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メディア業界の偽装請負について

 あるメディアの、付き合いの長い、親しい(と少なくとも私の方では思っている)編集者の取材を受けて、その後に、先ほどまで、お酒を飲んでいた(さらにその後、帰宅して、一本原稿を書いて、今もこのエントリーを書きながら別のお酒を飲んでいるが・・・)。
 
 ここのところ、メディアである程度以上親しくしている人物には、キヤノンに代表される偽装請負問題について、そのメディアがどのような距離感を持っているのか、という点について質問することにしている。
 
 気にせずに書くのが当然だと言うメディアもあれば、やはりスポンサーのことは意識せざるを得ないので(サラリーマンとしては)書けないと言うところもあれば、読者がたぶん望んでいないので取り上げない(本当かな?)と言う媒体もある。今日会った編集者の立場は、彼の媒体の読者の性質からして三番目なのかな、という推測を持っていたのだが、彼は、なかなか面白いことを言った。
 
 「いやあ、考えてみると、雑誌の編集部なんて、自分自身が偽装請負をやっているわけなんですよ。契約して働いて貰っているライターさんのギャラは、彼なり彼女なりが所属している会社に払っているわけだけど、ライターさんには、編集部に来て貰って、『これは、こう直してくれ』とか『悪いけど、土日で仕上げてよね』とか、完全にこちらの指揮系統下で働いて貰っています。我々がやっていること自体が、偽装請負なのだから、紙面で偽装請負を批判するのって、天にツバするような感じがあるんですよ」

 フリーのライターが所属する、多くは友達同士で作った小さな会社では、雇用保険も、厚生年金も、下手をすると健康保険までも、加入していないことが多い。個人で、国民健保と国民年金くらいは加入して払っているケースはあるが、それは、かなりしっかりした人の場合であって、それさえも怪しい。加えて、あの世界は、〆切というものがあるので、これに対応するためには、倒れるギリギリくらいまでは、頑張って当たり前、という意識が、雇う側にも、雇われる側にもある。もちろん、編集の現場にあって、現実的な指揮権は雇っている側にある。そして、これもキヤノンの労働者と似ているかも知れない点だが、殆ど同じ仕事をしているメディア側の正社員と契約ライターの年収を較べると、後者は前者のせいぜい半分くらいなのである。

 偽装請負を大々的に報じた朝日新聞社の、この件に関する社会貢献の価値がこれで下がるものではないと思うが、朝日にも週刊誌などの雑誌がある。側聞するに、かの高級官僚といい仲になった「AERA」の女性記者も朝日新聞社の正社員ではなく、契約ライターだ。契約ライターの場合、ギャラが、法人払いになっているケースは少なくないだろうと推測される。構造としては、偽装請負である。

 ちなみに、私の場合は、原稿料を法人口座(株式会社と有限会社を持っている)に支払って貰っている場合が多いから、編集部員として編集部の現場でメディアの正社員様の指揮下にあるわけではないが、偽装請負労働者の在宅労働バージョンのような立場にある、と考えられなくもない(幸い、中間でピンハネされることはないが)。仮に、一社だけに収入を依存していたら、偽装請負の労働者と同じくらい、立場は弱いだろう。

 テレビ番組の制作現場も同様だ。制作の現場では、たいていの場合、テレビ局の正社員であるプロデューサーが責任者兼権力者であるが、どの番組でも、たぶん、テレビ局の局員よりも、制作会社の社員の方が、関わるスタッフの数が多いし、さらに、例の「あるある・・・」の場合のように、この制作会社がさらに下請けを使っているケースもあるが、番組に関わる人々は、大半が一つの現場で、プロデューサーなりディレクターの指示の下に動いている。そして、テレビ局が、たとえば、下請け会社の社員の社会保険について気にしているとは思えない(私の推測です。ちがっていたら、どなたか教えて下さい)。もちろん年収は、個人差があるとしても、一段階下るごとにざっと半分だろう(孫請けでは4分の1)。
 
 AD(アシスタント・ディレクターという名の、小間使い)などは、とても親には話せないような低賃金で、信じられないくらいの長時間労働に関わっているケースがあるが、それでも「テレビに関わっている」ということに喜びがあるようで、一種の魔力があるようだ(活字の世界には、そこまでの魔力はないようだ。これがなぜなのかは、興味深い問題だ)。
 
 ジャーナリストたるもの、自分(たち)がやっているから、批判できない、などというケチな了見を持つ人物は、そもそもこの仕事に向いていないと思うが、判断の元になる情報提供者である彼らの業界がこんな感じなのだから、世直しは大変だし、「同一労働同一賃金」の世界は遠い。
 
 政治家を買収した場合にはこれを罰する法律があるが(事実がばれにくいという問題はあっても)、企業の場合、メディアを広告費で実質的に買収したり、官庁の場合は、情報提供で差を付けたり(北海道警察が北海道新聞にやったように)という、メディアの実質的な買収は、これを防ぐ有効な手段がなかなか見当たらない。
 
 考えてみると、記者クラブという明白な談合の仕組みを持ち、自由競争に反する再販価格維持制度を固守し、外資に大量の株を持たれる心配もなく、報道内容に関しては「日本語」という非関税障壁を持つ、メディア業界に、権力なり社会なりの批判を期待することが現実的ではないのかも知れない。本当は、守られている故に大胆であって欲しいのだが、現実的には、現状を恵まれた既得権と考えて行動する「ビジネス・パーソン」が多いのだろう。
 
 もっとも、ネットはローコストな情報発信手段なので、この発達は、正義感の実現を安価にしている面が、幾らかは、ある。絶望するのは止めて、先が長いことを意識しつつ、気長に批判を続ける、ということが大事なのだろう。
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主にキャノンと御手洗氏について語るコーナーを作りました

<作業員>さんのコメントで教えられて、キャノンのホームページの「お知らせ」を見てみた(http://web.canon.jp/pressrelease/2007/osirase2007feb19.html)。

「最近、一部に、キヤノングループは派遣・請負から直接雇用への対応について消極的である、と誤解されかねない報道がありました。 当社は、社会的なルールに則って、長年、直接雇用にも鋭意取り組んでおります。」とあり、派遣・請負から昨年直接雇用に転換した人数(派遣・請負がざっと2万人いるのに、たったの430人か、という印象を持ったが)などが、素っ気なく書かれている。

「社会的ルール」という言葉遣いに、「法律違反」の印象を何とか薄めたいという意図を感じる文面であり、「派遣・請負から直接雇用への対応について消極的である」ということが、誤解である、と根拠を示して、正面から議論できない、広報的には、苦しい状況をにじませたものになっている。

天下のキャノンといえども、新聞(朝日)の記事は気になる、とのことなのだろうが、同社の製品を検索したい人なども見るであろう同社のホームページのトップページに「派遣・請負から直接雇用への対応について」という何とも見栄えの悪い「新着情報」を載せるというのは、広報としては、苦しい判断だったろうし、それだけ、キャノンがこの問題に対する世間の反応を無視しにくくなってきた、ということなのだろう。

相当に気にし始めた、ということなので、今後、キャノンの偽装請負問題について、雑誌や新聞に記事を書いたり、テレビで発言したりする人は、事実の誤認や根拠の乏しい乱暴な決めつけなどをした場合には、法的に訴えられるなどのリスクが大きくなってきた、ということだ。私自身も含めて、ということだが、だからといって、この問題を風化させないようにと心しつつも、発言や文章には細心の注意を払うことが必要だろう。

たとえば、不買運動を勧めるというような場合には、相当の覚悟が要るだろう。

私自身は、これまでEOSを始めとするキャノン製品の愛用者だったが、さすがに、最近の様子を見ると、キャノン製品を買う気はしばらく起きそうにない。同じようなことを感じる人は少なくないのではないかと思うが、どうなのだろうか。

尚、私は、当面キャノンの製品を買わないが、現在持っている同社の製品は、厳しい環境で仕事をされた技術者・労働者達のご苦労の結晶でもあり、モノには罪はないと考えるので、大切に使う積もりだ。今のキャノンに、お金を払わない方がいいのかな、という思いがあるだけだ。

この話題が展開されている、他のエントリーの、コメント欄が些か深くなりすぎたこともあり、新しく、御手洗&キャノン様の話題を語るコーナーを作りました。上記の注意を守っていただくことを、くれぐれもお願いいたしますが、引き続き、本件に関わる情報のご提供と、活発な議論を期待する次第です。
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中年の夢の可能性

 NHKが西澤ヨシノリ選手を取り上げた番組、「人間ドキュメント 西澤ヨシノリ」を観た。構成にメリハリがなくて、番組としては、不出来だと思ったが、西澤選手に関して、今まで知らなかったことが幾つか分かった。

 先日の試合の敗因は、5R以降、腰の痛みが再発したことであったという。そういうことであるなら、彼のパンチが相手に効かなかったことが納得できる。「腰を治して、納得の行く試合をもう一度」という気持ちは、それなりに理解できる。但し、あの試合を観ていて何とも痛々しかった、相手の左のパンチに対する反応の悪さも、腰に起因するものなのかどうかは、よく分からない。腰ではなく、目や脳の問題だとするなら、もう引退の潮時だ。ただ、何れにしても、本人が「やりたい」ということなら、やらせてあげるといいし、日本での試合のライセンスを剥奪することは、単に、彼に不自由を強いるだけだ。

 2004年にスーパーミドル級の世界王座に挑戦した時の相手アンソニー・ムンディンは、WOWOWの「エキサイトマッチ」で見た憶えがあり、強い。彼に善戦している訳だから、今、止めにくい、という西澤選手の気持ちは、分かる。それにしても、TKO負けした試合の後に、泣く娘さんをリングに上げて、「お父さんの子供なんだから、強くなれ。泣かなくてもいい。お父さんは頑張ったんだし、立ったでしょう」と言い聞かせる場面の印象は強烈だった。

 西澤選手は、筋トレの数値や、ロードワークのタイムを細かく記録しており、これが年々改善していることを心の励みにしているという。この場面に対して、若い頃に、彼とジムで同室だったという元世界チャンピオン(モスキート級)大橋秀行氏が「自分では衰えていると知っていても、それを意識しないために、数字を励みにしているのだろう」というようなコメントをしていた。「年齢で衰えているわけではない」ということが本人の気持ちにとって大切だ、というコンテクストなのだから、同業者は厳しいものなのだなあ、と思わざるを得ないが、このコメントをそのまま番組に使うNHKの神経もあまり気持ちのいいものではない。もっとも、西澤選手本人は、この種のことはもう言われ慣れているだろうから、気にはするまいが、こういう一言一言を処理するのに、精神がなにがしか疲れるのは確かだ。負けるな、西澤!

 さて、筋肉や反射神経が重要なスポーツの世界で、中年(取りあえず40代以降)に能力を伸ばすには並々ならぬ努力と素質が必要なのだろう。では、もっぱら頭を使う分野はではどうなのだろうか。

か つて「ファンドマネジメント」(少部数ながら、また増刷される。改訂しなくては・・・)という本を書くときに紹介したことがあるのだが、ハーバート・A・サイモンの研究で、知識に「チャンク」(AはBである、というような意味の一まとまり)という単位を設定すると、世界的業績(ノーベル賞級の科学的研究や、モーツァルトの作曲、チェスの世界チャンピオン、など)のためには、5~6万のチャンクが必要で、これを身につけるために、歴史上の天才達は、「集中的な10年(くらい)」の月日を費やしている、というものがあった。5万~6万という数字は、インテリの母国語の語彙くらいのものであるらしい。たとえば、将棋の羽生善治氏や囲碁のイ・チャンホ氏などは、将棋や囲碁の世界の手筋を5万~6万身につけている、ということなのだろう。

 ちなみに、拙著では、ファンドマネジャーとしての初歩を身につけるために「2年の集中的な努力」を想定した。将棋にせよ、受験勉強にせよ、力が大きく伸びる期間が2年くらいはあったのではないか、という拙い経験と、たとえば商社などの海外駐在員が、赴任して2年くらい経つと、現地の言葉を本当に使えるようになるという話を聞くので、「2年」と考えたのだが、例えば英会話の語彙でいうと、使える語彙が1万くらいあれば、日常会話には不自由しい程度になるだろうから、2年の努力の獲得チャンク数は、それくらいのものだろう。2年間集中的に努力すれば、素人とは少し違うレベルで仕事の格好を付けられるようになるだろうし、2年間努力してみて、力が伸びた実感がないようであれば、その仕事には向いていないと見切りを付ける頃合いではないか、というようなことを書いた。

 中年になってから新しい外国語を身につける人が、少数ながらいるように、中年から何か新しいことを始めて、ある程度のプロになる(たとえば、弁護士や作家になる)というようなことは、相当の努力を前提としなければならないが、可能ではあるのだろう。興味のある問題は、5万~6万チャンクとサイモンが推定した「世界的業績」を可能にする能力レベルまで、中年以降の努力で達することは、可能なのかどうか、ということだ。

 世界的天才達は、たいがい幼少の頃、遅くとも青年期前半には、自分の専門分野に入って集中的なトレーニングをしている。ただし、十代、あるいは二十代前半くらいの時期は、もちろん、肉体・脳などがフレッシュだということもあるが、普通の社会生活をしている人間の場合、二十代後半以降、結婚することもあれば、社会的雑事が増えることもあって、これが修行を妨げている面が少なからずあると思う。

 そこで問題は、中年以降に、たとえばプロ棋士の修行期のように、集中的な10年の努力を試みた例がどれくらいあるのか、ということだ。これは、案外無いのではないか、と思われる。筋肉を要するスポーツ、一種の計算力に近いヨミの能力を必要とする将棋や囲碁のようなゲームでは難しいかも知れないが(たとえば、将棋の羽生氏は、若い頃のようには早く細かく読めていないが、経験でこれをカバーしているように見える)、研究や創作の世界では、中年以降の努力で、「世界のレベル」に達することができる分野もあるのではないか、という想像は可能だ。

 もっとも、仕事もあれば、人付き合いもあり、家族もある、というような生活する中年が、「集中的10年」を作ることは、現実的には、難しい。ただ、それが可能な誰かが、夢を持って、何かをやってみたら、どうなるのだろうか、という中年の可能性に対する興味は消えない。

 ちなみに、ファンドマネジャーの能力のピークが何歳なのかは難しい問題で、経験が有効に生きる仕事なので、年齢を重ねることは不利にならなそうな仕事だが、若さを伴った時代感覚や、余計な知識を持たないことが、却って有利に働いているな印象もあって、答えは、良く分からない。ただ、スポーツ選手よりは、明らかに誤魔化しの効きそうな仕事ではある(自分まで誤魔化せてしまうので、本当の能力が分からなくなる面もあるが・・・)。
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私が、大阪男を少し苦手に思っている理由

 織田作之助の「夫婦善哉」という小説の続編の原稿が見つかった、というニュースを先ほどテレビで見た。今年の秋くらいに、本になるらしい。
 実は、最近、織田作之助の「世相、競馬」と題する文庫本(講談社文芸文庫)を買ったばかりであった。
 本題からは逸れるが、小説をあまり読まない私が、織田作之助の本を買った理由は、山村修「書評家<狐>の読書遺産」(文春新書)という本を読んで、興味を持ったからだ。ペンネーム<狐>の書評は、対象の本を是非読んでみたいという気分にさせるし、味わい深くて、実に素晴らしい。正直なところ、今まで私が雑誌や新聞に書いた書評が恥ずかしいと思えるような素晴らしい文章が並んでいる。著者は、故人であり、まことに惜しい人を亡くしたと思う。もっとも、多少の言い訳をすると、「これは読むことが苦痛だ」というような稚拙な文章の経済小説(講演料の高い大家の作品なのだが)の書評などを求められて来たので、そもそも、書評が、含蓄の深いものにはなり得ない、というような場合もあった。
 さて、織田作之助の文庫本なのだが、末尾に、「大阪」と題する評論が載っている。
 正直に言うが、私は、傾向として、大阪人(特に男性)が少し苦手だ。もちろん、大阪出身者の全てが一律に苦手なわけではないが、そんな傾向は確かにある。これは、「住友××」とつく会社に勤めた時の思い出が良くないことに主に起因すると思うのだが、最近では、神保町の行きつけのバーに、大きな声で(カウンターの端から端まで内容が聞こえるような)話す、明らかに大阪弁の客が何人か出現していることで、再び、思い出した。男女一組で現れて、一人でツッコミ、一人でボケて、を疲れるまで繰り返す男性と、これを受けて大声で笑う女性が典型的なワンセットだ。一説には、かの吉本興業が、よりにもよって神保町に拠点を作ろうとしていることが原因であるらしい。
 ただ、かつて勤めた、住友××が、私には合わない会社であったとしても、大阪男のどこに最も大きな違和感を覚えていたのか、また、そもそも、大阪の男のどこが、私に合わなかったのかは、言語的にはスッキリと把握できずにいた(自分の意見はあったが、それが大阪男に対する正しい把握なのか、自信が持てなかった)。
 今回、織田作之助の文章を読んで、この事情の一部が納得的に理解できた。
 織田作之助は、大阪の性格に脈打っている強い、逞しい、激しいリズムを、現世への関心の露骨さ、現実へ迫るねばり強さから来ている、と書いていて、ニュアンスとしてこれを讃えているが、その直後に、大阪の文学について「大阪人が持っている芸の細かさ、話術の巧みさ、執拗に迫りながら、さっと身をかわす、何ものにも捉われまいとする精神の強さなどによって、露骨さがぼんやりぼかされているものの、底にあるのは、やはりこの現世への関心の強靱なリズムであろうと、私は思う」(p238)と書いている。
 私は、北海道出の田舎者であり、北海道は概ね関東文化圏に属する田舎の一つといっていいと思うが、大阪流の、相手に、露骨かつ執拗に迫りながら、自分は「さっと身をかわす」対人関係のスタイルを、「卑怯だ!」と感じるのだろう。これは、たぶん、お互いが、「さっと身をかわす」ことが了解されている間柄では、問題にならないのだろうが、自分の関心や発言には、それなりに重い責任が伴うはずだから、自分だけ逃げるのはフェアでない、と思っているような、北海道的な「重たい」(洗練されていない)人間関係の感覚から見ると(相手に多くを要求する人は、自分にも厳しくあるべきだ、という感覚がある)、違和感につながるのだと思う(但し、北海道は「来るものを拒まず、去る者を追わない」サッパリ感覚を人間関係の特徴としている)。
 もちろん、大まかな意味では、共に日本語を使っていて、お互いのコミュニケーションに不自由はないはずなのだが、背景に持っている文化や対人関係の習慣によって、相性が良かったり、そうでなかったりする事は、やっぱりあるのだろう。
 ただ、たとえば、お金の運用に関して、同じ内容を講演すると、大阪の聴衆の方が、東京の聴衆よりも明らかに反応が良い場合がしばしばあって、こちらから話をする相手としての大阪人は悪くないし、「リアリズム」は私も好きだ。
 加えて、もちろん、私の感覚の方が正しいなどと主張したい訳ではないし、私個人は、大阪出身であっても「いい人」とは出来るだけ仲良くなりたい、と思っているのだが、現在感じている感情的な傾向の背景はこういう事であったかと、織田作之助の文章で納得した。
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映画「魂萌え」でどうしても気になること

 風吹じゅん主演の映画「魂萌え」は、目下、まずまずの好評をもって上映されているようだ。たまには、邦画も見てみようと思って、先日見てきたのだが、一点どうにも気になる点がある。
 
 推理物ではないし、ストーリーを知っていて鑑賞に差し支えはないと思うが、以下、ストーリーに触れるので、全くの先入観無しにこれから観よう、と思っておられる方は、拙文を読むのをここでストップして欲しい。(抗議には責任が持てない)
 

 
 全体のストーリーは、雑誌などでも既に紹介されているとおり、風吹じゅん演じる専業主婦の夫(寺尾聡)が60歳の定年の2年後に急死して、実は、彼が、隠れて付き合っていた愛人(三田佳子)が居たことが分かる、という話だ。女二人の確執と、主人公が生き生きと「再生」する話が描かれている。愛人は、夫が勤めていた会社の社食の栄養士で、男(寺尾聡)に一部資金を出して貰って(後から分かる)、蕎麦屋を経営している。夫は、後で一緒に蕎麦屋をやろう、というようなことも言っていたらしい。
 
 一つのキーになっているシーンとして、定年の日に酒に酔った夫(寺尾聡)が、台所にいる妻(風吹じゅん)の手を取って話しかけるシーンがあるのだが、妻は夫の死後、夫がその時に何を言っていたのかが思い出せない。夫は、定年の日に、アメリカにいる息子(父親の死後、帰ってくるのだが、なかなか迷惑な人物)に電話を掛けているのだが、このときに、父が息子に何を言ったのかを、後から、主人公は聞くことになる。
 
 ラスト近くで、息子は「パパは、あの日、はじめてお母さんと握手したって言っていたよ。それで、僕に、おかあさんのことをよろしく頼むって、言ったんだ」と母に告げる。
 
 息子は性根を入れ替えたようでもあり、息子と母親の関係が修復され、夫は、妻のことを気に掛けていたのだ、ということが分かるのだから、このシーン自体の後味は明るい。
 
 しかし、夫の定年の日のに遡って考えると、夫は、愛人と蕎麦屋をやろうと思っていて、つまり、妻と別れるつもりでいて、息子に「お母さんのことをよろしく頼む」と言っていた、と解釈することが可能だし、この考えの方がむしろ信憑性がある。
 
 監督は、複雑な終わり方にしようと考えたのかも知れないが、主人公が、どちらだと思ったのかが描かれていないので、映画を見終わった後、大いに気になっている。考えるポイントが多いし、役者さんも皆そこそこなので、いい映画だと思うし、観て良かったと思うのだが、ここのところがスッキリしない。
 
 どなたか、この映画をご覧になった方に、ここはどう考えたらいいのかを、お聞きしたい。
 
 ちなみに、先日の、フジテレビの「とくダネ!」では、大映画評論家のおすぎ氏が、三田佳子の演技が「凄い」とと褒め、また、豊川悦司が演じる落ちぶれてカプセルホテルにいる男について、「彼なら、ホストにでもなれば稼げるのに」というご感想を仰っておられた。
 
 今年は、いよいよ離婚の際の年金分割が始まるので、熟年離婚が増加することが、ほぼ確実視されている。離婚であるにしても、この映画のように、死別であるにしても、たとえば、老いた妻の側は、風吹じゅんのような容姿ではないだろうし(あんなに、簡単に「魂萌え」できるものではなかろう)、この映画の設定のように、家とお金が生活に心配ないだけ残る、ということも少ないだろう。夫の方も、同様だし、一人での日常生活力が劣る分、男性の方がもっと大変だろう。
 
 幸せな晩年を用意するには、かなりの努力と、幸運が必要と思える。
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柳沢大臣vs.共産党の戦い?

柳沢厚生労働大臣の「女性は子供を産む機械」との発言問題が、まだ継続中だ。

ヤナギサワの珍しく思い切りのいい自殺点シュートを巡って、これが単に自殺点だけなのか、レッドカード(退場=辞任)にも相当するのか、判定でもめているという構図だ。

この問題について、私は、こうした発言をしてしまった以上、柳沢大臣が厚生労働大臣の職責を果たすことは困難だろうから、彼が辞任するか、会社でいえば、社長の立場になる安倍総理大臣が彼を罷免するかすべきであって、それ以外に、考えるべき大きなファクターはない、と考えている。経営問題と考えると、簡単だ。どうして迷走するのだろうか(たぶん、社長の出来が悪いからだろうが・・・)。

本人が反省している一言の失言で、辞任に追い込むのは可哀相だ、という考えもあり得ようが、柳沢氏個人に対する処罰の軽重が第一の問題なのではないし、まして、安倍首相の任命権責任になる・らならない、というのは、適切な後処置をしてからの別問題だろう。こと「人気」ということでいえば、彼が毅然として柳沢氏を罷免して、その理由を整然と述べたなら、むしろ人気回復のきっかけになるのではなかろうか。もともと、彼の能力(特に胆力)では無理だろうが、それにしても、安倍首相、テレビで見た感じ、肌にも声にも張りがないし、一回りしぼんで見える。

また、村上龍さんがJMMで書いておられたが、柳沢大臣が、本当に女性を「産む機械」と思っているなら彼は危険な人格の持ち主だし、単に比喩として口を滑らせたのなら、「つい口を滑らせる」ようでは大臣の職責に堪えないので、何れにしても、彼は、ダメだ、という論も立つ。全く、その通りだ。

尚、同じ作家でも、「文明がもたらした最も悪しきものはババァ」という発言で、裁判にもなった女性蔑視論者の先輩、石原慎太郎都知事は、「(柳沢大臣は)ちょっと短絡的に言い過ぎたんじゃないか」と同情的な発言をしているようだ。こちらの方は、作家であっても、言葉を大切にしない。

柳沢氏については、彼の言い訳では、「言葉(表現)が悪かった」ことは反省しているものの、「考え方」そのものを反省している様子が見えない。発言の何が悪いのかが、正確に理解できていないのではないだろうか。年齢(73歳)のせいだ、と言うと、彼と同年代のマトモな男性に対して、失礼を働いたことになるから、年齢のせいにはしないが、要は、今の彼に、厚生労働大臣の仕事は無理なのだと思う。

2月4日(日曜日)に行われた、地方選二つでは、北九州市長選挙で自民党・公明党サイドが負け、愛知では僅差で勝った。投票率の高さも含めて、ヤナギサワ効果は出ているようだ。自民党の参院は気が気でないだろう。

ところで、開票結果を見ると、当選した神田氏(自・公推薦)142万、石田氏(民・社・国推薦)135万、阿部氏16万、となっている。共産党が野党側で共闘するか、せめて、候補者擁立を見送って自主投票にしていれば、石田氏の逆転が濃厚だったのではなかろうか。選挙には候補者を立てないと、地方組織の運営がままならない、ということなのかも知れないが、もう少し行動の効果と目的を考えて欲しいものだ。

反与党側としては、まだまだ選挙があるので、柳沢大臣には、むしろ、大いに頑張って欲しいところだろう。

すると、天下分け目の参議院選挙は、「ヤナギサワ効果」と「共産党の共食い効果」のどちらの負の効果がより影響が大きいか、といった、不毛な戦いとなる。

<注:はじめに書いた時に、愛知知事選の各候補の得票数を一桁少なく書いていました。<音次郎>さんのご指摘をうけて、本文を訂正しました。反省! 2月6日>
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