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「手帳系」人生論へのひそかな違和感

 あるビジネス雑誌の編集者と話している時に、「手帳系」と名付けた一連のビジネス人生論及びその論者たちがある。個々の論者に批判を向けたいわけではないので、「手帳系」の人名を挙げるのではなく、議論の共通点を拾うと、以下のような内容になる。

(1)人間は将来の夢(目標)を具体的に思い描くことが大事だ。
(2)本当に強く願えば夢は叶う(叶わないとすれば願い方が足りない)。
(3)夢の実現に向かって計画を立てよ。これを手帳に書いて、毎日眺めて、実行をチェックすると、夢は叶う。

 「手帳系」の本質は、長期的計画とその実行の有効性を語っているだけなので、それ自体が批判の対象になるようなものではない。しかし、幾つか素直に頷けない点がある。
 
 先ず、「手帳系」の有効性を語る話者が、メソッドの有効性を「事後的に」語っているのではないか、という胡散臭さだ。
 「起業して、上場を果たす」というくらいの、ある意味ではほどほどの目標を達成して、その後から自分の現状の望ましい点と手帳を関連づけているのではないか、という疑いが消えない。起業を成功させることは十分立派な目標だが、手帳に書いておくと目標が達成できるなら、もっと別の大きな目標(ノーベル賞でも、名人でも、世界チャンピオンでも)でもいいような気がするし、途中のプロセスも学校なり、会社なりが、「もっといいところを手帳に書いておけば良かったのに」というツッコミを入れたくなるような経歴を持つ手帳系論者もいる。
 
 また、某スポーツ選手の「あきらめなければ夢は叶う!」という台詞も同類だが、「夢は、願えば叶う」という命題は、夢が叶わなかった場合には、「願い方が不十分だったのだ」という前提条件の否定によって無傷で残せる。これは、ある種の自己啓発本が頼りとして使う論理なのだが、突き詰めると、意味のあることを言っていない。
 もちろん、多くの自己啓発本と同様に、「手帳系」の本や話も、それを見聞きしているその間だけ、ある種の能力改善の高揚感が得られれば、それで十分という「芸」ではあるのだが、仕組みがハッキリ見えすぎてしまうと、「芸」の域に達しない。本なら、途中で飽きてしまう。
 これは、「手帳系」の著者というよりは、これで商売になると企画を立てて、十分読むに堪えると判断して、底の割れた本を出版する編集者の側に責任があるのかも知れない。
 もっとも、ダイエットも、英会話も、ビジネスの成功も、めったなことでは上手く行かないがゆえに、ノウハウ本の需要が安定的に存在している。これは、読者の側のノウハウ本というものに対する学習効果の乏しさに問題があるのかも知れない。
 
 もう一つ、「手帳系」の人生論に覚える違和感は、人生は計画通りなのが楽しいものかという、計画というものの硬直性や、「遊び」の少なさに対する反感だ。これは、人の好きずきだし、計画というものは、度々大きく変更しても構わない筈のものだから、長期計画を立てることだけに問題を帰するのは可哀想かも知れない。
 しかし、仕事だけを考えるとしても、面白そうなビジネスをふと思いついて会社を変わることもあれば、暇つぶしにやった副業が本業になることもある。日々の単位で考えるとしても、毎日長期の目的のために決まった行動を取るのは立派かも知れないが、たまたま飲みに行って会った相手が面白くて、且つ役にも立った、というような出会いが人生の面白味でもある。
 運を頼んではいけないが、もっと、運や偶然を楽しんだり、更に一歩進めて生かしたりする余裕や遊び心があってもいいのではないか。

 「余裕が可能性を生む」のも確かだし、「長期の自己管理の積み重ねではじめて大きな仕事が出来る」というのも確かだから、余裕や遊びの効用と弊害の相克は、一般論としては決着を付けられない問題なのだろうが、人付き合いを考えると、前者にウェイトを置く人の方が付き合って楽しいのではないか。
 もちろん、やりたいことの内容によっては、「手帳系」の几帳面さに見習った計画と実行が役に立つ場合はあるだろう。特に能力に不足がある場合には有力な手段かも知れない。(私も、目標をこっそりと手帳に書いてみることにしようか)
 とはいえ、人生や日常の細部まで、手帳に書いた目的の僕にしてしまうのは、本人にとっても、近くにいる他人にとっても、些か窮屈ではなかろうか。

 先般、「type」という雑誌の「キャリアデザイン大賞」という賞(35歳以下で、素敵なキャリアの持ち主を顕彰する賞だ)の選考に関わったのだが、候補者の多くが、拘りを持たずに出会ったチャンスを生かしている感じがして、良かった。「手帳系」の成功者が醸し出すある種の独善の臭いとは対極的な、柔軟で生き生きとした精神が好もしかった。

(※せっかく個人名を出さずに書いたので、コメントを書き込まれる方も、なるべく一般論でお願いします)
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一年で、たぶん一番嬉しい日

 昨日は将棋のC級2組順位戦の最終日だった。最近お会いする機会があって応援していた高野五段が昇級を決めた(決定したのは日が変わった3月5日だが)。
 C級2組は3人が昇級できるが、最終戦を前にした段階で、高野五段は、自ら勝って、且つ同星で順位が上位の横山五段が敗れた場合に昇級できる、棋士たちが「キャンセル待ち」と呼ぶ状況だった。単純な確率は4分の1だが、淡路九段に負かされて2敗目を喫した時点では、ほぼ絶望的な星勘定だっただけに、突然光が差すように希望が湧いてきたのだった(C級2組の対戦表はこちら。http://www.shogi.or.jp/kisenhyo/zyunni/2007/66c2/index.html)。

 朝10時の対局開始の時間から、ニフティーの名人戦棋譜速報(有料サービス、月額500円。http://www.meijinsen.jp/)で、高野五段-高田六段戦と横山五段-田村六段戦の2局をパソコンの画面に立ち上げて(棋譜は30秒ごとに自動更新される)、戦況を見ていた。順位戦は持ち時間が各6時間なので決着が着くのは零時前後になる。朝10時に、12時間と昼食、夕食休憩の計2時間をを足すと零時だ。1手1分の秒読みで延々続くことがあるので、熱戦になると決着は翌日だ。
 ところで、将棋の品質は重要だと思うが、順位戦の持ち時間は、ここまで長い必要があるのか。棋士が自分達で決めていることだから、目下の答えは「ある」なのだろうが、良くも悪くも何割かは体力勝負だろう。勝敗に直接関わる最終盤は、秒読みになることが多い。先が読めるどうしが対峙すると、幾ら時間があっても先を読むし、特に、不利な側は何かないかと時間を使う。持ち時間はいくらあっても、最後は秒読みになることが多いだろう。体力・集中力がある状況で終盤を迎えるようにする方が、むしろ品質を保てる面があると思うがどうなのだろうか。ちなみに、1局の手数が将棋の約2倍掛かる囲碁の世界戦・富士通杯でも持ち時間は1人3時間(秒読みは1分)だ。コンピューターに人間が勝てなくなると、一定の制約時間の中で人間同士がパフォーマンスを競うというフレームワークで最適化が図られるようになるのかもしれないし、テレビなり、直接観戦なりで、商品としての対局を観戦させることを考えると、普段の対局からもっとスピード感があってもいいのではないか、とも思う。
 だが、何はともあれ、今の順位戦(棋士間のランク付けと、将棋連盟からの給料に関わる)は、深夜決着が普通なのだ。

 昼時分には、両対局の戦型を見ていた。高野・高田戦は矢倉、横山・田村戦はゴキゲン中飛車の超急戦型だ。近年、「将棋世界」誌を読みサボることが多かったので、後者の戦型はサッパリ分からないものの一つだったが、勝又清和六段の「最新戦法の話」(浅川書房)という本を読んで、戦法の文脈が少し分かるようになった。これは、最近の将棋に疎い元将棋ファンが再びプロの将棋を楽しむために、極めて有用な本だ。しばらく将棋から遠ざかっている人には是非お勧めしたい。
 ともあれ、高野・高田戦は長引きそうな感じだが、横山・田村戦は、田村六段が早指しということもあって、早く終わる可能性が大きいと思った。後者の戦況を見つつ、夜に将棋連盟に行くかどうかを決めようと考えた。高野五段を紹介してくれた、某出版社の編集者H氏が将棋記者の元締めのようなS記者に話を通していて、記者の控え室に入れることになっていた。

 午後3時くらい2局の戦況は、素人目には、高野五段、田村六段がそれぞれ有望であるように思えた。
 高野五段の将棋は、先手の高田六段が急戦を仕掛けたが、高野五段は手厚く構えていて(飛車先の歩を進めていない分陣形整備が進んでいる)、反撃に移ろうとしているところだった(36手目3五歩の局面)。高田六段がこの日に採用した戦法は自分から攻勢を取るので私の好みなのだが、かつて将棋を指していた頃の記憶を辿ると、経験的にはこの戦法は「勝ち切りにくい」。そんなこともあって、高野五段が有望に思えた。
 一方、横山・田村戦は、途中まで先日のA級順位戦の羽生2冠・久保八段戦と途中まで同じに進んでいて、田村六段が勝った羽生2冠と同じ側を持っていた。途中で羽生・久保戦から離れたが、横山五段は歩切れが不自由そうで、田村六段側に攻め手が多いように見えた。
 この段階で今晩は将棋連盟に行こうと決めて、酒屋(「神田和泉屋」という日本酒の品揃えと保存状態のいい酒屋)に日本酒(「菊姫」の大吟醸)を買いに行った。箱に包装して、その上に「御祝」と書いたのし紙を巻いて貰った。店主に「応援している将棋指しがいて、今日指している将棋を勝つと昇級するのです」と言ったら、「是非そうなるといいですね」という言葉が返って来た(まあ、当然か)。
 夕方、やや早めにタクシーで帰宅し、「おつりは要らない」と言ってタクシーの運転手の気分を良くして、家では子供二人を風呂に入れ(今日の家事協力)、この日〆切の原稿を早々にメールで送り、要は、私なりに「いい心掛け」で、2局の戦況を見ていた。

 午後八時過ぎだっただろうか。横山・田村戦が田村六段の勝ちで終局し、高野五段は「キャンセル待ち」から「自力」になった。編集者H氏の携帯留守電にこの情報を入れて、午後10時に千駄ヶ谷の駅前で落ち合うことにした。
 高野五段の応援者としては喜ばしい展開になったのだが、「名人戦棋譜速報」の「応援掲示板」というページを見ると、「夕食休憩中も盤の前で考え続ける横山五段」という深刻な写真が載っていて、「自分は彼の負けを願っていたのか」と思うと、いたたまれない気分になった。

 午後10時半。将棋連盟の記者控え室に着いた。場所を変えてのPC観戦だ(対局室を見たいなどというワガママは言わないし、言える時間帯でもない)。
 局面はまだ中盤戦なのだが、先ほどまで高野五段が優勢に見えた将棋の形勢が明らかに接近していて、むしろ先手の高田六段が有利に見える局面になっていた。高田陣の駒が高野陣を圧迫するような形になっていて、私の目(「強くない」アマ四段くらい)には高田六段が優勢に見え始めた(棋譜を見られる方は75手目、4五歩の局面を見て下さい。本当は、棋譜を掲載したいところなのですが、著作権の関係に自信がないので、やめておきます)。アマ強豪のS記者も、高野五段側の模様が悪い、高野さんは硬くなっている、と言う。高野五段側から攻めるしかなさそうだが、手が続きそうな感じがしない。

 「攻めさせられる」というのは、悪い展開だ。だが、それでも攻めるしかない高野五段の攻撃が始まった。 頑張れ、高野! 暴れろ、高野!!

 彼は、本当に、「頑張って」、「暴れた」。
 高野五段が本格的に攻め始めてから、十数手くらい、観戦しながら高野五段側の手がよく当たったのだが、高田六段のどの手が悪かったのかは、私の棋力では判然としない。結果から見ると、高田六段が受けすぎたのかも知れないが、具体的にどうしたらいいのかは今見直しても分からない。だが、はじめは細く見えた攻めがつながって、最終盤には、素人目にも高野五段側に勝ちがあるように「見えた」。ただし、勝ちに「見える」ということと、現実に読みを伴って勝てるというのとの間には大きな差があって、決着がつくところまで「読めている」のでなければ、勝ちは確信できない。

 高野勝ちが決まるところまで、ああ指せば勝ちか、こう指せばいいのではないかと私はPC画面を見て熱くなっていたのだったが、記者控え室で一人の棋士が取材を受けていた。実は、この方は、遠山四段(梅田望夫さんの本に登場する若手棋士です)で、彼は、この日に一斉に行われたC級2組の最終局に勝っていて、その時のは、高野五段が負けると彼が昇級するという状況になっていた。だが、私はそのことに気付かず、後で、H編集者に遠山四段を紹介されて、彼が「キャンセル待ち」であることが分かった。彼は我々が高野五段の応援に来たことを直ぐに理解してくれて、「こう受けるようでは(高田六段側が)ダメです。高野さんが勝つでしょう」と、高野・高田戦の終盤を解説してくれた。申し訳ないことをしたと思うのだが、この状況で、冷静に解説してくれるとは、こちらとしては恐縮するよりない。来期は、彼の応援をする、と決めた。

 最後までドキドキさせられて(最後までドキドキする理由の半分はこちらが弱いせいだが)、結局、高野五段の勝ちが決まったのは零時半過ぎだった。それから、さらに局後の検討が1時間くらい続いた。音は聞こえないのだが、IPテレビで盤上で手が動く様子を見ていた。

 局後の検討が終わり、インタビューに答えて、高野五段が対局室から出てきた。ほっとした感じだが、対局中に紅潮した顔の赤みがまだ取れない。彼にとっては、間違いなく「特別に嬉しい日」の筈なのだが、嬉しさ爆発、という感じにはまだほど遠い静かな勝者の表情だった。彼の友人の弁護士(とても面白い人だった)と、H氏と、4人で連れ立って、将棋連盟の近くで、深夜までやっている高級居酒屋に行って祝杯を上げたが、店を出て別れた、午前4時の時点でも、高野さんは冷静だった。喜びが湧いてくるのは、これからか。

 考えてみると、自分のことで特別に「嬉しい!」というようなことは、当面起こりそうにない。心から応援する人が勝って成功してくれたこの日、3月5日は、今年1年を通じて私にとって一番嬉しい日なのかも知れない。自分の人生のためには、平坦で山場のない我が日常を反省すべきなのかも知れないが、他人の御蔭であっても嬉しいのだから、高野五段に感謝することにしよう。

「高野五段、ありがとう!」

(写真は銀座で歌う高野五段。今年の1月。歌は大江千里の歌で、椅子の上に立って歌っています)
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