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リフレ派を批判した山崎元氏のその後

田中秀臣氏の「ノーガード経済論戦」というブログを読んでいたら、野口旭氏の新著「エコノミストたちの歪んだ水晶玉」に関する記事があって、この本には『声の出るゴキブリ』とリフレ派を批判した山崎元氏のその後」が出ているという記述があった。自分のこととあっては、なかなか興味深い。早速、書店に行って、その本を買ってみた。

尚、私が、野口旭氏にお会いしたのは、TV出演の際に一度だけであり、喧嘩したことがあるわけではないし、同氏に対して何ら悪感情は持っていない。また、田中秀臣氏とは残念ながらお会いしたことがないが、氏のご著書を編集した編集者(現在私の本を編集中)が「尊敬している」と言うので、一度お会いしてみたいものだと思っている。

該当ページを探すのに苦労したが、76ページから77ページにかけて、私がJMMに書いた記事の引用が二つある。

最初の引用はJMMの2005年7月11日号のもので、村上龍さんの「国民がもっとお金を使うようになると、日本経済は復活するのでしょうか」という問に対するものだという。

途中を省略して書くと次のようなことが書かれている。
「GDP統計で見た経済活動が活発化することを日本経済の復活と考えると、国民がもっとお金を使うこと、すなわち消費が拡大することは、日本経済の復活に直結するといっていいでしょう。・・・・・(失業率が高いことなどから生産要素の完全利用でないという現状認識)・・・・。つまり、経済活動の活発化を制約する要因は、供給よりも、需要の側にあるということなので、需要が増えることが『日本経済の復活』につながるという認識は間違いないと思います」

これに対して、野口氏は「つまり山崎氏は、リフレ派と同様に、これまでの低成長がサプライサイドの構造問題ではなくて総需要の不足によるものであり、その高失業率は構造的失業ではなく需要不足による失業であると認識しているのである」と述べて、「かつては」として、次の引用に続く。JMMの1999年9月20日号のものらしい。

「インフレ期待、ISバランス、需給ギャップ等々といったいい加減なマクロ概念だけで現実の経済に介入する意見をいおうとする『マクロ馬鹿』は”声の出るゴキブリ”のようなものであり、駆逐されるべきである」が引用されている。

続いて野口氏は、「と述べていた山崎氏の政策的立場が、リフレ派と根本的に相容れない物であったことは明白である。その山崎氏が、リフレ派と基本的に同様の診断を行っているという事実は、結局はリフレ派の見方がより真実に近かったことを裏付けるものであろう」

文章の綾とはいえ、私の「診断」がリフレ派の正しさの「裏付け」になるとは、過分の取り扱いとも言え、恐縮である。尚、野口氏のご見解及び「リフレ派」の考え方に対する、私の意見は、せっかく本を買ったことでもあり、この本を読んでから、別の機会にまた書くとして、「山崎元の認識」について、幾つか補足説明しておきたい。(意見を正確に伝える、というのは、なかなか難しい作業だと改めて思う)

① 国民がもっとお金を使う、つまり需要が増えると、GDPが増える、というのは設備・労働に関する制約がない限り、殆ど自明の事だ。Yes/Noの質問であれば、ハイエクに訊いても、マルクスに訊いても、これはYesとしか答えようがないと思う。ある意味では質問が悪いのだが、JMMでは、質問をきっかけとして、回答者が気を利かせて意味のあることを考えることになっている。質問としては、本来、「国民にもっとお金を使わせる方法はあるか?」とか「「・・・ということなら政府がお金を使うべきなのか?」といったものであれば、もっと論じやすかったのだろうと思う。

② 「失われた10年」以来の不況が、需要の不足を伴っていたという認識は正しいと、私は、かつても今もそう思う(この点は、たぶん、「リフレ派」と同じだろう)。だから、たとえば、日銀がベースマネーを供給しても、前向きの資金需要が乏しくて銀行貸し出しが伸びないのだから、マネーサプライが増えず、量的緩和によって、ただちにインフレを起こすことが出来なかったのだろう。尚、実験のしようがないから、単に私の印象論に過ぎないが、日銀が当時「物価上昇率0%以上を目指す」ではなくて、「2%インフレを目指す」と言っていたとしても、需要不足から銀行貸し出しが伸びない状況に大きな変化はなかっただろうと考えている。

③ 「供給に対して、需要が不足している」ということは、論理的に「供給サイドには問題がない」ということを常に意味する訳ではない。特別な意味を込めて「構造的な」と言いたい気持ちは私にはないが、企業も政府も、相当に非能率的だったと認識していたし、今でも多々問題はある(特に政府に)と思う。その後、企業(供給側)の改善が設備投資という需要をもたらして、景気を後押ししているように、供給側も景気に関係がある。但し、不況そのものは表面に表れる現象としてほぼ常に「需要不足」の形態を取るし、そこで何らかの需要追加があればGDPに対しては即効性があることは否定しない。

④ 経済の状況認識には大きな違いがないとしても、たぶん「リフレ派」の主張と、私の意見が大きく異なるのは、私は「総需要不足であっても、(お金の使い方にもよるが、概ね)政府が不足を埋めるべきではない」と考えている点だろう。総需要拡張的な政府の活動は、第一にこれがアンフェアな富の移転を大きく伴いやすいことと、第二に資源の有効な使用になっていない公算が大きいこと(たとえば何兆円もの有効かつ効率的な「投資」を毎年考える才覚が官僚にあるとは思えない)、の二点に問題がある。リフレ派が重視する「失業(の解消)」と、私が気にする「所有権のフェアネス、投資の効率性」の間にはトレードオフがあり、これをどう考えるかが問題である。(この点については、私自身も、経済倫理的な認識をもっと深めて、且つ整理した議論を行うべきだと考えている)

⑤ 私がマクロの見地から政府が需要を追加すべきだという意見(たぶん「リフレ派」の意見)に対して批判的なのは、これが、何にカネを使うのかという「何に」と、誰が損をして誰が得をする形で需要追加(或いは期待実質金利の大きな操作)を行うのかという「誰」と「損得」の問題に対して、無関心ないしは、あまりに楽観的に思えるからだ。結果として、「政府による総需要追加」という処方箋が、政府の非効率性や、政府と癒着した業者の儲けと業界を将来生活の糧に利用する公務員の存在などに加担しているのではないか、と思うのだ。冗談の通じにくそうな人達なので、リフレ派を敢えて再びゴキブリ呼ばわりする積もりはないのだが、マクロの集計量よりも「何に」お金、ひいては資源が使われて、「誰が」得をし、損をしているか、という「フェアネス」の問題に対してもう少し触覚ならぬアンテナを働かせるべきではないのだろうか。私も、もっと勉強が必要だが、「リフレ派」ともし議論をするとすれば、経済倫理の問題について論じてみたい。たぶんこの点を放置して、経済政策を論じても無駄である。

⑥ 現在の一応の景気回復状態は、政府の総需要追加政策によるものではなく、主として、(当初は主に)幸運な外需の拡大と、(最近は主に)民間企業の自発的努力によるものだと思う。また、需要と供給のバランスが取れてきたことと、貸し手・借り手共に体力が改善したことが、金融環境の改善につながり、物価上昇率のデフレ脱却につながってきた(今後は分からないが・・)。つまり、景気回復は民間によるものであって、政府・日銀のリフレ政策によるものではない、と思っている。

⑦ 先の該当ページで論じられている訳ではないが、野口氏は「清算主義」(詳しくは氏のご著書をご参照下さい)について詳しく論じて、批判している。私の意見は、清算主義的と取られることがしばしばあるが、私は、たとえば、銀行や重債務企業を、「助けるな!」と言っているのであって、「潰せ!」と言っているのではない(同時に、実体を隠すことを許すなとも言っているが)。これが清算主義に該当するのかどうかのご判断は読者にお任せする。尚、自主廃業時に山一證券に勤めていた者の感想としては、山一の「清算」は(私にとっては大変だったが)経済倫理上も、資源(特に人的資源)の社会的な利用効率の上でも、正しかったと思っている。



物を書いたり、公の場で話したりする機会があれば、何らかのリアクションがあってもおかしくない。とはいえ、自分の書いた物が他人の議論の対象になることがあという事実には、身の引き締まる思いがする。私も間違うことがあるし、批判は歓迎なのだが、それ以前に、自分の意図を正確に伝えることの難しさ・厳しさということに思い至る。

それにしても、野口旭先生は、1999年のJMMまでお持ちとは、物持ちがいい。私は、これまでに自分が書いたものですら、すっかり散逸しており、「ゴキブリ云々」も他人に指摘されてやっと思い出す始末だ。リフレ派の学説と共に、文書管理の態度も、野口先生に学んだ方が良さそうだ。

(尚、この記事は、田中秀臣氏の該当記事にトラックバックさせていただいています。充実した内容のブログなので、今後も読ませていただこうと思っています。もちろん、田中先生及び田中先生のブログの読者の、当ブログへのご来訪は歓迎いたします。コメントもあるので、どうぞ)
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