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原田芳雄さんの粋の構造

 先般亡くなった原田芳雄さんの遺作である「大鹿村騒動記」を観てきた。大変出来のいい映画だと思った。
 第一に、脚本が良く、クライマックスの大鹿村の歌舞伎で原田芳雄さんが扮する景清が発する台詞「仇も、恨みも、これまで、これまで~ぇ」に流れるように無駄なく運ばれていく。
 第二に、役者が良く、大根役者無しで撮る映画とは、こんなにいいものかと認識した。
 概ね、上記のような感想をfacebookに書いたところ、同作品のパンフレットを作った大谷隆之さんというライターさんから次のようなコメントを貰った。

「本作に登場する大鹿歌舞伎(地芝居)の演目「六千両後日文章重忠館の段」は、平家の荒武者・景清のその後を描いた後日談。いわば“敗残のヒーロー”が大暴れする一大スペクタクル劇です。今年3月、原田さんにお話をうかがった際、景清を演じる魅力について「芸能ってのは本来、敗者のためのもの。勝者の側がつくる芸術なんてロクなもんじゃないんだ」という趣旨の話をしていただいたことが忘れられません」

 原田芳雄さんが、「敗者の芸術」に対してこれほど明確な意見をお持ちだったことは初めて知った。しかし、確かに、過去の出演作を思い起こすと、原田さんからは、「何かが思うに任せない男」の気配が立ち上る。
 これはどういうことなのかと考えると、九鬼周造の「『いき』の構造」に思い至った。
 九鬼は、粋とは、媚態であり、同時に、意気地であり、諦めを伴う、つまり、理想化されていて現実には達成されない媚態だと説明している。
 原田芳雄さんは、何とも男臭いむせかえるようなフェロモンをお持ちの方だった(男のセクシーも媚態の一種と分類するなら、天然の濃い媚態をお持ちの方だった)。彼は、そのような自分を「思うままにならない男」の位置に置くことによって、単なるセクシーではなく、粋な色気を身にまとうことが出来ることを感性的に把握していたのではないか。
 その実感を芸術論として語ると、「敗者の美学」に至るということではなかろうか。
 たぶん、原田芳雄さんは、あっけらかんと勝者の立場で作ったハリウッド映画などは、人間が平板で凡そイケていない「商業プロジェクト」に過ぎない、と思っておられたのではないだろうか。
 それにしても、惜しい役者さんが亡くなった。残念、というしかない。
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