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大手メディアには文脈が二つしかない

 主に新聞とテレビを念頭に置いて言うが、大手メディアには「事件報道」と「政治談義」の二つ以外に文脈と文体がない。日頃から感じていることなのだが、原稿を書いているうちにまた思い出したので、メモ代わりに書いておく。

 振興銀行の件でいうと、木村剛氏の刑事事件について報道が集中し、たとえば木村氏がどれくらい悪くて酷かったのか、という報じ方になる。預金カットを含む処理が決まると、テレビであれば、NHKの午後7時のニュースでも、「被害者」である大口預金者を捜してきて、この人が「どう感じているか」を伝えようとする。
 木村氏はまるで押尾学被告のように報じられるし、預金者は死亡した女性の友人のような感想を求められる。
 ちなみに、民放の情報バラエティなら、コメンテーターはプレゼンを聞くかVTRを見るかした後に、「まさか銀行が潰れるとは、ふつうの人は思いませんよね。ヒドイですね」等々何らかの「感想」を言えばそれでいい。事件の内容は与えられるもので、視聴者は感想を持てばよく、テレビはそのための伝達とムード作りをするサービス業だ。
 感情を込めて感想を表現するコメンテーターは、お茶の間の受けがいい(らしい)し、番組を作る側も反応が想定範囲で使いやすい(だろう)。「振興銀行の問題は、難しくて私には分からないので、コメントできません」と言う方が適切なコメンテーターがたくさんいるはずだが、そうはしない。何か「感想」を言って場をつなぐ(注1)。番組の文脈を一人で壊すわけにはいかない。

 同じく振興銀行の件では、同行の認可に関わった竹中平蔵氏の責任とか、小泉・竹中路線の是非、といった政治的な文脈での報道もある。
 また、ある番組で、9月15日に久しぶりに行われた日本の為替介入について「その前までは、民主党代表選で政治が不在の状況だったのです」と一番最初にコメントした解説者がいたのには、ちょっと驚いた。いくら何でも、それが一番重要なポイントではあるまい。
 何がテーマでも、それを政治的な文脈に置き換えるときには、多くのディテールが失われる。菅か小沢かというのは、少なくとも為替レートを語る上では最重要の視点ではない。
 また、結論として、政府が何をしなければならないかを持ってくる議論が多い。お上に不満を訴え、これこれを願う、という筋立ては、納まりが良いのだろう。
 しかし、政府の雇用対策も重要だが、どのみち対策は遅いだろうし効果が小さいだろう。それを待っているわけにも行かない現実がある。その場合に、失業者はどうしたらいいのか、ということの方を知りたい読者・視聴者も多いのではないか。政府はあてにならないし、あてにすると却って悪いことをしかねないのだとすれば、ダメな政府を前提として個人や会社が何をするかの議論がもっとあっていい。
 新聞社では政治に関係の深い人が偉くなる場合が多いせいか、あるいは、誰でも考えやすい文脈だからか、政治(家)の意図で原因を推測して、政府が何をすべきだ、という結論の文脈で記事が書かれることが多い。
 政治になど解決を期待していない問題や、今の政治家には無理な問題の場合にこれをやられると、見ていて(読んでいても)ひどくくたびれる。解決策の実現性もないから、問題への関心はかえって薄れてしまう(注2)。

 経済の問題を上記の二つの文脈だけで処理しようとすると、真に面白い部分が欠落したり、報道が奇妙に変更したりしやすくなる。
 振興銀行の問題なら、最も興味深く、且つ将来に向けて考える価値のあるテーマは、振興銀行のビジネス・モデルが、なぜ上手く行かなかったのかという点だろう。
 この場合、いい・悪いではなく、物事がどんな仕組みになっていたのかが大事だ。
 例えば、振興銀行は預金保険の信用力を利用して1000万円までの預金を約6000億円も集めることが出来た。これは、預金保険制度の性質(はっきり言って弱点)を巧妙に利用した、ビジネスとしては悪くない発想法だった。
 定期預金オンリーの預金受け入れには、大きなコスト削減効果もあった。しかし、決済口座を持たないことで取引先企業の状況把握が通常の銀行より劣るといった弱点もあった。
 そして、当初の看板であった中小企業向けのミドルリスクマネーの供給が融資残高の上でも捗らなかったのは、結局、中小企業向けの金融市場で振興銀行が競争力(審査の情報でも、融資先の開拓でも)を持っていなかったからだろう。
 こうした事が分かれば、もともとのビジネス・プランに問題があったことが分かる。
 また、中小企業融資が思ったように伸びない状況で振興銀行が打った手は、ノンバンク債権の買い取りへの傾斜だが、これが適切な手だったのかどうかということも興味深い(05年5月の取締役会で方針転換が決まった)。
 SFCGのような手強い相手と取引して儲けようというのは全く甘かったと見ることも出来るし、投資ファンドのような不良債権の買い取りだから、景気によっては儲かったかも知れず、崖っぷちの賭としては幾らか可能性のある妥当な戦略だったと見る人もいるだろう。ビジネスマンとしては、自分ならどうするかを考える価値もありそうだ。
 あるいは、リーマンショックとの関係はどうだったのか。振興銀行は、設立の趣意書の中で、中小企業融資のためには「不良債権を持たない新しい銀行」が適していると述べているのだが、潰れたのは、不良債権を持つ既存の銀行ではなくて、振興銀行の方だった。最善を尽くしたが、不況が原因で潰れたという整理は違うだろう。一方、好景気が数年続けば、何とかなった可能性はある。ダメなビジネスが必ず潰れるとも限らない。
 識者・経験者もいたはずの取締役会がなぜ機能しなかったのかということも、木村氏のワンマン経営で木村氏が悪かったというところで思考停止せずに、役員のインセンティブまで踏み込むと、「作家である現社長や現職の国会議員を含む責任免除契約を結んだ社外取締役が、人事権、報酬決定権、1億円以上の融資実行にかかる決定権限をもつという『いびつ』な組織」(「週刊 金融財政事情」9月20日号、p14、「新銀行設立には大義があった」と題する設立メンバーの寄稿記事より)といった事実が分かる。なるほど、責任免除契約などという、いい加減なものがあったのか。これでは、適切なガバナンスなど働きようがない。
 或いは、視点を変えて、木村氏は創業時になぜあのようなメンバーと組んだのか(後に直ぐに仲間割れした)、とか、なぜあそこまで焦ったのか、とか、彼個人の財産保全についていつから何をしているか、といったことも興味深い。これらが分かると、別のことももっとよく分かるようになるはずだ。
 振興銀行のケースには、まだまだ興味深いテーマがあるが、「木村氏が悪い」と決めつけるにしても、あるいは「検察の無理筋捜査だ」と考えようとするにしても、立場を先決めすると、事実を見落としがちになるし、物事の仕組みが分からない。
 敢えていえば、善悪を棚上げして、一つのケースを巡るもろもろの仕組みの解明を楽しむような視点が、経済報道には必要だ。「善悪」や「誰かの影響」、さらには「政府はどうすべきだ」という安易な結論を、いわば括弧に入れて、全体を多角的に眺め回すことが重要だろう。

 経済以外にも大手メディアの二つの文脈だけでは語ることができない問題がたくさんあるだろう。


(注1)他人の事ばかりも言えない。私も事実関係のよく分からない事件について、「事実はこれから分かることでしょうが」とか「報道の通りだとすれば」とか前置きしてではあっても、その時点の報道を前提に「感想」を言うことがある。
 番組は概ね警察・検察が与えた情報に沿って作られるから、警察・検察が間違えた場合(それはあり得る)、私のコメントが、間違いの側に加担した印象操作への協力になる可能性は十分ある。
 たとえば厚労省の村木局長のようなケースで、報道の初期にテレビ番組でコメントを求められたとすると、事実について断定せずに、官僚批判の一般論でも言えば無難だが、印象という点については、「村木氏が悪い」という印象作りにすっかり協力する結果になっただろう。

(注2)ここでも反省しておこう。私も、凡そ実現しないだろうと思いながらも、政策がこうあるべきだという文脈で原稿を書くことがよくある。何といっても、それが楽だからだ。経済の話では、「政府」を暗黙の主語にするのが一番ありふれた文脈であり、内容的にも、たいていの話題について参照できる賛成論・反対論が多々ある。
 失業でも為替レートでも、時には当事者の立場に立って考え(当事者の立場で「ただ感じる」のではなく「考える」が大事だが)、時には敢えて皮肉屋の傍観者の立場に立ち、時には理屈だけで考えて、といった具合に、「政府がどうだから何がが起こっていて・・・、政府はこうするべきだ!」という文脈を離れて語る方が、物事がよく分かることがあるはずだ。ただ、既存の文脈・文体に慣れきった読者が「不真面目だ」と怒るリスクはある。
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ALL-FREEの不自由

 先日、アルコール・ゼロのビール風味飲料を何本か飲み比べて一番美味しいと思ったサントリーの「ALL-FREE」が、一部のコンビニに再入荷し始めた。想定外の人気で、生産が間に合わなかった時期があったようだが(よく売れそうな猛暑の時期に品切れだったから、売るための演出ではなく、本当に無かったのだろう)、品物が出回り始めたようだ。商品の担当者は、たぶん麦汁以上に絞られただろうから、この間の苦情は言うまい。これから頑張って売って下さい。

 ALL-FREEが再び買えるようになったのはいいことなのだが、会社の近くのコンビニで数本買おうとして、レジに持っていったところ、合成音声が「年齢確認が必要です」と言う。しかも、POSを当てた時と、レジが動くときの2回も言う。アルコール・ゼロなのだが(0.00%と表示されている)、ビールに類似しているため、未成年には売らないということなのか。

 しかし、アルコールがゼロのものはお酒ではないのだから、未成年に売っても構わないのではないか。個人的には、これで息子(5歳)とビール(風の飲み物)を一緒に飲めると思って楽しみにしていたのに、世間に水を差されたような気分だ。

 私個人の体感としては、ALL-FREEよりもコーラの方が(どす黒い甘さだけでも)ずっと体に悪そうな感じがするし、不味い(注;個人の感じ方です。、そう感じない方もいるかも知れません。自分の感じ方を他人に強要するつもりはありません)。息子は今のところ、味覚がまあまあなので、ファストフードのコーラとハンバーガーで飲食が済んだと思うような人間には育てたくない、と私は勝手に思っている。ALL-FREEは完全にノンアルコールなのだから、誰が飲んでもいいではないか。

 この過剰な規制(だと私は思う)は、いったい誰が決めたものなのだろうか? 警察や財務省のような監督当局の指導なのか、自治体のお節介なのか、或いは、コンビニエンス・ストアかメーカーの「自主規制」なのか。

 しかし、監督当局が、法律では酒でないものの売り方を自分達の責任で規制することは想像しにくい。販売店が世間の批判の可能性を恐れて自主規制しているのだろうか。

 あるいは、販売店やメーカーの立場からすると、販売対象は広くしたいはずだが、一方で、それで「ゼロ・ビール」を酒類のコーナーではなく、ソフトドリンクのコーナーに並べなければならないならツマラナイ(≒売れにくい)という判断があるのだろうか。

 何れにせよ、レジで感じた規制のムードは「後味」がよろしくなかった。
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振興銀行に関する竹中平蔵氏の「道義的責任」とは何か

 日本振興銀行の破綻処理が決定した。これを受けて、自見金融担当大臣は「竹中(平蔵)氏の政治家としての道義的責任は免れない」といい、一方、大塚金融副大臣は「振興銀行の設立について法的に疑問に思って調べてみたが、違法行為は見つからなかった」と話した(私は数時間前にTBSのニュースサイトで見た。言葉の引用は正確でないかも知れない)。

 「道義的責任」とは何であろうか。どう果たせばいい責任なのか。振興銀行の件に関して、竹中氏に責任はあるのか。あるとすれば、どんな責任なのだろうか。

 竹中氏は振興銀行設立の認可を与えた際の金融担当大臣だった。日本振興銀行は、異例に早く(確か申請から8カ月で)設立認可を得た。このプロセスに、竹中平蔵氏が木村剛氏と当時親しかったことが関係していたとしたら、確かに問題だろう。もっとも、それは単なる依怙贔屓程度の問題なのか、プロセスが不適切であったことに対して何らかの賠償責任等が発生するような性質の不正なのかは、現段階で分からない。大塚副大臣は、この点を調べたのかも知れない。

 日本振興銀行の認可自体が適切だったかどうかは、難しいところだ。「ミドルリスク・ミドルリターン」と木村剛氏が称した振興銀行のビジネスモデルが、上手く行きにくい心配なものであったことは、設立当初から言えた。誰が、どうやって与信判断をするのか、それが日本振興銀行に出来るのか、という点が当時からスッキリ安心だった訳ではない。但し、多くの人が、あれではダメだ、と断言できるだけの材料を設立時に持っていたわけではない。あれで上手く行くなら、既存の銀行は立つ瀬がないが、当時、「そうなのだ。でも、それでも上手く行くところがビジネスの面白いところだ」と木村氏は自信満々だった。

 当時の私個人について言えば、「難しいだろうなあ」と一方で考えながらも、「でも、木村剛は何とかする方法を思いついているのかも知れない」、「まあ、お手並み拝見だな」と思っていた。(お気楽すぎだ、と言われれば、その通り!)

 公的な性格が強いので銀行の場合些か微妙だが、潰れるかも知れないから会社を作っては絶対にダメ、ということでもあるまい。現実に、振興銀行は救済されなかった。

 但し、預金保険付でお金を集めるとお金は集まるはずだし(約6千億円も預金が集まった)、これを極めて疑わしいビジネス・モデルによる運用に晒すのだから、振興銀行に関しては、国が悪徳商法の勧誘に引っ掛かってしまったような面はある。振興銀行のせいで、預金保険がかなりの損をすることは間違いない。

 この問題は、別の場所でも書いてみようかと思うが、当時の竹中氏に判断の失敗があったことはどうやら確実に思える(判断の失敗はない、という議論は立てにくい)。しかし、それが現在の竹中氏に「責任」としてどう関わるのかは、私には分からない。特に、法的責任が何もない場合に、竹中氏に発生すると(誰かないし世間が)考える「道義的責任」なるものがどのような性質のものなのかは知りたいところだ。

 判断の失敗はたぶんあったのではないか。現実に預金保険は損をする。竹中氏は、渦中の人物である木村氏をよく知っている。しかも、日本振興銀行は破綻が決まったので、同行の「風評リスク」の問題はほぼない。こうしたことを考えると、竹中氏は、振興銀行の問題にコメントしてもいいのではないかと思うが、現時点では、この件の取材には一切答えておられないようだ。
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AIGのトレーダーの高額ボーナスへの反対は正義か?

 サンデルの「正義」の本をバラしてスキャンして、iPADで少しずつ読んでいる。AIGのトレーダーが高額のボーナスを受け取ることに対する米国世間の反発について、サンデルは、「失敗に報酬を与えるから」だと反発を指摘しているが、これはたぶん正しくない。かなり雑な議論ではないか。

 大失敗した会社から高額のボーナスを貰うトレーダーは、たぶんその個人としては儲けたトレーダーか移籍初年でギャランティー・ボーナスを貰うトレーダーだろう。前者は明らかに失敗者ではないし、後者についても「失敗した」人がいるとすると会社の没落前に多額の移籍金で人を採用したAIGのマネージャーであって、そのトレーダーではない(たぶん)。そのトレーダーは、初年に保証されたボーナスをあてにして、前職のボーナスを放棄して転職してきた人物かも知れない。

 それでも、AIGのトレーダーの何十人かに、高額のボーナスを払うことに対して米国の世間が納得できなかった原因は、たぶんトレーダーの高額な報酬に対する嫉妬があったからではないか。通常、嫉妬は正義のカテゴリーに入る概念ではない。

 会社の業績がトータルでマイナス1000でも、あるトレーダーがプラス100を稼いだなら、彼(彼女)がプラス100に相応の報酬を受け取ることはたぶんフェアだ。最下位のプロ野球チームであっても、首位打者はそれなりの年俸を取っていい。当時のアメリカの大衆は、高額報酬への嫉妬と思慮の浅い処罰意識から、この比較的分かりやすい理屈を無視したのではなかろうか。

 彼(彼女)のボーナスを否定するには、会社員(トレーダーも会社員だ)は会社の結果に対して共同責任を負うべきだという、些か無理な前提を証明しなければならない。多くのトレーダーは、高給とはいえ、役員でも株主でもない。会社の浮沈の連帯責任を負え、というのは無理だ。いつでもクビになり得る使用人なのだ。

 マイケル・ジョーダンでもタイガー・ウッズでもない、他の人にもできそうなことをしている金融トレーダーが巨額の報酬を貰うことに違和感を持つ人がいるのは分かる。「たいしたこと」をしているわけでは無さそうだ、とは、私もそう思わぬではない。彼らは、あまりに有利な条件を手にしていた。

 しかし、彼(彼女)の報酬に異議を唱えるなら、資本主義社会に生きる者のたしなみとしては、自分も金融市場なり人材市場なりに参加して、「他人のリスクを使って、成功したら大きな報酬」という彼(彼女)が持っている有利なオプション(ないしその価値)を、競争によって奪い取るべきだろう。
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