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トイレと野村證券の話

 以下は、既にあちこちで話題になっているが、野村ホールディングス株式会社の第108回定時株主総会(平成24年6月27日(水)開催)の「招集ご通知」に記載された、株主提案の一つだ。
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「第12号議案 定款一部変更の件(日常基本動作の見直しについて)

提案の内容:貴社のオフィスの便器はすべて和式とし、足腰を鍛錬し、株価四桁を目指して日々ふんばる旨定款に明記するものとする。

提案理由:貴社はいままさに破綻寸前である。別の表現をすれば今が「ふんばりどき」である。営業マンに大きな声を出させるような精神論では破綻は免れないが、和式便器に毎日またがり、下半身のねばりを強化すれば、かならず破綻は回避できる。できなかったら運が悪かったと諦めるしかない。

○ 取締役会の意見:本議案に反対いたします。
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 筆者は、子供時代に和式便器を使うことがそれなりにあったが、ここ30年くらいは洋式便器を使うことが多い。現在、どちらの方式も利用するが、駅のトイレなどで両方式があれば、不潔な感じがするトイレ以外であれば、洋式を選択することが多くなった。自宅も洋式である。足腰の鍛錬は不足しているかも知れない。
 便秘は生まれてから今までほとんど経験が無いし、便意には割合敏感な方なので、一日に平均3回くらいはトイレに座る。トイレは気分が切り替わる場所なので、短時間の利用予定であっても、雑誌や本を持ち込むことが多い。筆者の少年時代、実家のトイレには「週刊朝日」の前週、前々週くらいの号が置いてあることが多かったので、その名残だ。先週までは、拙宅のトイレにショーペンハウアーの名言集が置いてあった。ドラッカーなども使えるが、名言集の類はトイレと相性がいい。原稿のプリントアウトと赤ペンを持ち込んで校正することもある。場所が変わると気分が変わるので、これもまあまあだ。
 利用時間や目的から考えると、iPADを一枚置いておくと便利だろうと思うが、まだ決心がつかない。トイレの中で子供が遊んで、なかなか出てこなくなりそうだという点が心配だ。
 さて、証券会社は和式トイレがいいのだろうか。
 かつて、ある運用会社へ面接に行った時、社内を案内してくれた専務さんが、「ご存知のように運用会社は座っている時間が長いので、痔持ちが多い。我が社は、すべての便器をウォシュレット付きにしました」と自慢されていた。「運用会社なので、ウンの用を足す場所を大切にしています」という駄洒落付きだった。
 私は、ウォシュレットの有無はどちらでもいいが、ウォシュレットの付いたトイレを使っている会社の方が、トイレを熱心に掃除しているような印象があるので、ウォシュレット付きのトイレを備えていることはオフィス環境評価上プラス評価だ。
 一方、セールスマンはじっと座っていては困るし、和式は構造上短時間の利用で済むので、証券会社には和式がいいという提案は分からなくもない。
 ちなみに、楽天証券は、品川シーサイドの楽天タワー内にオフィスがあり、このビルのトイレは洋式でウォシュレット付きだ。トイレ自体は快適だが、一フロアの人口が多いので、人口当たりの個室数が少ないことが、少し問題かも知れない。和式にすると使用時間が短縮されて、回転率対策になりそうだが、今時の若手社員は和式を嫌がるかも知れない。
 さて、野村證券だが、最近の株価は200円台だ。筆者は、自分の資産で野村證券の株式を持ったことはないが、伝統的に、野村證券をはじめとして日本の大手証券会社及びグループ会社の社員は、自社株を持っていることが多い。かつての山一証券には、自社株を買うためだったら融資受けることが出来るという、地獄への入り口のような制度があって、金策に困って自社株で一勝負して散っていった社員を知っている。
 運用の常識からいうと、リスクを集中するのは得策でないから、自社株投資は基本から外れている。証券会社の社員がこれでは心許ないが、そもそも彼らは、資産運用のプロではない。自社株を持っているような証券マンに運用のアドバイスを求めてはいけない。
 また、社員が自社の株を多く持っている状態は安定株主形成には好都合だが、インサイダー取引の心配もしなければならないから、企業にとって必ずしもいいことではない。
 一方、ベンチャー企業や成長期の会社の場合に、自社株やストック・オプションがボーナス代わりになる場合があり、こうした会社に勤める場合は、自社株と上手く付き合わないと財産形成が上手く行かない。
 また、社員持ち株会の購入資金に補助が出る会社の場合(たとえば、かつて三菱商事は購入資金の10%の補助があった。これはなかなか大きいが、今もあるのだろうか?)、社員持ち株会の購入金額を大きく設定して、売りやすい単位になったら、こまめに株を売ることで、リスクを抑えながら補助のメリットを取り込むことができる(いささかセコイ行動で気が進まないが)。
 さて、野村證券だが、社員・OBには野村證券の株式を少なからず保有していて、近年の株価には大いに腹を立てている人がいるのではないだろうか。現経営陣への風当たりは相当にきついのではないだろうか。
 リーマン・ブラザーズの欧州、アジア部門買収という大勝負は、ここまでのところ裏目に出ている。今批判するのは結果論だが、たとえば欧州経済の状況を甘く見ていたのだとすれば、証券会社としては「分析の失敗」であり、曲がった相場観だった。「経営は立派だったのだが、運が悪かった」といえる行動ではない。
 かつて厳しい会社だった頃の野村證券のイメージからすると、経営トップが交代しないことが不思議だが、野村も今や、普通の日本の大企業と同じで、経営陣は常に安泰な役所のような会社になったのかも知れない。
 筆者は野村の株主ではないので恨みもないし、誰が経営していようと構わないのだが、たとえば同社の経営陣が「グローバルな投資銀行プレーヤー」を目指しているのだとすれば、そのビジネス・モデルは考え直す方がいいように思う。理由はくどくど述べないが、野村の経営資源にとって不向きだ。ドラッカー流に「強みを生かす」ことを考えるべきだ。
 今の野村の役員室のトイレは、たぶんウォシュレット付きの洋式で便座の暖かい快適なものが用意されているのだろうから、トイレに座ってじっくり考えてみるといい。
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「首相の責任」の実体は何か

 関西電力の大飯原子力発電所が再稼働するようだ。周辺自治体の理解を得られなければ再稼働はできないとされてきたが、関係する首長達は、政府の判断によって再稼働してもいいとの態度に傾いてきた。
 野田首相は、「私の責任で判断する」と言っているようで、多くのメディアがそう伝えている。
 また、福井県の西川知事は、「総理大臣が国民に向かって明確な責任ある見解を述べられることが重要だ」と言っている(ところで、西川知事自身は、安全性その他を具体的にどう判断されたのだろうか。ここの内容が一番気になるところであり、こちらが首相の言葉以上に重要だ。主として、福井県民の問題ではあるが)。
 ともあれ、今後、適当なタイミングで、「政府として、私の責任で、再稼働を判断した」と野田首相が言うなら、大飯原発は動くようだ。
 『週刊フライデー』(6/15)は東海村から東京電力の柏崎刈羽発電所に核燃料を輸送する車列の写真を掲載している(交差点で空間線量計を使うと、車両が通過するごとに測定値が毎時0.1マイクロシーベルトから0.91マイクロシーベルトに跳ね上がるという)。再稼働への展開は、経産省を含む電力・原子力業界の人々の計算通りに進んでいるのだろう。
 ここで原発再稼働の可否そのものを論じる気はない(論じたい方は、別の場所でどうぞ)。また、野田首相の批判をしたい訳でもない(それは、別の場所でやる)。今回注目したいのは、「首相の責任」の実体が何なのかということだ。
 国の仕組みとしては、別途、国会などの決議を要するものは別として、法律で定められた行政的な手続きの下に、行政の最高責任者である首相が「良し」と判断すれば、問題は無いのだろうが、「実質的には」そこに、どんな「契約」や「インセンティブ」が働いているのかが気になるところだ。
 今や、首相は、証券会社の支店長よりも頻繁に交代する。顧客とのトラブルを抱えた支店長やセールスマンを転勤させて、トラブルの「責任」を曖昧にする、という話は、かつて証券界でよく聞いた話だが、首相の「責任」は、証券会社の支店長と較べてどうなのか。
 証券マン相手の裁判よりも何倍も大変な裁判を勝ち抜いて、国の過失が認定された場合、国が然るべき金額の賠償を行うということはあり得るのだろうから、最終的な手続きが首相の判断であるか否かに関わらず、国の責任はある。これは、証券事故において、証券会社に責任があるというのと同じだ。
 しかし、首相個人のインセンティブについて考えると、仮に今後不幸にして判断の誤りが顕在化した場合、首相個人(たぶん「元首相」になっているが)が何らかの不利益を被るということは少ないのではないか。
 後日、当時の首相として判断の不明を問われることがあるとしても、証券マンに譬えると「当時のエコノミスト、アナリストがそう言っていたから、私は、それを述べただけだった」という程度の釈明をして終わりだろう(枝野経産相が首相になってこうした立場に立ったら、きっと巧みに釈明するだろうと想像される)。中堅証券マンの場合、顧客とのトラブルが深刻化すると出世に響くことがあるが、野田佳彦氏に限らず将来の「元首相」にはたいして関係あるまい(安倍元首相のような「燃え残り」の方は例外かも知れないが)。
 さりとて、「私は、この判断が誤っていた場合、首相の地位にあればこれを辞任することはもちろん、国会議員も辞職し、議員年金も辞退する」とでも言ったところで、本人の決意の大きさを示すことは出来ても、これが「情報」として、どの程度参考になるのかは、微妙だ。
 「首相が本心から決断したのだろう」と納得性に意味を感じる国民もいるだろうが、「訳の分かっていない人が、決意に力を込めてみせただけだ。どうせ決意を述べるのが商売なのだし」とこれを評価しない人もいるだろう。
 どうすればいいのかは難しい問題だが、社会としての決定は、最終的には関係者の納得性の問題だろう。一つの方向性としては、「住民投票」や「国民投票」のような、直接民主制的な手続きをもっと頻繁に使う工夫が必要ではなかろうか。
 権力者その人や、権力者を都合良く利用出来ている官僚・有力者などは、直接民主制的な手続きを嫌う傾向があるようだ。それは、「首相の責任」のような好都合に使える便利な道具を手放したくないからだろう。
 「首相の責任」は、これを口にする首相本人の人格云々よりも、実体を殆ど伴わない余りにも便利すぎるツールとして利用可能である点ではないだろうか。
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