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ケインズの迷惑な置きみやげとしての「非自発的失業」

 たまには経済学っぽい話もしてみよう。

 ダイヤモンド・オンラインに「低生産・高コスト構造を自覚せよ」と題する斉藤誠一橋大学大学院経済学研究科教授へのインタビューが載っている(http://diamond.jp/articles/-/9740)。斎藤氏は「実質国内総生産(GDP)も物価水準も為替レートも、主な経済指標は『長期均衡水準』にある、と思う。長期均衡水準とは、さまざまな歪みが調整された後の実力値のことだ。日本経済は今、実力どおりの水準に落ち着いている」と述べている。
 これに対して、飯田泰之氏がtwitterで「日本経済は長期均衡水準らしい……現状を非自発失業がない状態だと考えられる人はよほどにおめでたいと思う→ 【齊藤 誠 低生産性・高コスト構造を自覚せよ】 」と批判した。
 これを受けて、斎藤氏が、①経済学者どうしなのだから公共の場で「おめでたい」などと乱暴に批判せずに直接話をして欲しかった、②「非自発的失業」という用語は厳密な議論に耐えるものではないし、先端のマクロ経済学を踏まえた上で議論をしてほしい(要約は山崎)、という趣旨の反論をして、対して、飯田氏がブログで再び反論した。この間の事情は、飯田氏のブログの記事を参照していただきたい(http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20101021)。

 お二人の間には、批判や論争の「作法」について隔たりがあるようだ。公共の場での発言に対して公共の場で批判されたことに対して文句を言う斎藤氏がひ弱なのか、飯田氏の批判が同業者として無礼なのかについては、私は、同業者ではないのでコメントできない。お二人の間の問題だし、飯田氏は若いがよく気のつく礼儀正しい青年なので、うまくやるだろうと思う。
 気になるのは、どうしてお二人の議論がすれちがっているかだ。

 第三者から見て、日本の現状は「長期均衡水準」であるか、「非自発的失業」は存在するか、の2点が論点だ。
 これは、「長期均衡」と「非自発的失業」の二つの単語の定義をはっきりさせないと決着の着かない問題だろう。
 長期均衡は明らかに前提とするモデルに依存する。どのような諸力が働いて出来たバランスを「均衡」と呼ぶのか、それが「長期」の均衡と呼べるための条件は何なのかをはっきりさせないと何ともいえない。
 現状を「不均衡」と呼ぶとすれば、それは何らかのモデルが示すあるべき状態から現状が乖離しているということだし、しかし、そもそも現状を上手く説明できないモデルは経済を決定づける要素を正しく取り込んでいないということだから、あるモデルから見て現状が「不均衡」と呼ばれるとすると、悪いのは現状ではなくモデルの方だと解釈することもできる。
 「非自発的失業」という言葉も扱いが難しい。健康で働く意思を持った人が、奴隷でも就職を制度的に禁じられているのでもなければ、現在その人にとって存在する条件で働かないというのは、概ね「自発的」選択によって働かないのだと考えることが出来る。他方、自分と同じような労働者が働く機会を持っているのに自分にはその機会がない状態とか、正しい政策が実行されていれば働けるはずなのに摩擦的失業以上の失業者がいる状態については、これを「非自発的失業」と呼びたい「実感」が存在する。

 率直にいうと、私は、「不均衡」と「非自発的」が、学生時代からよく分からなかった。今でもスッキリとは分からない。

 「均衡」あるいは「長期均衡」は、結局のところ、モデルの作り方、経済の説明の仕方のスタイルの問題だろう。(A)現状≒モデル(但し、諸々の要素全てを盛り込んだもの)+取るに足らない残差、と説明するか、(B)現状=あるべきモデルの均衡状態+均衡からの解消しづらい乖離(→不均衡)と説明するかの、趣味の問題だろう。
 論理の問題としては、昔も今も、(A)なら分かるが(B)には釈然としない。
 しかし、現実的に(A)を十分に満足させるモデルを作るのは難しそうだから、納得的な論理的前提から組み立てられたモデルを規範として、これと乖離した状態として現実の経済を説明したいと思う(B)の路線は、それなりに現実的であり、その方向への誘惑も分かる気がする。但し、(B)の場合に、不均衡に意味があるとすれば、あるモデルの均衡から、経済が何が要因でどのように乖離しているのかを説明するサブ・モデルがないと意味がないように思える(難しそうだけれども、それがキモだろうし)。

 「非自発的失業」という言葉に関しては、これは現在のマクロ経済研究者の議論に耐える言葉ではないという斎藤氏の意見に一票入れたい気持ちになる。
 摩擦的失業と非自発的失業、あるいは自発的な失業と非自発的失業は、両者を客観的に区別することが困難だ。であるなら、経済について議論する場合に、「非自発的失業」という言葉を使わない方がいいのではないか。就業していない人を表す単語として、「非就業者(率)」とか「求職者(率)」を使えばそれで十分であり、「非自発的失業」という単語を使わない方が議論に誤解やすれ違いが無くていいのではないか、と思える。

 しかし、他方で、「非自発的」と呼びたくなる失業は「多くの人に共通の実感」として存在するようだ。この実感に対して、何らかの単語を割り当てることがコミュニケーション上好都合なのではないかという気もする。うまく言えないけれども、「それ」はある、と言いたい気分だ。

 「非自発的失業」という言葉はどのように使用されているか。または、どのように使われるのが適当であるように思われるか。なるべく(完全になんてできっこないから、「なるべく」)先入観を捨てて考えてみると、いずれもマクロのレベルで、()不公平な失業か、()政策が正しければ存在しない失業が存在しているときに、どちらか、又は両方に対して、「非自発的失業」という言葉が充てられているように思われる。
 ()就業者と較べて同等あるいはそれ以上の能力があるのに雇われていない求職者が相当数いるとすれば、本来雇われているべき求職者なのに就業できていないのだから、自発的でなく無業でかつアンフェアに扱われている失業者として「非自発的失業者」と呼んでいいだろうか。
 しかし、能力の判断は主観的なものだし、普通並以上に優れている労働者を企業が既存の労働者並の賃金で雇えていないのだとすれば、それは、労働市場に於けるコーディネーションの失敗であり、概念的には「摩擦的失業」に近いものだろう。
 マクロ経済の文脈では、()正しいマクロ政策が採られていれば存在しないはずの失業が問題であり、この失業には何らかの名前を付ける実用上の価値があるのではないか。

 たとえば、斎藤氏はダイヤモンド・オンラインのインタビューの中で-1.1%のデフレに対して「確かにデフレは続いているが、年率1.1%程度の軽微なものだ」、「日本経済に惨禍をもたらすようなデフレは、データにいっさい認められない」と述べているが、この水準のデフレも実質金利水準を押し上げているし、これが長く続いたことが、投資にも消費にもネガティブな要因として働いているのではないか。
 浜田宏一先生の言葉を借りると「そもそも、不換紙幣(を中心とするシステム)は人工的に作り出されたものなのだから、その価値を調節できないというのはおかしい」。根強いデフレ期待と「ブタ積み」の問題を超えて物価をインフレに調整するのは、「簡単ではないが、まだまだ手段はあるし、究極的に不可能ではない」ということではないか。
 たとえば、現状で-1.1%ではなくて、+2%の物価上昇率があるのだとすると、現在の失業率はもっと違ったものになるのではないか、という可能性は大いに考えられるし、そうした思考を巡らせることも必要だ。
 この点に関しては、現状の政策に大きな問題があるのではないか、という認識を前提として、現状を「長期の均衡」として諦めることを拒否する、飯田氏の現実感覚を支持したい。

 業界・企業といった単位で見ると、日本の産業の現状は、確かに、決して立派なものには見えない。この点は、斎藤氏の意見に同意する。しかし、立派ではないなりにも、デフレでなくマイルドなインフレであれば、経済の状況はもう少しましで、企業も現状を改善するための余裕を持つことも出来るだろうし、デフレでなくなれば、円安にもなりやすかろう。

 結局のところ、問題なのは、政策が改善されれば就業できない求職者が減るのか否かであり、その場合に改善できると考えられる雇用の数をどう想定するかということだろう。そう考えると、この意味での失業者は「非自発的失業者」と呼ぶよりは、たとえば「政策的失業者」とでも呼ぶ方が、誤解が少ないのではないか。
 
 勉強熱心ではなかった経済学部生だった私は、「非自発的失業」という言葉はケインズが発明したと思っているのだが(初出はどの論文・著作なのだろうか?)、だとすれば、ケインズは、不正確なのに感情には訴える、後に迷惑な言葉を発明したと思わざるを得ない。もっとも、その曖昧さが、後の研究の呼び水になったのだとすれば、悪いとばかりは言えないのが、ケインズの奥の深いところだ。
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