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検察とマスコミの癒着

今の段階では事実かどうか分からないのだが、さるマスコミの関係者から、「明日(26日のことなので、今時点で正確には、今日だ)、耐震偽装の関係者が一斉に逮捕されることになっているので・・・」という連絡を貰った。なぜ、マスコミが、重要容疑者の逮捕のタイミングを(かなりの確信を持って)知っているのか。

そういえば、ライブドアへの強制捜査についても、NHKが実際のガサ入れよりも先に報道を流す失態を演じて、東京地検に大目玉を喰らったというニュースの記憶がまだ新しい。しかし、地検とNHKの間では、捜査の内容を先に知っていたNHKがフライング報道したのが悪いとしても、世間的には、重要な捜査情報を、メディアとはいえ、一民間機関に流した地検こそが悪いということになるのではなかろうか。

伝聞の話で、根拠が定かでないが、ライブドアの幹部社員は、ガサ入れの直前に、「うちは、近々ガサ入れされるらしいから、うちの株は早く売った方がいいよ」と親しい友人に伝えていたらしいという噂を聞いたこともある。たとえば、メディアが強制捜査の情報を掴めば、メディアの担当者から親しい知人に情報が漏れることがあるだろうし、メディアとしても裏を取ろうとするだろう。

ライブドアの件に関しては、地検が明らかに「まずい」のではなかろうか。

それにしても、ライブドアにしても、耐震偽装にしても、こうした情報がメディアに流れる訳は、(推測だが)、地検が自分達の活動を効果的に広報したい(都合良く、且つ、効果的に、「手柄」になるように報道して欲しい)と思うから、守秘を条件に、捜査情報の一部を洩らすようなことが日常的にあるからではなかろうか。つまり、検察とメディアの癒着だ。また、この場合、メディアの側の担当者は、ニュースを「他社に抜かれる」ことが最大の恐怖であるサラリーマンだから、情報提供にかんしてさじ加減の出来る地検から見ると、全く簡単に取り込める相手ということだろう。

こうした「癒着」には、情報漏れの可能性がつきまとうし、報道に偏向をもたらす可能性もあるので、明らかに、好ましいことではない。しかし、これを批判しようとしたときに、批判を届けることの出来るメジャーなメディアが存在しないという難しい問題がある。

それにしても、耐震偽装に関しては、ガサ入れも、逮捕も、何とも遅い。ガサ入れや逮捕の主な目的は、証拠隠滅の回避の筈であるが、耐震偽装関係者には、証拠を操作する(隠すなり、改竄するなり)、相当の時間が与えられたことは疑いない。偶然であるのかも知れないが、民主党のメール問題が噴出している間は静かにしていて、千葉の衆院補欠選挙の投票が終わってから、やおら逮捕ショーに踏み切るという検察の行動タイミングも作為的な感じがする。

ちなみに、報道としては、「なぜ逮捕されたか」「これからどうなるか」ということに関する報道が重要であって、「どのように逮捕されたか」という映像などは、”あればなおいい”という程度のものだろうが、テレビは映像を流したいし(検察も正義が行動する様を流して欲しいし)、新聞も写真のシャッターチャンスを競う。

検察ピープルもある意味ではサラリーマン達だから、現実問題としては、彼らにだけ高潔な倫理を求めても仕方がないのかもしれない(本当は、倫理だけは求めたいが)。

この状況の中で、何が一番の問題なのかということに関しては、複数の意見があり得るが、私は、こうした検察を批判する報道を行わないメディアの連中(記者クラブで草をはむ羊たち)の根性が一番の問題だと思う。彼らの根性の中で、「ジャーナリズム」の骨格をなすべき鉄筋が不足して、サラリーマンというセメントの重さに耐えられなくなっている、ということに違いあるまい。日本の社会には、現在、驚くほどに自浄能力が無い。
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「お疲れ様」という挨拶について

「お疲れ様です」という言葉が、頻繁に挨拶に使われるようになったのは、いつ頃からなのだろうか。ビジネスマナー的には、目上の人に言っても失礼でない、無難な挨拶とされているらしい。

しかし、人間は、いつも疲れているわけではない。顔を合わせるたびに「お疲れ様」という挨拶には、時々違和感を覚えることがある。

仕事が終わって、帰ろうかという時に、「お疲れ様」は構わない。一般のオフィスでも、テレビ局でも、まあ、自然な挨拶だ。しかし、たとえば、これから仕事をしようかという時に、「お疲れ様」、は無いような気がする。出鼻をくじかれる。「俺はそんなに草臥れて見えるか」、とまで拗ねなくとも、もっと前向きな挨拶はないかと思う。そして、メールなどの、顔を合わせないコミュニケーションの場合には、もっと調子が狂うことがある。

しかし、状況に合わせて一々挨拶を変えるということは面倒なことかも知れないから、挨拶はこれ一つでいい、と認め合うことが、現代的な「協調性」なのかも知れない、とも思う。相手は、自分の存在を認めて挨拶をしているのだから、それだけで十分と言えば十分だ。これ以上を求めるのは、贅沢というものかも知れない。

「お疲れ様」が、丁寧な挨拶であり、失礼ではない、という通念の背景には、たぶん、立派な人は常に疲れるくらい熱心に働いており、そのことを認めることが大切であると同時に、そのことに感謝の意を表したいというニュアンスが、この言葉にはあるのかも知れない。また、多くの人が、自分はいかに忙しいかを強調しがちだから、その前に、「忙しくて、お疲れ様」と認めてあげること、忙しさに話を向けてあげることは、親切なことなのかも知れない(私は、お節介だと思うことがしばしばあるが)。

しかし、疲れていなくても他人の役に立つことはある。また、これから、ということを考えると、疲れていない方が、気分もいいし、他人の役にも立つではないか。「お疲れ様」という挨拶には、何となく、相互に現状満足を確認し合うような、重苦しさがある。

では、「お疲れ様」を止めるとして、どう挨拶すればいいのか?

「こんにちは」、「さようなら」で十分ではなかろうか。これらの方が、お互いが対等な感覚でサッパリしている。特に、目上、目下が離れている場合には新鮮でいいと私は思う(私の感覚がヘンなのかもしれないが・・)。

もちろん、仕事の終わりの「お疲れ様」は、まあ悪くない(「ありがとうございました」とか「また、明日(今度)」という方がもっといいかも知れないが)。

しかし、何はともあれ、「こんにちは」の代わりの「お疲れ様」はよろしくないと思う。どうだろうか?

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ゴーストライター

「『投資バカ』につける薬」(講談社)という本が出来上がった。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062820102/qid%3D1145518535/250-6775549-4639426

表紙はたいへん洒落たイラストで、これまでに出した本の中でも出色の出来映えだが、帯に比較的大きく私の顔写真があって、こいつこそが「投資バカ」だ、という佇まいの本になっている。書店で見ると恥ずかしかろうが、平積み期間は短いかも知れないから、恥ずかしい思いが出来る期間は「ありがたい」と思わねばならない。

ゴーストライターという仕事は、皆様、よくご存じだろう。この本は、「山崎元著」だが、他人が相当量の文章を書いたという意味では、「ゴーストライター」による、と分類して良いのかも知れない。ただし、後書きには本の成り立ち(私が話し、ライターがまとめ、後から私が手を入れた)とライターのお名前も書いてあるので、「ゴースト」=「幽霊」というのは適当でないかも知れない。

これから本を作る可能性のある方のために、工程を簡単にご紹介しておくと、先ず、ライター・編集者に対して主に私が内容を語るレクチャーというかインタビューというか、要は「話」の時間を、1回3時間くらい、4回取った。次に、1~2ヶ月で、ライターが文章をまとめてくれたので、これに対して、私が二度手を入れた。手を入れる期間は、それぞれ一週間くらいで、実質は、一回目が8-10時間、二回目が3-4時間くらいだ。それ以外に、挿入コラムや、前書き、後書きを自分で書いている。私が使った時間は、自分で書く場合の、たぶん三分の一くらいだろう。

手入れは、かなり徹底的にやったので、いわゆる「赤」が入っていないページは目次や章のトビラ以外にはたぶんないし、多くのページは真っ赤になった。1ページに十数行くらい加筆した箇所が十数カ所ある。今、できあがりの本を読み返すと、文章の癖はほぼ完全に私のものになっていると思う(文章鑑定力に自信はないが、何せ、私は本人だ)。もともとの文章は、かなり丁寧な話し言葉的書き言葉で、私の日頃の文章の癖とは違ったものだったので、好みに合わせて修正した。この出来上がりなら、「山崎元著」と言っても自分として違和感はない。

この種の作り方で書いた本は、もう一冊ある。倉田真由美さんとの共著の「ダメだ! この会社」(小学館)なのだが、この本についても、ライターのお名前は後書きに書いておいた。そういえば、amazonのこの本のレビューの中に「山崎元特有のもってまわったいやらしい文体も、他書ではイヤミたらしく感じるものだが、本書の場合はうまく機能している。」という評があった。「山崎元の文体は、山崎元以外が書いた方が機能する」のかも知れない。尚、私の本のレビューなどはまだマシな方であり(過分のお褒めと思う物もあるし)、本を書くと、この程度のことは言われるものなので、いちいち目くじらを立てないよう、あらかじめご注意申し上げておく。amazonのレビューに怒り心頭の評論家のコラムを読んだことがあるが、まあ怒っても仕方がないよ。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875456/qid%3D1145520263/250-6775549-4639426

自分としては、他人が下書きした物も、自分が一から書いた物も、最終的に自分で赤を入れて、「山崎元著」で出すことを納得した場合は、自分の「著書」であると認識している。但し、痛くもない腹を探られるのは不本意だし、他人の代わりに文章を書くという仕事は非常に大変なものに違いなかろうと思うので、後書きに、「ライター」であることを明記して、ライターのお名前を書くことにしている。

世の中には、本を書く以外にも忙しく、物理的にこんなに書けるはずがない、というペースで本を出される方もいるが、多くは、上記のような工程で作られたものだろう。単行本の打ち合わせや、雑誌の取材を受けながらの雑談で、「私は、○○さんのゴーストをしています(或いは、したことがあります)」と名乗るライターも少なくない。「ゴースト」を使った時には、ゴーストへの感謝も込めて、使ったと堂々と書けば良さそうなものだと思うが、どうなのか。ある程度以上の「量」を発信するためにはやむを得ないことだし、出来上がりに責任を持てばいいのだから、恥ずかしいことではあるまい。

但し、ゴーストを使うことが常に上手く行くとは限らない。内容がスッキリ理解できていないライターの場合や、論理展開の感覚がちがう人の場合、文章を直しながら、「これは無理だ」と思ったり、「申し訳ないけれども、ボツ」と決断したりしたことがある。後者についても、丸々一冊の原稿が出来てからボツにしたケースが記憶にある限りでも二回ある。

有名な「バカの壁」(養老孟司著、新潮新書)が、やはり養老先生以外の方が下書きしたようだから(本に書いてある)、セールス上は、ゴーストライターに書いて貰うのも悪くないのかも知れないが、作業中の気分としては、自分で書くのが無難ではある。ただし、その場合は、時間をどのように割り振るかに関して、ある種のプロジェクトマネジメントの技術と、もちろん自己管理が重要になる。
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テレビ出演のコツ?

さる親しい友人がテレビに出るというので、「何かアドバイスはないか?」とメールしてきた。筆者は、時々テレビに出るといっても、ニュースなり情報バラエティー番組のコメンテーターとして時々出る程度であり、コメンテーターは番組中では言わば「お客さん」だから、それほど難しいことをしているわけではないので、この質問に回答するには明らかに役不足なのだが、かなり親しい友人からなので、以下のように、日頃考えていることを返信してみた。

ポイントを二つ述べているのだが、これらは、筆者が上手くやっていること、というよりは、「なかなかうまくできないこと」について述べたものなので、テレビで筆者を見かけることがあった際には、読者は、「ああ、やっぱり、上手くできないのだな」と思って、笑って欲しい(笑ってくれる視聴者も、有り難い視聴者である)。

■<友人への回答>
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① 要点その一は、目線をうろうろさせないこと。

「目線」は、ディレクターがなかなか的確に指示してくれないので戸惑うことが多いのですが(「自然に」と言われても、何が自然か分からずに却って硬くなる・・)、”複数の聴衆の前で、司会者と自然に話をしている”という気分で目線を動かすのがいいと思います。カメラ目線に固定すると、偏執狂みたいで変な感じになりますし、目線がうろうろ動くと、これまた落ち着かない変な感じになります。ちなみに、私がよくやる失敗は、首ごと動かさずに目玉だけを動かすことです。これは、少々慣れてきて、時間や、モニター画面の映り方の様子など、周囲をチェックする余裕が出てきたことでかえって起こっているのですが、首の動きはそのままに、目玉だけ左右することがあり、後から録画を見ると妙な感じです。司会者と自然に話しているつもりで、首を柔軟に動かしましょう。カメラの方で追いかけてくれます。撮影前に、首を左右にゆっくり回すといいかもしれません。

② 要点その2は、結論を先に話すこと。

どうしても、前提条件→理由→結論、あるいは、理由の前に、反対意見とそれがダメな理由などを入れて、結論を最後に持って行って、論理的に話したくなるのですが(きっと大先生もその傾向がおありでしょう)、これは、テレビ向きではありません。生の場合は時間が足りなくなることがありますし、収録&後から編集の場合でも、編集担当者が論理を十分追えないことが多いので、先ず、言いたい結論を極端であってもいいから言ってしまって、その補足、理由、あり得る反対意見へのコメント、etc.と続けるといいと思います。これは、一般的な賢い人の話し方とは異なるので(語順的には、女性によくある話し方ですね)、抵抗感がありますが、テレビの発言の深みとは、まあ、この程度のものであり、これを前提に何かを伝えなければならないと割り切る方が良いようです。話し方という点では、「早口」(これも私の陥りやすい癖ですね)にならないことと共に、生ではなくて収録の場合には、「たくさんしゃべりすぎない方がいいこと」もお伝えしておきます。たくさんしゃべると、不適切な部分を編集で使われるリスクが増します。どうも失敗がカバーできることのメリットよりもこちらの方が多い。また、同じ質問を何度も訊いて、自分の気に入るようにしゃべらせようとする不届き者が時々いますが、同じ質問には、「さっきお答えしたでしょ!」と答えてやって、質問の意図を質した方がいいことがあります。ちなみに、生の方が失語や失言のダメージがでかいのですが、私は生の方が収録よりも圧倒的に好きです。
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「生が好きだ」などと生意気なことを書いてはみたが、「NEWS GyaO」の昨夜のオンエアをPCで見てみると、何のことはなく、①も②も上手くできてはいない。まあ、諦めずに、気長に直していこう。
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量的緩和政策に対する評価など

量的緩和政策とその解除については、相変わらずメディアでの言及も多いし、私も(私は、いわゆる「エコノミスト」ではないのだが)見解を求められることがある。また、このテーマに関しては、楽天証券で、秘書的な仕事をしてくれているTさんが、雑誌の記事などをピックアップしてくれるので、しばしば他人の見解を見るのだが、最近のもので面白かったのは、「週刊エコノミスト」4月18日号の伊藤隆敏氏と香西泰氏のご意見の相違だ。

伊藤隆敏氏は、01年3月以降、日銀が大量に資金供給したのにインフレにならなかった理由として、それだけデフレ期待が強かったからだとして、もっと早く日銀がETFやREITなどを大胆に買うべきだったと言っておられる。しかし、貸し出しが伸びなかったのは事実だと認めた上で、だからと言って「量的緩和政策を実行しても意味がない」ということにはならないと述べておられて、それは「期待に働きかけた効果が大きいから」と説明されている。また、興味深い別の論点として、「私は、資産価格を目標に金融政策はとれないという意見です」と述べ、「もし、ミニバブルすら絶対に阻止と日銀が行動すれば、またデフレに戻るでしょう」とも言っておられる。

対して、香西泰氏は、物価については、景気の回復が物価に反映されるのであって、金融緩和だけで物価は上昇しないと述べておられる。また、03年、04年(デフレが続いている時期である)の景気回復について、「企業のリストラ成功の結果」と述べておられ、03年6月の日銀短観で大企業・製造業が、売り上げ・輸出共に減少を予想したのに、経常利益は前年比十数%増になったことが印象的だった(減収しても利益を上げる自信を持ち始めた事例として)と述べておられる。また、「物価さえ落ち着いていたらバブルが起きてもいいのでしょうか」と述べて、CPIだけを見る金融政策はバブルを助長しやすいことに警告されている。

何れのご意見にも「なるほど」と思わせる点と疑問点があるが、私の意見は、香西氏のご意見に近い。

伊藤氏の発言の中で、速水前日銀総裁がわざわざ「効果がない」と言って導入したのだから、市場や国民はデフレが解消すると思わなかった筈だという指摘は、その通りだと思った。確かに、政策を打ち出す本人が効果を打ち消すのではいけない。当時、ある知人との議論の中で、インフレーション・ターゲットについて、一番反論しにくかった意見は、「仮にダメでも、害がなければ、一回やってみるといいじゃない」というものだったことを思い出した。

もっとも、ETFを買ったり(形を変えた株価買い支えである)、REITを買ったりといった、日銀の資産市場への直接介入には、どうも賛成しにくい。私は、一方で、資産バブルを起こすことに対しては警戒的なのだから、公的介入に対する賛否に「買い」と「売り」で非対称性があるとの批判が可能かも知れないが、たとえば、銀行からマーケットインパクト無しで持ち株を引き取ってやるような日銀の株式買い取りには賛成できない(たとえば、銀行が普通の市場参加者として株を売ってくれれば、当時これから投資に参加する個人は株をもっと安く買えたのだ)。

香西氏の発言で、金融緩和の弊害として「M&Aが簡単に行えるようになったこと」を挙げておられる点には賛成できないが(上場しているのだから、やりたいものは、やらせていいではないか)、その他の、①金融緩和だけでインフレになった訳ではないこと、②企業業績の好転がその後の景気回復に大きなプラスとなっていること、③資産価格にも注意が必要なこと、については概ね賛成だ。

①金融緩和が、特にゼロ金利まで至った後に、これだけでインフレを起こすことが難しかった、という香西氏のご意見は、現実に近かったのではなかろうか。少なくとも、金融政策の波及経路と効果は、ゼロ金利以前と以後とでは異なるのではないだろうか。

当ブログにご意見を寄せてくださった「韓流の好きなリフレ派」さんのご指摘では(「リフレ派を批判した山崎元氏のその後」へのコメント参照)、「貸し渋り仮説」はもうだれも支持しないとのことだったので、私は恐縮して、参考文献(「論争 日本経済の危機」)を読んでみた。確かに、「貸し渋り仮説」は銀行貸し出しが伸びなかったことの説明として少なくとも弱いように思われた(同時に「追い貸し仮説」は話にならないくらいリアリティーがない。銀行側で資金に余裕のある時に、追い貸しをするからといって、優良プロジェクトへの貸し出しが抑制されるはずがない)。

この状況で強調されるべきは、むしろ「(優良な借り手の)借り渋り」であったろう。これは、企業のキャッシュフローのポジションが高水準だったことに対応するが、その原因として、デフレ(物価下落)期待も一部あるとしても、企業が優良プロジェクトと確信できるような投資案件に対応する需要・アイデア・積極性が企業の側に無かったことではなかろうか。もちろん、デフレによる実質金利の高止まりは、投資抑制的に働くが、今回の実質で2-3%かというような金利状況であれば、企業にとっては、この前後の1、2%の実質金利の差よりも、プロジェクトの採算性に対する自信の方が大きな影響を持ったと思う。バランスシートの整備や自信回復にかかる時間や、新たな需要(たとえば薄型テレビとか)の発見と対応にかかる時間など、実物的要因が大きかった(「外需」という幸運とともにだが)のではないだろうか。

但し、当ブログに飯田泰之さんが寄せて下さったコメントのように、例えば通貨発行益を財政再建に使うような形で、資金供給に対してこれに見合う需要の追加を富の配分上は比較的ニュートラルな形で行う方法があり、いずれは政府と中央銀行がインフレを起こすことが出来ることを強調して、期待に働きかけたなら、問題がもう少し早く片付いた可能性はあっただろう(少なくとも速水さんの嫌々方式よりは・・)。

03年、04年と企業業績がデフレ期待が存在する真っ只中で回復したことは、相当程度企業の自律的な回復と評価していいのではないだろうか。その後、企業は、設備投資、人材採用と総需要拡大に貢献しているから、今回の景気回復が、外需(幸運だが)と共に企業の利益回復が主体の景気回復であり、その前に、企業活動の低迷による不況(ひいてはデフレ)の側面が色濃くあった、という考えは自然ではなかろうか。

この点、「韓リフ」さんのご指導によると、企業の構造問題が不況の原因だという説は今や誰も採らないとのことで、ここでも、先の参考文献(「論争・・・」)を読んでみた。同書の野口旭氏の論文(第二章。これは小気味よくてためになった)によると、この時点で、構造問題が不況の原因とする考えの実証研究は、宮川氏によるTFP(全生産要素による生産の効率性。どうも、この概念には馴染めないが・・)をベースとしたものが唯一に近いものらしく、これが成功していないこと(私も成功していないと思った)で、「供給要因が不況の原因ではない」ということになるらしい。(この辺り、2004年の本を、今読んでいるようでは、いかにいい加減な「評論家」でも些かいけない)

この辺りは、正直なところ「TFP」に馴染んでいないので、自信を持った議論が出来ないが、企業側の要因として重要だったのは(企業側の要因を不用意に「供給要因」とも呼んだ私の用語法は不適切だったかも知れない。企業が需要に与えた影響は大きかった。但し、それは供給側の改善による利益回復が波及したものだということではなかろうか)、バブル崩壊の影響による業績下落からの自信回復や(また、企業の株価自体、90年代を通じてなかなか十分には下落しなかった)、これまでのものの生産性改善よりも次の需要の発見までに要した時間、さらに積極的な経営展開に要した時間(過去に失敗した経営者が居座ると、過去の清算と否定、新しい経営への展開は確かに難しい)などが必要だったのだろう(「素早い清算」が出来れば、早期の回復に貢献したはずだ)。もちろん、この辺の議論には、最終的に、どのようなデータでこれらの仮説を実証するかという大問題がある(だから、TFPによる研究も立派な業績なのだと思う)。

そこで、重要になるのが、③の資産価格の問題だ。90年代の経済低迷の大半は、バブル崩壊による資産価格の急激な下落(これこそ、不連続な変化だった)と、これを消化するのに企業も消費者も時間が掛かったことではなかったか。80年代の後半、株価も地価も余りにも高すぎた。

ここで、たとえば日銀が、物価、実質金利、資産価格のそれぞれを巧みにコントロールできる方策があるわけではないが(ちなみに、資産市場のミスプライスは大規模且つ長期的に継続しうる)、資産価格にも考慮が必要ではないかという点で、先の「週刊エコノミスト」の両大家のご意見については、香西氏のご意見により多くの共感を感じる。

但し、香西氏のおっしゃる金融政策の柔軟性も重要だとは思うのだが、予測可能性の向上や、金融政策が恣意的に民間経済に介入しないようにする制度設計(どのようなルール化がいいのか私には未だ分からないが)も必要に思える。インフレーション・ターゲットないしはその変種も、そうしたルール化の一つの候補であることは否定しない(飯田泰之さんに頂いたコメントで、「不換紙幣制度という制度は徹底して人工的なシステムです」というご指摘は非常に本質的だった)。

ちょっと感想を書くつもりが思わず長くなってしまったが、この問題については、「韓リフ」さんが教えて下さった参考文献をもっと読んで(特に「構造改革論の誤解」は面白そうだ)、また時々考えてみたい。
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米長会長と

念願の米長邦雄氏とお会いすることが出来ました。番組は日経CNBCで、今のところ、4月22日に放映される予定です。尚、写真は共演者の森下千里さんに撮って貰いました(「森下さん、ありがとう!」)。

話の詳細は、オンエアをご覧頂きたいと思いますが、一緒に聞き手をつとめてくれた森下千里さんが可愛いらしかったせいか、「全ては、男女の仲が基本です」的な方向に話が進みました。

私がお訊きしたかった、羽生将棋については、①羽生さんは引退したら全くちがう内容の本を書くだろう、②彼のライバル達は羽生さんの手口にそろそろ気づいてきた、③将棋そのものは簡単に「進歩」するようなものではなく、むしろ昔に帰るような傾向もある、というようなお話でした。米長会長が真意として何を仰っているのか、私の棋力では十分に分かりませんが、大まかには羽生さんの勝負の駆け引きに関する私の仮説が支持されたように感じました。

緊張する中にも、私にとっては有意義な対談でしたが、少し心配に思ったのは、「株式会社・将棋」の経営者たる米長さんが、経営戦略について、「伝統を大切にする事が大事」とだけ仰って、ネットの発達や、国際化のための戦略(たとえば柔道のように国際化すると未来が拡がる)に関して、具体的・積極的なアイデアのご披露が無かったことです。将棋連盟には、誰か商売上手なアドバイザーが必要なように思えます。

ちなみに、ネット・ビジネス的な観点で将棋というコンテンツを考えると、ボクシングでいえばノックアウトに近いスリルがあって見物人にとって面白いものだし、見ているだけでなく参加したくなるという意味で、双方向性もあり、Web2.0時代にも十分魅力的なコンテンツとなり得る素材だと思います。

頑張れ、将棋!
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最近、家で飲んでいるお酒

最近家で飲んでいるお酒のラインナップを写真と共に紹介する。別にポリシーがあるわけではないが、何れも、蒸留所のオフィシャル物ではなくて、ボトラー(樽を選んで買い付けて、瓶詰めする業者)物である。

左から。
①コニサーズ・チョイスのアードベッグで1995年に仕込まれたもの。度数は40度で、つまり、樽出しの原酒に水を加えたものだ。この種のものを同僚の服部氏とは「水割り」と呼んでいるが、このお酒はそれなりに「煙っぽく」「ヨード香があって」「やや乳酸臭がある」90年代アードベッグの典型的な個性を備えている。これらの特徴は、字面を見ると、とても美味しそうに思えないかも知れないが、アードベッグ党には好ましい性格なのだ(乳酸臭は意見が分かれるが)。

②キングスベリーのラフロイグで1988仕込みのもの。度数は59.1度で樽出しそのまま。一つの樽から詰めた「シングル・カスク」であり、240本のうちの170番目という表示が手書きで記されている。もう飲んでしまったかと思っていたら、三日前にまだあることを発見、嬉しい誤算だった。酒質が非常にしっかりしていて、セメダイン的な強烈なインパクトと、モルトの豊かな香ばしさが同居している。ストレートで飲むと、満足度は高いのだが、そう続けて飲める酒ではない。ところが、ほんの少し水を加えると、ぱっと花が開いたように香りが開く(インパクトは相変わらず強烈だが)不思議な酒だ。残り少ないのが残念だ。

③同じくキングスベリーのスペイサイドのお酒で、バリンダロッホと蒸留所が記されている。つまり、グレン・ファークラスである。年数が経っている割に54.1度と度数が高く、甘辛いようなカラメル臭と共に、シェリー樽の風味がたっぷり着いている。不出来なシェリー樽のモルトにはガッカリすることがあるが、これは長期間熟成しているにもかかわらず、嫌な感じがない。味が濃いのでデザート的に飲んでいる。

④ダグラス・レインというボトラーの「トップ・ノッチ・コレクション」と題した酒で、「スカイ島の蒸留所」ということは、中身は「タリスカー」だ。これも、シングル・カスクである。タリスカーはスパイシーで深みのある、時にとんでもなく素晴らしい酒を生む良い蒸留所だが、このボトルは、アルコール度数50度に調整されていて、バランスが取れた優等生的な味わいになっている。全体としておとなしいが、タリスカーの深みは十分に表現されており、飲み飽きしない出来映えだ。タリスカーのオフィシャル・ボトルの20年物の方が値は張るのだが、こちらの方がずっと美味しいように思う。この道の我が師匠(神保町のバーのMさん)によると、ダグラス・レインは費用対効果が良いことが多いという。

これらを舐め舐め(チェイサーに水か炭酸水を用意している)原稿を書いているのが、我が深夜の日常だ。先日、喉の痛みのために行った病院で調べられた(頼んでもいないのに!)γ-GTPは34と、正常上限値の60に対してまだまだ余裕があった。歳(=47歳)を考えると油断してはいけないのだろうが、もうしばらく楽しんでも良さそうだ。
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米長将棋連盟会長に何を聞こうか・・・

あるテレビ局の番組で(放映が決まったら詳細をお知らせします)、私が聞き手で、女性の進行役兼聞き手は森下千里さん、セッティングはある都内のBAR、ゲストが米長邦雄将棋連盟会長という収録が今週金曜日にある。

朝にフジテレビの「とくダネ!」に出て、その後、直接収録場所に向かうハードスケジュールなのだが、米長会長にお会いできるのは、何とも楽しみだ。

私は学生時代将棋部だったので、もちろん古くから(升田幸三九段が「ムギナガ君」と呼んでいた頃から)米長邦雄氏のことを知っているし、ファンだった。また、就職してしばらくしてからのことだが、米長氏が50歳を目前に名人を取った時(1993年)には非常に嬉しくて、将棋連盟の売店に出掛けて、「名人 米長邦雄」と書かれた扇子を数本まとめ買いし、また氏の著作で著者名に「名人」と入ったサイン本をブックセンターで購入したりもした。また、米長氏は、多才な方で、著書だけとっても、将棋の本が多数ある以外に、人生相談の著書もあれば、勝負の考察の本もあるし、株式投資の本もあれば、囲碁の入門書もある。また、現在は、東京都の教育委員でもあって、教育分野でも一家言をお持ちだ。加えて、言語的な頭脳も極めて明晰なので、つまり、何をお訊きしても話題はつながる。

考えた結果、以下のような話題を取り上げたいと思った。

① 将棋というゲームの本質
私の仮説として、特にプロの将棋は、「相手を諦めさせる、頭脳の格闘技」だと思う。羽生善治氏のベストセラー「決断力」は一見、爽やかな自己啓発本だが、この本の中には同業者に対してコンプレックスを植え付ける仕掛けがさりげなく潜んでいる。そんな話を題材にして、将棋と勝負についてお聞きしたい。

② ビジネスとしての将棋の戦略
将棋連盟会長は、プロ将棋界の経営者であると同時に、アマの道場なども含んだ将棋業界のトップである。将棋というものを、どのように魅力的に売り出すべきか、その戦略をお聞きしたい。私は、ボクシングでいえばノックアウトで決まる将棋というゲーム(囲碁は大概判定にもつれ込む)のスリルをK1のように売り出すべきではないかと思っている。そのためには、もっとビジュアルにスリリングな演出を考えなければならないし、プロ同士の指し込み勝負などがもっとあってもいいだろう。

③ 中年以降に人生を盛り上げる方法
米長さんといえば、何と言っても「50歳名人」だ。本来若い方が有利な将棋のようなゲームで、なぜ、50歳を目前にしてトップに立てたのか、そのコツをお聞きしてみたい。

④ 女神に好かれて、モテる方法!
米長氏は、運を大切にし、(勝負の)女神に好かれようとする、独特の人生観をお持ちだ。おして、実績として、よくモテておられた。「チョイモテ」が流行る昨今、人生の運気を掴んで、女性にモテるにはどうしたらよいか、是非、お聞きしたい!

対談では、なかなか思ったことが聞けないものですが、何とか、一手でも多く、教えを請いたいと思っています。初めての番組の初収録なので、不安でもありますが、何といっても米長先生にお会いできるのは楽しみです。

尚、同日に、もう一本、対談を収録するのだが、こちらのゲストは、森永卓郎さん。こちらの方も大いに楽しみで、主に、「成功者・森永卓郎!」(「貧乏人の味方の森永さん」の方ではなくて)のセルフプロデュースの戦略をお聞きしようと思っている。
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