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「レスラー」を観て仕事の意義を考えた

 映画「レスラー」(監督ダーレン・アロノフスキー、主演ミッキー・ローク)を観た。映画を観るのにいちいちきっかけが必要な訳ではないが、先般のプロレスラー三沢光晴氏の事故死が心に引っ掛かっていたことは否めない。私は現在のプロレスのファンではないが、三沢選手の死は何とも残念だった。
 三沢選手の死については、その後も波紋を呼んでいて、プロレスラーの安全対策などが検討されている。この件について一言だけ言って置きたいのは、三沢選手に技(バック・ドロップ)を掛けた相手には一分の責任もないということだ。このことだけは、分かってやって欲しい。
 プロレスの技は、掛ける側・掛けられる側の相互の信頼と了解に基づいて行われるものであって、本当に相手を痛めつけることを目的に仕掛けられるものではない。三沢選手は受けの達人であった。バックドロップは、大きな技だが、近年ではありふれた技だ。三沢選手なら、過去に数百回以上受けているのではないか。相手選手に責任は全くない。相手選手は、後悔を感じているだろうし、精神的にショックを受けているかも知れない。彼を責めてはいけないし、まして捜査やヒアリングの対象になどして欲しくはない。今、生きている人たちこそが大切だ。

 プロレスラー同士が、お互いの身体をいたわり合い、仲間として尊重し合いながら、肉体的に厳しい仕事をしていることは、映画「レスラー」でも丁寧に描かれている(以下の拙文には「ネタバレ」の要素がありますが、映画は、これ以外には展開のしようのないストーリーなので、これから観るに人もたぶん大きな問題はないでしょう)。
 映画としての「レスラー」は素晴らしかった。特に、中年レスラーの身体と動きをリアルに作り上げたミッキー・ロークの役作りと、シーンの無駄が一切無い引き締まった脚本の二点に感心した。
 盛りを過ぎた中年プロレスラーの肉体を迫力も汚さも含めてそっくり作って隠さず見せたミッキー・ロークの執念には本当に感服した。あの身体を作るためには、当然、薬も使ったのだろう。単に「役作り」にとどまらない「薬造り」の肉体にちがいない。闘うシーンも本人で、それなりの形になっている。これは、命懸けの熱演だ。
 近年のハリウッド映画には、余計なサブ・ストーリーがあったり、意味もなく老人・子供・犬やファッションなどが登場したりして、しかも、画質を落とさずにDVDに録画できないようにということか、120分を超える内容の割に冗長なものが多いが、この映画には無駄なシーンが全くない。かといって、説明不足も一切無い。ラストもあの後に映像があると余計だ。
 時間があれば、もう一度観てみたい。

 さて、この「レスラー」だが、1980年代に全盛期を迎え、今やスーパー・マーケットでアルバイトをしながら辛うじてプロレスを続けてきた中年レスラーが、心臓発作を起こして倒れて、バイパス手術を受け、医者にプロレスを止められるが、全盛期の有名カードの再戦興行に命懸けで臨む、というストーリーだ。娘や恋人的女性が絡む場面もあるし、「ナインハーフ」的な「技」を披露するシーンもあるのだが、「プロレスに生きる男」が話の本筋だ。
 だが、この映画の最後のシーンを観ながら考えたのは、このランディ・ロビンソンという役名のレスラーにとって、自分の「仕事」がどれだけ大切なのかということだった。自分の仕事はレスラーであり、ファンのためにもリングに立って試合をするという決意は美しいが、この映画の設定では、彼は激しいプロレスの試合をして、しかも自分の大技を繰り出したりすると、命を落とすかも知れないのだ。
 それでも彼は再戦興行のリングに立ち、コーナー・ポストの最上段から飛ぶのだが、これは何故か。そして正しいのか、と考えると分からなくなってくる。
 彼にとって、自分が最も輝く場がプロレスだとして、これをやりたいことは分かる。しかし、スーパー・マーケットの惣菜売り場で、「元人気プロレスラー」として、命の危険なく、そして卑屈にもならずに生きることにも勇気が要る。それができれば、ある意味ではこれ以上ないくらいに立派で男らしい。
 でも、彼は、その境遇に耐えることが出来なかった。照れもあれば、刺激にも弱い、人間味のある人物だ。そして、必然的に昔のカードの「リマッチ」のリングに向かう。これは、プロレスラーとしての自分のアイデンティティに対して純粋で、仕事に対して情熱的な美しい行為なのか。あるいは、我慢の出来ない短慮の愚行なのか。

 最新号の「経済セミナー」(2009年、6・7月号)の巻頭に、玄田有史氏と湯浅誠氏の対談が載っている。
 この中で湯浅氏は「働くことと人格の強固すぎる結びつき」とその危険性を指摘されている。働いていない人間には価値がないのだと考える、第三者及び、それ以上に本人の先入観が問題なのだ。
 湯浅氏は「新自由主義が壊れてもこの問題は残ります。日本社会の岩盤に関わる問題で、本当の問題はここにあるのだろうと思います」と語っている。この指摘は鋭いし、正しいと思う。

 「レスラー」が、主題として、自分の「職」が人間にとってのアイデンティティとして大切であること描いた映画なのだと受け止めると、少し危ない。
 ストーリーを反芻しつつ考えてみると、主役のランディの場合、一つには他人との結びつきの場所として、もう一つには自分の存在を最大限にアピールできる場所として、プロレスが大切なのだ。彼はファンが大切だった。再戦のリングに上がって、ファン以外に自分を引退させる権利のある者はいないと述べてから、命懸けの試合を開始した。
 人間は、自分が見て欲しいと思う自分を基本的に同意して見てくれる他者を必要としており、それが「レスラー」のランディにはプロレス会場のファンだったということなので彼が職業を持っていることに拘っているわけではないが、この職業を失った時に精神に埋めがたい空白が出来るようにも見えるから、彼にはやはり危うさがある。
 ランディの場合は、その後に希望があるとしても、家族は全壊に近い崩壊状態だった。家族がいないことの空白感は大きかっただろう。
 ただ、一方で、一般論として、家族のため「だけ」がアイデンティティでもあるような人物というものは単純にツマラナイ。
 それにしても、ミッキー・ロークではなく、ランディというレスラーが実在しているように感じる。「レスラー」は実にいい映画だった。

 玄田・湯浅対談に話を戻すと、湯浅氏の「日本社会は働くことが人々のアイデンティティーになり過ぎている」という指摘は正しい。失業の際の喪失感が異様に大きいし、仕事を失うと自分を失ったように思うことが多いというのもその通りだろう。付け加えると、世間も、失業者・無業者に厳しい。こうした社会的な価値観は解毒する必要がある。
 働くことは大切なことかも知れないが、本人は好きで働いているのだから殊更に立派なことではないし、働かずに食えるなら、それはそれで大したものであって、他人がとやかく言うべきものではない。

 他方、湯浅氏は、生活保護と最低賃金について「最低賃金と生活保護基準を同じレベルの問題として考える必要がある」と仰っているが、これはもう一つピンと来ない。「失業しても生活できる人は、劣悪な非正規労働にはいかないはずだ」とも言っておられるが、これは「そんなもの」なのだろうか。
 生活保護がどうあるべきかにもよるが、低賃金の労働であっても生活保護に加えて追加的な収入が欲しいと思う人は働くインセンティブがあるだろう。生活保護が「働いて収入があれば、その分給付を減らす」というような働くインセンティブを失わせる構造になっているとすれば、先ずそこを修正する必要があるだろう。たとえば「負の所得税」(あるいはベーシック・インカム)的な働くインセンティブを損なわない所得再分配の仕組みが必要だ。
 賃金の水準はそれぞれのビジネスに於ける労働の需給から決まるべきものであって、生活保護で保証しようとする水準よりも高くても低くてもいい。働いているのに生活保護よりも低報酬では人間の尊厳が損なわれていると思うなら、それは、仕事が人間の存在意義だという悪しき社会的価値観に別の形で囚われてるように見える。
 契約の遵守は重要であり、この点で企業を甘やかす必要はないが、解雇をやりにくくしたり、最低賃金を上げたりというようなことを企業に強いると、労働者の機会がかえって狭まるように思われる。基本的に企業を闘争の対象にするのは間違いなのだ。同様の意味で、労働組合との連帯という戦略はいただけない。労働組合は、当面多少の影響力が有効に使えるとしても、根本的には無くても済むようにするべきものだろう。
 湯浅氏の主張をまだ十分読んだことがないので、彼の意見をここで批判するつもりはないが、この対談を読むと、彼は敵方に対するレッテルとして「新自由主義」という言葉を何度か使っている。自由な経済取引をむやみに敵視すると、かえって労働者のメリットが損なわれるのではないか。
 セーフティーネットは企業と関係なく、個人個人を対象として政府と社会が作るべきものだろう。

 最後にもう一度話を戻すと「あなたは自分の『仕事』以外にどんなアイデンティティがあるのか?」という問いはとても重い。しかし、このことを十分考えないと、いい人生もいい社会も作れないにちがいない。
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囲碁棋士・藤沢秀行氏に幸せの秘訣を探る

 囲碁棋士の藤沢秀行氏が今年の5月8日に亡くなった。享年83歳であった。「文藝春秋」7月号にご夫人の藤沢モトさんが「『無垢の人』藤沢秀行の最後を看取って」と題して、藤沢秀行さんの思いでの数々について語っておられる(注:たぶんライターが聞き書きしてまとめた原稿だと思う。申し訳ないが、ご本人が書いたのだとすると上手すぎる)。これがなかなか良いので、「文春」が手元にある方は、是非読んでみて欲しい。

 藤沢秀行さんは、囲碁の棋士として一流であり、実力制のタイトル戦になってからの初代名人や同じく初代の棋聖であり、特に、この棋聖戦(当時賞金額が最高のタイトル戦だった)では6連覇を遂げた。また、藤沢氏の書は独特であり且つ非常に高く評価されている。これだけなら普通の一流棋士が惜しまれて亡くなったという話なのだが、彼は何ともエピソードの多い大変な人物だった。
 簡単に思い浮かぶだけでも、酒乱であった時期が長く(注;棋聖戦の前は酒抜きが大変だったらしい)酒の失敗が数多く、三度のガンを克服し、競輪を中心にギャンブルにはまり、多額の借金を作り、事業にも手を出して何度か失敗し、ご夫人以外の女性二人とそれぞれに二人ずつの子供を作り、暴言(高齢の女流棋士達に向かって「腐ったオ○○○ばっかりだ」と叫んだ)で処分されそうになったり、独自に免状を発行して日本棋院を一時除名されたりと傍若無人を絵に描いたような人だった。「ひどい!」と思われる読者もおられよう。

 しかし、ご本人が自分の人生をどう目算していたのかは知るよしもないが、彼の人生は全体として「非常に幸せ」であったように見える。
 藤沢モトさんによると最後の病室は以下のような状況だった。

「今回、病室には『外』の子もやってきました。『外』の子と言っても、私の作ったご飯を食べたり一緒に旅行したことがある子がほとんどです。一人だけあまり話す機会がなかった子もいましたが、心根のいいことはすぐにわかりました。
 秀行の病床の傍ら、母の違う子供達が集って過ごした時間は穏やかなものでした」
(「文藝春秋」7月号291ページ)

 これはなかなか達成できる状況ではない。たとえば、田中角栄元首相の愛人が書いた手記を読むと、角栄さんが「母の違う子供達」が仲良くしてくれることをいかに強く望んだかが分かるが、あの日本を動かした角さんといえども、これはかなわぬ夢だった。

 モトさんの手記にも詳しいが、藤沢秀行氏は、自分の弟子もそれ以外も含めて常に数十人の棋士(プロ・アマ、国籍を問わず)を自宅に招いたり合宿を行ったりして熱心に指導し続けてきた。
 強くしたいと思う少年がいれば、歩行が満足でなくなってからも自ら囲碁教室に足を運んで、どのくらい強くなったかを見に行かねば気が済まないような熱心さであった。現在本因坊戦を戦っている高尾紳路九段など指導を受けた棋士は数多い。
 ちなみに、藤沢秀行氏の最後の言葉は、病室で高尾九段に何か言おうとしたものの上手く伝わらなくて口から出た「バカ!」という言葉だったという。生涯を通じて誰彼構わず「バカ!」と言い続けた藤沢秀行氏らしい。
 この様子は、高尾紳路九段の「高尾のブログ」に載っている。ちなみに「高尾のブログ」は終わったばかりの対局も含めて、高尾九段が自分の打碁を率直に解説してくれる、囲碁・将棋ジャンルで最高峰のと言っていい素晴らしいブログだ。

 藤沢秀行氏は、何十年にもわたって韓国・中国の棋士にも熱心な指導を行った。近年、囲碁の国際戦では日本人がなかなか優勝できなくなったのだが、これは藤沢氏の指導のせいでもあると批判する人もいるのだが、藤沢氏は「ケツの穴が小せえやつだ」と言ってとりあわなかった。対象が囲碁となると、単に熱心なだけでなく、全く公平無私で純粋な人だった。

 葬儀で息子さんが述べた言葉によると「自分の面倒は見られないのに、人の面倒をたくさん見て、世話をしてきた」人生であったという。
 人に感謝されることほど幸せなことはないし、加えて、自分のことを心配しなかったのだから、藤沢秀行氏ご本人も幸せだと感じていたに違いないと思うのだ。

 ●

 前置きが長くなったが、本題はこれからだ。囲碁棋士として天賦の才を持っていた藤沢秀行氏のような人ではない凡人でも、彼のように幸せになることはできるだろうか。これこそが、考える価値のあるテーマだろう。

 藤沢秀行氏が「幸せ」であっただろうと思う理由を列挙すると、
(1)碁という全力で熱中できる対象があった、
(2)他人を世話(主に囲碁の指導)することが楽しかった、
(3)広い意味の「弟子」が多数居て彼らに囲まれ感謝されていた、
(4)異性(女性)にもてた、
(5)友人・知人が多かった、
(6)理解のあるパートナー(妻)に恵まれた、
(7)経済的には(ぎりぎり)破綻を免れた、
(8)どこでも、先生、あるいは一角の人物として遇された、
(9)からだが丈夫だった(三度ガンを克服したし「食い力」があった)、
(10)本人が明るい性格だった、
といった点だろうか。
 これらは、何れも表面的なものである。幾つかの項目は別の項目の副産物だ。たとえば、何かに熱中しているような変わり者で、明るくて、エッチなら女性にはもてるだろうし、友人も増えるだろう(モトさんの手記には「ずいぶん女性にはもてたようです」とサラリと書かれている)。
 本質的なのはたぶん、(1)(2)(6)(9)の四つだろう。明るい性格も大切だが、健康ならたいてい明るい性格だ。或いは、明るい性格は健康の一部だ、と言う方が適切か。

 つまり、健康で、理解のある妻(夫)を持ち、何かに徹底的に熱心で、他人の世話に全力を尽くすなら、幸せになれるということではないか。
 囲碁に限らず何かの突出した天才であるということは、必ずしも必要条件ではないようだ。これなら、凡人でも少々運が良ければ(健康+良いパートナー)、最高に幸せな男(女)になれる。対象が碁のようなものでなくとも、また、他人と比較してトップ・レベルではなくても、それに熱中することができて、その成果を惜しみなく他人に与え続けたなら、藤沢秀行氏的な幸せ者になることが出来るのではないか。
 経済については、「何とかなる」と言い切って見たい気もするし、他方、そうではない現実もあるか。お金の心配をしないことが大切なのだろうが、それで困ることがあるかも知れない。この不安がたとえばベーシック・インカムのような制度で社会的に解消できるといいのだが、当面、社会には頼れそうにない。細かなことを気にしない強い心と、何とかして食っていく馬力がさらに必要か。

 藤沢秀行氏的な幸せの世界で一つ心配なのは、碁に熱中できたことの背景に、ある種の依存症的な傾向性があったのではないかということだ。
 氏は酒やギャンブルを覚えて、それにのめり込んでいる。どちらについても「依存症」と言って差し支えないレベルだったのではないか。幸い、囲碁は彼にとってのめり込んで差し支えのない対象だったし、最も大切な対象でもあった。この点、彼は幸運だったのかも知れないが、些か危うい面があった。
 敢えて似た人を探すと、酒におぼれ、ドラッグにもはまり、女性関係がだらしなかったけれども、ギターとだけは上手く付き合うことが出来たエリック・クラプトンと藤沢秀行氏は似ているような気がする。
 やはり、幸せと不幸せは紙一重の差なのかも知れない。

 尚、藤沢秀行氏の命日5月8日は、たまたま私の誕生日だ。来年から、誕生日のたびに、藤沢氏を思い出しつつ、供養の代わりに、詰め碁の一題も解くことにしようと思う。
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同窓会にふさわしい話題は何か?

 今週末に、高校の同窓会がある。私が卒業した高校(札幌南高校)は北海道にあるが、地元札幌の他に、東京にも同窓会組織があるようだ。確かに、東京に出稼ぎ(?)に来ている卒業生が多い。会場が拙宅の近くであることもあり二次会(飲み会)だけでなく一次会から出席するが、主目的は同年次近辺の知り合いの最近の顔を見たいということだ。選挙に出る予定があるわけでもないし、生命保険のセールスをしているわけでもないので、人脈開拓のために行くわけではない。旧友と会うのが楽しみなだけなので、卒業年次単位で行われる二次会が「本番」である。

 先日、友人とお酒を飲みながら、同窓会(以下、本番である飲み会を指す)に不適当な話題は何かという話になった。

 私は、病気の話題を挙げた。病気の話は、辛気くさくて場が暗くなりがちだし、本人は熱心に話すので、その話題が他人にとってはツマラナイのに長引くことが多い。また、同窓会(同期会、クラス会を含む)では、同窓生の老い具合・弱り具合を見て、自分と較べて安心するといった安らぎを求める層が存在するので、雰囲気的に、「みんな、年は取るね」「これからは、何があってもおかしくないね」といった方向に対して同意を強要されることがある。

 自分の加齢や体力的な衰えは現実だし、そう気にならないのだが、病気の話は聞いて疲れるし、「みな同じように、老いる」という事実に何の面白味があるわけでもない。また、他人の血糖値だの前立腺の状態だのに対して、話題にすべき興味を感じるわけでもない。こうした話題に長時間付き合うと、何やら悪い影響を受けたような気になる。特に、私の場合、純粋サラリーマンの友人たちよりも長く働こうと思っているので、嬉しくない影響だということもある(陰気な話が嫌い、というのが一番の理由だが)。

 しかし、傾向として、集まって話をする人間の年齢が上がってくると、病気の話題(健康だという話や健康法の話も含めて)は確実に増える。同窓会に限らず、これは強力な法則で、嫌になるくらい現実に当てはまる。

 友人の一人は、不適当な話題として、子供の話題を挙げた。子供のいない参加者にとってツマラナイし、それ以上に、子供の問題は進学の状況なども絡んで優劣が付きやすいので、飲み会の話題に不適当なのだという。確かに、一流の学校にスイスイと進学する子供を持っている親もいれば、子供の進学が深刻な問題になっている親もいる。特に、自慢話をするのには不適当だろう。

 同様に、仕事の話も本人の世間的な出世具合の優劣が絡むので、適当とは言いにくい。私の年齢(昭和33年生まれ。5月に51歳になった)では、サラリーマンの場合、大体先が見えていることが多いし、もちろん個人差が大きい。特に、大学の同期の集まりのような場では、スタートラインが近い分だけ「差」が深刻だ。威張っている奴はからかってもいいので大きな害はないが、出世し損なった友人の愚痴や虚勢などを聞きすぎるとネガティブな影響を受けることがある。

 病気・子供・仕事(出世も含む)は何れも「自分の話題」として展開される。同窓生同士だから、相手の個人的な状況にも興味はあるのだが、どの程度自分の話題で引っ張っていいかは程度問題だ。10人で一時間話す間に、一人が50分間自分の病気や仕事の話をしているというのは、迷惑な場合が多かろう。「自分の話」がどれくらいの割合を占めているか、というバランス感覚は必要だ。

 それでは、世間話ならいいかというと、これも簡単ではない。宗教や政治の話がパーティーの話題にふさわしくないとはよく言われることだが、確かにそうだと思う。先日も、ある集まりで久しぶりに会った友人数人と世間話をしていたら、その中に、政治に熱心な宗教団体の会員さんがいて、「総選挙はいいけど、都議選だけはよろしく頼む」などと言われてしまった。

 食欲・性欲は一般的な欲求なので話題にし易いかとも思うが、何が美味しいという話題も、性的な話題も、ある程度以上の年寄り同士で話すと、注意していないと、健康の話にすり替わってしまう。

 会話の参加者が興味を持って話せて、陰気にならず、自慢話にならず、自分にしか関わらない話題ではなく、主義主張の対立を招かない話題というのは、考えてみると難しい。皆が興味を持つ世間話があるといいが、日頃から話題の仕入れに気を配る必要がある。

 そういえば、映画「グラントリノ」でクリント・イーストウッドが扮する老人が、隣人のモン族の青年に、「大人の男の会話」を教える場面があったが、話題選びの指針は「そこに居ない奴の悪口を言うんだ」(誇張を交えて、冗談として話す)であった。これは、有力な選択肢だが、同窓会の場合、毒の入れ具合と抜き具合の加減が難しいかも知れない。

 同窓会まではまだ日があるので、話題を考える時間はあるが、結局、「あいつはいまどうしているの?」という話題を次々に話して、やりとりがなるべく陰気にならないようにする、というくらいが落とし所なのだろう。
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