。
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藤原新也氏の「カメラマン」に思う

藤原新也「渋谷」(東京書籍)を読んだ。藤原新也氏は、「全東洋街道」の頃から私が大好きな写真家の一人で、写真ばかりでなく、文章もよく読んでいた。氏はいろいろな写真を撮っておられるが、メッセージ性が強い写真もあれば、色が響き合うような本能に立脚したとしかいいようのない官能的かつ絵画的な写真もあって、学生の頃から好きだった。

近刊の「渋谷」は、「アサヒカメラ」の8月号で知って、藤原氏のポートレート撮影について手の内が書かれているらしい、という俗な興味もあって、書店で買い求めた。

全体のテーマは、母と子供(特に娘)の関係から見た現代における自我の獲得の困難さのようなものなのだが、渋谷で女の子を追ってファッションマッサージ屋の個室で交わす会話の中にあった、面白い言葉が気になった。

作中の藤原氏は、ファッションマッサージ嬢のユリカに、自分が写真家であることを明かすに当たって、次のように言う。「別に写真をやっているからすごいってことないんだよ。お豆腐屋さんが豆腐を作っていることと同じなんだから。ちょっと違うところはお豆腐屋さんはお客さんを選べないけど、カメラマンは撮りたい人を選べるって事かも知れない」。本当にそう言ったのかどうか分からないが、本に載せる自分の台詞としては、自意識を隠さない、頑張ったフレーズだと思う。

細かなことを言うと、この比喩は、藤原新也氏にしては不正確かつ不用意であり、カメラマンも自分の作品を見てくれる人を選べるわけではないし、豆腐屋も、自分の好きなように豆腐を作るのだから(気骨があれば、だが)、両者は、本質的に同じなのだ。

もっとも、私が気になるのは、上記の点ではない。職業的カメラマンの、いったい何%が、「撮りたい人が選べる」のだろうか、ということなのだ。

私は仕事がら、ほぼ毎週1人強のカメラマンに会っているが、率直に言って、カメラマンとして、是非とも私の写真を撮りたくて、オフィスに訪ねてくる人はいるまい。編集者の依頼を受けて、仕事として、(つまらない、私の)顔写真を撮りに来るのだ。

しかし、幾らか強引な解釈だが、藤原氏は、自分が撮りたい人を撮るような人のことを「カメラマン」として認めており、たぶん、表現者として、認めているということなのだろう。先の台詞には、藤原氏の職業的矜恃がほとばしっている。

さすれば、私が日頃お会いするカメラマンの多くは、藤原氏的な意味では、「カメラマン」ではない、ということになるのか? 100%ではないにしても、そういうことなのだろう。

ここで、もちろん、問題は、カメラマンにとどまらない。

たとえば、「経済評論家・山崎元」も、かなりのケースで、自分でテーマを選ぶのではなく、編集者・記者(活字の場合)や、ディレクター(映像の場合)から依頼を受けたテーマについて、書いたり、話したり、している。藤原氏的な意味では、一人前でない、ということになるのだろう。これは、素直に認める方が良さそうだ。

今のところ、私は、たぶん若いカメラマンがそうであるように(私は年齢は若くないが、フリー歴はまだ浅い)、依頼されたテーマについて原稿を書いたり、コメントしたりしていること、つまり仕事があることを、肯定的に考えている。

だが、やはり、本当に言うべきことが何かを自分で捉えて、自分でテーマを持ち込んで、雑誌の原稿なり、単行本なりを書く仕事をしていくべきなのだろうとも思っている。

尚、「渋谷」は、久しぶりに彼の本を買う私のような(なまくらな)ファンにも、藤原新也の世界を十分堪能させてくれる、なかなかの読み応えの本だと思った。
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コメンテーター業と経済問題の話題比率

昨日、24日の夕方に、日本テレビの「ニュース・リアルタイム」にコメンテーターとして出演しました。18日に続いて、今月2回目の出演です。

私がキャスターの笛吹雅子さんの隣にいる時間は、始まりの16時53分から、18時半少し前の、約90分間です。しかし、90分間の出演とはいっても、私が話す時間は、合計しても3分くらいのものでしょう。ニュース番組であり、また日テレは独自取材の映像が多いので、流すVTRや中継映像がたくさんあり、スタジオ側でじっくり話すという展開にはなりません。番組の進行はまさに秒刻みで、キャスターは、VTRの放映中やCM中に次の原稿を下読みして、この秒数をストップウォッチで測って、時間を積み上げ計算しながら、「今○○秒押し」(「押し」は予定より時間を食っている状態。反対語は「巻き」。たいていの番組は少し押し気味に進行する)という状況を乗り切る努力をすることになります。

余談ですが、笛吹雅子さんというキャスターは隣で仕事を見ていると、なかなか大した人で、秒単位で時間を管理しながら、新人のアナウンサーを鍛えつつ(!)、先のニュースの内容をどうするか考えながら、隣のコメンテーターと無駄話もする、という余裕のある颯爽とした仕事ぶりです。女性に「ハンサム」といっては失礼かも知れませんが、そんな印象の人です。ニュースの内容についても、「現段階で、○○○社を、どの程度悪者として伝えて良いのか・・・」といったことについて、多角的に考えておられるので、誠実で、いい感じです。

そこで、コメンテーターの役割ですが、事前に打ち合わせたコメント箇所(だいたい5カ所前後)で、基本的には打ち合わせ済みの話をすることになりますが、だいたい「押し」た進行になるので、そうなると、内容的には是非必要というほどの事を言うわけではないので、時間調整の目的で、予定のコメントがカットされたり、短縮されたりします。なかなか制約の多い役回りではあります。

尚、私は、だいたいどの番組でも、進行表に要点となる言葉を落書きした程度のものを手元に置いて話をしています。(話の内容が一言一句正確であるよりも、時間をきめ細かに把握している方が、遙かに、歓迎されるようです)

この日のコメント箇所は、大雨関連が2箇所、欽ちゃん球団関連で1つ、千葉県教育委員会の嘘のニュースが1つ、金正日の第4夫人の話で1つ、という予定であり、その通り実行されました。コメントするニュースのラインナップについては、昼過ぎ頃からメールと電話で打ち合わせており、番組前に、30分くらい、もう一度打ち合わせる段取りになっています。

さて、前置きが長くなりましたが、この日は大きなニュースとして、王子製紙による北越製紙へのTOBがあり、日経朝刊のトップはこのニュースでした。この日の中にも、北越製紙の社長の王子との統合拒否の会見などがあったので、私は、このニュースが当然ラインナップに入るのだろうと思っていました。まさか、既に活動継続が報じられている、欽ちゃん球団のニュースが取り上げられて、このニュースが落ちることはあるまい・・・、と。

しかし、私がコメントするニュース以外にも、北越製紙のニュースは取り上げられることはありませんでした。

マーケットに近い仕事をしていると、北越製紙のようなニュースは、企業の有り様を通じて働く視聴者の生活にも関係が出てくるし、株式投資をしている人にとっても重要なニュースだから、「大きなニュースであり、身近なニュースでもある」と考えがちなのですが、当日に項目を打ち合わせたディレクターさんに聞くと、「やはり、事件物や、芸能ネタの方が、(視聴者の)喰い付きがいい」ということなのだそうです。

これは私の推測ですが、この時間帯のニュースは現在激しい視聴率争いをしており、主に主婦を視聴者層としていることを考えると、やはり、経済の話をじっくりやると、チャンネルを変えられてしまう公算が大きいのでしょう。別の番組のスタッフから聞いた話ですが、マーケット(≒株式市場)の話をすると、ニュース番組の通常の視聴者には、その時間に逃げられるリスクがあって、マーケットのコーナーを番組中に作るのはリスキーだ、というような考慮が、番組を作る側にはあるようなのです。

「もっと経済について伝えるべきだ」、「経済情報を発信する側も、経済の重要性を訴えるべきだ」とは思うものの、<国民の平均像の関心>を想像すると、経済というものは、せいぜい大きくても三割くらいのウェイトで、しかも、経済一般やマーケットの話となると、その半分くらいなのだろうか(数字に根拠はありませんが)、という事実認識を持つことも重要なのでしょう。

私がコメンテーターで出演することがある番組は、現在のところ、多い順に、「NewsGyaO」、「とくダネ!」、「ニュース・リアルタイム」で、何れも生番組(収録よりもやりやすい)ですが、私のコメントで経済関連のコメントは、たぶん、全体の3割に達しないでしょう。

そこで、<山崎元商店>の経営方針なのですが、確かに、経済の話をする方が、間違うことはあっても相対的には自信があるし、自分のためにも、視聴者をはじめとする他人のためにも、いいのではないか、とも考えるのですが、以下のような理由で、基本的には、経済以外に何の話でもコメントすることにしようと考えています。

1)「正しくて、面白いことを、広く伝えたい」という当商店の社是(?)からいうと、テレビの出演機会とある程度の知名度を持っている方が良い。
2)テレビという伝達手段は強力なので、有効活用できるようになりたい。そのためには、これに慣れる必要がある。
3)「正しくて、面白いこと」は経済に限らない。

但し、
A)テレビで専門外の話を話すことの危険や、
B)テレビという媒体がそこに出てくる人の個性を費消するような側面があること、
C)文字媒体で意見を伝える場合ほど問題を深く厳密に考えなくなる危険があること(テレビはその場が済めばホッとする)、
D)テレビは準備も考えると見かけよりも時間を食うこと(打ち合わせがあるとしても、生番組の方が終わりが読めて好都合です)、
などには十分な注意が必要でしょう。

また、分からないことは、「分かりません」、間違えた場合には、「間違えました」と言う、潔さは、常に持っている必要があるように思います。

尚、テレビ出演の<経済性>ですが、私は「タレント価格」で出演しているわけではないので(「文化人価格」には、TV局側のゆるやかな談合による価格水準があるようです)、出演料自体が「儲かる」という感じはありません。番組出演のために使う時間を考えると、その時間を原稿書きに充てるのと、そう変わらない収入だろうと思います。

評論家の<ビジネス・モデル>としては、テレビで知名度を作って、講演で稼ぐ(同じ時間でテレビの数倍~十倍位稼げる)、という形が稼ぎの王道のようです。私は、全然やらないということはないのですが、予定を決めることと、地方などに出かけることが億劫なこともあり、講演の仕事にはあまり積極的でないのですが、ビジネス的には少し拙いかな(講演の練習もしないと・・・)とは思っています。
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映画「幸せのポートレート」、など

主に、21日・金曜日朝の、フジテレビ「とくダネ!」をご覧になっていた方のために補足説明します。

この日の「おすぎのエンタメ斬り捨て御免!」のコーナーでは、単館上映の映画の特集があり、おすぎ先生イチオシの映画として、サラ・ジェシカ・パーカー主演の「幸せのポートレート」が取り上げられました。

この映画のストーリーは、ニューヨークで仕事をしている保守的でエリート主義的な主人公の女性がクリスマスに婚約者(こちらもエリート。ルーク・ウィルソン演じるこの男の奇妙さはなかなか味わい深い)宅を訪れ、「リベラル」を絵に描いたような率直な家族に嫌われるものの、その後にいろいろあって、最終的には受け入れられる(意外な形で!)、というものです。

婚約者ファミリーの母親役であるダイアン・キートンをはじめとして、役者は達者で、テンポも良く、面白いといえば面白い映画なのですが、率直に言って、私は、気に入りませんでした。理由は、脚本のできが悪くて、主人公に共感を持って感情移入できなかったからです。

主人公の価値観やスタイルと、この婚約者のファミリーのそれらとの違いを際だたせるためか、このサラ・ジェシカ・パーカー演ずる女性が、たとえば婚約者の弟がゲイであることについて差別的で失礼な物言いをしたりするのですが、主人公の女性は、こうした発言を詫びるでもなく自己正当化に終始し、また、ストーリー上、この点に関する「(ネガティブな)報い」を受けるわけでもなく、そのまま、なし崩し的にエンディングに向かってしまうからです。つまり、どう考えても「嫌な女」が、「負債」を十分に償うことなく、なし崩し的に「いい人」になってしまうで、観ている側の気分は、爽やかではない、という訳です。

キャスターの小倉智昭さんは、「本当にいい映画なら、どうして単館なの」と指摘されましたが、確かに、キャスティングから考えても、単館でなくても良かったのではないかと思われ、映画屋さんから見て、「当たらないな」と思われる何かがあったのかも知れません。

ただ、私は、時間がなかったこともあり、「脚本が、がさつですよ!」と言いましたが、これは、「作り物としては、かなり明確な不満があるよ」という程度のことで、見ている間は十分に楽しめる映画なので、お時間のある方で、東京日比谷のシャンテ・シネが遠くない方は、是非、一度観てみてください。

また、番組では十分言えませんでしたが、もう一本の映画「奇跡の夏」(子供の難病ものの、韓国映画です)については、主役格の男の子が、いかにもオトナが作った「作り物の子供」のようなキャラクターで(子役は恐ろしく上手いが)、こちらも自然には感情移入できなかったことを付け加えておきます。映画や小説のような「作りもの」は、自由に作ることが出来るわけですが、自然なものを作ることは、本当に難しいものなのですね。

おすぎ先生は、「山崎さんも、小倉さんも、理屈っぽいわねぇ。もっと感性を磨かなくてはだめよ」というようなことをおっしゃいました。まあ、脚本のバランスの崩れをキャッチするのは感性であって、理屈ではないのですが(理屈は、単なる説明用です)、お言葉は、有り難くお聞きしておきました。

実は、前回(前々週です)出演したときに、おすぎ先生に、「イヤー、今週のは、本当らしく聞こえますねえ。前に、おすぎさんが、大絶賛されていた映画で、実は、後から褒め殺しではないかと思った駄作があって、言葉の裏も読み取らなければ行けないのだと思って聞いていたのですよ」と私が言って、おすぎ先生が大いに憤慨されたことがあったので、バランス上、今週は、反撃していただく方が助かる、というような事情もありました(もっとも、おすぎ先生は、立派なオトナのオカマなので、この程度のつっこみに、本気で怒るような方ではありません)。ただ、あの後、ある方から、「山崎さんは、業界の人ではないから、あんなことが言えるのですね」と言われました。おすぎ先生は映画評論の権威であり、影響力のある人なので、業界の方は気を遣うのでしょう。

尚、前々回もご覧になっていた方のために補足しますが、私が上記のように感じた映画は「ゴール」というサッカー映画です。いい人ばかりが出てくる予定調和的な映画で、サッカーシーンは所詮素人のそれだし、見るべき点がない、と思ったのでした。この映画は、シリーズ化されるそうで、将来、中田英寿選手も出る予定があるとかいう話も聞きましたが、大丈夫なのでしょうか。

ところで、書評でも思うことですが、映画評でも、特に公開中の映画は、私の発言が、本や映画のセールスにネガティブに働くと嫌だなという気持ちが働いて、なかなか、厳しい批評をズバリ言うという訳には行きません。これは、私の覚悟が足りない、或いは意識過剰だ、ということなのかも知れませんが、本や映画は、著者や監督・出演者の他にも、編集者、撮影スタッフなどが多々いるし、作るのが本当に大変なことを思うと、多くの場合、「難点のある映画(本)だし、これは指摘したいけれども、売れては欲しい」という複雑な気持ちになります。

この点、金融商品は、ダメなものはハッキリとダメだと言えるし、顧客が余計な商品を買わないことが、長期的には、業界のためにもなると思うので、批評が楽です。
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昭和天皇の言葉と靖国問題

日経の「抜き」(よくやった!)と思われる富田メモに記された昭和天皇の言葉(雑誌やテレビなどであれば「お言葉」というところだが、個人のブログなので、以下、天皇への敬語を省略する。但し、私は、他人が天皇に敬意を持つことを妨げるものではない)の影響は大きい。

一部の戦犯の合祀を理由に(必ずしも「A級戦犯」という括りではなさそうだ)、昭和天皇が靖国神社に参拝しなかったことが、昭和天皇の心の内であったことが、明らかになったことで、やや誇張して言えば、「靖国神社に参拝すべし」と言うことは、同時に、昭和天皇への不忠を意味することになる。

「右翼」と称して、一括りに語るべきではないのだろうが、これまで、靖国参拝と天皇への忠節を共に大儀として奉じてきた方々はどうするのだろうか。運動上は、方針を決めて、何らかの「説明責任」を果たさなければならないだろうが、簡単ではなさそうだ。これから8月15日に向けて、この種の方々の運動の活発化する季節(商売で言えばかき入れ時)であるから、困っているかも知れない。どうするのか、興味深い。

昨日、メモを報じた日本経済新聞社に火炎瓶が投げ込まれたようだが、どうにも困って、腹を立てた人物が居たのかも知れない。

A級戦犯も合祀されている(中国、韓国などはこの点を問題視している)靖国神社を、たとえば日本の首相が参拝する事に関しては、いくつもの論点があって錯綜している。

幾つか論点を挙げてみる。
1)日本人の心の問題に他国がどうこう言う権利はないし、内政干渉でもある。
2)現実に首相の靖国参拝が外交関係を損なっているのだから、経済も含めて、その損失の大きさを現実的に判断すべきだ。
3)「A級戦犯」と言うが、裁判自体が一方的で、不当だったのではないか。
4)A級戦犯を悪いと認めるとしても、罪を償ったのだから、許すべきではないか。処刑して殺してもまだ人を憎む不寛容は褒められない。
5)「A級戦犯を分祀せよ」というが、既に靖国神社に奉られた「神の御霊」であり、それは宗教的に不可能だ。
6)政教分離の観点から、神道という特定の宗教施設である靖国神社に首相が参拝するのは好ましくない。
7)首相には「個人」の立場もあってしかるべきではないか。あるいは、首相が個人と公人を使い分けることはおかしいと考えるべきか。

上記の諸点について、私は、個人的には次のように考えている。

ます、(1)と(4)は正論であり、私は、特に(4)の観点から、(1)を外交カードと考えているらしき中国、韓国の政府を軽蔑するものだ(軽く見て、蔑む、という原義通りに)。また、これも個人的な意見だが、「指導者は悪かったが、人殺しに出かけた兵隊は悪くない」という良し悪しの区別をしようとは思わない。過去の人に厳しすぎるかも知れないが、どちらの行為も人殺しである。但し、しかるべき償いを経た「人」を憎み続けるべきではないと思う。

(2)は財界人の言いそうなことだが、「できれば」ベースで尊重すべき程度の現実的利害だろう。

(3)は、日本が戦争に負けたという事実に対する認識を欠いていると思う。戦争に負けるということは、こういうことだろう。もちろん、原爆投下その他、戦勝国の戦争責任を問うことも重要だと思うが、A級戦犯問題に関しては、軍事裁判を蒸し返しても仕方がないのではないか。

問題は、(5)、(6)で、靖国神社が宗教上の理由で「分祀」が出来ないと言うのなら、特定の宗教の性格を強く持つわけだから、政教分離の観点から、首相の参拝は適当でないということになるだろう。この点に関して、(7)現実に首相の地位にある者が、衆人環視の下で行う行為に関して、個人と公人の立場を使い分けるのは姑息だし、現実的ではないと思う。首相が靖国神社に行くことは、家でプレスリーを聴いたり、どこかでこっそり女性を口説いたりするようなレベルで、「個人として自由」ではあるまい。

私の暫定的な結論としては、
A)首相は現在の靖国神社に公人・私人の区別にかかわらず参拝すべきでない、
B)靖国神社自体は実質的に国家施設であり、この現実を受け入れるなら、A級戦犯を自発的に分祀すべき、
C)靖国神社が上記の判断を取らない場合、戦没者の追悼施設を新たに作るといいだろう、
というような意見になる。但し、
D)私個人は、戦争自体に反対なので、分祀の有無に関わらず、靖国神社や追悼施設に参拝する気持ちは無い。

もっとも、私は歴史(←もともと苦手科目だった)に疎いし、結論までの推論過程の中には、前提条件(たとえば追悼施設の作り方や予算)によって変化する部分もあるので、たとえば「福井日銀総裁は辞任すべきだ」といった議論ほどに、この結論に自信があるわけではない。

ところで戦争の責任ということに関して、昭和天皇は、自分自身について、本当のところ、どう考えていたのだろうか。責任があると考えていたのか、いなかったのか。また、責任があるとすれば、どのように償うのが適当だと考えていたのか、自分では十分納得していたのか。時系列的に変化したのかも知れないが、この点にも興味がある。
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プラシーボ効果とマーケティング

何となく原稿書きが捗らず、SSRNを検索して暇をつぶしていたら、著者名<Baba Shiv>で検索したときに、"Placebo Effects of Marketing Actions: Consumers May Get What They Pay For"という論文に行き当たりました。幸い、この論文は、ダウンロード無料だったので、斜め読みしてみました。http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=707541

著者は、BABA SHIV、ZIV CARMON、DAN ARIELY で日付はFebruary 2, 2005となっていました。どうでもいいことですが、著者の所属は、順にスタンフォード、インシアード、MITという豪華版(?)です。しかし、この世界では、こうした中に、日本の大学の先生はなかなか入りませんねぇ・・・。

論文は、大学生を使った実験で、栄養ドリンク(?)を、「集中力が増して、頭が冴えるドリンクだ」と偽って学生に与えると、本当に、パズルを解く能力が改善するという現象について書かれています。医薬品の世界でいう「プラシーボ(偽薬)効果」が働いているわけです。

ここで、(1)定価($1.89)を請求された学生の方が、定価を知らされた後に大幅ディスカウント($0.89)で買える学生よりも、プラシーボ効果が大きい(パズルを時間内にたくさん解く)こと、(2)ドリンクの宣伝を見ている学生の方が同様にプラシーボ効果が大きい、といったこと、などについて報告されています。

特に(1)は「へーーっ」という感じですし、(2)はいわゆるマーケティングの効果をポジティブに評価する材料になります。「ふーん、そうなのか」

このドリンクのような例では、プラシーボ効果は、消費者にとって、本当に効用を増すことになるので、無意味とは言えません。この論文でも、たとえば、車のような商品の場合でも、所有者が持つ情報(の刷り込み)によって、運転の仕方が変わるのではないか、といようなことが書かれています。

金融の世界でも、期待ベースでは、このプラシーボ効果のようなものがありそうです。たとえば、手数料の高いプライベート・バンクの運用は、本当に優れているのではないか、と思う(思いたがる?)、あまり賢くない顧客は少なくないかも知れません。

しかし、金融の世界では、損得や意思決定の良し悪しを、お金で測ることが出来るので、自分の気分や行動と関係ないところでパフォーマンスが決まるような商品では、プラシーボ効果が、リアルには存在しないのが、マーケッターにとっては残念なところです。

したがって、顧客の側では、お金の問題は、「感情」よりも「勘定」で行動を決めるように、感情をコントロールする工夫が必要になります。他方、売り手側では、何とか顧客が「感情」というか「衝動」で物事を決めるように、手練手管を使うことになります。
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北朝鮮の軍事力

北朝鮮は、国連の決議案に対して、非難の声明を発表した。日経ネットの記事によると、「必勝の宝剣である軍事優先政治を奉じ、我が人民が選択した思想と制度を我々式で強固に守っていく」、「世の中が変わったからといって我が方の原則も変わるだろうと考えるのは妄想だ」などと言っているようだ(http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060716AT1C1600716072006.html)。

この前半部分で言っていることは、表現は北朝鮮式で奇妙だが、内容的には、アメリカがやっていることと同じだ。しかし、世界一軍事力と経済力の強いアメリカが「テロとの戦い」「民主主義による人々の解放」と言って軍事力にものを言わせる場合、他国はなかなか反対しにくい。国単位で勝手と暴力が許されるのはアメリカだけだ、というのが、現在の世界のゲームのルールである。問題は、北朝鮮にどのくらいの力があるか、ということになる。

本筋の話ではないが、後半の発言は、「世の中が変わったからといって、我々の妄想は変わらない」と北朝鮮が言ってくれるなら、非常にスッキリと分かる(論理的には、「クレタ人は嘘つきだと、クレタ人が言った」的な構造になるが)。

ちなみに、古い経済学のテキストには、資源配分の喩えに、「大砲か、バターか」という選択肢があったが、この選択肢には、大砲で圧倒すれば、隣国のバターも手に入るという欠陥があった(もっとも、兵士用のバター=食料は、必要だが)。北朝鮮の大砲=軍事力はいかほどのものなのか。

私は軍事の専門家ではないので、正確なことは言えないが、38度線に配備されて、在韓米軍やソウルが射程に入ると言われているスカッドミサイル、性能不明の高級品であるテポドンはともかく、日本が射程に入るノドン、などは、それぞれの攻撃対象に、壊滅的ではないが、それなりの被害を与えることは出来るだろう。

しかし、現実にこれらを撃っても、相手国に侵攻し、相手国民を支配する力は北朝鮮には無さそうに思える。ならば、相手に被害を与えることは出来ても、北朝鮮自身はメリットを得ることができない。しかも、北朝鮮がアメリカから壊滅的な報復攻撃を受けることはほぼ確実だろう。つまり、北朝鮮は、相手を脅すことは出来ても、攻撃して、戦闘を続けることが出来ないし、そのメリットがない。

敢えて一歩踏み込んで言うと、日本は、ノドンの一発くらい喰らっても、慌ててはいけないし、平和主義の建前を北朝鮮のミサイル演習くらいで変える必要はないのだと思う。

北朝鮮のミサイル発射実験は、確かに隣国にとって脅威であり、良いことではないが、これを期に、ミサイル防衛網をはじめとして、防衛予算をたくさん取ろうとか、先制攻撃能力を持とうとか、まして、将来の徴兵制などを考えるべきではない。

また、外交的には、韓国や中国も含めて北朝鮮を非難し圧力を掛けることが大事なのだから、日本の要人が、隣国に非難されるような軍事力強化を、今のタイミングで語ることは得策ではない。北朝鮮に強硬な発言をすると、人気が上がる、と思っているらしい軽薄な政治家もいるようだが、これは、困ったものだ。他方、経済制裁は、北朝鮮の現政権が転覆するまで、かなり徹底的にやってもいいと私は思っている。
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まだ辞任しない福井総裁について

14日、おおかたの観測通り、日銀がゼロ金利政策を解除した。何日も前から、新聞が彼ら的に「裏を取って」、「ゼロ金利解除」を報じることが出来るような、政策委員たちの情報管理感覚には少なからぬ疑問を覚えるが、まあ、今回は大目に見よう(本当は、大目に見てはいけない感じだが)。

大目に見る、と済ますわけには行かないのは、福井俊彦日銀総裁の進退問題だ。

私は、別段、彼に恨みはないのだが、「彼は辞任すべきだ」という意見を持っている。だいたい、金融マンとして、「利益相反」に関する常識があれば、彼がまだ現在のポジションに留まっていることは、日銀が組織としてだらしがないということだとほぼ100%思うだろうし、金融関係者に彼をまだかばう人が居ること自体が非常に不思議なのだが、日銀と自分との各種の個人的な利害を考えると、福井氏に対して厳しい意見を言いにくい人が多いのも、一つの現実なのだろう。

私は、14日に某テレビ番組で受けたインタビュー取材でも、先ほど書いたJMM(来週月曜日に配信予定)の原稿でも、福井氏は辞任すべきだという意見を繰り返した。しかし、同じ意見を何度か言いながら、考えたことが二つある。

一つは、それが「正しい」と思っていても、他人を批判する意見を言い続けているうちに、何となく、自分のことを「他人にばかり厳しい、嫌な奴だ」と思い始めることだ。別に、私ごときがテレビや雑誌で福井氏を批判したからといって、それが決定的な影響力を持つとは思わないが、それでも、他人の足を引っ張るようなことを言っている自分のあり方それ自体は、嬉しいものではない。

ただ、正しいと思う意見を、相手や場所に関わりなく主張することは、職業が評論家でなくても重要だ。「繰り返して、飽きた」とか「自分が嫌われ者にはなりたくない」という気分で、正論を引っ込めるのは、人間のクズのすることだろう。

もう一つ思ったのは、福井氏の側では、どうしたら良かったのか、ということだ。

ことの良し悪しから言うと、彼は辞任するしかない、と今では思うのだが、たとえば、問題が起きたときに、彼が、最初から事情をすべて正確に報告し、心から陳謝し、頭でも丸めて、辞表でも出せば、果たして、(私も含めて)多くの人々は彼を責め続ける根気を持ち得ただろうか。厳密には良いことではないが、許してしまったのではないか、という気がする。今回の彼の場合には、事実が小出しに出てきたことが何とも印象を悪くした。

一般に、仕事では(たとえば原稿書きの仕事では)、高い完成度が期待できない場合は、早くアウトプットを提出する必要があるし、時間が経った場合は、完成度の高いアウトプットを出す必要がある。同様に、「謝る」場合には、少し大げさに、何らかの「サプライズ」を伴うように謝る必要があるのだが、今回の福井氏の行動は、この原則に反していた。

謝らないなら、今回でいえば、オリックスの宮内氏(村上ファンドの行動に対して責任がないとは言えないと、私は、思う)のように、だんまりを決め込むことが得策なのであろう。ちょろちょろと下手な言い訳をするというのは、福井氏が、ある意味では善人であり、能力的には小物だからだろう。その点、宮内氏は、年期の入った本格的な悪党なのだろうと感じる。

この点に関しては、村上世彰氏も説明過剰気味の「小物」であったが、例の会見にはサプライズがあったので、一時的には、好意的な印象を持つ人がいたように思う。もっとも、本人の行いがあまりに悪すぎて、この印象は長続きしなかったが・・。

それにしても、日銀は、新内規では抵触してしまうような違反を働いた人物を総裁として戴き続けるつもりなのだろうか。これは、「現行法では泥棒だけれども、昨年までの法律では窃盗として有罪ではない」というようなことを行った人物を法務大臣に任命し続けるようなものだ。

敢えていうが、彼のような恥さらしを総裁に置いたままで、民間銀行の検査など出来るものなのだろうか。

好意的に推測するなら、やはり、福井氏は辞任されるのだろう。ゼロ金利解除とセットでは辞任を発表したくなかったのかも知れないが、それなら、彼は、解除の決定前に辞任しておくべきだったし、その方が、政策決定をそれ自体として純粋に見て貰うことが出来ただろう。この程度のことをアドバイスできる側近がいないようでは、また、ごく初歩的な自浄作用をすら持ち得ないようでは、日銀という組織の将来は暗い。

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銀行との賢い付き合い方を一言で言えば、

詳しくは、二週間くらい先に出る、「週刊ダイヤモンド」の連載コラム(「マネー経済の歩き方」)を読んでいただきたいと思いますが、個人にとって、銀行との賢い付き合い方を一言で言うと、「銀行は、なるべく銀行員と接触しないように利用する」ということに集約されると思います。

通常の銀行でも、最近のネット・バンキングの充実は素晴らしく、口座に関する照会も、振り込みや、公共料金の支払いなども、ネットで出来ます。多くのサービスは24時間対応で、しかも、手数料が安く、待ち時間もありません。しかも、銀行員に、投資信託や個人年金保険のような手数料の高い商品(向こうが儲かる商品=こちらが損な商品!)を勧められる危険もありません。

なお、銀行の窓口で扱っている投資商品で、「まあまあ、これなら許せる。リーズナブルだ」と言えるような商品は、現在、個人向け国債(10年物)を唯一の例外として、一つも無い、といっていいと思います。銀行は、決済に使うべきもので、決して運用に使ってはいけない、というのが、私の結論です。

これまで投資信託の銀行窓販に、私は賛成でしたが、最近の銀行の何とも強引なセールスぶりを知ると、まだ基本的な意見を変えたわけではありませんが、これで良かったのか、少なからぬ疑問を感じます。

結局、カモられる顧客の側の自己責任の問題ではありますし、「貯蓄から、投資へ」という大きな流れを進めるためには、顧客たちが、それなりに大きな授業料を払わなければならないのかも知れませんが、顧客の側には、もう少し効率的に賢くなって欲しい、と思わずにはいられません。
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「最後っ屁、利上げ?」の後の個人のマネー行動

本日の朝日新聞・朝刊は、一面トップで、14日に日銀がゼロ金利政策を解除すると報じている。13日、14日に開かれる政策決定会合の前だから、なぜ今、確信を持って報じられるのか、という問題が少々あるが、たとえば委員の多数に取材して「解除適切」との判断を得たということだろうか。

私は、そもそも新しく作る「適切な内規」に反するような判断を行った男が日銀総裁の地位に留まるべきでないと思っているので、ゼロ金利を解除して、これを花道として、福井総裁が辞任するという、「最後っ屁、利上げ」を最もありそうなシナリオと考えている。まあ、「最後っ屁」になるかどうかは分からないが、天下の朝日新聞がゼロ金利解除と言うのだから、ゼロ金利解除後の、個人のマネー行動について簡単に整理しておこう。

まず、預貯金についてだが、実は、デフレ&ゼロ金利の時代は、普通預金が総合的・相対的に見て非常に得な運用だった。長期国債金利とのスプレッドをベースに考えると、インフレ率と共に金利全体が低下したときに、超流動的な短期の金利は、マイナスでも良かったはずだが、ゼロが下限となっていた。デフレが続くなら、ここで長期の債券がいいのだが、そうではなさそうだ、という昨年くらいまでの時期では、金利上昇リスクも負わず、物価を考えると、実質的にはプラスの運用が出来る普通預金は、実は、かなりお得な運用対象だった。

ゼロ金利が解除されても、たぶん政策金利は0.25%で、低水準の政策金利を続けるというメッセージが付加されるだろう。それでも、0.25%が0.5%に上昇するかもしれないという観測は、今年の後半にも絶えず浮上するだろうから、長期金利は上昇する可能性の方が大きいし、趨勢的に上昇方向だろう。現在の1.9%~2%の長期国債利回りは、市場解説風に言うと「ゼロ金利解除と0.25%の政策金利を相当に織り込んだ」状態だろうから、ゼロ金利解除で、長期金利が直ちに大幅に上昇するとは思えないが、金利の大勢的な方向は上昇だろうから、長期国債をはじめとする固定利付きの債券や解約にペナルティーが付くような定期預金は、得な運用対象ではない。個人向け国債の5年型も今ひとつだ。

また、住宅ローン金利は、中期・長期の金利に連動することが多いから、変動金利型の住宅ローンは将来の金利上昇リスクを抱え込むことになるので、止めておきたい。5年後、10年後というのは、予想の付きにくい世界だが、一つのケースとして、日本のインフレ率や金利がドルやユーロに徐々に近づいてゆくようなイメージを持つことが可能だ。そもそも、住宅ローンを背負って住宅を購入するという行為自体がオススメできないが、やむを得ず住宅ローンを持つ人は、なるべく固定金利にしておくべきだろう。

長期金利はやや上昇傾向・上昇リスクあり、という判断であれば、貯蓄用にベストに近い金融商品は個人向け国債の10年型になるだろう。半年おきの変動金利で、長期国債利回り-0.8%という利息の決まり方は、「民業圧迫で反則!」といいたいくらい好条件である。理論的には「証券市場線の上」にあるかも知れない、超有利な条件だ。リスクを取った投資ではなく、貯蓄を主体に考えるなら、何はともあれ、個人向け国債だ。

なお、個人向け国債をどこで買うかだが、私が勤める楽天証券(個人向け国債を扱っていない)ではないのが残念だが、ネット証券では、個人向け国債を取り扱っており、しかも、商品券で手数料の一部(国から購入額の0.5%が販売者に払われる)を顧客還元してくれる会社がある。

来週月曜日に配信予定のJMMの原稿にも書いたが、ここのところ、銀行の投資商品(いずれも手数料の高い、投資信託や個人年金保険)販売の強引さには、顧客の立場に立つと「危険」をすら感じるので、一案として、銀行に預けてあるお金の長期貯蓄部分は、ネット証券で個人向け国債にしてしまうことをオススメしたい。

リスクを取った投資としては、相対的には、最近株価が下がったことでもあり、国内株式が「まあまあ」なのだが、これから長期金利が上昇する公算が大きく、米国の金融引き締めが効いてきて景気がスローダウンするリスクもあり、「今こそ、株式投資だ!」と言うのは、株式投資が好きで、近年個人投資家に勧めてきた私でも、さすがに、筋が良くないというべきだろう。いつが良いタイミングだと自信を持って言える局面は少ないので、結局、長期にわたって投資して貰うよりないのだが、今は、「特に、積極的」にはなりにくいと理解しておくべきだろう。

また、外貨預金は、そもそも、金融商品として「最低」に近いダメ商品(為替の手数料が大きすぎる)だが、内外の金利差がこれから縮む可能性があるとすると、やはり止めておく方がいい。

さらに、これまで利回りが良かったREITは、もともと胡散臭いところのある商品だが(結局、不動産屋が、自分では持ちたくない程度の在庫整理用に立ち上げたのではないか・・)、金利の上昇は、REIT自身の借り入れコスト増大、不動産価格へのマイナス要因、他の金融商品(たとえば国債)とREITとの利回り格差が不利に動く、ということを通じて、「三重苦」に陥る商品なので、止めておく方がいい。

結局、金融が引き締め方向に動き、長期金利が上昇するような環境は、大まかにいえば、安全資産の相対的魅力度が高まり、また、投資に向かうマネーは縮小方向に変化するのだから、リスクを取った商品への投資にとって適した環境ではない。

まだミニバブル気分から抜け出ていない人は、要注意だ。
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北朝鮮のミサイル発射で、思うこと

私は、軍事問題にも国際情勢にも詳しくないし、北朝鮮と同国を巡る情勢に関して、特別な情報を持っているわけではない。だが、北朝鮮のミサイル発射は、それなりに大ニュースであるから新聞などから知った情報を基に、現時点で、何が考えられるか、を整理しておきたい。

一連の事実にあって特徴的なことは、以下の10点。
(1)7発のミサイルを発射。何れも、日本海に着弾。
(2)うち1本(3本目)はテポドン2の失敗と見られている。
(3)7本目はスカッドミサイルと思われるが、約半日後に打ち上げられた。
(4)韓国は日本の竹島(韓国側から見ると「独島」)近くの、日本が主張する排他的海洋水域内で海洋調査をしており、日本との間には緊張関係があった。
(5)日本のマスコミ数社は、朝鮮総連のアレンジで、韓国人拉致被害者で横田めぐみさんの夫だったとされる金英男氏の取材に来ていた。
(6)日本の野党民主党の小沢一郎代表は小泉首相が出来なかった胡錦涛国家主席と会談するなど、中国を訪問中。
(7)アメリカは独立記念日であった。
(8)その後、テポドン2の再発射を準備中かという噂あり。
(9)今回は人工衛星と言い張った98年時と異なり、「ミサイル」と早くに明言。
(10)中国、ロシアは同情的で、アメリカも今のところブッシュ大統領の発言は案外ソフトだ。

なぜ、スカッド・ミサイルなど試す必要の無いものも含めて、7本も打ち上げたのか、日韓が緊張している時、日本の現政権に不利なニュースが出ているときに、打ち上げたのか、等、解せない点が多い。

北朝鮮の意図に関しては、今のところ納得的な説明が少なく、テレビに登場する専門家の間でも、言っていることがバラバラだ。ある意味では、何でも言いやすいのだが、これらの(1)~(10)を統一的に理解しようとすると、「北朝鮮の現政権は崩壊寸前の状態にあり、今回の打ち上げは、現在金正日と近い軍部が、国内向けのアピールとして行っているものだ」と理解すると、全てが説明できるような気がする。

まず、テポドン2だが、今、これがアメリカのアラスカまで届くからといって、これを実際に撃つことがアメリカにとって致命的な打撃になるとは思えない。致命傷を負うのは、むしろ北朝鮮だろう。しかし、国内的には実験を成功させて、「我が国は、アメリカに対して、直接的な脅威を持つに至った」と国内宣伝したいのだろうし、国内の不満をそらすためには「戦時」ムードを盛り上げたいのだろう。

だが、テポドン2は少なくとも海外からは「失敗した」と見られている。北朝鮮の政権あるいは、軍部が、この状況を消化するのに時間が掛かったものだろうが、遅くになって、スカッドミサイル(射程500キロ)を打ち上げたのは、韓国及び在韓米軍に対する脅しだろう。これは、もともと存在する脅威であり、これゆえに北朝鮮が残っているとも言える。要は、最後のミサイルは、軍部が精一杯考えた結果発射したものではないだろうか。これで、アメリカを牽制しておけば、「我が国はミサイル実験を堂々と行ったが、アメリカは手を出せなかった」と国内向けに言うことができる。もちろん、これで、アメリカが二国間協議などに動いてくれれば、儲けものだ(それは、期待できないだろうし、北朝鮮の政権も分かっているだろうが)。

北朝鮮の敵国・日本に対する揺さぶりを考えると、(4)(5)(6)の状況で、ミサイルを打ち上げることは、合理的ではない。今回の打ち上げの意味が分かりにくい理由でもあるが、外から見ると、今回の打ち上げによって、北朝鮮が、海外から得られる成果は何もない。これで金融制裁が解除されることはないだろうし、経済制裁は強まることはあっても、弱まることはない。従って、今回の打ち上げは、北朝鮮の国内情勢が荒れていて、北朝鮮の政権基盤が揺らいでいる状況で、国内向けのデモンストレーションと、軍の引き締めのために行ったのではないか、という推測をすることができる。国内向けのデモンストレーションだから、ミサイル打ち上げを認めずに外国からの制裁を逃れることよりも、ミサイルだったと早期に明言することになったのだろう。

また、一歩、想像を進めると、北朝鮮は、たとえば親中国派の勢力その他、現政権とは別の勢力によって、政権の転覆がいつ起こってもおかしくないような状態にあるのではないだろうか。

仮にそうだとすると、軍の暴発で在韓米軍が本当に危険にさらされる可能性が無いとも限らないし、また、政権が倒れた後に、たとえば、北朝鮮が、中国の支配下に入る(現在、韓国の国力と国内情勢で、北朝鮮を抱えきることは難しいのではないだろうか)ようなことになると、アメリカにとっても、たぶん日本にとっても、これはやっかいだ。政権転覆の可能性まで前提に置くと、北朝鮮に対する距離の取り方は、アメリカとしても俄然難しくなる。

数年前から「脱北者」(北朝鮮からの国外亡命者)は、かなりの数に上っている。これは、一つの症状として、国家転覆の前触れである可能性が高い。また、同国の経済情勢・食糧事情の悪さについては、断片的にではあるが、ニュースが洩れてくる。近年の世界の好景気の恩恵ににもあずかっていないだろうし、むしろ原油価格高騰などで、ダメージを受けている可能性さえある。

以上のような事情なら、テポドン2はまた打ち上げられる可能性がある。また、我々は、一つの可能性として、北朝鮮の政権が崩壊するときに何が起こるか、その後に、どうなるか、ということを絶えず考えていなければならないのではなかろうか。金正日後の北朝鮮については、想像が難しいが、思うに、この政権が崩壊してもしなくても、日本人にとっては心配な状況が続きそうだ。

尚、日本の株式市場は、発射当日に十分このニュースを消化できずに、海外市場の解釈を待って、翌日、あらためて株価を下げる形になったのは、あまり格好良くなかったが、悪影響があるとすれば、今のところ、国際情勢の緊張→原油価格上昇→物価上昇→アメリカの金融引き締め継続観測の台頭→株安、といった連鎖からであろう。北朝鮮から、本格的な戦闘に至るようなアクションが生じるとは今のところ予想しずらいから(彼らにとってリスクが大きすぎる)、当面、大きな悪影響を予想する根拠は乏しいが、将来に予想される、金正日政権崩壊というようなことになると、影響は大きい。
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日経社員のインサイダー取引に関する報道

3日の朝日新聞に、東京地検が、日本経済新聞社の社員(31歳)を、インサイダー取引の容疑で立件する方針だという記事が載っていた。事件そのものは、確か、今年の2月に発覚した、少々古いものだ。

この社員は、日本経済新聞社の広告局に勤めていた時に、企業の法定公告の情報を世間に公表される前に知り得たことから、これを基に複数回株式取引をして、数千万円の利益を得たという。これは、インサイダー取引にあたる重要情報を「出口」に近いところで利用する行為であり、情報が公開されて株価に反映するまでの時間が短いから、その他の要因で株価が影響される度合いが少なく、成功確率の高いインサイダー取引ができたものと思われる。もちろん、この行為は100%悪い。

私の記憶によると、日本経済新聞社は、基本的に社員の株式取引を禁止しているはずで、この社員は内規違反だ。上司にも監督責任があるということで、広告担当の常務が引責辞任、さらに、広告局長と金融広告部長を解任する処分を発表している。この3名については、朝日新聞の記事も名前を報じている。

これら3名の方々がその後どのようなポストに就いているのか、私は、寡聞にして知らない。場合によっては、割合早く「復活」されるのかも知れないが、まあ、それはいいとしよう。

私が納得できないのは、このインサイダー取引を行った社員の氏名と写真が報道されないことだ。彼は、31歳であり、未成年ではない。また、日経社員のインサイダー取引は、メディアへの信頼を大きく損なう、社会的にも大きな事件だ。だから、常務も辞任したのだろうし、「週刊朝日」のコラムでは田原総一朗氏が「日経の社長も辞任すべき大問題だ」といった意見を書いていたとも記憶する。

なぜ、この社員が匿名で報道されるのかが分からない。しかし、朝日新聞など、他の媒体も、概ね匿名で報道しているようだ。

マスコミの報道は、身内、特に一般社員や記者に対して甘過ぎるのではないかと思うのだが、いかがなものだろうか。
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「セレブ女医」への違和感

整形外科医で47歳の女性の、大学に通う娘さんが誘拐される事件が起こり、幸い、13時間後に解決した。犯人は、身代金3億円を要求していたと報じられており、金銭目当ての誘拐と推測される。13時間というと、被害者には決して短い時間では無かろうが、事件としては短時間で、しかも怪我などが無い状態で解放されたことは大変良かった。

しかし、この事件のマスコミの報道の大半に「セレブ女医」とあるのは、いかがなものか。被害者の母親は、年収数億円に達する女医さんであるらしいが(一説には12億円とも)、高額所得者・多額の資産家は、成功した会社の社長や代々の資産家など他にも多数居るだろう。しかし、彼らがニュースの対象になったり、紹介されたりするときに、「セレブ」とは言われまい。

すると、この女医さんが「セレブ」と呼ばれるのは、マスコミ、具体的にはテレビに何度も登場しているからではないのか。つまり、マスコミは、自分たちで「セレブ」を作り上げているのだ。

私の記憶に間違いがなければ「セレブ」とは「セレブリティ」の略称であり、セレブリティに敢えて訳語を探すと「名士」(単に"名士"では輝かしさが足りないが)というあたりだろうが、その原義は「神に祝福された者」の意味だろう。マスコミは神なのか?

たとえば、ボクシングのタイトルマッチのリングサイドに、バスケットのマイケル・ジョーダンが来ていれば、「セレブリティ」として紹介されても違和感がない。特別な才能とたぶん運も持ち合わせている人と同席したことを、周囲も嬉しく思うだろう。

件の女医さんのビジネスは、テレビに出て有名になったことで大いに伸びたらしいから、女医さんがメディアに出たがることは責められまいが、これを「セレブ」だの「カリスマ」だのと、ニュース番組でまで報じるのはいかがなものか。

高額所得者であることと、娘さんと共にテレビに出ていたことなどが、犯人が彼女らに目を付けたきかっけであることを淡々と報じて、こうした形で目立ちたがることの危険を暗に滲ませるというくらいが、報道の良識だと思うが、どんなものか。

ニュースやバラエティー番組をたくさん見た訳ではないので、番組の比較は出来ないが、この種のニュースの報じ方は、情報番組のリトマス試験紙になると思う。

なお、家族の名前や写真を公表することについては、かつて、作家の村上龍さんにメールマガジンJMM(Japan Mail Media)の原稿執筆を通じて、アドバイスを受けたことがある。

これは、私の回答文の原稿の中に子供の名前が入っていた時のことなのだが、村上龍さんのアドバイスは、JMMは10万人が読んでいるが、10万という数字は、常識から外れた人が混じっていてもおかしくない数字なので、どうしてもそうしたければ別だが、家族の名前だとか住所だとかは文中に入れない方がいい、というものだった。もっともだ、と思って、ありがたくアドバイスに従った。

また、アドバイスを受けて書き換えた文章を読み返すと、始めに自分の身の回りを具体的に書いたつもりで家族の名前を入れた文章よりも、具体名を出さない文章の方が、いいたいことが正確に伝わっているし、有り体に言って品がいい(何れにせよ大した文章ではないが、二つを比較すると)のであった。

例の女医さんについては、知名度を上げたい商売熱心さや、ご本人が有名になりたいと思うこと自体を批判したいとは思わないが、家族は巻き添えにしないほうがいいと思う。そして、その方が、幾らかでも「セレブ」らしいではないか。

また、マスコミも、「セレブ」や「カリスマ」を自分で作って安売りするなことは止めた方がいいと思うし、特に報道番組にあってはそうだろう。買収防衛策の話の時にだけ、「放送局の公共性」を持ち出すのではなく、日頃から、もっと「格好を付けて」ニュースを作って欲しい。

叶姉妹のように、本人たちが「セレブ」のパロディーを演じていて、それを芸能番組などがサポートするのは、遊びとして、あるいはビジネス(セレブ屋業?)としてぎりぎり許容範囲かと思うが、今回の女医さんの「セレブ」報道はいただけなかった。
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