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【ダイヤモンド・オンライン】「ノマド」について私も一言いたい

 今週のダイヤモンド・オンラインには、「『ノマド』について私も一言いたい」という記事を書いてみました。(http://diamond.jp/articles/-/24270)
 仕事の場所が自由なノマドを「ノマド1.0」、場所だけではなく組織に縛られずに仕事をするノマドを「ノマド2.0」と分類した上で、あれこれ考えてみました。

 大きなテーマはノマド2.0の評価ですが、今後も多くの仕事で「会社」という形での人材の囲い込みによる生産性の向上は圧倒的でしょうが、この中で敢えてノマド2.0を選択する人に対しては、「彼らは好きで「ノマド2.0」をやっているのだから、べつに褒めてやる義理はないが、それ以上に、彼らのライフスタイルにケチを付けるのは心ない(大人げない)業というべきだろう」ということと、「全ての人に対してではないとしても、この際に企業から「出る」人の受け皿として、「ノマド2.0」のような働き方がよりやりやすくなる社会は好ましいのではないか。社会保障制度や税制も変える必要があるが、その価値はある」という辺りが私のノマド2.0に関する結論です。働き方の選択肢が豊富になるのは結構なことです。せっかく分類を厳密にして議論しておいて、曖昧に総括するのは妙ですが、私は総じてノマドに好意的です。

 また、個人にとっては、会社勤めかノマド2.0かの二択ではなく、会社にも勤めるし、ノマド的な仕事もする、という中間点が最適点になる可能性が大きいのではないかとも考えました。目下の私のワーキング・スタイルが、こんな感じです。稼ぎの能率がいいとはいえませんが、いろいろなことが出来ますし、少しはリスク分散にもなっています。
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河本「おかん」の生活保護問題における「程度の問題」

 お笑いコンビ次長・課長の河本準一氏の「おかん」が生活保護を受給していたことが話題になっている。扶養義務者である息子の河本氏に十分な収入があるのに、彼の母親が生活保護を受給していたことは不適当ではないか、という問題だ。
 あるところに書いた原稿で、この問題について三点述べた。
(1)生活保護の不正受給は悪い、
(2)しかし、国会議員の一部がことさら河本氏を取り上げて問題にしていることには違和感がある、
(3)生活保護の制度には大いに問題があり年金制度と一体で見直す必要がある、の三点だ。三点目については、具体案としてベーシック・インカムに触れた。

 すると、議論としてむしろ傍流の話なのだが(2)について、意外に多くの反応が、賛否両方から集まった(ツイッター等への反応もあれば、テレビ番組からのコメント取材もあった)。

 (2)について、私が言いたかったのは、以下のようなことだ。
・ 河本・母が不正受給していたのなら、それは悪い。返納等、然るべき対応が必要だ。
・ しかし、「河本氏は公人なのだから、説明責任を果たせ」と言って、いつまでも河本氏を引っ張り出そうとする国会議員のやり口は、些か「やり過ぎ」ではないか。
・ 河本・母の問題については、経緯と解決の方向が確認できれば、国会議員には十分ではないか。
・ 「やり過ぎ」だと思う理由は、以下の通りだ。
・ 受給としては認められていたので現段階ではっきり違法とまで言い切れず、また金額についてもそれほどの多額ではない(伝えられる河本氏の年収の一年分にもならない)微妙で少額な河本・母の問題の追求によって、河本氏が受けると予想されるダメージが大変大きいこと。
・ 国会議員の仕事は人に「説明責任」を要求するメディアの仕事ではないこと(メディアが「説明責任」を強調するなら、彼らの仕事から考えて、気持ちは分かる。但し、やり過ぎがいけないのは、同様だ)。
・ 国会議員は不正受給者を処罰する立場の人でもないこと。
・ また、国会議員に期待されるのは、個別のケースの糾弾ではなく、生活保護制度の見直しに関する議論や具体案を出すことではないかということ。
・ 率直にいって、河本氏を追求している国会議員は、有名人である河本氏を引っ張り出そうとすることによって、彼(彼女)自身が目立とうとしているのではないか、という「あざとさ」を感じた。

 意外な賛成としては、国会議員(複数なのか、一人が問題なのかは確認していない)に対する批判・反発の声が多いので、このポイントについてコメントが欲しいという依頼があった。私としては、積極的に論じたいと思う重要度の問題ではないのだが、思うところを述べた(どう編集されたかは確認していない)。
 他方、ツイッターなどには、生活保護の不正受給は大問題であり、これを追求しようとしている議員を批判するのはとんでもない不見識だという意見が少なからず寄せられた。中には、私が不正受給は悪いといっていることがなかなか認識できない興奮した(そうでなければ「理解がご不自由な」)反応があったし、ネットでよくある単純な罵倒もあった。
 ちなみに、いわゆるSNSが嫌になってしまう人は、たぶん、こういうものを「まあ、賑わっているのだから、無反応よりはずっといいではないか」とやり過ごせないのだろう。対等の意見として受け止めると重いし、さりとて、「上から目線」で処理しようとすると墓穴を掘る。基本的人権への敬意と、人の感じ方に対する興味を持って、「横から眺めて」、反応する時には「怒らない」のがいいと思う。

 さて、批判側の意見についてあらためて考えると、議員さん達のやり方が、「程度の問題」として過剰であったか否かが問題なのであって、彼らが「間違っている」とは言いにくいことが分かる。
 確かに不正受給は悪いのだ(それは、私も、何度もそう書いている)。議員さん達が出来るだけ大きく取り上げることで、それがより広く世間に周知されることにプラス効果もあるだろう。
 そこで、河本氏個人をそれほど引っ張らなくてもいいのではないか、というのは「程度の問題」への判断であり、感じ方の問題でもある。
 前回取り上げた入れ墨の問題にも、「それはまずかろう」という立場と、「その程度に対しては寛容であっていいのではないか」という立場の「程度の問題」の側面がある。
 尚、河本・母の生活保護受給額が多額だったか否かについても、「程度の問題」に関する判断が絡む。数年、十数年といった年数までカウントすると、生活実感として必ずしも小さい金額ではないという意見にも頷けるし、他方、合法ではあっても、高級官僚の天下りや、悪いビジネスの儲けなど、河本・母よりも腹の立つケースは幾らでもある、と私は思う。
 また、制度としての生活保護には、多くの問題がある。時に国民年金よりも受給額が大きくなるような金額の問題もあるし、不正受給も勿論問題だが、それ以上に、本来生活保護支給を受けられる人が十分にカバーされていないことの問題もある。さらに、行政に於ける手間とコストと過大な裁量の問題があるし、「年金からこぼれた人」が生活保護に向かう年金との兼ね合いの問題もある。件の「おかん」と息子に一切問題が無いとはいわないが、論じるべき問題は、もっと別の問題ではないかと思う。これらも、「程度の問題」に関する判断だ。

 ちなみに、トラブルシューティングとしては、河本氏は、彼のビジネスを考えると、もっと早く盛大に謝ってしまう方が良かったのではないか。ただし、これは、私の感想であり、批判や、まして要求ではない。彼の所属事務所の広報は、本件に関して、対応が下手だったのではないだろうか。
 尚、私は、河本氏にお目に掛かったことはないし、彼のフルネームを今回の件で初めて知った。「次長・課長」というユニット名は名前として聞いたことがあっても、テレビ等で見かけたこともない。個人的な縁で彼に同情しているのではないし、よく読んで頂けると分かると思うが、彼を「擁護」しているのでもない。
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東電とNHKの兼職はまずい

東京電力の新しい経営陣の1人に、NHKの数土文夫経営委員長の起用が決まった。社外取締役になるという。既に、方々で指摘されていることだが、さすがに、これは拙いのではないか。そもそも、東電は、失われた信用を回復することが最優先であるべき会社だ。その東電が、メディアとの癒着を疑われるような人選をするのは阿呆というしかない。

もちろん任命した側にも問題はあるが、受けた側の見識もいかがなものなのか。

「好色男」なら、時には愛嬌があるが、見境無く役職に就きたがる「好職男」には困ったものだというしかない。
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「原発の今後に関する簡単な整理」

 今、何かについて発言する場合、「原発をどう考えるか」について自分の立場を明確にしないと十分な意見にならないことが多いように思います。
 以下は、原発に関する私の意見を簡単にまとめたものですが、フジテレビの【コンパス】という意見収集サイトの質問を基にしています。このサイトに回答しても、番組で取り上げられることは滅多になく、回答が徒労に終わることが多いのですが、質問に回答する作業は、自分の意見の整理に役立つことがあります。

 以下にコンパスへの回答に加筆修正したものを載せます。

★問1:
日本は今後、原子力発電と、どのように向き合うべきと考えますか?

1-<即時廃止>多少の電力不足も受容し、原発を停止させる
2-<段階的廃止>電力不足に配慮し、ゆるやかに原発を停止させる
3-<現状維持>安全管理の基準を見直し、可能なかぎり既存原発を活用
4-<増やす>より安全性の高い炉の導入などで、原子力発電に取り組む
5-そのほか(設問・選択肢以外の考え方、視点)

私の回答→ 2.

 この辺が妥当な意見ではないかと思っています。

 私は、原子力環境整備促進資金管理センターの最終処分積立金の資金運用の運用委員会の委員を務めています。ある意味では、原発の存在を肯定し原発に協力している面がありますが、原発は日本に既に存在し(日本の原子力発電は「トイレ無きマンション」などと呼ばれることもあります)、核廃棄物の処分は必要なのでこの処分費用の積立金運用に協力することと、上記の回答は矛盾していないというのが、自分なりの整理です。
 尚、この積立金の運用には、小さからぬ反省点があると感じています。この点については、別の機会に整理してご報告したいと思っています。

★問2:
問1の選択の理由、日本の原子力発電の今後の在り方、原子力発電を取り巻く
今の国内の議論について、ご意見をお聞かせください。

原発のリスクのマイナス面に注目すると、以下の点が指摘できます。

(1)原子力という技術そのものを安全か危険かと決めつけることは不毛です。実際にリスクとして認識しなければならないのは「原子力」そのものよりも、それを運営・管理する「人間」でしょう。基本的に、人間を完全に信じることができないことが、原子力そのもののリスクと混同されていることが、原子力問題を難しくしている根本原因でしょう。

(2)原子力のリスクを評価する上では、今回の「フクシマ」の事故のようなケースの「コスト」をどのように見積もるかという問題があります。
 評価に関しては、たった1ケースについても最低数十年の期間を必要とする現実があり、「科学的に」有効な結論を出すことには困難がありそうです。たぶん、上下に10倍以上の開きのあるコストを前提に賛成派と反対派とが議論をするので、議論は噛み合うことがありません。
 ツイッターなどを見ていると、原子力は経済的で事故の可能性を考えてもコストが安いという意見もあれば、原子力のコストは莫大だと決めつけた議論の両方があり、お互いに議論の前提が噛み合わないまま罵り合うことが多いように思います。

(3)現実的にいえるのは、姿が見えないし、悪影響が表れるまでに何十年も掛かる放射能に対する「心理的コスト」が非常に大きいということであるように思えます。原子力は自分の利害で判断すべき問題ではありませんが、私個人は、電気料金がもっと高くても(現在よりも五割高くても)、それで原子力発電なしで済むならまあいいのではないかと思っています。

(4)上記の(1)~(3)を綜合していえそうなことは、「できれば」、同じコストの下なら原発を使わずに済む方が、国民の満足度は明らかに高い、ということです。

 この段階で、もう一つ考慮すべきは「技術」の前提でしょう。

(5)現在の技術を将来も所与のものとして、発電のコストを考えてはいけないように思います。原発も、それ以外の発電も、開発と投資に資源を振り向けると、効率(安全性も含めて)を改善することができるのではないでしょうか。
 この点に関しては楽観的に過ぎるのかも知れませんが、将来の技術について確かなことが言えない中で、私個人としては、技術進歩の可能性に期待してもいいのではないかと思っているということです。

(6)また、節電(家庭レベルでは、白熱電球→LEDライト、エアコンや冷蔵庫の技術進歩など)技術の進歩や、蓄電、電力マネジメントの技術進歩は、発電力の増強と同様の効果を持ちます。

 すると、次のような期待を持つことが出来るのではないでしょうか。

(7)「原子力発電を段階的に廃止する」という大方針を明確にして、他の発電技術と節電技術に投資を行うなら、将来的、コスト的に見て原発の代替が可能になる可能性は小さく無い。

(8)付け加えると、上記のような、原発を不要とする発電技術の開発は、ビジネス的にも極めて大きな価値を持つことが予想できます。日本以外の国でも、この種の技術に対しては、大きなニーズがあるように思います。この技術開発への投資は投資それ自体として魅力的なものである可能性が(かなり)ありそうに思います。

 一方、現実問題として、次のような問題があります。

(9)技術の改善とその実現には時間が掛かります。現在稼働している原発を全て直ちに止めることのショックは大きい。従って、安全管理に現在以上に留意しながら、徐々に原発を減らしていくことが、現実的な選択になるように思います。

 最後に補足として。

(10) 原発廃止で電力コストが上がり、日本の競争力(←曖昧で使い物にならない概念です!)が損なわれるという議論がありますが、そもそも、石油もウランも輸入するような国がエネルギー集約的な製造業にウェイトを置くこと自体が非合理的です。
 あくまでも、個々の企業なり個人なりの意思決定の集積で決まることですが、電力コスト云々の問題以前から労賃もエネルギーコストも(アジアの中では相対的に)高い日本でこれらに依存するところの大きな「ものづくり」に注力することが賢くありません。
 脱原発をある程度の時間を掛けつつ確実に進めながら、日本の産業構造も変わって行くことが、望ましい将来の展開ではないかと考えています。

★問3:
今後、原子力発電に替わる電力の供給が必要になってくると考えられます。
再生可能エネルギー(自然エネルギー)を実現してゆくために
どのような施策、政策、枠組みを用意すべきでしょうか。

下記の選択肢をお選びいただき、
ご意見をお聞かせください。
1-「実現のための施策、政策、枠組み」への意見
2-回答を控える

もちろん1です。

 先ず、環境への負荷やリスクが相対的に小さい新技術に基づく発電電力一単位当たりのコストとして、どれだけ追加的なコスト投資していいかを考えて、国からの補助金を設定するべきでしょう。この補助金は、新技術への投資に対する奨励金であり、間接的な形ではありますが、国としての再生可能エネルギーへの「投資」の意味を持ちます。
 既存の電力会社がそれぞれの地域で強力すぎる独占企業であることを考えると、新しい発電に取り組む事業者に対して国が補助的な投資を行うことは悪くないと思います(補助金は金額・時間共に限定的な者である必要があると思いますが)。
 具体的には、送電会社と発電会社を分離した上で、送電設備を持つ電力会社に再生可能エネルギーによる電力を(強制的に)買い取らせて、割安な既存電力の価格に上乗せされる奨励金に相当する差額部分を国が負担するような仕組みを作るといいのではないでしょうか。これによって、新技術の進歩を促すといいでしょう。
 基本的には、現在検討されている再生可能エネルギーの買い取り法案に近い考え方を支持します。
 但し、どのようなエネルギーをどのような条件で誰が買い取るか、価格をどうするか、そもそも送電・発電の分離をどう実現するかについては、それなりに慎重に考える必要がありそうです(そのためには、東京電力を法的にフェアに、たとえば会社更生法で整理して、新しい枠組みの発電会社とこれとは別の送電会社に再編することは有意義であるように思います)。

 最後に、この問題は「死に体」の菅内閣の下で検討すべき問題ではないことを強調しておきたいと思います。

(※ 上記の拙文は、一ヶ月ほど前にfacebookに投稿した文章がもとになっています。原発については、賛否何れのサイドにも、冷静な議論にならない人がいるので、コメント者が実名で読み手が限定されるfacebookに意見を書くことにしたものです。
 当ブログのコメント書き込みについては、特に制限を設けませんが、「品のいいやりとり」を期待しています。
 尚、今後、賛否が分かれるようなデリケートなテーマについては、なるべくfacebookで議論しようと思っています。ご興味のある方は、facebookで「友達」の申請をして頂けると助かります。原則として、所属を明かした実名で、顔写真のはっきりしているリクエストを承認する方針にしています)
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大相撲の八百長問題はどうなるのか?

 大相撲に八百長があることは「大人の常識」だったと思うので、今更「ほら、やっぱり!」と言おうとは思わないが、八百長が大問題になっている。
 相撲協会は、大阪場所を中止し、新公益法人認定の申請スケジュールも白紙化して、先ずは、八百長問題の徹底解明に努めるとして、現在、関取全員に対するヒアリングを進めている。トラブルシューティングとして、ここまではこれ以外にやりようのない対応だったと思うが、さて、これからどうなるのか。

 インタビューに応じた、横綱白鵬が、記者の質問に対してなかなか興味深い答えを返した。
 以下のやりとりは、ネットのスポニチ「Sponichi・Annex」の記事からの抜粋だ。(http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/02/09/kiji/K20110209000214530.html)

==========================
―八百長や無気力相撲が取り沙汰されている。


「無気力相撲と八百長を一緒にしてはいけない。体調不良の日もある。(関与した)力士自身の問題でもある。何とも言えない」

 
 
―自身の八百長関与や他に見聞きしたことは。

「ないということしか言えないじゃないですか」
==========================

 先ず、白鵬は、「無気力相撲」は存在すると考えているようだ。八百長との区別の基準については語っていないが、金銭の授受や取り組み前の約束が立証されなければ、「八百長」にはならない、とでも考えることにしたのだろう。
 次の発言は、もっと味わい深い。少し考えてみると、「ないということしか言えない」のは、記者に対してだけではなく、調査委員会や協会幹部に対しても同様だ。つまり、協会が現在やっている調査は意味があるものとは思えない。警察に把握された物証があるわけでなければ、「本人たちは、やっていないという」という説明で、いつでも調査の幕引きが可能だ。当面、どこまで表沙汰になる可能性があるのか、世間の批判がどの程度か、を見極めるために時間が必要だが、どの段階で調査が完了したかは、調査委員会(つまり協会)が決めるしかない。「徹底的な調査」という言葉に、実質的な内容は無い。今回の徹底調査は、それ自体が八百長だと言わないまでも、取り組みの終わりも、勝ち負けも、決まり手も自分で宣言するような「独り相撲」にすぎない。
 経済的な損得を考えると、協会としても、文科省としても、あるいはNHKや、相撲で商売をしている多くの人達にとっても、相撲協会は新しい公益法人にする以外に現実的な道はないように思われる。公益法人認定を得られず、国技館を失い、NHKの放映権料無くなる、ということでは、たぶん、大相撲はやっていけない。
 第三者の立場から見ると、現在の大相撲のしくみでは八百長があることの方が合理的だし、大相撲自体はプロレスのようなショー的な興業なのだから、株式会社でやればいいではないか、と思うわけだが、相撲が観光資源になっていることもあるし、近年、優勝者に総理大臣杯を渡す以外に活躍の場がない首相ばかりであることなども踏まえると、「ほとぼりが冷めたら、元の鞘に収まる」と考えるのが、妥当な「予想」だろう。

 一つ計算外のファクターがあるとすると、どうして、今の時点で警察は相撲の八百長をリークしたのか、その意図が掴みきれない。警察が情報を出したにせよ、文科省が情報を出したにせよ、本来、公務員がその守秘義務を全うしていれば、今回の問題は、世間に知れ渡ること自体がおかしい問題だ。
 たぶん、警察が情報を出したのだと推測するが、この意図として、たとえば相撲に絡む反社会的勢力を一掃しようとしている、といった別の大きな構図があれば、大相撲の存続形態にも影響するかも知れない。ただ、その場合でも、相撲を丸ごと取りつぶすようなことはしないのではないか。

 大相撲は、どうせ元のように再開するのだろう、と割り切るとして、敢えて、改善点を提案すると、審判部をもっと強化する必要があるだろう。部屋の親方が同時に審判部を務める現行制度では、白鵬の言うように「無気力相撲」があっても、公平で厳しい処分ができまい。競馬でいうと、調教師が持ち回りでレースを審査する裁決委員をやっているようなものだ。
 弟子を持たずに、相撲技術の指導や啓蒙、さらに競技の公正の維持にあたる親方がいてもいいのではないか。外資系企業では、しばしば、コンプライアンス部門のトップは会社のナンバー2か3であることが多く、しかも、社長から独立したレポートラインに属している。
 今度こそ、理事長は外部からスタッフ付きで人を迎えて、元力士の最高ポストは審判部門担当の副理事長(部屋は持たない)、というくらいでいいのではないか。加えて、理事会は外部理事を多数とする。
 また、親方株は、全て協会に返納し、いったんリセットすべきだろうし、現役力士の報酬制度もすっかり作り替える必要があるだろう。
 スポーツの体裁で興業を行おうとするなら、この程度の改革は行う必要がある。

 ところで、以下は私の個人的な印象だが、白鵬は「相手が無気力相撲を取ってくれた経験」を持っていると思う。以前にも書いたことがあるが、そう思う理由は、彼が横綱昇進を実質的に決めた(2回連続の優勝を決定した)千代大海戦の相撲が不自然だったからだ。(白鵬は土俵上で千代大海を吊り上げたが、吊り落としにせずに、千代大海を土俵上に降ろした。しかし、千代大海は簡単に寄り切られて、その後に薄ら笑いを浮かべていた。おそらく「おいおい、この相撲で吊り落としは勘弁してくれよ。白鵬は力が入りすぎだよ」とでも思っていたのではないか)
 また、かつて「週刊現代」にも、白鵬サイドが星を買った疑惑が、当時の白鵬の部屋の親方のテープ音声付き(ネットにアップされていた)で報じられていたことがある。
 しかし、事前の八百長合意や金銭の授受については、協会のためにも、自分のためにもしらばっくれることにするのだろう。そうだとすれば、立場があるとしても、悲しい職業だ。
 但し、白鵬は相当に強いと思う。付け加えると、朝青龍も強かったはずだ。時々八百長があるとしても、また、八百長が可能な環境ならばなおのこと、彼らは余程強くなければ、大関、横綱になれなかっただろう。彼らは、歴史的に見ても優秀な相撲取りであることは間違いないと思う。

 このように考えると、今後大相撲が始まったとして、これまでと相撲の見方が変わるわけではない。これは、注射か、ガチンコか、と推理を働かせながら、個々の力士の本当の力を推測するというのは、なかなか高級な楽しみ方かも知れない(NHKの解説者にも、この辺りの機微を解説して欲しいものだ)。「無気力でない、充実した八百長相撲」もきっと見られるだろう。
 今後は、時に八百長があっても怒るのは野暮だろう。その代わり、相撲協会も「過去には一切無い」というような見え透いた嘘をついて、開き直ったりしないことが大事だ。当事者も、バレたら、潔く認めようではないか。相撲の場合、ファンは馬券を買っているわけではない。作られた盛り上がりも、時に漂うインチキ臭さも、全て丸ごと大相撲の世界を楽しめばいい。

 ところで、中学、高校、大学、それに社会人など、アマチュアの世界には相撲を純粋なスポーツとして楽しむ人がいる。彼らのために、大相撲とは別に、八百長なしの純粋な競技としての日本選手権、ひいては世界選手権を催し、これには、大相撲の力士も参加可能という形にしてはどうだろうか(本当は、興業としての大相撲と切り離して、競技相撲の方を伝統的な国技として継承したいところだか)。

 純粋なスポーツとしての相撲も最高レベルの競技を見ることができるようにしてくれると嬉しい。
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サンデル先生の「正義」の授業について思うこと

 年始にNHK教育で、ハーバード大学のマイケル・サンデル先生の授業をTV番組化した番組の再放送を見た。全て見たわけではないが(見てない回が気になるので、その後、DVDを買った)、授業として実に素晴らしいと思った。
 サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」は昨年読んでいた。率直にいって、彼の正義論には賛成できない点があるのだが、授業は実にいい。サンデル先生個人の印象もまた悪くない。付き合ってみると感じの言い方ではないだろうか(もっとも、ああ見えて変な癖がある人物だ、ということなら、それはそれで人間として興味深い!)。
 聴衆はそこそこ以上に優秀な学生なのだろうし、グループ分けして指導者を付けて予習をさせた後で授業に出席させているらしいから、どこの大学、どの先生でも真似できるというものではないだろうが、模範的な授業だと思う。
 サンデル先生に「賛成できない点がある」などと書くと、暇で且つ気の立った人が文句を言ってくるかも知れないので、私見を簡単に述べておく。
 サンデル先生の授業の話の順序はとてもよくできているが、私としては、特に、カントの解釈に違和感がある。
 サンデル先生は、殺人鬼に追われた友達を自宅にかくまった人物が、自宅を訪ねた殺人鬼の「アイツはこの家にいるか?」という問いに対して、かくまった人物はカント式の定言命法に従うと「彼はこの家にいませんよ」という嘘をつけないことをかなり重大な難点だとして指摘しているが、これはいかがなものか。
 カント式の定言命法の倫理で、�嘘は言えない、�人は殺せない、という原則を導くことが出来ることについては、サンデル先生も同意されている。
 そこでだが、そもそも友達をかくまった時点で、問題の人物と友達との間には、実質的に「殺人鬼の追跡からあなたを守る」という約束が成立していると考えるのが妥当ではないか。殺人鬼を誤魔化すことに対して最善を尽くさないのは実質的に嘘をついているのと変わらない。
 嘘の重大性に程度の問題があるかどうかはさておくとして、(仮に)友達に対する実質的な嘘と、殺人鬼に対する嘘とが仮に何れも好ましくないこととして共に嘘一つづつとして相殺できるとすると(後者の嘘の方がより重大だと判断できる根拠がなければ、以下のように考えていいだろう)、残るのは、自分が中途半端な態度を取ったり、まして友人の隠れ場所を教えたりすると、殺人が起こりかねないという状況に対する判断だ。
 カント自身が倫理からの離反について「程度の問題」が存在することを考慮に入れていたのかは、まだ十分カントを読んでいないので、私にはよく分からないが、矛盾した目的に直面した場合の判断原理として「程度の問題」を考えることはごく常識的だ。
 この殺人鬼のケースを、カントの普遍的な倫理がはらむ深刻な難点とすることについては、どうにも賛成しがたい。
 まして、サンデル先生が仰るように、殺人鬼を誤魔化すことの出来る嘘でない事実を伝えるのがいい(道徳の原理に敬意を払ったことになるかららしいが)、という話は、本質から逸れているように思える。この他人を誤魔化そうとする行動は、他人を手段として扱っているし、正解に気付かないことを予期している点で相手をバカにしている。凡そ定言命法の精神に合致するとは思えない。
 思うに、「正義」という言葉はもともと普遍性の文脈において用いられており、(特定のコミュニティーによって)負荷を負った自己を正当化する価値観を正義と呼ぶことは、言葉の誤用なのではないか(ギルバート・ライルの「カテゴリー・ミステイク」みたいな感じ)。
「彼は国籍が違うから、同胞とは扱いを変えても仕方がないでしょう」という発言に対して、これが自然な感情だと思い、現実として発話者の感情を理解する人はいても、これが正義にかなうとは思人は少ないのではないか。普遍的フェアネスの価値観の下に自己を反省し、私的な感情を相対化しつつ行動することこそが、正義の本質ではないだろうか。
 溺れつつある二人の子供のうち、自分の子供から助けるのは、それが正義だからではなくて、ただそうしたいからだと理解するほうがいい。
 ついでに、ロールズについては彼の正義の原理は、コミュニティーや生活の条件が異なる多くの人が概ね普遍的に合意できそうな内容を厳密ではないけれども上手にまとめた、優れた要約ではないかと考える。程度はともかくとして、できれば弱者を助けようというのは、人間がもともと持つ(多少かも知れないが)仲間へ利他性の観点からも、また社会における一種の保険としても、割合同意しやすい原則だと思う。「無知のヴェール」的な状況が現実に存在したかどうかは、どうでもいいことだ。
 もう一つ言いたいのは、個人が特定のコミュニティーに属しているとしても、この人が、このコミュニティーから離脱したかったり、このコミュニティーの価値観を大きく変更したいと思ったときに、正義をどう考えたらいいのか。こうした自由には責任も伴うはずだが、この自由を認めないことが「正義」という言葉にふさわしいとはとても思えない。
 人間の意思が100%本人にとって自由なものかという点については、現実問題として大いに疑問があるが、人間には考え直す自由がないとするなら、「正義」の主要な含意の一つである「責任」が意味を持つことが難しくなる。
 また、功利主義に関しても、現代の功利主義者(経済学者は多かれ少なかれ)なら、異なる人間の効用を単純に足し合わせることが出来るような単純な効用関数で全てを説明せずに、全員の効用をより高める可能性はないのか、その後に、どのような意思決定ルールについて合意できるか、といった手順でモノを考えるのではないだろうか。
 サンデル先生は、功利主義も、カント&ロールズも、批判したい側面をはっきりさせるために、いささか単純化しすぎたのではないだろうか。
 もっとも、教育的にはこれくらい簡単な図式で説明する方がいいのかも知れない。
 あれこれ文句を並べた後に繰り返すのは気が引けるが、一つの授業のサンプルとしては、サンデル先生の授業はあまりに輝かしくて、直視するのが眩しいくらいだ。折に触れて勉強し直すことにしようと思う。
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葬式とお墓について

 新年向きの話ではないが、葬式とお墓について私の考えを述べたい。
 私は、結婚式、葬式などの「式」には出席しないことを基本方針としている。時間が惜しいからということもあるが、パーティーや飲み会は好きだしよく出る方なので、要は「式」の部分が気に入らないのだ。
 たいていは、お祝いなり、香典なりを金一封送って、式は欠席させて貰う。

 結婚式は過去20年くらい出た記憶がない。記憶にある最後は、会社の友人の二回目の結婚披露パーティーだったと思うが、それ以来出席していない。
 私は現在52歳だから、同年代の友人が結婚することは少ないし、まだ子供が結婚する年でもない。そんなこともあって、ここしばらくお祝いも送っていない。
 私自身も結婚式はやっていない。
「結婚する」と北海道にいる父親に言ったところ、彼が東京にやって来て、「親戚への挨拶ということもあるから、結婚式くらいはやれ」と言った。
 私は、「いいや、式はやらない。神社も教会も嫌いだし、だいいち他人をたくさん呼んで、面白くもないパーティーに時間を使わせるのは、社会的罪悪だ。出席者の分も含めて、機会費用を計算するとたいへんな額になる。加えて、あのような下らないセレモニーに何百万円の掛けるということが、カネの使い方として納得しがたい」と言った。
 父は、「カネは俺が出す」と言う。
 しかし、「誰がカネを出すかではなく、結婚式自体がカネに値しないと言っている。あんなものが本当にいいことかどうか、一日頭を冷やして考えてくれ」と言い返した。
 翌日、父がまた現れた。「俺もよく考えた。お前の言うことはよく分かった。ならば、結婚式用にとおもっていたカネだけやるから、好きに使え」と言う。柔軟に意見を修正することのできる点は、我が父ながら、感心だ。数日後、本当に結婚式費用程度のお金が振り込まれていた。当時、ほとんど貯金を持っていなかったから、これは本当に助かった。
 仮に、私が、政治家や俳優、あるいは相撲取りででもあれば、仕事の一部として結婚式をやるだろうが、かつて、或いは今の仕事なら、結婚式はしない方がずっと合理的だと思っている。後輩や、学生にも、結婚式はできればしないほうがいい、と勧めている。

 葬式にも、基本的に出ない。そう決めているのだが、方針を貫ききれない場合もある。昨年、今年と、一回ずつ親戚筋のお葬式に出た。どちらの葬式についても、主催者に不満があるわけではないのだが、出席していて、違和感を覚えた。二つとも、仏教形式の葬式なのだが(宗派は異なる)、端的にいって、私は仏教を信仰していない。それなのに、仏教のセレモニーに従って式に参加している自分が不愉快だ。そして、信仰心なしで葬式を眺めると、奇妙な出で立ちで経を唱え、さらには下手な話の説教までする坊主と、あれこれいちいちカネを取る葬儀屋のサービス業としての姿勢と価格設定に納得が行かない。
 そして、葬式に出ながら考えた。
「これから、自分の結婚式をすることは(たぶん)無いだろう。問題は、葬式であり、墓だ」

 幸い、私の両親は札幌で二人とも健在だ。碁(アマ4段くらい)を打ち、絵を描く85歳の父と、ゴルフ三昧(調子がいいと80台)の76歳の母だ。彼らが元気なうちに方針を決めておきたいし、もちろん、万一自分が先に死んだ場合の問題もある。

 問題の概要は以下の通りだ。

(1) 葬儀。 私は自分の葬儀はして欲しくない。死んでから「偲ぶ会」なんてやって貰うよりも、生きているうちに一緒に酒でも飲む方がずっといい。目下、父は自分の葬儀は簡単にやって貰いたいというくらいに思っている公算が大きいが(改めて聞いてみないと分からないが、近年、軟化してきたようだ)、私は、できれば父の代から葬式抜きの形を確立したい。

(2) お墓。 現在、山崎家の墓は、北海道の某寺にあり、この外に永代供養納骨堂のスペースが「一箱」ある。後者は、寺のセールスに負けて、かつて父が百万円以上出して買ってしまったらしい。何れについても、年間数万円の維持費が掛かる。父は、自分の場合、寺の一般向けの納骨スペースに入れて貰ってもいいと最近言い出しているらしいが、この点も本人の意向は改めて聞いてみないと分からない。母と妹は、自分たちは父と同じスペースに入りたいといっている。私は、子供たちが望むなら同じ場所でもいいが、出来れば散骨して貰うか、あるいは共同で無名の人の骨が収容されているところに入りたい。

(3) 寺。 母から過去の経緯を聞いて判断するに、現在の寺が不愉快である。一軒家(墓)にすむ住人に、もう一つマンション(永大供養ボックス)を売るがごときセールスも不愉快だし、坊主の人格もよろしいとはいえない。しかも、近年商売っ気を強めており、頼みもしないのに彼岸に仏壇を拝みに来て、短時間でカネをまきあげていくようになった。この寺とは、即刻絶縁したい。しかし、先祖の骨を質に取られているし、墓には「原状回復費用」が発生するのかも知れない。もちろん、これまでこの寺と付き合いがあり、多大な出費をしてきた父との話し合いもある。

 私は、自分の死後の処置に関する「遺志」は、古くから割合はっきりしている。高校3年生の時に、母方の祖父の葬式に出て以来、葬式は下らないもので、商売としての坊主は賤しいものだと思っており(純粋に宗教者としての坊主には敬意を持たないでもない)、自分の葬式は絶対にやって欲しくない。
 骨の始末は遺族が考えればいい。敢えて「夢」を述べてみると、フィリピン沖のニホンウナギが産卵するらしい海域にでも散骨してくれると、ウナギを食って、ウナギに食われて、人生が美しく完成するような気がするが、こういう余計な希望は言わないのが、残されるも家族への思いやりだろう。
 自分の家の代々の納骨スペースに納まるか、どこの馬の骨か分からぬ無名の人々と一緒に共同の納骨スペースに納まるかに関しては、ほぼどちらでも良いが、敢えて選べば後者だ。死後に魂があって(そんなもの信じていないが)骨の近くにいるとした場合、家族とはいえ同じ人と四六時中顔を突き合わせているよりも、賑やかな居酒屋のように、いろいろな人の中にいる方がいい。子供たちも、同じように、開放的に考えてくれるといい。
 なお、百歩以上譲って、死後に魂があるとした場合、自分の墓だの骨だのにこだわるようなツマラナイ魂なら、生きているうちから心配してやる価値もない。

 結局、残された問題が三つある。

(A)最も簡素で坊主も神父も関与しないサッパリした死体の始末にはどのような方法があるのか。費用は幾らか。誰に連絡したらいいのか。

(B)寺にある墓を「解約」する手続きと費用。加えて、その後の骨の始末場所にはどのような選択肢があるか。

(C)関係者の説得と合意作り。

 確か、昨年の週刊ダイヤモンドでこの種の特集を組んだ号があったと思ったが、あいにく先日の引っ越しの際に捨ててしまった。これから、自分で調べてみようと思っている。
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大手メディアには文脈が二つしかない

 主に新聞とテレビを念頭に置いて言うが、大手メディアには「事件報道」と「政治談義」の二つ以外に文脈と文体がない。日頃から感じていることなのだが、原稿を書いているうちにまた思い出したので、メモ代わりに書いておく。

 振興銀行の件でいうと、木村剛氏の刑事事件について報道が集中し、たとえば木村氏がどれくらい悪くて酷かったのか、という報じ方になる。預金カットを含む処理が決まると、テレビであれば、NHKの午後7時のニュースでも、「被害者」である大口預金者を捜してきて、この人が「どう感じているか」を伝えようとする。
 木村氏はまるで押尾学被告のように報じられるし、預金者は死亡した女性の友人のような感想を求められる。
 ちなみに、民放の情報バラエティなら、コメンテーターはプレゼンを聞くかVTRを見るかした後に、「まさか銀行が潰れるとは、ふつうの人は思いませんよね。ヒドイですね」等々何らかの「感想」を言えばそれでいい。事件の内容は与えられるもので、視聴者は感想を持てばよく、テレビはそのための伝達とムード作りをするサービス業だ。
 感情を込めて感想を表現するコメンテーターは、お茶の間の受けがいい(らしい)し、番組を作る側も反応が想定範囲で使いやすい(だろう)。「振興銀行の問題は、難しくて私には分からないので、コメントできません」と言う方が適切なコメンテーターがたくさんいるはずだが、そうはしない。何か「感想」を言って場をつなぐ(注1)。番組の文脈を一人で壊すわけにはいかない。

 同じく振興銀行の件では、同行の認可に関わった竹中平蔵氏の責任とか、小泉・竹中路線の是非、といった政治的な文脈での報道もある。
 また、ある番組で、9月15日に久しぶりに行われた日本の為替介入について「その前までは、民主党代表選で政治が不在の状況だったのです」と一番最初にコメントした解説者がいたのには、ちょっと驚いた。いくら何でも、それが一番重要なポイントではあるまい。
 何がテーマでも、それを政治的な文脈に置き換えるときには、多くのディテールが失われる。菅か小沢かというのは、少なくとも為替レートを語る上では最重要の視点ではない。
 また、結論として、政府が何をしなければならないかを持ってくる議論が多い。お上に不満を訴え、これこれを願う、という筋立ては、納まりが良いのだろう。
 しかし、政府の雇用対策も重要だが、どのみち対策は遅いだろうし効果が小さいだろう。それを待っているわけにも行かない現実がある。その場合に、失業者はどうしたらいいのか、ということの方を知りたい読者・視聴者も多いのではないか。政府はあてにならないし、あてにすると却って悪いことをしかねないのだとすれば、ダメな政府を前提として個人や会社が何をするかの議論がもっとあっていい。
 新聞社では政治に関係の深い人が偉くなる場合が多いせいか、あるいは、誰でも考えやすい文脈だからか、政治(家)の意図で原因を推測して、政府が何をすべきだ、という結論の文脈で記事が書かれることが多い。
 政治になど解決を期待していない問題や、今の政治家には無理な問題の場合にこれをやられると、見ていて(読んでいても)ひどくくたびれる。解決策の実現性もないから、問題への関心はかえって薄れてしまう(注2)。

 経済の問題を上記の二つの文脈だけで処理しようとすると、真に面白い部分が欠落したり、報道が奇妙に変更したりしやすくなる。
 振興銀行の問題なら、最も興味深く、且つ将来に向けて考える価値のあるテーマは、振興銀行のビジネス・モデルが、なぜ上手く行かなかったのかという点だろう。
 この場合、いい・悪いではなく、物事がどんな仕組みになっていたのかが大事だ。
 例えば、振興銀行は預金保険の信用力を利用して1000万円までの預金を約6000億円も集めることが出来た。これは、預金保険制度の性質(はっきり言って弱点)を巧妙に利用した、ビジネスとしては悪くない発想法だった。
 定期預金オンリーの預金受け入れには、大きなコスト削減効果もあった。しかし、決済口座を持たないことで取引先企業の状況把握が通常の銀行より劣るといった弱点もあった。
 そして、当初の看板であった中小企業向けのミドルリスクマネーの供給が融資残高の上でも捗らなかったのは、結局、中小企業向けの金融市場で振興銀行が競争力(審査の情報でも、融資先の開拓でも)を持っていなかったからだろう。
 こうした事が分かれば、もともとのビジネス・プランに問題があったことが分かる。
 また、中小企業融資が思ったように伸びない状況で振興銀行が打った手は、ノンバンク債権の買い取りへの傾斜だが、これが適切な手だったのかどうかということも興味深い(05年5月の取締役会で方針転換が決まった)。
 SFCGのような手強い相手と取引して儲けようというのは全く甘かったと見ることも出来るし、投資ファンドのような不良債権の買い取りだから、景気によっては儲かったかも知れず、崖っぷちの賭としては幾らか可能性のある妥当な戦略だったと見る人もいるだろう。ビジネスマンとしては、自分ならどうするかを考える価値もありそうだ。
 あるいは、リーマンショックとの関係はどうだったのか。振興銀行は、設立の趣意書の中で、中小企業融資のためには「不良債権を持たない新しい銀行」が適していると述べているのだが、潰れたのは、不良債権を持つ既存の銀行ではなくて、振興銀行の方だった。最善を尽くしたが、不況が原因で潰れたという整理は違うだろう。一方、好景気が数年続けば、何とかなった可能性はある。ダメなビジネスが必ず潰れるとも限らない。
 識者・経験者もいたはずの取締役会がなぜ機能しなかったのかということも、木村氏のワンマン経営で木村氏が悪かったというところで思考停止せずに、役員のインセンティブまで踏み込むと、「作家である現社長や現職の国会議員を含む責任免除契約を結んだ社外取締役が、人事権、報酬決定権、1億円以上の融資実行にかかる決定権限をもつという『いびつ』な組織」(「週刊 金融財政事情」9月20日号、p14、「新銀行設立には大義があった」と題する設立メンバーの寄稿記事より)といった事実が分かる。なるほど、責任免除契約などという、いい加減なものがあったのか。これでは、適切なガバナンスなど働きようがない。
 或いは、視点を変えて、木村氏は創業時になぜあのようなメンバーと組んだのか(後に直ぐに仲間割れした)、とか、なぜあそこまで焦ったのか、とか、彼個人の財産保全についていつから何をしているか、といったことも興味深い。これらが分かると、別のことももっとよく分かるようになるはずだ。
 振興銀行のケースには、まだまだ興味深いテーマがあるが、「木村氏が悪い」と決めつけるにしても、あるいは「検察の無理筋捜査だ」と考えようとするにしても、立場を先決めすると、事実を見落としがちになるし、物事の仕組みが分からない。
 敢えていえば、善悪を棚上げして、一つのケースを巡るもろもろの仕組みの解明を楽しむような視点が、経済報道には必要だ。「善悪」や「誰かの影響」、さらには「政府はどうすべきだ」という安易な結論を、いわば括弧に入れて、全体を多角的に眺め回すことが重要だろう。

 経済以外にも大手メディアの二つの文脈だけでは語ることができない問題がたくさんあるだろう。


(注1)他人の事ばかりも言えない。私も事実関係のよく分からない事件について、「事実はこれから分かることでしょうが」とか「報道の通りだとすれば」とか前置きしてではあっても、その時点の報道を前提に「感想」を言うことがある。
 番組は概ね警察・検察が与えた情報に沿って作られるから、警察・検察が間違えた場合(それはあり得る)、私のコメントが、間違いの側に加担した印象操作への協力になる可能性は十分ある。
 たとえば厚労省の村木局長のようなケースで、報道の初期にテレビ番組でコメントを求められたとすると、事実について断定せずに、官僚批判の一般論でも言えば無難だが、印象という点については、「村木氏が悪い」という印象作りにすっかり協力する結果になっただろう。

(注2)ここでも反省しておこう。私も、凡そ実現しないだろうと思いながらも、政策がこうあるべきだという文脈で原稿を書くことがよくある。何といっても、それが楽だからだ。経済の話では、「政府」を暗黙の主語にするのが一番ありふれた文脈であり、内容的にも、たいていの話題について参照できる賛成論・反対論が多々ある。
 失業でも為替レートでも、時には当事者の立場に立って考え(当事者の立場で「ただ感じる」のではなく「考える」が大事だが)、時には敢えて皮肉屋の傍観者の立場に立ち、時には理屈だけで考えて、といった具合に、「政府がどうだから何がが起こっていて・・・、政府はこうするべきだ!」という文脈を離れて語る方が、物事がよく分かることがあるはずだ。ただ、既存の文脈・文体に慣れきった読者が「不真面目だ」と怒るリスクはある。
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AIGのトレーダーの高額ボーナスへの反対は正義か?

 サンデルの「正義」の本をバラしてスキャンして、iPADで少しずつ読んでいる。AIGのトレーダーが高額のボーナスを受け取ることに対する米国世間の反発について、サンデルは、「失敗に報酬を与えるから」だと反発を指摘しているが、これはたぶん正しくない。かなり雑な議論ではないか。

 大失敗した会社から高額のボーナスを貰うトレーダーは、たぶんその個人としては儲けたトレーダーか移籍初年でギャランティー・ボーナスを貰うトレーダーだろう。前者は明らかに失敗者ではないし、後者についても「失敗した」人がいるとすると会社の没落前に多額の移籍金で人を採用したAIGのマネージャーであって、そのトレーダーではない(たぶん)。そのトレーダーは、初年に保証されたボーナスをあてにして、前職のボーナスを放棄して転職してきた人物かも知れない。

 それでも、AIGのトレーダーの何十人かに、高額のボーナスを払うことに対して米国の世間が納得できなかった原因は、たぶんトレーダーの高額な報酬に対する嫉妬があったからではないか。通常、嫉妬は正義のカテゴリーに入る概念ではない。

 会社の業績がトータルでマイナス1000でも、あるトレーダーがプラス100を稼いだなら、彼(彼女)がプラス100に相応の報酬を受け取ることはたぶんフェアだ。最下位のプロ野球チームであっても、首位打者はそれなりの年俸を取っていい。当時のアメリカの大衆は、高額報酬への嫉妬と思慮の浅い処罰意識から、この比較的分かりやすい理屈を無視したのではなかろうか。

 彼(彼女)のボーナスを否定するには、会社員(トレーダーも会社員だ)は会社の結果に対して共同責任を負うべきだという、些か無理な前提を証明しなければならない。多くのトレーダーは、高給とはいえ、役員でも株主でもない。会社の浮沈の連帯責任を負え、というのは無理だ。いつでもクビになり得る使用人なのだ。

 マイケル・ジョーダンでもタイガー・ウッズでもない、他の人にもできそうなことをしている金融トレーダーが巨額の報酬を貰うことに違和感を持つ人がいるのは分かる。「たいしたこと」をしているわけでは無さそうだ、とは、私もそう思わぬではない。彼らは、あまりに有利な条件を手にしていた。

 しかし、彼(彼女)の報酬に異議を唱えるなら、資本主義社会に生きる者のたしなみとしては、自分も金融市場なり人材市場なりに参加して、「他人のリスクを使って、成功したら大きな報酬」という彼(彼女)が持っている有利なオプション(ないしその価値)を、競争によって奪い取るべきだろう。
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OBの年金は強制削減すべきではない

 この問題は、ダイヤモンド・オンラインで既に取り上げている。同じ話を同じ場所に何度も書くのは気が引けるから、ここで簡単にコメントしておく。JALの公的支援に絡んで、同社のOB(退職者)の年金を強制削減する法案を政府が準備しているというが、OBの年金を強制削減する法律ないし先例は作らない方がいいと考える。

 理由は三つある。
 
(1)JAL以外にも年金の実質的な積み立て不足に悩む企業は複数有る(JALより大規模な不足の企業も複数あるはずだ)。年金債務を削減する方便ないし先例を作ると、こうした企業の経営が傾いたときに、支援(公的支援の場合だけか、私的支援も含むかは注視すべき今後の問題だが)にかこつけて政府(政策投資銀行が債権を持っていたりする)や金融機関が年金削減を狙う可能性がある。

(2)年金は退職者の老後の生活設計の前提条件として重要だ。これを事後的に同意に基づかずに削減することは、退職者の生活にとって非常に影響が大きい。既に裁定された年金額が事後的に強制削減されるような場合を作ると、年金に対する不信・不安が高まる。

(3)年金は一定の契約の下に期待される労働対価の後払いだ。JALのOBも現役時代に給料・ボーナスに年金えお合わせた条件に対して納得して働いていたと考えるべきだ。同社の過去の経営が立派なものでなかったことは確かだろうが、法的な過失などがない過去の社員の期待財産を事後的にルールを変えて削減することは「不正義」だろう。

 報道によると、公的資金がOBの年金支払いに充てられる事態は「国民の納得が得られない」という妙な理屈を政府関係者も言っているようだが、これはJALのOBの年金額が高いと報道で煽って、これを許せないという国民感情をでっち上げて、OBたちの正当な権利を値切ろうとする悪質な情報操作だ(巨額の債権を持つ政策投資銀行にとっては好都合な情報操作である)。

 労働者から政府・金融機関、取引先も含めて、債権者の利害が巨額且つ複雑に絡むJALのようなケースの利害の調整は、会社更生法なり民事再生法なりといった法的な手続きを中心に行うべきだろう。当事者(今回政府は重要な当事者だ)が事後的にルールを変えるような処理をすべきではない。
 国交省をはじめとする政府は、法的な処理の間に、JALの安全運行と残すべき路線の確保を含めた「飛行機を無事に飛ばす努力」に集中すべきだろう。

 尚、JALのOBにとって、①JALが既存の何らかの法的な整理に進む場合と、②強制的な年金削減の下で公的に支援される場合と、③一定の削減に自発的に応じる場合のどれが最も「得」になるのかは、現時点で、私には判断できない(①よりも③が得だと脅すような事態も今後ありうるだろう)。
 同社のOBの皆様方が、判断の結果どのコースを選んでも私は構わないが、②に至った場合には、悪しき先例を残さないように、国を訴えて法的に争う姿勢を見せていただけると嬉しく思う。
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茂木健一郎氏の脱税報道に思うこと

 脳の研究者でテレビ・出版共に露出の多い茂木健一郎氏に税金の申告漏れがあったことが発覚した。
 申告漏れは社会人として良くないことなので同情はしないが、茂木氏が追徴税額を既に納めていることでもあり、ここで、私が「怒る」のは余計なお世話というものだろう(彼は鳩山首相のように政治家でもないし)。税金に気が回らない人が「プロフェッショナル 仕事の流儀」(茂木氏がキャスターを務めるNHKの番組)をやっているのは、説得力の点でどうかとも思うが、ごく軽い内容の番組でもあり(昨日久しぶりに見たが、内容は幼稚な「ヨイショ番組」だった)、NHKが社会的な処罰の側に回らずに、番組で茂木氏を使い続ける判断にも反対しない(NHKの番組ホームページに茂木氏のお詫びが載っている)。
 茂木氏の本の出版状況や今回の問題の記事から推察するに、茂木氏の下には、出版、テレビ番組の出演、講演などの依頼が押し寄せていて、それこそ3年間税金のことを考える暇もないくらい多忙だったのだろう。
 今回の報道で些かショックだったのは、茂木氏が申告漏れした所得が3年間で3億数千万円(4億円に満たないと報じられている)しか無かったことだ。茂木氏は雑所得の申告を丸ごとサボっていただけのようで、所得隠しはしていなかったようだ。税務署は、茂木氏の印税、原稿料、テレビ出演、講演謝礼について、ほぼ全額を把握できただろう。だとすると、茂木氏のようにあれだけ次から次へと本が出て、テレビにも出続けて、各種のイベントにも出演している状況で、1年当たりの収入が1億3千万円程度(単純な割り算による推定)というのは案外少ない。
 しかし、テレビ出演は「文化人価格」(注:一般のイメージよりもかなり安いはずだ)なのだろうし、出版の印税が通常の「10%」、売れっ子だから講演料は高いとしても多忙だから案外回数がこなせないということになると、茂木氏並みの売れっ子でも、確かに、この程度の所得にしかならないのだろう(税務署の能力を信頼しよう)。
 だとすると、「文化人ビジネス」は、経済的には何とも夢がない。
 フィクションの作家を除くと、評論・ノンフィクション・実用書などのジャンルで、茂木氏は、控えめに見ても過去3年間のどの年をにも売れっ子ベスト5には入っていただろう。メディアにも出続けていた。この世界では、「一握り」以上の「一つまみ」くらいのレベルの大成功者であるわけだが、それで年間所得1億円少々というのはパッとしない。
 別の世界では、プロ野球の世界では年俸1億円以上のプレーヤーが数十人いるだろうし、時期によって差はあるが外資系の証券会社にも控えめに見ても、東京だけで、数十人単位で存在するだろう。
 「節税には全く興味がない」と茂木氏が言うように、「文化人」の主たるモチベーションは経済的な利益ではないのだろう。あれやこれやと儲ける仕組み作りに熱心な文化人に対して、「浅ましい」感じがするのも事実だ。しかし、「あんなに忙しくて、あんなに本が出ていても、こんなものなのか」という観は否めない。
 一つには「日本」(要は日本語圏)のマーケットが小さいためなのかも知れないし(しかし、日本のプロ野球や芸能人の成功者はそれなりにリッチだ)、もう一つには、文化人が世間の注目を上手に換金するビジネスモデルに疎いのだろう。
 基本的に他人事なので、どうでもいいのだが、ちょっとガッカリしたニュースだった。
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「新聞の通信簿」(経済記事担当)を振り返る

 筆者は、「週刊現代」で「新聞の通信簿」という新聞6紙の記事を較べ読みする連載を担当していた。魚住昭氏、佐藤優氏、青木理氏と私の4人でリレー連載していたものだが、現在発売中の「週刊現代」(11月14日号)をもって、筆者の担当回は最終回となる。最近編集長が交代したこともあって、連載の見直しをするようだ。「週刊現代」は、記事に読み応えが増えて、グルメ情報とオヤジ読者向けのグラビアが充実してきている。雑誌としては面白くなっているので、今後に期待したい。

 連載最終回の原稿は、連載担当期間中最大の事件であった金融危機を取り上げた「リーマンショック一周年」の記事の採点と、過去通算40回分の採点の発表を一緒にしたものだったが、過去の採点表を載せるスペースがなかったので、ここでご紹介する。

 連載メンバー4人の中で筆者は、いわば「経済部」であり、主に経済記事を取り上げて評価したが、過去に取り上げたテーマを一覧して眺めてみると懐かしい。

 あくまでも経済記事が中心で、それも全紙を均等に深く読んだのは連載担当の場合だけなのだが、個人的な印象としては、点差は大きくないが、「読売新聞」の取材がしっかりしているように思った。民主党のマニフェストや公的年金の損失額を手に入れるのが明らかに他紙よりも早かったし、経済記事の見せ方も気が利いていた(ただし、社説は切れ味が今一つだと思う)。他紙に対する評価は、「週刊現代」をご一読いただきたい。

 この連載を止めると、自宅購読に6紙は多すぎる(片付けだけでもかなり大変だ)。連載を始める前までは、自宅で「日本経済新聞」と「朝日新聞」を読んでいた。これからどうするかというと、もともと自宅で読んでいた2紙に「読売」を加えた3紙を読むことにした。仕事上「日経」は必要だとして、ここのところ「朝日」が頼りない印象だし、「朝日」とは別の意見を持ちやすい新聞をもう一紙読む方がいいと考えたので「読売」を加える(佐藤優さんによると、霞ヶ関の人々が気にしている新聞は圧倒的に「朝日」らしい。現段階で「朝日」は止めにくい)。

 私の場合は、「新聞の通信簿」が終了しても、その他の原稿書きなどを考えると、新聞を3紙購読しても十分にペイするが、仮に、私が近年就職したビジネスパーソンだとすると、新聞は自宅で購読しなくてもいいような気がする。

 ロイター、朝日、日経、時事通信くらいに2、3の海外メディアを加えてニュース・リーダーに登録しておいて、毎日チェックするとニュースに「遅れる」ということは先ずないし、いつどんなニュースがあったかが分かれば(つまりニュースを検索すれば)、事柄の詳しい内容を知りたい場合に十分な手掛かりとなる。自宅で紙の新聞を購読することは必ずしも必要ではない。アメリカなどで見られるように、紙ベースの新聞を中心とするメディアの経営は今後苦しいに違いない。

 今しばらくは(長くても数年の「しばらく」だろうが)、新聞社が記事の内容に責任を持っていて、記者も新聞社も名誉と法的なリスクを負って記事を発表していることで、新聞の記事に一定の権威がある。しかし、今後、書き手が実名のニュースが発表されるようになると、ネットの記事でも(たとえば一ジャーナリストのブログでも)、書き手にとってのいわば「賭け金」は変わらない意味を持つので、記事は同様の信憑性を持つようになるだろう。そうなると、紙の新聞そものには特別な権威や価値が残るわけではない。現在は過渡期だろう。

 複数の新聞社が現在のJALと似た経営問題を抱え、新聞記者OBの年金を削減できないかといった議論をするようになる時代が遠からず訪れるようになるのではないだろうか。ただし、この場合、新聞社は構造不況業種になるが、個々の記者の中にはジャーナリスト個人として大きな経済的価値を持つようになる人が現れるのではないか。経済価値が、新聞紙や新聞社ではなく、個々のジャーナリストなりニュース記事なりに対して発生するようになるなら、それはいいことだろう。

 そうした場合に、たとえば、ジャーナリスト個人が広告スポンサーの影響を受けずに客観的な記事を書くことが出来るかが問題になる。もちろん、記事の質に関する評価情報にもニーズもあるにちがいない。何らかの形で「ジャーナリストの通信簿」的な第三者による評価が行われることになるかもしれない。

 
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核家族という「ぜいたく」

 先日、とある大人の勉強会で、高齢化問題について議論した。レポーター(この問題の専門家だ)の話の中で強く印象に残ったことの一つは、在宅介護は能率が悪いし、人口構造的に無理なのだという話だった。在宅介護ではなく、施設介護を中心に物事を考えるべきであり、たぶん、「それしかない」。
 たとえば、在宅の高齢者に入浴サービスを提供する場合、専門の車にスタッフが乗って高齢者宅をお邪魔する形だと、一日に4、5人程度までしか対応出来ないのに対して、施設にいる高齢者ならうまくやれば15分程度で1人入浴して貰える。能率の差は圧倒的だ。食事も外出も同様だろう。
 また、現在、主に親の介護の主力になっている年齢層は団塊世代を中心とする人口の厚い年代だが、やがて、少子化が介護にも影響して、そもそも介護の手が足りなくなってくる。しかも、共稼ぎ世帯が増えているから、二人の稼ぎ手の一人が介護にかかり切りになると、収入にも大きく影響する。介護は、手間が掛かるだけでなく、機会費用も大きい。
 また、核家族的夫婦の場合、夫が早く弱って死ぬケースが多いのだろうが、夫は妻に介護して貰えるかも知れないが(本当にそうかは、その時にならないと分からないが)、妻は一人で超高齢時を生き、やがて死ななければならない場合が多いだろう。子供は数が少なくて、誰も介護に手が回らない場合があるだろうし、そもそも子供のいない夫婦も多い。もちろん、もともと「おひとりさま」の場合もある。
 高齢化の話以外にも、たとえば、若年失業者やワーキングプアをベーシックインカムで救えるかという問題を考えると、月5万円とか8万円のベーシックインカムでは、「生存できたとしても、まともには暮らせない」という文句が出そうだ。
 しかし、これは、そもそも一人で満足に暮らしたいということが「ぜいたく」なのだ。月5万円でも、4人集まれば、月20万円になる。誰が働くか、家事はどうするか、といった問題はあるが、何人かで暮らすことを考えるべきだ。
 介護も、ワーキングプアも、悲惨なケースは本人が孤独ないしは核家族的な暮らしをしている場合だ。3世代くらいが一緒に住み、兄妹の数も多い大家族なら、介護も失業も、問題がないとは言わないが、一人暮らしや核家族の場合よりも、ずっと容易に吸収できる。
 考えてみるに、大家族という暮らし方は、生活のいろいろな面で規模の経済が働く生活方式だ。規模の経済を捨てて、能率を下げて暮らすのが一人暮らしだともいえる。
 「父親の世代よりも貧しい息子世代」が多くの家族で現実のものになりつつあるこれからを考えると、「核家族はぜいたく」なのであり、経済的に余裕のない場合は、何らかの規模の経済が働く暮らし方を考えるべきなのだろう。
 大家族も一つの暮らし方かも知れないが、単純に昔に戻るのは難しいかも知れない。当面考える価値がありそうなのは、たとえば高齢時に友人と一緒に過ごせるような施設かもしれない。また、若いときのルームシェアの方法についても、「作法」を確立する価値がありそうだ。寮や下宿のようなものについても、新しい形があるかも知れない。たとえば、寮のメンバーは同じ会社でない方が気が楽かも知れないし(同じ趣味とか同窓とかがいいかも知れない)、家族で住める寮で、家事部分になにがしか規模の経済を働かせる方法もあるだろう。
 いずれにせよ、これから老いる、たとえば私の世代以下の多くの人は施設で超高齢期を過ごさねばならない可能性が大きいのだから、他人と距離を取るばかりでなく、他人と上手くやっていく方法を学ばなければならないだろう。
 尚、高齢化社会についての勉強会では、相続税を強化することが必要であり、それで物事はかなり「上手く行くのではないか」という結論が出たことをご報告しておく(詳細は別の機会に)。
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押尾学、酒井法子両容疑者の(悪しき)「胆力」のちがい

 押尾学容疑者と酒井法子容疑者がそれぞれ禁止薬物の使用で逮捕された。
 当ブログには、禁止薬物の使用を弁護する意図もないし、両容疑者に対して法的な罰以上の処罰を加えようという意図もない。以下で考えてみたいのは、想定外の「大変な」事態が起こった場合の、人間の対応力だ。
 二人のケースは、この点で相当に興味深い。押尾容疑者のような場面に至ったら、或いは、酒井容疑者のような場面に至ったら、私は、あるいは読者ならどのようなことを考えて、何が出来るのだろうか。

 何れのケースについても、読者も私も「そもそも、こんなことはしない」筈なので、アツクならずに考えてみたい。

(1)押尾学容疑者のケース

 報道から推察するに、押尾学容疑者のケースは以下のような感じだろうか。

「自分の魅力の故かどうかはともかく、素敵な異性が(←よかったら、女性も同様なケースを考えてみて下さい)、結婚していて子供もある私に、とことん付き合ってくれるという。私は、知り合いの社長さんから自由に使っていいと言われた部屋の鍵を持っているので、ここに連れ込むことにした。これを使って×××すると素晴らしいと言われているイケない薬を使って(注:どちらが使用を持ちかけたのかは、現時点で、明らかではない)、×××をしていたら、相手の様子がおかしい。泡を吹いて、気を失ったようで、心臓に耳を当てると、心停止しているようだ。体温も、下がってきているような気がする。自分は、禁止薬物をやってしまった芸能人で、配偶者と子供がいる。さあ、どうしよう・・・・」

 薬物で判断力が無くなっていないとして、この状況で、何を考えるだろうか。
 私のような小市民なら、「これで仕事が出来なくなる」とも考えるだろうし、「不倫がバレる、ああどうしよう・・・」とも考えるだろう。しかし、「死にそうな相手が、本当に死んでしまったら、かなりまずい」とも考えるのではなかろうか(実際に、こうした修羅場を経験したわけではないので、想像に過ぎないが)。
 何はともあれ、救急車を呼ぶのではないだろうか。素人が心臓マッサージなどしても、蘇生するとは考えにくい。蘇生しなければ、その場にいた自分は、最悪の場合殺人の容疑をかけられるだろう。蘇生の成否には一分を争う。
 盤石の自信はないが、これくらいなら、できそうな気がする。
 そこで、救急車が来るまでにどうするだろうか。
 事務所に電話して相談するということは、あるかもしれない。明らかにマズい事が起きてしまったわけだが、事務所は何かを考えてくれるかも知れない(この際に、いけないけれども最大限の期待として、誰かが身代わりになってくれたり、何らかのもみ消し工作をしてくれるかも知れない、とも考える可能性は否定できない。ただ、さすがに、それは甘いと思いつつも、事務所が何らかのダメージコントロールをしてくれるかも知れない、というくらいのことを考えそうだ)。だが、さすがに、人が死んでしまったとすると、事務所に出来ることは限られているだろう(押尾容疑者ではなく、事務所を守るのが精一杯だ)。
 女性何人かに聞いてみた結果、押尾容疑者の場合、何が一番拙かったかというと、「死にそうな相手を放っておいて、マネージャーを呼んで、逃げたのが許せない」という声が多かった。それは、そうだろう。「相手」でありながら、死にそうな相手を放っておいて、自分はその場から居なくなる、という行動は卑怯と言われても仕方がない。
 相手が死んでしまっていて、自分が禁止薬物使用で実刑を受けても、その時の対処が良ければ、たとえば、何年か経った後に、何らかの映像作品の俳優というくらいでなら、復帰できるかも知れない。もちろん、刑期を終えた後は、俳優以外の何らかの仕事に就くことは出来るかも知れない。人生を捨てるには、まだ早い。

 このように考えられなかった場合はどうなるのだろうか。
 逃げる、ということを考える人はいるかも知れない。しかし、たぶん逃げ切れないし、後の刑を考えるとしても、それは最悪の選択だろう。
 何とかしなければならない、と考えて、マネージャーに連絡した点で、たぶん、押尾容疑者は最悪に徹底的なワルではない。まあ、かなり悪いが、そうも考えられる。
 「逃げない」と決めたら、後はどうか。
 正しくは、ダメージ・コントロールを考えるべきだろう。先ず、人道的にも、イメージの上でも、相手の側にいなくては拙い。マネージャーと一緒でもいいから、一緒にいるべきだった。遅くても、救急と警察を自分で呼ぶべきだった。この点は、マネージャーと相談しなかったのだろうか。

 状況を想像して考えるに、押尾容疑者は、腹の据わったワルでないのが少し幸いだが、危機的状況に対応することが苦手な「ビッグ・マウス&チキン・ハート」だったようだ。何だか、サエないなあ・・・。
 
(2)酒井法子容疑者のケース

 事実関係が十分明らかになっていないので、以下は筆者の想像であることを、お断りしておが、たぶん、以下のような状況か。

「覚醒剤を調達しに行った配偶者から電話が掛かってきた。警察に職務質問されているので、ともかく来て欲しいと言う。あいつは、頼りない。バレては大変だから、ともかく行ってみよう。所持品を検査するという。何とか、逃れるすべはないか。・・・・。あいつが持っているのが覚醒剤ということがバレてしまった。私は、できれば、これを知らなかったことにしたい。まして、私が覚醒剤を使ったことがバレては、決定的にマズい。ともかく検査からは逃げなければ。そうだ、私には小さな子供がいた!・・・・。ともかく、薬物反応が出る期間は、身を隠して置く方がいいのだろう。・・・・。ニュースを見ると、吸引器具が見つかり、DNA鑑定で私が使った事実が確認されたという。逃げ切れまいし、逃げ切れたとしても、ろくな人生ではないだろう。いや、そもそも、逃げ切れることはあり得ない。だとすれば、自ら出頭する方が、刑も軽いし、世間のイメージも、最悪から少しは改善する可能性があるかも知れない」

 酒井容疑者の場合、先ず、警官と2時間近く、渡り合うところが非凡だ。何とかごまかしが利くと思ったのだろうか。
 一つの可能性は、自宅から覚醒剤の痕跡を消し、自分も雲隠れして、自分だけしらばっくれる、という選択肢だが。その後に、世間に出て何とかなるとも思えないし、隠れきることも難しいだろう。しかし、この辺りのことは、瞬間で考えられるものではなかろう。
 私のような凡人の場合、配偶者が警察に目を付けれられた時点で、しらばっくれることを諦めそうだ。上手くできなかった訳だが、自分で対処しようとする酒井容疑者の胆力は凄い。
 しかし、ごまかしきれなかった段階で、相手の隙を突いて逃げることを画策するところが、再び非凡だ。
 逃走の意図は、現時点ではまだ分からない。覚醒剤を抜くまでの時間を稼ごうとしたのか、海外にでも逃げようとしたのか。
 よく考えると(ただ、普通は、よく考えないと分からないことだろうし、考えるのに時間が掛かりそうだ)、ごまかすのも、逃げるのも、上手く行きそうに無いわけだが、その時その時で、何とかなる可能性を求めて、相手(警察!)と勝負するのだから、これは凄い。



 尚、私は「のりピー」のファンではないが、彼女のファンが居て、このようなことがあっても、刑期を終えた後の彼女の再起に手を貸したい、と思っている人がいるとすれば、その気持ちは尊重したい。幸い、そのようなことはないのだが、私がかつて好きだったアイドルが、このような事態に立ち至ったとしても、自分にできることなら、再起には協力したいと思う。ファンはアイドルが大切なのだから、アイドルは自分を大切にして欲しい。

 何ともひどいことになってしまったが、酒井容疑者も、人生を捨てるには及ばない。十分な償いを経た後には、再起する権利があるし、可能性もあるだろう。



 二人の容疑者をキャスティングして映画を撮るなら、「極道の妻たち」のような映画で、酒井容疑者が岩下志麻さんがやったような「姉さん」、押尾容疑者は「気の弱いチンピラ」とか「ヤクザの親分の甘やかされて育った不出来な息子」といった役になるのだろう。共に地で行けるので、脚本さえ良ければ、かなりいい映画になりそうだ。

 ところで、別の観点から二つの事件を考えると、禁止薬物があまりに簡単に手に入る現状が最大の問題だ。
 「所持」で罪になるのだから自分で試してみるわけにはいかないのだが、MDMAも覚醒剤もお金と意思さえあれば、たとえば六本木で、普通の人が調達できそうな感じがする。
 酒井容疑者のような腹の据わった使用者もいるわけで、禁止薬物に関する「浄化」は容易ではない。
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男の背中ぐらいしか撮るもののない時代

 デジカメの普及と高性能化で、写真はずいぶん撮りやすくなった。特に、普通の生活する人々の表情やしぐさなどを撮るスナップ写真は技術的に簡単になった。しかし、写真を撮ること、さらにその写真を発表することは、以前よりも格段に難しくなっている。
 私はメカとしてのカメラも出来上がった写真そのものも好きだが、今のところ写真を使って他人に向けて表現したいテーマがあるわけではない。ただ、社会的なコンテクストの中での人の表情や動き、あるいは生活の様子などを画像としてコレクションすることには意欲がある。敢えて作家でいうと、ウォーカー・エバンスの写真が好きだ(近所のアート専門の古本屋で買った「THE LOST WORK」という写真集がいい)。
 カメラを持って歩いていると、撮りたいものがたくさん目に入る日もある(一方、ぜんぜん撮りたくならない日もあり、共に原因が分からない)。
 しかし、普通の人の表情やしぐさを撮る上では、誰と特定できるような形で撮られたくない画像を撮られない権利とでもいうべき「肖像権」が写されるの側にはあるし、出来上がった写真の使い方についても、(1)私的使用、(2)公開(Webや印刷物、コンテスト応募など)、(3)商業(的)利用(被写体の「パブリシティー権」に関係する)のそれぞれのレベルで、超えなければならないハードルがある。特に、Webの場合、ブログなどにアップした段階で広く一般に公開したことになるので、手順の簡単さや私的な感覚に比して、起こる問題が大きい場合があるので、注意が必要だ(参考文献:日本写真家協会編「スナップ写真のルールとマナー」朝日新書)。
 加えて、撮り方によっては迷惑防止条例違反の可能性も生じる。いつのニュースだったか忘れたが(今年のニュースではある)、スーパーマーケットのような建物の中で着衣の女性の臀部を写して、迷惑防止条例違反で逮捕された人物がいた。どんな撮り方をしたのか、どのように撮れたのかが分からないので確たる事は言えないのだが、写された側は気持ちが悪くて不愉快だったろうが(これはこれで気持ちは分かる)、写した側は、顔が分からないから誰だか特定できないのだし、公共の場所で普通に(下から写したりせずに)写しているから問題ないと思っていた可能性がある。
 この件については、誰のものだか分からないとしても「尻」は他の誰のでもないその女性の尻なのだから、女性の側の「写されたくない」という権利が尊重されることに、私は賛成だ。
 しかし、迷惑防止条例に抵触する場合、肖像権の問題のように、後で画像を消すとか消さないとか、発表しないからいいだろうとかいった交渉の余地なく有罪になる可能性があるわけで、悪い可能性を考えると、着衣の後ろ姿といえども女性を撮るのは怖い。
 人物を正面から撮ると顔が分かるので肖像権に抵触する可能性が大きいし、後ろ姿でも女性は撮れない、となると、人物が主題の非演出のスナップ写真は男の後ろ姿を撮るしかない。写真家の森山大道氏なら、男の後ろ姿だけで十分写真になるかも知れないが、凡人は男の背中だけでは作品にならないだろうし、写欲も湧くまい。
 写真好きのアマチュアはどんな写真を撮っているのだろうか。「アサヒカメラ」8月号のコンテスト(モノクロプリント、カラープリント、カラースライド、組写真、ファーストステップの5部門)の写真を数えると、入選作約100枚の中で、被写体の許諾が必要と思われる写真(家族やモデル撮影を除く、一般人と覚しき人が被写体で、本人が特定できる写真)は、たったの9枚だった。かつてよりも、明らかにスナップ写真が減っている。尚、同誌に限らず、写真雑誌のコンテスト応募規定には肖像権、著作権に関する注意があるのが普通で、「アサ・カメ」にも「スナップ等で人物を撮影される場合には、コンテスト応募の許諾を得てください」とある。
 一方、名作の誉れ高いロバート・フランクの「THE AMERICANS」は私が生まれた1958年に最初の版が出たようだが、全83点中、先の「アサヒカメラ」と同様の基準で数えた「同意のいるかもしれない写真」は50点にのぼる。もちろん、何度見ても見飽きない素晴らしい写真群だ。
 肖像権を制限すべきだという意見を現在持っている訳ではないし、現状の各種ルールははそれなりに筋が通っていると私は思うのだが、この半世紀の間に、写真が失ったものもまた大きかったことに気付かされる。
 余談だが、我が長年の愛読誌「アサ・カメ」の編集長氏は、風貌・ファッション・ご性格の何れに関しても存在自体が作品ともいうべき強烈な個性をお持ちの方で、何とも写欲をそそられる極上の被写体だ。私は、何度か撮影の機会を得ていて、包帯が巻かれた痛風の足などを撮ったなかなか撮れない(?)写真も持っているのだが、本人の許諾を得るのが怖くて、同誌のコンテストには応募できずにいる。拙作をお見せしたいのはやまやまなのだが、Webという媒体がまた厄介でなので、それもかなわない。
 もちろん、何れも「しかたがないこと」なのだ。
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