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沖縄に講演に行ってきました

 24日に沖縄タイムス様の主催の講演会で話をしてきました。那覇空港到着時の気温は16度で、地元の人々は異口同音に「今日は寒い」と仰るのですが、ざっと10度ほど寒い東京から行くと、コート無しで歩くのに丁度快適でした。食べて、飲んで、さらにその後に夜中の街を一人で一時間半くらい散歩しましたが、ほろ酔いの酔っぱらいには、寒くも熱くもない適温でした。
 お客様は沖縄の経済界の人々で、講演の後の懇親会が新年会を兼ねるということもあり、ざっと100名様くらい(目算です)の方々が集まって下さいました。
 話の内容は、メモ書きからテキストだけ抜粋すると以下のような項目です。当ブログの読者であれば、説明しなくても内容をご推察頂けるでしょう。

=============================
(1)サブプライム問題は第二ラウンドに入った
-証券化商品の損失問題が第一段階、不動産価格の米国景気への影響が第二段階
-不動産は「サブプライム」だけではないし、価格はまだ下がる
-日本のミニバブルも終わった
-「一回目の修正は不足、三回目からは過剰」?
・2008年、日本の成長率;政府=2.0%、IMF=1.6%
-<認識>が<事態>に追いつくまで株価は下がる

(2)サブプライム問題では儲けた奴にも注目しよう
-証券会社、銀行、不動産屋、建設業者、ヘッジファンド、格付け会社、保険屋
-成功報酬は貰いっぱなし!
-「オプション」としての成功報酬・成果主義のリスク拡大効果

(3)「日本株一人負け」の理由は二つある
-輸出企業への依存の大きさと、政策への絶望
-米国は金融緩和+減税、日本は金融引き締め懸念+増税懸念

(4)日銀総裁は福井体制の延長線上ではダメ
-福井総裁はやっぱり不適格だった
-「フォワード・ルッキング」が外れた責任
-現在の政策委員はダメだとすると誰が?

(5)国家ファンドはなぜダメか
-国家を通じて運用するよりも直接運用する方がいい
-国家ファンドは「巨大なカモ」!

(6)年末の日経平均を試算してみよう
- 益利回り+利益成長率=金利+リスクプレミアム、の関係から計算
・長期的な成長率を一定と仮定して、今年の名目GDP成長率を代入
・リスクプレミアムは5%、6%、7%で、6%が標準

(7)日本人が運用下手だという根拠はない
-家計金融資産伸び率は家計の「運用力」を表さない
・日本もバブル期(80年代)は10年で100→277だった
-外国人が上手い訳ではないことに注意

(8)退職金が振り込まれた銀行ではお金を運用するな
-銀行に限らずセールスマンは「味方」ではない
-「一見いい運用」が「本当にいい運用」なら売っている筈がない
-財布の中身を見せながら取引するな
-アドバイザーから商品を買うな

(9)シンプルで手数料が安いETF(上場投資信託)で運用しよう
-「いいファンド」は事前には見分けられない
-"幕の内弁当"は複雑で割高
-投資家が選べるのは手数料だけ

(10)たとえば、日本株と外国株を4:6で組み合わせてみよう
-分散投資効果は確かにある
-外貨預金、外債(外国債券)は個人に不向き
-自分のリスクの大きさを決めてシンプルに投資するだけでいい
=========================

 相場と投資戦略に関する大筋は、家賃利回りから見てアメリカの不動産価格がまだ下落して景気に悪影響を与えるであろう事をはじめとする各種の不安材料を説明し、事態の悪化に市場参加者の認識が追いついた辺りに「底」を期待して、下がったところで株式のエクスポージャーを増やせばいいのではないかということを説明し、内外の株価指数に連動するETFを4:6で買えばいいのではないかと申し上げました。加えて、現日銀のダメさ加減、シティバンクがこれまでいかに悪辣で日本を舐めているか(情報開示が信用できない段階で上場させて、その状態を漫然と許しておく東証も不思議ですが)、そして銀行で投信・個人年金保険などのリスク資産運用を行うことがいかに不適切か、と結果的には、各種の銀行批判に力点を置きました。まあ、どの銀行に関しても、話す側としては、気持ちよくこき下ろしたと言っていいでしょう。
 講演後の懇親会の挨拶をされたは地元の銀行の偉い方だったのですが、私の話に困っておられて、「銀行といってもいろいろあるので、その辺のところを、ご理解いただきたい」と仰っておられました。「銀行窓販で買ってもいいと思える投信は一本もない」、「銀行に資産運用の相談をしてはいけない」といった私の話の内容には全く嘘はないのですが、聴衆の中に地元の銀行の方がいらっしゃることは計算外で(←本当です)、少し申し訳なく思いました。銀行のお偉方がいるくらいのことで話の内容は変えませんが、事前に意識していれば(講演前に主催者から出席者リストを見せて貰いましたが、私は、そこまで気が回りませんでした)、もう少し丁寧にからかってあげたのにと、いろいろな意味で残念でした。

 今回の講演は、沖縄タイムスの講演会のご担当の方が、当ブログを見て、このブログのメールアドレス(yamazaki_hajime@mail.goo.ne.jp)にメールを送って下さって実現しました。主催者の沖縄タイムス様には、完璧かつ過分のアレンジをして頂き、気持ちよく話をさせて頂きましたし、一泊の旅程で短時間ではありましたが、大変快適に過ごしました。ご同業の方々(←講演する人)には、沖縄タイムス様主催の講演は快適だ、とお伝えしておきます。
 以上、当ブログから発生した講演なので、読者にご報告します。
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「武藤日銀総裁」に反対する理由

 最近の一部の報道では、三月に予定されている日銀総裁の人事で、民主党が与党案に反対して揉めることを牽制する論調がある。たとえば、経済が危機的状況にあるのに、日銀総裁という「司令塔」を欠いていていいのか、というような議論だ(主に、「読売」の論調だ)。与党は、元財務次官の武藤副総裁を昇格させたいようだし、これまでの経緯から見て、彼の昇格は、半ば既定路線だったのかも知れない。
 ただし、民主党はかつて武藤氏が財務省出身であることを理由に副総裁就任に反対した経緯があり、武藤総裁には反対という立場のようだが、「官僚出身者の全てがダメなわけではない」などと、例によって余計なブレを見せている。

 私も、武藤氏の総裁昇格には反対だ。ただし、彼が財務省出身ということも反対理由の一つではあるが、それ以上に重要な理由が二つある。

(1)武藤氏は、総裁在任中にファンドや株式に投資していて、ファンドの解約など運用行為(村上ファンドの解約申し入れは、明らかに運用行為であり、内規違反だろう)を行っていた福井現総裁を無批判に「支えて」いた人だ。少なくとも、表立って、福井氏を批判し、「辞任すべきだ」という正論を吐いた訳ではなかった。こういう根性無しを総裁にしていいことはなかろう。加えて、彼の総裁昇格を認めることには、同時に福井氏が総裁不適任であったことを曖昧にする意味がある。

(2)武藤氏は日銀の政策委員の一人として、現在の日銀の金融政策に責任を負っている一人であり、彼の昇格の可否には、当然、金融政策の当否の評価が反映すべきだろう。日銀は、物価が十分上昇していないにも関わらず、「フォワード・ルッキングな政策」と称して、その後の景気が強いと決めつけて、ゼロ金利を解除し、さらにもう一回金利を引き上げ、その後も金利上昇期待をふりまき続けた。目下の日本及び、これに影響の大きいアメリカの景気状況を見るに、この「フォワード・ルッキング」には間違いがあったのではないか。現行の制度では、総裁も含めた政策委員の人事を通してしか日銀の勤務評定は具体的な形で日銀に反映しないのだから、福井体制の金融政策への評定の反映として、武藤氏の総裁昇格は見送られるべきだ。

 ついでに言えば、民主党は、多くの国民の気持ちが読めていない。多くの国民は、大連立的な自民党との馴れ合いではなく、少なくとも正当な根拠のある「反対」事案に関しては、ブレることなく与党と対決して欲しいと考えている。「日銀総裁に官僚出身者は不適当」というのは十分国民の共感を得られる反対理由だ。

 では、誰がいいか。私は、たとえば、植田和男氏を推す。民主党も、具体的な候補名を出して、与党に、「この人のどこがダメか?」と問うてみてはどうだろうか。もちろん、その場合には、武藤氏がなぜダメかもしっかり説明するといい。国民は、決定過程がよく見えて、且つ、納得の出来る人物が日銀総裁になることを望んでいる。そういう意味では、日銀総裁人事をオープンに議論せざるを得ない、政治の「ねじれ」状態は悪くない。読売新聞も心配していることだし、この問題は、早く決着を付けてはどうか。
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時価会計の不都合な真実など

 あるところで他人の講演を聞いていたら、「個人投資家は時価会計を止めてしまえばいい」という言葉が耳に入った。要は買った株の株価が下がっても気にしないで、じっと持っていたらいいではないか、ということらしい(サブプライムで振り回されての、半ばヤケクソの発言に聞こえた)。プロのファンドマネジャーは顧客の要請もあって時価評価を止められないけれども、個人なら可能だというようなことも言っていた。
 言いたいことは分からないではないが、持ち株の時価評価をしないことは賛成できない。価格の変化は何らかの情報なり環境の変化を反映したものかも知れないし、それ自体が自分の財産状況にとっての情報でもある。保有銘柄の少々の価格変化で売り買いしなければならないような出来の悪いポートフォリオを持ってはいけないというのは一方の真実だが、同時に、株価の変化は見る方が良いに決まっている。そもそも、自分の持ち株の株価を見ていることに耐えられないような人は株式投資などしない方がいい。
 そんな人には株式投資の普及など不要であって、現実を見ることができる人がだけが株式のリターンを享受すればよろしい。他人が羨ましくなれば、そのうち心を入れ替えるだろうから、株式投資は、その時にお勧めすればいい。
 話を聞きながら、私なら上記のように言いそうだと一人で考えて、幾分腹まで立てたのだが、しかし、こういう身も蓋もないことは、講演で言ってもウケないのだろうなあ、とちょっと自己反省した。

 時価を認識する根性もない奴は投資などしなくていい。似たような事を言いたくなる別の話を最近聞いた。
 ある年金関係者から聞いたのだが、多くの国で、確定給付のいわゆる企業年金がどんどん閉鎖されているのだという。外国では、日本よりも年金受給権の保護が厳格な場合が多いので、年金を閉鎖して、これまでに受給権の発生している年金の給付を最後まで行うケースが多いのだが、こうした形を選択する企業が多いらしい(日本では、信託兼営の銀行が自社の年金を事後的に値切ったケースがあり、驚いた)。そして、その後は、企業が年金資産の運用リスクを負わなくていい確定拠出年金に切り替えるのだという。
 英国あたりでは、こうしたケースが増えて、企業が閉鎖されたとはいえ何十年か続く年金基金を持て余すので、めざとい投資銀行(例の会社)などは、保険会社を買収して、こうした年金を買い取る(買い叩く?)ビジネスに乗り出しているのだという。
 これが時価評価とどう関係するのかというと、国際会計基準が毎期の年金の時価評価を要求するようになったので、金利や株価の変動で、年金の損益が大きく本体の利益に反映するのが耐えられない、というのが、どうやら大きな理由の一つらしい(注1)。
 確定給付の年金の経済的な損益は、たとえば金利変動の影響を大きく受ける。それは当たり前の経済的な現実だ。長期的に割引率を一定にしなければ年金制度が設計・運営できないというなら(古い年金関係者には、そういう人もいるが)、それこそ、年金なんてやらない方がいい。
 それに、そもそも、経営者は株主のエージェントとして、株主の利益を最大化することに注力していなければならなかったはずだし、「IR」なる近年幾らか大袈裟な行事の趣旨も投資家に対して企業の価値に関わる情報を正確に伝えることではなかったか(経営者はIRよりも経営それ自体に注力すべきだ。例えば、ロードショーなどと称して海外まで遊びに行かなくてよろしいし、専門の部署やコンサルタントにコストを掛ける必要はない。IRは必要な情報を早く正確に伝えたらそれで十分だ)。
 つまり、年金を今やめるという外国企業の経営者どもは、本来、会計制度に関わりなく、自社の年金の時価を意識していなければならなかった筈なのだ。会計制度の変更をどうこう言うのは、いままでがマトモでなかった証拠だといえなくもない(経済学的にはかなり「面白い」現象だろうと思う)。ここは少々笑ってやってもいいところだろう。
 まあ、彼らの気持ちも分からなくはないが、エンロン事件の際の米国の証券アナリストの行動とか、サブプライム商品でたんまり儲けた連中がいたことや、今回のような経営者の行動を見るにつけ、「外国の資本市場は立派だなんて嘘だ!」と思う。私はナショナリストではないので、日本と比較して、日本が(大きく)劣っていないと喜ぶわけではないが、洋の東西を問わず、カネが絡んだ人間はいい加減なものだという事実を見るのは清々しい(ある種の一貫性が面白いという程度の話だが)。

 翻って、日本の企業年金はどうなのか。先入観を捨てて考えてみると、確定給付の企業年金はもういらないのではないだろうか。日立にせよ、新日鐵にせよ、IBMにせよ(これらだけでなく、殆どの事業会社がそうなのだが)、運用が本業ではないのに、数千億円、場合によっては兆を超える金額の資産運用をする必要はないし、その結果に企業価値が大きな影響を受けるのも合理的でない。
 かつて、資産運用がまだ十分普及していなかった頃は、年金基金という単位で、プロの運用会社をチェックして使う別の運用のプロが多数存在する社会制度設計上の理由があったかも知れないが、今は、屋上屋というか、くすんだ中二階というか、無駄であるように思う。確定拠出年金の拠出額の枠さえ拡大されるなら、確定給付の企業年金は止めてしまう方が母体企業にとって経営的に合理的だ。ことに、何かと運営が難しい総合型の基金などは、余裕があるうちに止めてしまう方がいい。これは、余計な天下り先を作らないためにも社会的に良いことだ。
 全体的な制度の設計としては、基礎年金をもっと厚くして税方式にして無年金者を無くし、私的年金は真のポータビリティーが完備されるように全て個人単位で運営される確定拠出年金にして、確定拠出年金の非課税枠を大きく拡大し、柔軟に運用できるようなものがあれば、シンプル且つ公平でいいのではないだろうか。

 何となく、コラム三つ分くらいのテーマを書きなぐってみたが、最近こんなことを考えており、もう少し丁寧に考え直しつつ、各所のコラムなどにまた書いてみたいと思っている。

(注1)年金関係者からご教示のメールを頂きました。年金に関する会計基準は、現在、米国ではB/Sには直接反映していたがP/Lはいろいろなルールがあった。国際会計基準は現在いろいろなやり方があるが、今後はP/Lに直接反映しない方向に進みつつあるようだ、とのことです。年金閉鎖については、時価会計もさることながら、確定給付のリスクの大きさ(資産運用のリスクの他に、負債の価値も長期金利が低下すると急増する)そのものに音を上げたようです。時価評価の反映がもっと進みつつある、という私の先入観(投資家としては、それが当然なので)と現実には少しズレがあるようなので、注記しておきます。
 もちろん、「では、これまでリスクを認識できなかったのか?」と欧米の経営者に問うとすれば、やはり経営判断の一貫性に綻びがあったことは認めざるを得ないと思います。(1/16)
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子供が何を目指したら嬉しいか

 ハニカミ王子こと高校生の石川遼さんがプロゴルファーに転向することを表明した。ご本人は堂々としているので、「ハニカミ」などと名付けるのは失礼ないしは見当違いではないかと思うが、印象的で広く通用する綽名は個人のマーケティング戦略上有力な財産だから、ケチを付けるのは止めておこう。シード権の問題や実戦経験に現在の人気も含めた経済的な損得も計算に入れた、たぶん合理的な判断なのだろう。ただ、純粋にゴルファーとして優れた素質を持っているとするなら、何かと騒がれる一方、世界には通用していないように見える日本の男子プロの世界に入るよりも、たとえばアメリカにゴルフ留学でもしてしまう方がいいのではないか、などと余計な心配をしたくなってしまう。
 ハニカミ王子は、家族の多大なバックアップの下に素質を開花させてきたのだろう。ゴルフはそれなりにお金のかかる競技だから、王族でないまでも、ある程度経済力がある家庭でないと、ジュニアの時代から活躍するような「王子」を育てることは難しそうだ。石川選手がこれからどのくらいの実績を挙げられるようになるかにもよるが、石川家としては、「投資」は成功したといえるだろう(金銭的費用と努力・時間に見合う以上の総合的な満足と可能性をこれまでに得たという意味で)。

 近年、スポーツ選手に人気が集まる傾向が加速されているように見える。一方、歌手はかつてと較べると今一つだ。かつては、テレビに歌番組が多数あって、歌手が一曲歌う2~3分の間アップで画面に映っていたが、最近は、歌番組が少ない。代わって、スポーツ番組が、過剰なまでの演出と、アイドルを撮るようなカメラワークで、人気選手を追いかける。また、既に人気のある選手を追いかけるだけでなく、積極的に人気者を作ろうとすることもあるようだ。
 人間は、繰り返し見せられるものを(特に異性を)「いいものだ」と思うようになる傾向があるから、繰り返し画面にアップで映るスポーツ選手は人気が出るし、人気が出ると経済価値が高まる。
 遠い将来のことは何とも言えないが、コンテンツとしてのスポーツの価値は傾向として高まりつつあるように見える。
 つまり、石川家のように、あわよくばプロになれないかという期待を持って子供に何らかのスポーツをさせる「投資」の、少なくとも金銭的な回収面での環境は改善しつつあるということだろう。

 子供にしてみると、親に勝手に将来を決められて期待され、何らかの分野で英才教育をされるのは迷惑なことかも知れない。だが、子供本人もその分野に興味とやる気があって、親がそれに協力してくれるなら、悪くあるまい。では、子供が何に興味を持ってくれると、親として嬉しいだろうか。

 かつて、スポーツ少年の夢の定番はプロ野球であった。経済的に見る限り、今でもプロ野球の選手は恵まれているようだ。正確な数字は手元に無いが、一軍の選手の平均的な年収は(この場合、平均よりも中央値の方がいいだろうが)、確か、4千万円に少々欠けるくらいだったと思う。超一流になれば、年収数億円が現実のものになるし、メジャーリーグで成功するとその上もあり、経済的な夢は大きい。老後の備えと同時に、税金対策にもなるある種の年金のような仕組みもある。引退後の再就職の口もそれなりに開拓されているようだ。プロにならなくても、将来少年野球の指導者をやるといった「つぶし」も効く。もっとも、リトルリーグに高校野球と年少の頃から競争は激烈だ。高校野球の春夏何れかの甲子園大会でベンチ入りする選手の延べ数は、東京大学の入学者よりもかなり少ない。確か、かつて「週刊SPA!」の特集タイトルにあったコンセプトだが「夢のあきらめ時」も肝心だろう。
 一方、サッカー選手はプロ野球の選手に較べると経済的条件が厳しいようだ。Jリーグがスタートした頃は高額年俸の選手がたくさんいたが、今は、随分下がった。現在は「旅人」の中田英寿氏のように国際的に成功すると大金持ちになることが夢ではないが、世界の壁は厚いように見える。選手寿命は概して短命で、Jリーガーの平均引退年齢は25歳だという。Jリーグの引退選手への再就職への手引きをしているガイドブックを見ると、就職するコースと、学校に行くコースの二つの紹介があり、求人情報も載っているが、求人情報はスポーツクラブのインストラクターのようなものもあるが、店長とか、運転手とか、ごく一般的な求人で、給料もそう高くないものが多数載っていた。
 中田英寿氏といえば、過日、週刊誌に載っていた彼の父親へのインタビューは面白かった。中田パパは息子の発言について、「自分探しというのは、いただけない。まるで、女学生みたいではないか」というようなことを言っていた。また、彼の子育ての話も面白かった。小学生のヒデ君が、宿題をやってくれとパパに頼んだら、パパは全て間違った答えを書いて息子に渡したのだという。息子は、学校で答えが間違っていることを知り、父親に抗議したようなのだが、パパは「宿題は自分でするものだ」と言ったのだという。その後、息子は宿題を自分でするようになったという話だが、これはいい話だ。本当に誤答を書く勇気のない世間のパパは、息子にこの話をしてやるといいだろう。
 野球、サッカー以外のスポーツはどうか。
 バスケットボールは目下日本人には体格的なハンディキャップがあるようだが、将来、何人かスター選手が出てくるようになると、バレーボール並みくらいの人気が出る種目かも知れない。
 テニスとゴルフは、競技人口が多いし、目指すべき頂点は、名誉の上でも、経済的にもかなり高いといえるだろう。テニスには全く縁がなかったし、ゴルフは正直なところ、余り好きなスポーツではないが、プロ選手を目指さなくても、いろいろなレベルに相手が居て楽しめそうだし、将来子供が一時期熱中することがあるとすれば、親としては、比較的安心なスポーツかも知れない。
 格闘技系のスポーツは観るのは好きだが、親として子供にやって欲しいかと考えると、正直なところ今一つだ。そう思う点には、正直なところ、自分が凡人であることを自覚せざるを得ない。ボクシングは「夢」の大きさがあるし、それ自体として勇気と技術と克己心を要する尊敬すべき競技だと思うが、安全性の点で(特にダメージを受けるのが脳でもあり)、本人がやるというならし方がないが、子供に勧めたいスポーツではない。相撲も身体に不自然な負担がありそうだ。
 柔道、空手、剣道の類は、男の子ならどれかやらせてみたいと思うが、「心得あり」というくらいで十分だ。その道で一流になることを目指して貰うのが非常に楽しみだという感じはしない。一流選手を目指すとなると、警察か自衛隊にでも入るのだろうか。あくまでも個人的な好みだが、息子が警察というのはまあいいが、自衛隊は嬉しくない。
 その他のスポーツはどうか。日本人であっても世界で一流の域に達して、スポーツ自体で喰えるというものがどれくらいあるのかよく分からないが、たとえば卓球のように現在あまり注目されていないスポーツでも、将来人気が出る可能性もあるし、福原愛選手のように個人的な人気を博する可能性もある。将来人気が出るかも知れないが、現在はあまり競争が厳しくないというような競技種目があるのなら、それもいいが、これを当てるのは株式の銘柄選びのように難しそうだ。
 もっとも、将来子供の稼ぎで喰おうと考えているわけではないので、子供がその競技を楽しいというなら、何であっても構わない。

 身体でなくて、頭脳で戦う競技もある。将棋、囲碁、チェスなどだ。日本にいてプロまで目指しやすいのは、今のところ将棋と囲碁だろう。
 将棋では、遠からず人間がコンピューターに勝てなくなるだろうが、人間対人間の勝負の興味は失われないだろうから、競技としての価値は残る。ただ、今のところプロの将棋界は経済的に新聞社への依存が大きく、その新聞社のビジネスモデルが(特に紙の新聞に依存するビジネスが)怪しくなっていることもあり、将来の天才棋士が、将棋だけで現在の羽生善治氏のように輝かしい人生を送ることができるか、心配な面はある。
 競技として囲碁には国際性の魅力がある。特に今後経済的に発展し大きなマーケットになるであろう中国が囲碁に熱心な点は大きいし、韓国のレベルも非常に高い。世界一へのチャレンジがあり、その価値が高いという意味では、自分の子供が万一囲碁の強豪になった場合、囲碁の興奮は大きそうだ。ただ、世界最高を目指すためには、子供が小さなうちに韓国か中国に修行に出すくらいのことが必要かも知れない。
 将棋や囲碁は頭脳のトレーニングにいいという面もあり、これが韓国で多くの子供が囲碁教室に通う理由にもなっているらしい。但し、たとえば将棋の場合でも、アマチュア名人を目指せるようなトップアマ・レベルの実力に達し、これを維持するためには相当に生活を犠牲にしなければならないようだ。またプロになれるかどうかの奨励会三段リーグの壁も相当に厚い。中途半端な強豪になると、不幸な場合もあるかも知れない。

 私は、何れも小学生の頃に父親に将棋と囲碁の手ほどきを受けた。父は当時、将棋がアマの四、五級、囲碁が二段くらいだったろうか。将棋は割合早くに息子の方が強くなって、父親は息子と指さなくなった。囲碁は、高校二、三年の頃に井目(九つ石を置くハンディキャップ。将棋の飛車角落ちよりも、もう少し大きい)から、割合集中的に、実戦の形で教えて貰った。大学を卒業する頃には、息子が逆に石を置かせるような関係になったこともあるが、現在は、ほぼ互角で共に街の碁会所なら四段(五段?)というところだろう。何れも、大学を卒業した頃から、そう伸びていない(将棋はたぶん弱くなっている)。共に、プロを目指すなら、その十年前に(小学校高学年で)同等の実力でも少し遅いというくらいのものだろうし、同世代でも強い人は本当に強いと身に染みて分かっていたので(大学の一年上には将棋の谷川名人のお兄さんがいた)、プロはおろか、アマチュアのトップクラスを目指そうと思ったこともない。趣味としては、これまで、今一つ、不完全燃焼であったか。

 スポーツの他に、芸術の世界で頭角を現す子供というのも親としては楽しみだ。しかし、たとえば、クラシック音楽の世界は修行には相当のコスト(費用、時間両方)が掛かるようだし、競争は厳しく、世界の壁は厚い。また、余程の超一流にならなければ、音楽で生活するのは大変のようだ。一般の家庭の経済力では、超一流を目指すには厳しい場合もあるようだ。この場合、経済的な支援者を探さなければならないが、コネだとか、子供本人の容姿だとか、演奏技術以外の運が必要になる。どの世界でもそうなのだろうが、一流を目指すのは何とも大変そうだ。
 しかし、趣味としては、何らかの音楽をやっておくのはいいことだろう。私は、子供の頃、バイオリンを習っているようなタイプの子供が何より嫌いだったし、家に来たピアノのセールスマンを追い返したのも自分だったのだが、大人になって、音楽の教養と勘が全くないのは寂しいことだと自覚している。

 何れにせよ、子供が興味を持たなければ仕方がない。何か熱中する趣味を持って欲しいとは思うが、親の趣味を子供に強要することは良くないだろう。
 将来、子供が嫌がらなければ、将棋と囲碁は手ほどきしようかと思っている。子供と一緒に道場や教室に通えば、親父の方ももう少し強くなるかも知れない、という期待感も少しある。後、ギャンブルと株式投資は必ず教えるつもりだ。将棋なら名人、囲碁なら世界チャンピオンの強さを、本人なりの実感を持って理解できるような子供になると嬉しいと思うが、何度も繰り返すように、自分の趣味を子供に押しつけてはいけないので、この点はくれぐれも自戒が必要だ。
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『1997年--世界を変えた金融危機』と『反骨のコツ』(共に朝日新書)

 「1997年--世界を変えた金融危機」(竹森俊平著、朝日新書)を買いに行って、ついでに「反骨のコツ」(團藤重光著、伊東乾編)も買って来た。

 前者は、日経ビジネスアソシエの連載コラムを「ナイトの不確実性」をネタに書くために買って来たもので、ほぼ期待通りに面白かった。
 フランク・ナイトの意味での「不確実性」と「リスク」のちがいは、行動ファイナンス方面の論文では随分前から取り上げられているテーマで、この中間の「曖昧」と定義される状態も含めて、人間は不確実性が増すことを忌避する傾向が報告されている(筆者も「年金運用の実際知識」で取り上げた)。これを投資の理屈にごくストレートに応用すると、「ネグレクティド・ファーム・エフェクト」絡みの超過リターンの一部がこの効果で説明できよう。多くの人にとっても投資家本人にとっても何をやっているのか訳の分からない、誰もリサーチしていない銘柄は、大きなプレミアムを伴って、安く価格付けされている可能性がある。但し、一つには市場参加者は「学習」して行動を変えることがあるし、もう一つには、「人間の傾向」が、遺伝子やこれに伴う脳のタイプによっては、人によって異なる可能性が大いにあるように思われる(たとえば、石浦章一「脳学」講談社刊、を参照)ので、これが安定した必勝法になることはないだろう。
 竹森氏の本は、主に、金融危機に伴う「ナイトの不確実性」(主に前例がないことから生じる)が経済の参加者を萎縮させて、それが危機を深化させ、金融システムを含む経済全体を危うくする可能性を持つものであることと、そういった状況にあって、中央銀行には流動性供給と積極的な金融緩和を確約して経済の萎縮と戦う役割があることについて、主に近年の事例に基づいて説明している。このように主な内容はマクロ経済の話なのだが、一番面白いのは、フランク・ナイトの不確実性に関する洞察を紹介した辺りだ。
 ナイトは、「利潤」というものの源泉を、大数の法則を用いた対策が可能で競争者の多い「リスク」の状況にではなく(こちらの利潤はゼロに近づく筈だ)、確率など計算できない「不確実性」の状況へのチャレンジであるはずだと考えた。ところが、ナイトは、企業家による不確実性への挑戦は、多くの場合は失敗に終わるとも考えていた。そして、その失敗は、企業家の割に合わない努力でカバーされているのだという。企業家(特に起業家)は、チャンスの評価について人一倍楽観的な人がなるもので、ごく一部が成功し、多くは、成功に向けてふうふう努力し続けるだけに終わったり、明らかに失敗したりするのであって、「全体としては割のいいものではない」ということのようだ。失敗した御蔭で世間から見えない人も含めて「起業家」の全体像を見ると、まあ、こんなものなのだろう。
 また、本に引用されているナイトの洞察を読むと、「ナイトの不確実性」に対する企業家や投資家のチャレンジは、たぶん、同様のチャレンジャーが少ない状況の方が成功しやすいのだろうと思われる。
 グリーンスパン的な中央銀行が長期的に成功するかどうかは興味深い問題だ。中央銀行が危機にあって「常に」積極的でなければならないとすると、いつか「中央銀行を嵌める」形でゲームに勝つプレーヤーが現れる可能性があるだろう。そうでないとした場合でも、グリーンスパン的中央銀行は、しばしば、あるバブルの崩壊の影響を緩和するために、別のバブルを作ることになるので、世界の資産市場を不安定化させる(市場ゲームの参加者としては「面白い」が)可能性がある(そうならない場合もありうるだろうが)。とはいえ、対案も難しい。一般論として「成功する」とは言えないが、個々のケースで対症療法的にはそうせざるを得ない、という辺りが現状だろう。

 「反骨のコツ」は、團藤氏の名前とタイトルに惹かれて買った。團藤重光氏が、刑法の超大家であることは、法律を避けて通った経済学部卒の筆者でも知っている。氏は、筆者の在学中は、まだ東大の教授であったように記憶している。もっとも、團藤説と対立する説を唱えていた(と法学部の友人に聞いた)平野龍一教授とは一度一緒に草野球をしたことがあるが、團藤氏には、残念ながらお目に掛かったことがない。
 「團藤氏=本流」とう古いイメージを持っていたので、「反骨」というタイトルの言葉には意外性があった。だが、この本を読んで分かったが、戦前から業績のある法学の大秀才にして、戦後には、憲法草案を見て刑事訴訟法を自ら書き、東大法学部長を勤めた後は最高裁判事となった、いわば法学の王道を行った團藤氏は、現在、確固たる死刑廃止論者で、憲法9条の改訂に反対、裁判員制度にも反対という、意外と言っては失礼だが、意外なほど純粋なヒューマニズムの人なのだ。
 ちなみに、團藤氏によると、教え子である三島由紀夫の「仮面の告白」は、團藤氏の刑事訴訟法の考え方を小説にしたものだそうだ。
 團藤氏は、死刑廃止が、憲法のレベルを超えて重要だという(p187「汝殺すなかれ」は憲法を超えた命題)。また、伊東氏が語り、團藤氏が追認する形で話が進んでいるが、死刑を合憲とした1948年の最高裁判断に関する紹介は興味深い。そこでは、憲法31条に「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命もしくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」とある条文について、わざわざ「生命」とあるのだから、これは死刑もあり得ると想定しているにちがいないと苦しい解釈をしている。伊東氏は、これは、当時、戦犯に対する死刑を合憲としたいGHQの意を汲んだ苦心の判断であって、その後も、この条文を以て死刑を合憲とするのはおかしいと指摘しており、團藤氏もこれに同意している。
 確かに、単純に論理的に読むなら、憲法36条の拷問及び残虐な刑罰の禁止を「死刑を禁止している」と素直に読み(死刑はどう考えても残虐な刑罰だ)、36条は単に31条よりも範囲を限定した規定をしていると読めば(あるいは31条は丁寧に生命について言及しただけだと読めば)、両条文と死刑の禁止を、整合的に考えることが出来る。
 尚、人間の主体性を重視する團藤氏の思想を、伊東氏は、バルトやサルトルと関連づけて説明しているが、「人間を生かすべきだ」と絶対的に考える点を尊重すると、カミュの思想との共通性をより強く感じる(バルトはよく分からないが、少なくともサルトルよりは)。先般「ペスト」の書評を書いたご褒美(?)で、新潮社から貰った「反抗的人間」のコピーを少しずつ読んでいるせいもあって、そう思う。
 もっとも、バルトだ、いやカミュだと、著作を読みもせずに印象を語られては團藤氏も迷惑だろうから、團藤氏の「法学の基礎 第2版」(有斐閣)をアマゾンに注文した。大きなテーマの本は、複数の著者による共著よりも、単著の方が断然魅力的だ。團藤氏は、何と、93歳の今年になって、改訂版を出版したのだ。大家は、現在も著作に励んでおられるようで、一日に、6、7時間仕事をしているとのことだ。このエネルギーと頭脳の冴えは素晴らしい。
 尚、この本の惜しいところは、聞き手である伊東氏の語りの分量が多くて、もう少し團藤氏の肉声を多く聞きたいと思わせる点だ。もっとも、伊東氏もなかなかいいことを言っているし、團藤氏はご高齢でもあるので、この点まで要求するのは、伊東氏に対して酷であるかも知れない。

 死刑廃止に対して賛成するか否かは、私としては、まだ若干判断に迷う点がある。
 死刑無しに国民を統治できない国家は三流国家だという意見はよく分かるのだが、現実に三流国家で暮らしていると、「死刑」の可能性というコストがなければ、凶悪犯罪に対する十分な抑止がなされないのではないかという心配が若干はある。罰を下す判断に不確実性が伴わない場合、厳罰の規定は、ある意味ではローコストで有効な犯罪対策だ。
 一方、司法の判断も完璧ではないし、そもそも国ごときに人殺しの権限を持たせることがいいのか、と考えると、死刑は廃止が正しいような気がする。被害者の感情や、家族の感情も大切なのだが、国が本人や家族に代わって復讐を果たすような制度は、やはり行きすぎなのではないか。たぶん、いろいろな要素を考えれば考えるほど、死刑廃止がスッキリしていて正しいのだろう。
 戦争は反対、死刑は廃止。後者については、正直なところまだ不安があるが、当面、そう考えてみることにしようと思っている。
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年末年始のようす

 読者の皆様、「あけましておめでとうございます!」。本年も「ロバ耳ブログ」をよろしくご指導下さい。

 今年の年末年始は極力のんびりすることに決めた。ひどくはないけれども、だるくはあり、喉がむずむずする風邪を引っ張りつつ、年末進行の〆切と忘年会(例年並みよりやや少ない週4回くらい)をこなしてきたので、些かくたびれたからだ。
 昨年の最後の仕事は28日(金曜日)の「とくダネ!」の出演だった。金曜日のレギュラー・コメンテーターの諸星さんに何かご都合があったようで、割合急に出演することになった。女性のコメンテーターが友近さんに変わり、「おすぎのエンタメ・・・」のコーナーもなくなるなど、番組の様子が変わっていたが、久しぶりの「とくダネ!」は懐かしく、小倉氏の安定した司会は、話がしやすかった。番組中に「青柳」の鯛飯が食べられて、一年最後のオンエアなので番組終了後には「打ち上げ」でビールが飲める、という恵まれた巡り合わせだった。
 「今年の謝罪」というテーマの特集があったので、株価の予測が外れたことを詫びることにした。確か、年初に書いた原稿で、益利回りと名目GDPで年初の株価を伸ばした18580円という数字を年末の日経平均として書いたのだが、お話にならないくらい外れている。先ずは、この事を詫びたのだが、その後に、(1)アメリカの不動産問題の存在は分かっていたがこの影響が分からなかったこと、(2)当たらないと知りつつ年初なのでつい原稿に書いてしまったこと、(3)他の論者も当たっていないこと、を矢継ぎ早に述べて、「こうして謝罪してみると、舛添大臣の謝罪がなぜダメだったかよく分かります。選挙だから言ったとか、他の誰がやってもダメダとか、謝罪の中に、言い訳や開き直りを混ぜるとダメなのですね」という落ちを付けた。後は、時間が来て、番組が終わって、ビールをたっぷり頂いて帰った。(フジテレビさん、ありがとう!)
 この日の夜、最後の忘年会があって、午前3時に帰宅、後は、ひたすら眠った。
 例年、年賀状の作成・投函が年末にかかるが、今年の年賀状は、楽天証券の有能な秘書のTさんに、作成・印刷・投函を任せたので、楽だった。年賀状というと「虚礼廃止」という単語が頭に浮かぶのだが、半ばフリーのような仕事をするようになると、年賀状は端的に言って、経済的に「ペイする」。毎年、年賀状がきっかけで仕事の依頼を幾つか貰っているし、もちろん、しばらく疎遠だった方とのつながりを強化することができている。元日に受け取った、表面が西川善文氏、裏面が女優の吉永小百合さんの、悪魔と淑女の年賀状には驚いたが、年賀状という習慣自体は悪くない。但し、もちろん、ヤマト運輸その他の民間業者が自由に配達できるようになることが望ましい。
 寝ることを最優先事項としている今回の年末年始なのだが、しばらく不規則な生活をしているので、なかなかまとめて眠れない。寝たり起きたりしつつ、昼間は幾らか散歩をして、なるべくパソコンには向かわず(29日にJMMの原稿は書いたが)、食べて、飲んで、読みかけの本数冊をつまみ読みして、といった調子で、気がついたら年が明けていた。
 日を追う毎にまとめて睡眠が取れるようになってきて(31日→1日はまとめて8時間)、何となく「空元気でない元気」が戻ってきた。酒は、モルトにビール、ワインを毎日ほどほどに飲んでいる。年末に美味しい日本酒を買い忘れたのが少々心残りだ。
 初詣は行かない。高校時代に柄にもなく元旦に明治神宮に初詣に行って、その後ほどなく病気になってひどい目にあったことがある。一回だけで因果関係を決めつけることはできないのだが、もともと無神論者なのだから、行かないのが正しかろう、とその時に決めた。
 年末に将棋ソフトの「Bonanza」をインストールした。29日から毎日1局ずつ遊んでいるのだが、31日に勝てただけで、現在、1勝3敗だ(勝った戦型は当方居飛車玉頭位取り・Bonanza四間飛車。それ以外は何れも玉の薄い相居飛車の戦型で敗れている)。現在の私の実力では、こいつに勝ち越すのは、なかなか難しいかも知れない。将棋も囲碁も、もう一歩強くなりたいのだが、なかなかトレーニングの時間が取れない。とはいえ、相手がパソコンのソフトでも負けると悔しい。
 「今年の抱負」は、これから考える。
 取りあえず、本業の方では、資産運用関係のテキストブックを書きたいと思っており、また個人の資産運用の方法について体系をさらに完成させたい。昨年出した「新しい株式投資論」は、分からない人にはわからなくていい、というタイプの本だったが、もう少し具体的で体系的なものを作りたいと思っている。実は、自分が書いたものでは、絶版になっている「年金運用の実際知識」(東洋経済)が割合気に入っている本なのだが、これをベースにするか、新たに書き起こすか、「ファンドマネジメント」の改訂にこの内容を統合するか、などと現在迷っている。
 もちろん「世間の観察とコメント」(仕事と同時に趣味でもある)も続けようと思っているし、趣味としてのギャンブルをもう少し体系的にブラッシュアップしたいとも思っている。

 何となく元気が出てきた。本年も、よろしく。
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