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TVコメンテーターの立場・現実・責任

 幸運な(と自分では思うのだが)行きがかりが幾つかあって、ここ2年ほど、生放送でニュース(的)情報を伝えるテレビ番組の「コメンテーター」と呼ばれる仕事をする機会があった。
 ちょうど「スーパーモーニング」(テレビ朝日、朝8時から)のレギュラー出演がさる9月25日で終わったことでもあり、テレビ番組の「コメンテーター」について、簡単に考えておきたい。私がコメンテーター経験した番組は、「めざビズ」(フジテレビ。放送終了)、「とくダネ!」(フジテレビ、朝8時から)、「スーパーモーニング」、「ニュース・リアルタイム」(日本テレビ、午後4時54分から)、「ニュースGyaO」(GyaO、放送終了)、である。拙いコメンテーターではあったが、どの番組にも愛着がある。
 
 当ブログに限らず、ブログや掲示板などを見ると、TVコメンテーターの発言は、多くの場合、不見識で思慮の浅いものとして、批判されている。公共の電波を使ってけしからん、有害だ、という論調もあれば、「TVのコメンテーター並みのバカ」という表現もそう不自然でなく響くように(少なくとも、私は、その表現で、何が言いたいか分かる)、いい加減な論者の代表的な評価もある。だが、はたして、そんなに酷いものなのか。
 
 コメンテーターの立ち位置を考えよう。たとえば「とくダネ!」と「スーパーモーニング」では、若干役割が異なる。

 「とくダネ!」は、現在のような形式でニュース・情報を伝える「情報バラエティー」(間違っていたら、フジテレビのどなたか、ご指摘下さい)の形式のパイオニアであると思うが、これは、ニュースそのものと共に、ニュースを見た感情や感想をセットで伝える、という、考えようによっては、なかなか強力な表現スタイルだ。
 メイン・キャスターの小倉智昭さんは、ニュースを伝え、番組を進行すると同時に、ニュースの受け手にもなって、彼個人が受けた率直な印象を表現する。彼が、根強い人気を持っている理由は、司会としての安定感や声の良さ(本当に通る!)以上に、「正直に意見を述べている」という印象を与えるからではないだろうか(その分、反感も強烈に受けることがある)。
 喩えていえば、まだテレビが一家の中心であった時に、例えば三島由紀夫の割腹自殺とかいったニュースを一家で見ながら、一家のお父さんが、「いいことではないが、俺は、三島の気持ちが分かる」などと、自分の考えを家族に言う(小倉パパは、タカ派ではないので、こうは言わないだろうが)。そんなお父さんの役割を、小倉氏が担っている。ちなみに、佐々木恭子さんが、お母さんなのか、長女なのかは、見る人によって見解が分かれるかも知れない。笠井アナウンサーは、いつも居る、隣(か親戚)のオバサンだろう。コメンテーターは、一家が迎えた、今日のお客さんというくらいの位置づけだ。
 このように、「とくダネ!」は、みんなでテレビを見るように進行し、親父や友達の意見に自分の感情が影響されるような形で、視聴者はニュースを受け取る。
 番組出演の際のコメンテーターの典型的な動きは以下の通りだ。先ず、多くの場合、前日の夕方くらいに、番組のラフな構成表と、それぞれのネタに関する資料(新聞、雑誌のコピーが多い。結構分厚い)をバイク便で受け取る。「おすぎのエンタメ・・・」のようなコーナーがあると、2、3日前に、取り上げる映画のDVDなどを送ってくる場合もある。要は、準備をしておけ、ということだ。但し、この段階での、構成は、翌朝にすっかり変わっていることがある。翌朝、迎えの車の中には、新しい構成表と、追加の資料が入っている事が多い。
 6時半前後にお台場のフジテレビに着いて、メークを済ませて、6時45分くらいから、MCを含めたメンバーで打ち合わせが始まる。打ち合わせは、長いと1時間に及ぶ。それぞれの、ネタの担当ディレクターまたはレポーターが、取材して分かったことを述べる。この段階で、事件の被疑者の名前やプロフィールを出すとか出さないとか、発言に関する打ち合わせを済ませておく。番組のスタッフに迷惑をかけないためにも、また、せっかくの取材の意図を汲む上でも、私は、気持ちの上で、この打ち合わせを本番と同じくらい重視している。ちなみに、番組名物の小倉氏のオープニングトークは、この段階では大体ネタが出来ているようだが、これは、コメンテーターにとっても、番組と共にいきなり始まる話題である。ちなみに、幾つかTV番組に出てみて、「とくダネ!」ほど、いきなり始まる(リハーサル一切無しで)番組は珍しい。笠井アナウンサーが現れるのは開始1、2分前が多いし、その頃、佐々木恭子さんは悠然と化粧を直していたりする。
 ここで強調したいことは、「とくダネ!」は、非常に丁寧に作っている番組で、コメンテーターにもしっかり準備をさせてくれるが、コメンテーターは、感想や知っている情報を言えば良く、何らかの有益な情報を必ず追加しなければならない、というような役割ではないことだ。実際、殺人事件もあれば、教育問題もあり、芸能ネタもあり、たまには経済ニュースもある、というような、広い範囲に対して、コメンテーターが専門的な知見を加えられるはずがない。

 「スーパーモーニング」の場合、打ち合わせに関しては、時間が短いことと(30分くらい)、キャスターやナビゲーター(火曜日だと若一さん)とコメンテーターは別々に打ち合わせをする点がちがうが、「とくダネ!」と比較した場合、コメンテーターに、暗黙の役割分担がある点が主なちがいになるだろうか。
 私が出ていた火曜日で言うと、宮崎(美子)さん、椛島さん(KABAちゃん)には、主にニュースに対する表情を中心としたリアクションが求められるのに対して、大澤弁護士や私には、何らかの追加的な情報なり意見なりが求められていたのだと思う。とはいえ、必ずしも専門分野の話題とは限らない。私の出演期間は、殆ど安倍政権の末期ぶりと朝青龍問題に費やされた印象がある。将来、安倍氏や朝青龍の顔を見ると、私は、「スパモニ」を思い出すだろう。
 そして、さらに、若一さんが居て、赤江、小木、両キャスターが居て、という役割の関係が「とくダネ!」よりも複雑な番組であったが、小倉氏がすっかり取り仕切る「とくダネ!」よりは、飛び入りの意見を言いやすい、ある種の活気がスタジオにある。私は、どちらの番組も好きだし、チャンスがあれば、また出てみたいと思っている。

 「とくダネ!」と「スーパーモーニング」について説明したが、どんなご感想を持たれるだろうか。
 コメンテーターとは、単に、テレビの中にいる「お客さん」に過ぎないのだ。たいていの場合、人に物を教えるような立場から発言している訳ではない。
 もっとも、ニュースを見るのに、招いてもいない客に付き合わされるのは不愉快かも知れないし、コメンテーターの言うことは否応なく聞こえるが、視聴者が画面に向かって何か言っても、誰にも伝わらないという非対称性があるので、自分の感想をしゃべり散らかすことが出来るコメンテーターという存在に対して、視聴者がある種の反感を持つ場合があるのは、仕方がないと思う。
 一方、たとえば、2時間出演していても、一人のコメンテーターがしゃべるのは通算せいぜい2、3分だし、VTRの構成とそう違うことも話せないし、時間の制約もある。だが、それでも出たいと思う動機は何かと考えると、TV出演が、多くの人に自分の言葉を伝えられる機会であることと、TV番組の独特の緊張感が楽しいということだろう。ちなみに、私のような立場(非タレント)の場合、出演料は主たる動機にはならない。
 もちろん、発言内容の良し悪しに関する評価はあっていいし、発言者は自分の発言に責任を持つべきだが、もともと、番組にあってコメンテーターという存在は、怒るほどの甲斐もない相手なので(当たり前だが、内容の大半は、ディレクターその他、制作側によって規定されている)まあ、大目に見てやって下さいな!



 生でコメントが出来る機会が無くなったことは、少しさびしいし、山崎元商店の営業上は、また機会があれば、積極的にトライすべきだろう、と思っている。未定ながら出演交渉中の番組があるだが、まだ公表できる段階ではない。
 のびのびとたくさん話せる番組があると一番嬉しいが、「言うこと」について、自分で工夫できる余地が少しでもある番組なら、テレビ、ラジオを問わず、何でもやってみたいと思っている。
 思い起こすと、朝4時半からの生放送、という生活リズム的にはとんでもない番組だったが、「めざビズ」は、なかなか良かった。深夜枠やCSででも、再チャレンジできないものか。
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さよなら北の湖

 横綱北の湖は、本当にいい相撲取りだった。現役時代の彼は、背中が反り気味になることと、相対的に手が短いので、まわしを取るのがそう速くないし、時に上手を切られる欠点があったが、これらを補って余りある、寄りの力と相撲の速さを持った取り口で、相撲の王道を行く、最強の横綱の一人だった。特に、外国人力士のはしりで圧倒的な体格と当たりの破壊力を持った高見山の立ち会いを、まともに受けて、組止めて、寄り切り、あるいは、投げ捨てる相撲には、横綱の責任感と相撲界最高峰の力が表現されていた。
 キャラクター的にはヒール(悪役・憎まれ役)であったが、私は、当時、北の湖の素質に窮屈さが無い、文句のない強さが、好きで応援していた。
 彼は、北海道の有珠山の麓の出身であった。人格的なエピソードは、そう多くは伝わっていないが、負けず嫌いで気が強いのは当然としても、単純で素朴な人柄だと思っていた。彼が乗っていた車がスピード違反でつかまった時に、ぺこぺこ頭を下げて、「わたしたちは、相撲以外に何も分からない、デブなので、ひとつよろしく・・・」とへりくだって、警察官に許して貰ったことがあるというエピソードを、週刊誌で読んだ記憶(定かではないが)がある。憎めないデブだ。
 また、外国人力士について、「相撲界に入ったら、日本人と一緒であり、区別するつもりは一切無い」と言い切ったことがあったが、この見識も立派だと思った。「日本人が勝たないと、面白くない」と大っぴらに言うような、社会人失格の人物ではない。
 総じて、その人となり自体は、そう悪くないのだろうと、期待感もあって、今までそう思ってきた。

 しかし、日本相撲協会理事長としての北の湖の仕事ぶりは、ここのところ、あまり
に酷い。
 先ず、朝青龍問題だが、この問題をこれほど大きなものにし、その後も迷走を続けていることの大半の責任は北の湖にあると思う。経過を見ると、朝青龍の始末を丸投げされた高砂親方が、朝青龍を十分にコントロールできなかったことが事態を混迷させたが、理事長、即ち、相撲協会のトップである北の湖は、部下に事態の収集能力がないと見たら、直ちに、自分が動くべきであった。
 実際、北の湖が朝青龍を呼びつけて、話を聞いた後に、その場で記者会見をさせたなら、問題は、ここまで大きくならなかっただろう。朝青龍が、横綱になったことがない高砂親方をなめているのは感心しないが、であればこそ、先輩横綱であると同時に組織のトップである北の湖が彼を一喝すべきだった。
 また、横綱審議委員会の批判は、もっぱら朝青龍に向いているが、先輩横綱であり、強い指導力を見せ、横綱の権威を守るべき北の湖に批判が向かないのは、彼らの目が節穴だとしかいいようがない。横審は、なぜ北の湖に理事長辞任を勧告しないのか(せめて批判し、指導しないのか)。彼らは、本質を見ず、あるいは指摘せず、「横審委員」という居心地の良い名誉職を外されたくないというだけの、卑しい連中ばかりなのだろう(顔つきの事までは、今日は、言うまい)。こと、「横綱の権威」に関しては、北の湖の方が、朝青龍よりも、遙かに罪が重いとのではないか。
 相撲評論家の杉山清氏に対して行使した不当な圧力も酷い。TV番組内で北の湖への批判に「頷いた」ことが、協会(北の湖?)批判であるとされて、取材証を取り上げられた問題だが、メディアに対する対応として、これは酷すぎる。もっとも、この件も、次に述べる八百長問題でもそうだが、相撲を取材するメディアは、取材源である協会・相撲界に対して癒着の度が過ぎる。NHKをはじめとするメディアが余りにも相撲協会を甘やかしてきたことが、問題の背景にはあるだろう。
 「週刊現代」が報じた八百長問題に対しても、正しい対応が出来ていない。協会が使っている、弁護士も不出来なのだろうが、八百長報道記事に対して、再々訴訟を起こしながら、「証拠」とされる、宮城野親方のテープがでた以降、協会と弁護士は、沈黙してしまう。報道内容、テープ、及び、相撲の取り口から判断して、私は、八百長はあったと推測するが、あったのか、なかったのか、をはっきりさせて、事実があった場合、適切な処分を行うことが、協会としては必要であった。証拠を突きつけられての沈黙は、相撲の権威にとって最悪だ。
 ちなみに、八百長報道の取材源である宮城野親方は、北の湖の弟子筋に当たる人物だ。宮城野親方が病気(胸の痛み)で入院というニュースを見て、故高鉄山のように、帰らぬ人となるのではないかと心配したが、生きて退院されたようで、何よりだった。
 そして、今回の、時津風部屋の若手力士リンチ死事件だ。ここでも愚図な北の湖は、警察に任せるというが、本来、組織の長としては、時津風親方を呼びつけて事情を聴取し、自らの手での事態の説明と早急な処分を行う必要がある。警察でシロなら、本当はクロでもいいというのか。シロかクロか、一番先に知って、対応しようとすることが、組織としては当然だろう。
 朝青龍の問題を見てもそう思うが、北の湖は、大きな問題が起こると、自分で意思決定できずに、問題の処理を、他者に任せて、先延ばしする傾向があるようだ。彼に、相撲協会の理事長職は無理だ。組織のトップとしては、ダメなトップの一典型として、分かりやすい反面教師であるといっていいだろう。世の社長さん達は、どこがダメなのか、よく見ておくべきだ。

 北の湖は、複数の不始末の責任を取って、一日も早く、理事長を辞任すべきだろう。親方を廃業せよとまでは、言わない。彼は、横綱の権威を再興するような強い弟子を育てることで、名誉回復のチャンスを持っても良いだろう。
 一方、財団法人日本相撲協会は、公益法人として設立されており、文部科学省の管轄下のはずだ。協会自体に自浄能力がないとすると、文科省が指導・介入すべき時期かも知れない。
 加えて、横綱審議委員会は廃止、ないしは、メンバーの総入れ替えを行うべきだろうし、相撲協会の実質的に最大のタニマチであるNHKの責任も重いのではなかろうか。
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『副業』に賛成ですか、反対ですか?

 株式投資の本が、やっと手を離れたので、主に、若者向けに、キャリア・プランと転職について語る本の執筆に掛かっている(単行本を続けて書くのは、草臥れるような気がするが、たぶん、慣れの問題なのだろう)。若者向けの、仕事の話で、副業の勧める必要があるかとも思ったが、この本の原稿の中で、副業について書いてみた。
 私は、副業に賛成で、社会もこれをもっと後押しすべきだ(少なくとも、邪魔をすべきでない)という立場だが、そうは思われない方もおられるだろう。
 以下は、その本の原稿からの抜粋だ。

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 これから就職しようとする人や、就職して間がない若い人は、まだ考える余裕がないかも知れないが、副業について考えておきたい。
 会社に勤務する場合、これを本業と考えるとして、副業は、それ以外に収入源になる活動全般を指す。著者は、一般論として、会社員が副業を持つか、あるいは将来副業を持つために備えることに賛成だ。
 一般に、会社は、社員が副業を持つことを嫌う傾向がある。会社の規定で、原則として、副業を禁ずるとしている会社も多い。一つには、副業を持つと、社員が本業に十分集中しなくなる心配がある、ということだろうし、もう一つには、別の収入源を持った社員は、会社に対する依存度合いが低下するので、使いにくいということがあるかも知れない。また、副業の有無による社員間の収入格差やこれに伴う嫉妬の問題を嫌う場合もある。
 別の場合として、本業での情報や取引関係、人間関係などを、社員が副業に流用して、本業での得べかりし利益が損なわれる、という心配もある。
 後者は、確かに問題であり、これを禁ずることを、社員に求めていいと思うが、一般論として、副業そのものは、肯定してもいいのではないだろうか。
 ある官庁の研究会で、著者が転職に関して、簡単な発表とディスカッションをしたことがあるが、副業禁止はけしからぬ、という著者の意見に対して、ある参加者(大学教授)からは、会社で禁止されていても、副業は出来るという判例があるので、社員が自分の判断で副業をすることは、構わないはずだ、という反論が出た。しかし、会社が規定上禁止している場合、社員としては、副業に手を出すことは、はばかられるだろうし、まして、会社と裁判で争って、その社員が幸せになれるとは、思えない。会社側に立証責任を持たせて、本業に明白な悪影響がない限り、社員の副業は原則自由とするということを、法規上明確に規定しておく方が良い、というのが、著者の意見だ。
 そもそも、会社には、社員の人生全体に対する責任を持つ能力がないし、また、そのような過大な責任を会社が持つ必要もない。それなら、社員が、自分の責任に於いて、自分の人生のリスクをカバーし、収入を補う手段を持つことは、社員の当然の権利であると同時に、会社にとっても、いいことではないだろうか。副業の禁止は、社員の生活への、会社の過剰な介入である。
 さて、あるべき論を脇に置くとして、現実の会社は、副業を許す場合から、完全に禁ずる場合まで、規定の適用の強弱を含めてさまざまだが、著者は、社員である読者が、何らかの副業を持ったり、将来副業を持つための準備に取りかかったりすることは、いいことだと思う。
 副業を持つことのメリットを挙げよう。先ず、現実に、副業を持っていることは、会社の倒産、会社からの解雇、会社からの収入の減少に対する、完全ではなくとも、有効なリスクヘッジになりうる。また、副収入を持っていると、会社に対する精神的な余裕が生まれ、これは、本来、対等であるはずの、会社と個人との関係を正しく保つ上で役に立つ。また、現実に収入を得ていなくても、会社以外のビジネスで稼ぐことが出来る何らかの準備を持っていると精神的な余裕になるし、これは、高齢になって、退職が近づいてくると、必要な準備になるのだが、退職の一、二年前から慌てて何かやろうとしても、十分な準備が出来るとは限らない。
 加えて、勤務先の会社とその肩書き以外の社会的な立場を持っていることは、社会との接触面を増やすし、本人にとって、自信にもなる。
 それに、サラリーマンが、独立したり、起業したりするとしても、いきなり本業を投げ打って、新しい世界に飛び込むのは、リスクが大きすぎる場合がある。副業として、徐々に仕事に慣れ、顧客が必要な仕事は、ある程度の顧客を確保してから、機を見て、独立に至る、といったプランが最適な場合も多い。
 作家の堺屋太一氏が経済企画庁長官時代の「経済白書」(平成一一年版)のまえがきに、「青少年もリスクのある自営や起業を避け、安全確実とみられる大組織への参加を選ぶようになっている」、「これからは自らリスクを冒して新しい経済活動を切り開いていく必要がある」と書かれていたことがあった。ご高説はもっともなのだが(「官僚に言われたくない!」とも思うが、リスクを取る活動は大事だ)、誰でも、いきなり大きなリスクを取るのが最適な戦略ではない場合がある。一方で会社に勤めながら、副業などの形で、徐々に自営や起業の形を作って行くことを、もっと広く推進してもいいのではなかろうか。
 デメリットもある。先ずは、副業を持つと、より忙しくなる。副業の内容にもよるが、より多く働くと、より多くの収入が得られる、という条件の下で、仕事を減らすのは抵抗感がある。下手をすると、仕事を抱え込みすぎて、生活に潤いが無くなったり、疲れが本業に影響したりすることがあるし、健康を損なう場合もある。会社勤め一本の場合でもそうだが、自己管理は大切だ。
 また、本業との関わりは、やはり、時に微妙になることがある。本業で、会社に帰属する情報やノウハウを副業に流用しないことは当然だが、副業の内容によっては、たとえば、新規に獲得できそうな顧客を、本業に回すか、副業の側に回すかが、微妙な場合がある。自分で獲得したビジネスで、顧客が、自分の副業と取引することを選ぶなら、本業に文句を言われる筋合いはない、ともいえるが、時間や情報の使い方などには、細心の注意が必要だ。本業と似た仕事をする場合や、コンサルティング的な仕事をする場合などに、仕事の整理が難しくなることがあろうし、副業を諦めざるを得ない場合も出てくるだろう。
 著者は、金融・証券関係の会社に勤めながら、一九八〇年代の終わり頃から、十年くらい、主に匿名で雑誌の原稿を書いたり、専門書(著者は、資産運用が専門である)を出版したりしていた。こうした収入は(雑所得である。年間二十万円以上の場合は、申告しなければならない)、徐々に増えて来たが、個人として、書いたり話したり、といったことをビジネス化するためには、やはり、実名で堂々と活動する必要があった。匿名の原稿は、たぶん、二〇〇本か三〇〇本くらい書いたと思うが、自分の実績とはならなかった。但し、雑誌などで、ある程度原稿を書いたことで、出版社に対して、ある程度の信用を形成する効果があり、専門書とはいえ、本を出版することが出来たので、全く後の役に立たなかった、という訳ではない。
 その後、一九九八年くらいから、実名の原稿書き仕事を増やし、二〇〇一年に当時の三和総研に転職するときに、三和総研での収入を低めに設定すると共に、副業の収入は自分の収入とする条件で入社して、徐々に勤務先の会社以外の仕事の比率を高めた。二年目くらいからは、会社以外の仕事の方が、収入が大きくなった。サラリーマンとして勤める会社以外の仕事は、書いたり・話したりといった著述業・評論家的な仕事とコンサルティングだが、仕事のウェイトは、その時々で変化している。サラリーマンとしての仕事は、当面辞めるつもりも、辞めなければならない必要性もないが、将来は(少なくとも会社の定年後は)、副業の方をその後の本業にするような形で、働き続けたいと思っている。
 著者は、現在、四九歳だから、定年後について考えるのに早過ぎるということはない。現在の生活コストを考えると、今後給付が削減される見通しでもあり、公的年金だけでは暮らせそうにないし、企業年金も不十分だ。そう考えると、資産の形で備えを持つか、将来も続けられる仕事の形で備えを持つかを考えなければならないわけだが、著者の副業は、後者の備えに対して、早めに手を打ったということでもあった。同時に、個人の立場で、いろいろなことを伝えたり、主張したりしたいという個人的な目的の実現にもつながっている。思うに、会社の仕事以外に、仕事を引き受けるわけだから、副業は、自分にとって、嫌いな仕事、張り合いのない仕事では辛い。
 若い読者にとっては、随分先の話をしたが、直ちに始めるわけではなくとも、何らかの「自分のビジネス」を、会社とは別に持てるように準備することは、強く勧めておきたい。外国語のスキルや何らかの業務知識の勉強に時間を割くのもいいし、開業のための市場調査もいいだろ。もちろん、実行に勝る勉強はない、という仕事も多いだろうから、たとえば、休日や、在宅で出来る仕事があれば、早速手を着けてみるのもいいだろう。
 大人(要は、年寄り)は、自分の経験を一般化して押しつけたがるし、若者の可能性に嫉妬して、「会社の仕事に集中しなければ、どちらも、ダメになるぞ」というようなことを言いたがるものだが、その程度の、意地悪(意識的でないこともあるから、始末に負えない)に、めげてはいけない。
 尚、株式投資などの、資産運用は、副業ではなくて、「副業以外に出来る資産形成への努力」である。資産と時間が稼ぐのであって、自分が稼ぐのではない。本業、副業の外の分類で考えて、取り組んで欲しい。暇がない、というほど「本当に」忙しい人など、普通のサラリーマンには、見たことがない。
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 読者のみなさまの、副業観や、定年後のライフプランなどを、気楽に語っていただけると、幸いだ。
 尚、「大人(要は、年寄り)」という表現は、自分も含めて言っている積もりでもあって、悪意は込めていない。若者に迎合している、と、山崎元商店の浅はかな営業戦略を敏感に嗅ぎ取る読者もおられようが、要は、現在書いている本が、そういう立場から書いてみようという本なので、ご容赦されたい。
 
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「安倍晋三さん、お疲れ様」

 安倍首相が辞意を表明した。午後1時半頃、録画したボクシングの試合を1試合だけ見ようかな、と思ってテレビをつけたら、「安倍首相辞任」というテロップと、例の妙な目線のぶら下がり取材の映像が画面に流れていた。
 テロ特措法の延長に「職を賭す」というあたりから、「辞め場を探しているな」という感触を持って見ていたのだが、1カ月の政治空白を作って組閣し、国会を召集し、所信表明演説を行って辞める、という手順は、余りにお粗末だ。「国民に迷惑を掛けている」と言いきっていいと思うが、気力・能力の限界だったのだろう。
 上記の点を含めて、責めるべき点は多数あるが、彼は、半ば病気のような状態なのだろうから、悪いのは、本人よりも周囲だろう。特に近くに居て、安倍氏の様子を知り、辞任について相談も受けていたであろう、麻生幹事長の責任は重い。元首相の孫というような人物が続けて首相になる気持ちの悪さも含めて、彼には、次の首相になって欲しくない。与謝野首相で選挙管理内閣を作って、衆議院議員選挙を行って、それから組閣するのがベストではなかろうか。
 それにしても、安倍首相に期待を掛けて、ついて行った人々の心中はいかばかりか。人生が狂った人も多かろう。会社などでも言えることだが、「悪人」のボスに対しては、何を考えているかを推測して付き合うとまだしも対処のしようがあるが、「無能」なボスは計算が立たないから、ついていくのが怖い。組織にとって、一番困るのがこのタイプのトップだ。安倍首相の在任期間を振り返ると、そんな教訓が、頭をよぎる。
 振り返ってみるに、結局、安倍氏は、前回総選挙で得た自民党の衆院圧倒的多数をもって、通すのが面倒な法案を、強行採決するための、操り人形のような存在だったのだろう。
 国民には迷惑な話で、正直なところ腹も立つのだが、あの能力の人物の、不明を責めても仕方がない。「職責」の重圧は大変なものだったのだろうし、同情することにしよう。総理を辞めたとなると、元総理及び国会議員としての役割は残っても、政治家としては、余生だろう。彼は、一人の疲れた中年男に過ぎない。声をかけるとすれば、「安倍晋三さん、お疲れ様」という以外にない。「お疲れ様」という声掛けが、彼以上にふさわしい相手も居ない。
 もちろん、政治も経済も、いつでもそうだが、肝心なのは、これまでではなくて、これからだ。
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財産形成のための株式投資と「ゲームとしての株式投資」

 現在、10月中に出版する予定の株式投資の本の初稿の校正作業をしている。250ページ分くらい書いたのだが、新書は224ページまでがいい、との編集者の意見に従い、削り中心で、作業中だ。
 削りが中心とはいっても、一箇所、少しまとめて書き足したい項目があったので、3~4ページ分書いてみた。
 株式投資の常識について述べている章の末尾に来る内容で、資産形成のための株式投資と(アクティブ運用の)「ゲームとしての株式投資」の区別、さらに、インデックス・ファンドに対する態度について、簡単に述べてみたのが、以下の内容だ。

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●財産形成のための株式投資と「ゲームとしての株式投資」

 株式投資に配分できる金額の話が出たついでに、財産形成のための株式投資と、本書で取り上げている「ゲームとしての株式投資」の区別について、説明しておこう。
 損失可能額の見当を付けて、そこから逆算される範囲で株式投資を行うという点で、両者は一緒だが、単に財産形成のために株式を持とうというのであれば、インデックス・ファンドなど、手数料(特に信託報酬)の安い、投資信託(ETF:上場型投資信託を含む)を適当な額じっと持っていれば、ほぼ目的は達成される。ついでに付け加えると、われわれの潜在的な負債は円建て(将来の支出の大半は円だろう)だから、日本株での運用が中心でいいが、ある程度、外国の株式を組み入れると、リスクとリターンとの関係を改善することができる。近年、ネット証券でも、海外のETFの取り扱いが増えたので、外国株に対するリスク分散された投資を、何とか許せるコストで、行うことが可能になった(銀行や証券会社の窓口で売っているような、外国株に投資する通常の投資信託は、手数料が高すぎて、話にならない)。
 ただ、年間数十ベイシス(一ベイシスは一〇〇分の一%)のコストを払って、他人に運用して貰うよりも、自分で銘柄を選んで株式投資を行えば、上手くやれば数銘柄単位の投資で、投資信託とそう変わらないリスクの大きさのポートフォリオを作ることが出来る。
 そうしたポートフォリオを作って運用するにあたって、「せっかくなら、他人よりも上手くやりたい」、「市場平均よりも有利な運用をしたい」という目標を設定して、どこかにチャンスを探そうとする努力が、著者のいう「ゲームとしての株式投資」であり、これは、運用資金の大きさや、評価のされ方が、少々違うかも知れないが、プロのファンドマネジャーが仕事として取り組んでいる内容と、本質的に同じだ。
 アクティブ・ファンドを運用するプロのファンドマネジャーが洋の東西を問わず、市場平均になかなか勝てないことから分かるように、このゲームは、簡単なのものではないから、このゲームに取り組んで、必ず結果が改善するとは、とても言えない。失敗することが極度に苦手な人や、ゲームそのものが面倒だという人は、ある程度のコストを我慢して内外の投資信託に投資すればいい。
 あるいは、敢えてゲームを戦わずに「簡易投信」的な株式への分散投資を行ってもいい。具体的に銘柄を挙げると、あれやこれやと面倒なので、中身はお任せするが、(1)業種を分けて、(2)原則として東証一部で、(3)時価総額の大きな銘柄で、(4)市場平均のPER、PBRから大きく離れないもの(少なくとも上方に大きくは離れないこと)、を選んで、(5)なるべく多くの銘柄を持ち、(6)一銘柄に大きく投資しないように、数銘柄以上投資すれば、リスクは、TOPIX(東証株価指数)から、そうかけ離れないポートフォリオを自分で作ることが出来る。そして、新たに投資できるお金が出来たら、投資銘柄を増やすといい。
 もちろん、こんな調子で運用しながら、そのうちに「ゲーム」の世界に移行してくるのも構わない。ゲームとしての株式投資で持つべきポートフォリオも、小さな資金で運用する限り、ここで述べたようなポートフォリオと大きくは変わらないはずだ。
 何らかの狙い、コンセプトを持って銘柄を選び、投資ウェイトを決める点が異なるが、分散投資が有利であることや、余計な売買を減らす方がいいことなどは、「合理性」から自ずとやり方が決まるので、淡々と運用するポートフォリオと、ゲームを追求して運用するポートフォリオとの間で、そう大きな違いがあるわけではない。
 こう考えると、せっかく株式に投資するなら、これをゲームとして楽しむ視点を持って、チャンスを探し、ポートフォリオを作るようにすると楽しいのではないか、と著者は思う。
 尚、インデックス・ファンド(ETFを含めて)は、手数料が安くて、偏りが少なく分散投資されている投資対象として、運用に使っても良いのではないかと考えているだけで、これが、理論的な意味のある特別な投資対象だというのは、間違いだ。本書では詳しくは触れないことにしたが、たとえば「CAPM(資本資産市場モデル)によると、インデックス・ファンドが効率的な投資対象だ」というような誤解が時々あるようだが、インデックス・ファンドは、CAPMで言う「市場ポートフォリオ」とは別物だし、CAPMは現実の資本市場を説明できていないという意味で、全く役に立たない理論なので、二重の意味で、こだわる意味がない。
 また、詳しい説明は省くが、インデックス(株価指数)の銘柄やウェイトの変更時に、インデックス・ファンドがこれを利用されて損をする場合があったり、ETFの場合、分配金を薄められたりするケースがあり、インデックスファンドは、細かな(たまに大きいこともあるが)損をすることがあるので、気をつけて欲しい。
 本当のところは、自分でやる方が安心なのだが、面倒な場合は、インデックス・ファンドでもいい、というくらいのものだと、考えておいて欲しい。
 アクティブ・ファンドでまともなコストのもの(購入時手数料ゼロで、信託報酬が年率〇.五%以下なら、まずまず許せる。投資顧問の手数料なら、十分可能なのだが)が、登場するようになれば、ファンドを選ぶ楽しみも出てくるのだが、日本でそうした状況になるには、もうしばらく時間が掛かりそうだ。
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 結局、全体の章構成は、
(1)ゲームとしての株式投資入門
(2)株式投資の本当の常識
(3)投資家のツールとしての投資理論
(4)ゲームとしての株式投資再論
となっている。

 株式投資がどのような構造のゲームになっているか、という話と、運用業界で言う「運用哲学」について、好きなように語った一冊になる予定だ。
 結論を書いてしまうと、株式投資は、知識や努力で上手くなるものではなく、大事なのは唯一「センス」であり、その内容は「合理的なへそ曲がりの精神」だ、という話で、語りたいことは、これに尽きる。無駄だから、努力は止めておけ、とも書いてある。「センス」と常識を働かせて、ちょっと考えればいいし、それで外れていたら、仕方がないではないか。
 数式は一本も出てこないし(APTの式は、校正段階で丸ごと削除することにした)、難しく書いたつもりはないが、手取り足取り、分かりやすく、読者が納得できるように・・・・、とは書いていない。そのかわり、ある程度の年月の変化に耐えるような内容を、書いたつもりだ。

 問題は、この段階になっても、タイトルが決まらないことだ。仮タイトル「株式投資は不美人投票」で原稿を書き始めたが、どうも印象がネガティブで今一つに思えてきた。これから数日、編集者と悩むことにするが、10月中には、書店に並ぶように、残りの作業を頑張りたい。
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