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オフィスの珈琲は女性が淹れるものなのだろうか?

 突然自慢話で恐縮だが、私は珈琲や紅茶をかなり上手に淹れる方だと思う(詳細後述)。緑茶もオフィスにいる女性の平均よりも美味しく出せる。
 しかし、だからといって、私がそれなり以上の規模の企業のオフィスでいわゆる「お茶汲み」の仕事を得ることは難しいだろう。

 たとえば、読者が、楽天の三木谷CEOを訪ねて楽天の応接室に通されたと想像して欲しい(以下、読者を「お客様」、三木谷CEOを「三木谷」と表記する)。以下は架空の会話だ。
 
<於、楽天応接室@品川シーサイド楽天タワー> 
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※お客様が先に入室。後から三木谷入室。

三木谷「はじめまして、三木谷です。本日は不便なところまでご足労頂いて恐縮でした」
お客様「はじめまして。ご多忙な三木谷さんにお時間を頂いて、こちらこそ恐縮です」

※名刺を交換する。部屋をノックする音。ドアが開いて、山崎が珈琲を持ってくる。

山崎 「失礼します。珈琲をお持ちしました。ミルクか砂糖はお使いでしょうか?」
お客様「いえ、結構です」
三木谷「僕もいいや。あ、山崎さん、今日のコーヒーの豆は何?」
(注;三木谷は年上には丁寧なので「さん」付けで呼びそうな気がする)
山崎 「グァテマラをお持ちしました」
三木谷「山崎さん、景気はどうかな?」
山崎 「あ、直ぐにお持ちします」
三木谷「いや、食べ物のケーキじゃなくて、『儲かりまっか』の景気の方だよ。せっかく気を遣って話を振ってあげたのに、気が利かないねえ。もう下がっていいよ」
山崎 「失礼しました。お茶汲みも、甘くありませんねぇ」

※山崎、気まずそうに退室。
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 状況を目に浮かべてみても、楽しい感じはしないと思う。私が大きな図体で珈琲を持って行くと、先ず、雰囲気が重苦しくなるに違いない。英国調の「執事」の着こなしは難しいので、スーツでサービスすることになるだろうが、どうもしっくり来ない。
 三木谷CEOとしても、女性がお茶を持ってくる方が、多少お茶がまずくても、一万倍くらいいいだろう。尚、現実の楽天では、応接室に運ばれる飲み物は「いろはす」という商品名の250ccペットボトルの水であることが多い(少なくとも「平民」はそうだ)。

 男女同権の原則が相当に浸透した企業のオフィスでも、お茶や珈琲は女性が顧客にサービスすることが多いのではないだろうか。顧客にとってもそれが自然だろうから、ビジネスとしては、それでいいと考えるべきなのだろう。
 私は、価値観的にはかなり原理に忠実な男女同権論者だと思うのだが、感じ方のレベルでは、男女のちがいが完全に解消し切れているわけではない。上・下ではないが、適・不適を感じる。
 なかなか難しい問題だ。

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 さて、写真は、神保町にある我が社(株式会社マイベンチマーク)の冷蔵庫の上にあるものを写したものだ。
 電熱の湯沸かし器(非常に早く湯が湧く!)、コーヒー豆の保存器、コーヒーミル、紅茶(フォーションのダージリンが好きだ。金色の缶は同じくアップル・ティー)、コーヒーを淹れるためのペーパーなどが置かれている。ここには写っていないが、大小の珈琲ドリップ用のフィルター(紙用。北千住カフェ・バッハで購入した)やマグカップ、紅茶を淹れるためのティーポットなどがキッチンにある。昨年末に一度に買いそろえた。尚、茶漉し用の目の細かい網は、回転式のミルで出る微粉を除去するために使っているもので、今回の工夫だ。

 これまで我がオフィスはこうした設備を持たず、ペットボトルのお茶を何種類か冷蔵庫に入れておき、自分たちもそれを飲み、来客の際には、「弊社はお茶をいれてくれるお姉さんがいないので、ペットボトルでお茶をお出ししています。どれがいいですか?」などと言ってペット・ボトル単位で選んで貰っていた。
 お茶は、伊藤園のジャスミンティー、濃い緑茶、サントリーの伊右衛門、などをまとめ買いして常備していた。
 しかし、オフィスでも、もっと美味しいお茶類を飲みたいものだとこれまで思ってきた。

 珈琲・紅茶の道具一式を揃えようと思ったきっかけは、実は、同僚の服部さんが一日に何本か缶コーヒーを買って飲んでいたからだ。大変お節介な事ながら、私には、缶コーヒーが不味くて不健康なものに見えた。「もっとましな飲みのを飲んで欲しい」と思ったので、設備投資をする気になった。
 服部さんは、私が淹れた珈琲をもちろん砂糖もミルクも使わずに飲んでくれるが、缶コーヒーも飲んでいる。「糖分補給」が目的で、珈琲とは別の種類の飲み物だと思って飲んでいる、とのことだ(少し残念だが、仕方があるまい。我が社は自由を重んじる社風だ)。 弊社の珈琲はペーパードリップで淹れているものの(本当はネルドリップの方が美味しいが妥協した)、たぶん、近隣のどの珈琲屋さんよりも美味しいだろう。

 これは、淹れ方に特別なコツがある訳ではなく(微粉除去はまずまずプラスに貢献している感じだが)、単に、美味しい豆を買い置きしているからだ。
 私の場合、珈琲を味を意識して飲み始めたのは中学3年生くらいの頃からだから、実は、珈琲歴の方がウィスキー歴よりも1年以上長い。珈琲については、語りたいことがいろいろあるのだが、またの機会にする。
 珈琲がお好きな読者のために、豆の仕入れ元だけお知らせしておこう。
 私は、銀座の「カフェ・ド・ランブル」の珈琲が好きだし(一番よく買うのはグァテマラ)、ここの豆は突出して美味いと思う。豆もいいのだろうし、関口一郎氏の焙煎もいいのだろう。買ってから日が経ってもお湯を注ぐとよく膨らむ「生きた豆」だ。

 日本にもあちらこちらにあって、やや値段設定が高めの、某有名チェーン店のコーヒー豆などは、買ってきた日に自宅で淹れてみて、お湯を注いでもサッパリ膨らまないで、泡ばかりが出る。まるで珈琲豆の死体を洗っているような感じだし、現実に不味い。

 嗜好品なので傾向別の好き嫌いはあるはずだが、まともな珈琲を味わった事のない方は、是非一度「カフェ・ド・ランブル」(http://www.h6.dion.ne.jp/~lambre/)の珈琲を試してみて欲しい。銀座でお会いしましょう!
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『エリッククラプトン自伝』に学ぶ「弱い人間」の生き方

 前々から買ってあったのだが読まずに積んであった『エリッククラプトン自伝』(中江昌彦訳、イースト・プレス刊)を読んだ。400ページを超える本で、じっくり読むとそれなりに時間を食うのだが、ある仕事でエリック・クラプトンについて少し話す予定があり、今、読んで置こうと思った。
 事実を時間順にみっちり語り込むスタイルの自伝で、エピソードが豊富だから、読み終えるとかなりのボリューム感がある。
 伝記としては、かなり異色だ。端的に言って、これは「弱い人間」の物語だ。本が書かれた2007年に至る最後の10年は、家庭・仕事・健康の何れにも恵まれているようで、流れはハッピー・エンドなのだが、全体を通した印象では、この幸せのどこがいつ崩れてもおかしくないような危うさがクラプトン氏の人生にはある。
 「ひねくれ者でろくでなし」(p409)と自分でも言っているが、エリック・クラプトン氏は、一般的な基準から言って、人格的にはかなり「ひどい人」でもある。薬物やアルコールへの依存症に長年苦しんだことは有名だが、赤裸々に語られる女性関係もまさに「手当たり次第」だ。よくぞ、現在、健康で生きているものだ。
 詳しくは伝記を見て欲しいが、エリック・クラプトン氏は、自分の父親を知らずに、祖父母の下で育つ、かなり不幸な生い立ちなのだが、若い頃に関する記述の端々には、後の自堕落な生活や依存症、気むずかしさなどに対する「言い訳」のトーンを感じる。自分への甘さは超一級品だ。ただ、言い訳をストーリーの中で作っているというよりも、思い出すことが出来る限りの事実を時間順に羅列していく方法で書いているので、自然にこういうストーリーになってしまうのだろう。つまり、彼は彼自身に対する同情を隠さない。
 しかし、ぎりぎりで彼に嫌な感じがしないのは、彼が率直であるからだろう。気むずかしくてとても社交的とは言えないクラプトン氏だが、推察するに、彼は他人に上手に甘えることができるのだろう。
 もちろん、彼個人がギターの名人として突出した実力と商品価値を持っていたことで、周囲が気を遣ったということはあるだろうが、伝記を読むと次から次へと助けが現れる。彼がどのように他人にアプローチしたのかは、自分の視点だけから書かれた伝記で正確に理解することは難しいが、自分に出来ないことはあっさり他人に任せているし、やりたいことを次々とやって行く。そして、彼が興味を持った女性はいとも簡単に彼になびいていく(時間が掛かったのは、ジョージ・ハリスン夫人だったパティくらいのものだ)。
 ギターに関しては、彼は努力の人だったように見える。練習を続けられる才能において天才、というタイプだ。ちなみに、若い頃の練習は、コピー対象を自分で何度も弾いてこれをテープに録音し、完全に同じになるまで何時間も繰り返すというようなもので、これがいくらでも続けられたようだ。また、若い頃の記述で「楽譜が読めなかった私」というフレーズが出てくる。ギターが声のように肉体化しているのだろう。
 薬物やアルコールに対する依存症が深刻化した場合でも、自分にとって得意で、他人からも評価され、自分が付けることができる「ギター」があったことが、彼を救ってきたし、もちろん、経済的に成功させてもきた。
 凡人が何かに注力して、その「何か」がエリック・クラプトンに於けるギター演奏のようなレベルや評価に達することは稀だろうが、一つのことを前向きに続けることが出来れば、それなりに自信を持つことが出来るのではないか。名人・神様のクラスではなくとも、ギターを上手く弾けることがエリック・クラプトンにっとっては一種の励ましになっていたように、自分を励ますことができる「得意なもの」があれば、落ち込んだときにも何とか生きる意欲を再活性化できるのではないか。
 思うに、殆どの人は「強い」「自立した」存在ではない。本人が自覚している場合も、自覚していない場合もあるが、人は、その人に固有の弱さを抱えて生きている。
 人は他人に上手に甘える術を覚える方が、自立しようとして頑張るよりも、上手く生きていくことが出来るのではないだろうか。そのためには、自分は弱いし、自立などしていないから、他人が必要なのだということを素直に認めるのが第一歩だろう。
 『エリック・クラプトン自伝』は、弱い人間、ダメな人間の人生の記録として一級品の読み物だ。そして、弱い人の生き方こそ、学ぶ価値があるのではないか。
 内容はたいへん重たいので、調子のいいときに読むべき本かも知れないが、「強くない私」もいいではないかと思える人には、一読をお勧めする。
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オヤジギャグへの感じ方に影響するのは世代か年齢か

 小沢氏の問題はどうやらツマラナイ方向で決着が着きつつあるようだ。民主党政権も裏表のツー・トップが脛傷持ちでは、脛が痛くて前向きに走ることは出来まい。政権は一層官僚によってコントロールされるようになるのだろう。勝者は小沢氏でも検察でもなく、財務省ということではないだろうか。

 さて、毎度毎度小沢氏の話では暑苦しい。ここしばらく日常的に疑問に思っていることを書いてみる。

 会話の中に洒落を混ぜることに対して、年齢によって感じ方が異なるようだ。私を含めて中年以上の年代は、洒落・駄洒落の出来不出来に対する評価や時に非難はあっても、くだけた会話に洒落を混ぜることに対しては抵抗がない。少々頭を使う遊びとして、洒落をポジティブに考えることもある。
 私は1958年5月8日生まれなので、現在51歳だ(注;当ブログのプロフィール欄はブログ開設当時そのままに放置されている)。
 これに対して、たぶん、現在私よりも十数年下のどこかの年齢以下の世代では、会話に洒落を混ぜることに対しては、「オヤジギャグ」というレッテルを貼り、相当にネガティブに評価しているようだ。彼ら・彼女らにとっては、オヤジギャグは、あか抜けなくて、年寄り臭く、うざったく、会話にとって邪魔なものであるらしい。
 同世代以上との会話にあっては、自分が使うかどうかはともかくとして、他人の洒落を解さないのは「少しバカ」であるし、逆に、若い世代が中心の会話の場では、オヤジギャグの発信を抑えないとその場に合わないことが多い。
 私個人は、たぶん同世代内で偏差値にして60くらいのオヤジギャグ適性を持っているので、オヤジギャグが幅広く通用する方がやや好都合なのだが、世の中の趨勢を見ると、そうも行かない感じだ。「洒落は高級な言葉遊びなのだ」と言い張って頑張る元気は、現在の私にはない。
 
 当面、二つ知りたいことがある。

 「洒落=原則として楽しいもの」と思う世代と「洒落=原則として邪魔なもの」と思う世代は、現在の年齢でいうと、どの年齢で分かれるのだろうか。
 会話の相手の様子を見ていると、30代前半はオヤジギャグ=うざったい」という感性回路が明らかに頻繁に作動しているようであり、40代となるとそうした気配を感じにくい。従って、現在の30代後半くらいに境界線がありそうに思えるのだが、それでいいのか、また、それでいいとしても、もう少し詳しく知りたい。
 二十代前半の新入社員だった頃、一回り以上上のオヤジやオバサンたちは似たようなものに見えて、大きな差を見いだし難かった。年齢が離れた集団の年齢別の細かな差を感じることはなかなかに難しいことだ。
 そういえば、つい最近まで、20台後半の女性と30代前半の女性には画然とした差があるように感じていたのだが、今や、どちらも「同じくらい」ほどよく可愛いと思う(選球眼が衰えてきたということだろうか。まあ、いいけど)。
 ともかく、現時点での洒落・駄洒落に対する年齢別の感性の差を知りたい。

 もう一つは、洒落・駄洒落に対する感性の差が、「年齢」に依存しているのか、「世代」に依存しているのかを知りたい。どちらが重要な要因なのだろうか。
 記憶によると、自分が20代だった頃は、下手な洒落をけなすことはあっても、洒落・駄洒落全体をオヤジギャグと称して蔑む気分はなかったように思う。他愛のない駄洒落だの、掛詞だのを交えながら同世代と会話していたように思う。替え歌などもよく作って遊んでいた。
 この記憶を尊重すると、洒落・駄洒落に対する感性は「世代」によって違うということなのだろうし、育った時代の文化・流行・風俗・教育などの影響を受けて世代によって異なるということなのだろう。そう結論していいなら、次には、何が影響してそうなったのかを考えることになる。
 しかし、自分が20代だった頃に、当時の40代、50代が洒落に対してどんな感性を持っていたのかが分からない。実は、当時のオヤジ達はもっともっとオヤジギャグが好きだったのかも知れない。そういうことなら、世代ではなく「年齢」が洒落に対する感性に影響しているのかも知れない。
 差を説明する要因として年齢が重要ということなら、洒落・駄洒落全体の盛衰がある中で、高齢者と若年者の感じ方に差があるということになるのだろう。金利水準全体の変化と長短金利差の変動のようなイメージだ。
 一体、どうなっているのだろうか?
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