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「岩瀬式! 加速勉強法」に見る秀才の努力

 ライフネット生命保険の副社長、岩瀬大輔氏の「岩瀬式! 加速勉強法」(大和書房)を読んだ。岩瀬氏は、東大在学中に司法試験に合格、ハーバードのMBAで20数年ぶりに上位5%の成績を取った日本人にして、現在ネット生保の起業を成功させつつある有名な秀才だ(ライフネット生命の業績は順調に伸びているように見える。詳しくは→ http://www.lifenet-seimei.co.jp/shared/pdf/LIFENET_disclosure_zine_2009.pdf)。勉強法流行の昨今、彼を著者にしてタイトルに「勉強法」と付く本を出せた時点で、出版企画的に、先ずは成功だ。
 私は、若くて頭のいい人物が理屈抜きに好きだし、ご本人にも何度か会ったことがある。以下の文章は書評としては、少し甘いかも知れないとあらかじめお断りしておく。付け加えると、岩瀬氏の格好のいいところは、優秀な能力を有利で安全な立場を手に入れるために使うのではなく、「いざというときは何とかなるでしょう」という程度の保険程度に扱っているところだ。お酒も飲むし、よく遊ぶ。朝から晩まで自己啓発に励み続けるような暑苦しい人物ではない。
 この本も、自信と客観性がバランスしているから、自慢にも走らないし、逆に過剰に謙遜する鬱陶しさもない。

 秀才の書いた勉強法は参考になるか。多くの読者にとって真似は出来ないが、参考になる、といえるだろう。たとえば、はっきり言って東大にはいるのに苦労する程度の頭の人が岩瀬式を真似ても、仕事や勉強に於いて岩瀬氏のような達成度を得ることはできないだろう。だが、勉強にあって、秀才でも苦労したり工夫したりするポイントがどこなのかを知ることは参考になるし、面白い。
 秀才、あるいは一般に頭が良いと言われる人には三通りのタイプがある。
 (1)「勉強が続く人」、(2)「勘のいい人」、(3)「要領のいい人」だ。
 一番多いのは、(1)で勉強的体力が強い人だ。継続は力であり、安定的に力を発揮する。
 (2)は答えから先に分かるような物事の構造を見渡すのが上手い人で、これは確かにいるけれども、何かとムラが大きい。
 (3)は切り替えが上手で必要なときに必要なことに自然に集中できる人だ。遙か昔、私が田舎から東京に出てきて東京の秀才達を見たときに、ああ秀才とはこういうことができる人たちなのか、と思った記憶がある。
 岩瀬氏は、(1)、(2)でも高いレベルをお持ちだが(特に、人一倍負けず嫌いだから、(1)のパワーも大きい)、(3)の系統に属する秀才だろうと思う。つまり、勉強法のノウハウを聞いてみたい人物だ。

 本の内容は大まかに二つに分かれているように感じた。
 前半は岩瀬式!加速勉強法のコアになる手順の説明で、後半は彼の知的処世術だ。尚、彼は勉強と仕事について敢えて区別をしていない。知的努力の必要な仕事に対しては勉強と同様に取り組んでいるようで、彼の勉強術は同時に仕事術でもある。

 加速勉強法の手順は、私流にまとめ直すと、(1)問題の構造を見極めることに時間を使う、(2)できるだけ「生」に近い情報を労力を惜しまずにインプットする、(3)しばし対象と距離を取る、(4)やがて突破口が見つかるのでそこで勢いをつけて一気にレベルを高める、というものだ。
 読みながら、この構造はどこかで見覚えがある、と思った。
 読者はアマゾンで岩瀬氏の本を発注するついでに、ジェームス・W・ヤングの「アイデアの作り方」(今井茂雄訳、TBSブリタニカ)を一緒に買うといいだろう(合計1500円を超えるので、送料がタダになる)。
 ヤングの方法は、(A)テーマに関連する物事について調べるだけ調べて、(B)しばらく問題から離れて時間を取って、(C)無意識が問題を整理して解決の糸口やアイデアを与えてくれるのを待つ、という一種の脳の使い方のノウハウだ。
 これに対して「岩瀬式!加速勉強法」では、(A)のプロセスで何が必要なのかについて意図的・戦略的に取り組み、(C)のプロセスで得られる達成の喜びを勉強の馬力に替えて集中力を発揮するというような仕掛けになっている。根性論は嫌いだ、しかしやる気は是非必要だし、目的は達成したい、となると、これは上手いやり方だ。
 高度な達成のためには、集中力の発揮と継続が必要になるが、これを意図的に作る岩瀬式の手順が確立している。(4)以降の効果に自信と期待があるので、(1)と(2)を実行することができる訳だが、岩瀬氏の場合、大小何度も成功体験を持っているので、これが不安なく十分に実行できるのが、凡人に対する能力以外のもう一つのアドバンテージだ。

 思うに、勉強法を含めて、広義の自己啓発本の概念的な構造は、少数のパターンで殆ど説明し尽くすことが出来る。私も自己啓発本「的」な本を書かないとは言い切れないし、自己啓発本マニアではないから種明かしはしないが、基本のパターンは4つ、それが書かれた本で言えば3冊だ。
 世にある自己啓発本(の中でまともなもの)は、これらのパターンの1つないし複数を種に使って、事例を変え、レトリックを変えて世に問うたものだ。前にも書いたことがあるが、商品としてよくできた上手い自己啓発本は、読書中に能力の一時的高揚感のようなものが得られる。読者をその気にさせるわけだ。だが、内容的には、実質的に新しいことが書かれていることはまずない。
 ヤングの前掲書はその中の1パターンを簡潔に記した基本書の1冊である。岩瀬本は、内容的には、この系統の本ではないかと思う。もっとも、私は秀才ではないから、こうした理解で本当にいいのかどうかは自信がない。
 読者をその気にさせるテクニックが十分発揮されているとは言い難いので、大ベストセラーにはならないような気がするが、マジメで正直に書かれているので、勉強法の構造をやさしく苦労なく理解できるという意味では実用書として良心的だ。若い読者にお勧めしたい。

 後半の岩瀬式処世術もそれなりに面白い。岩瀬さん流の効果的な自己表現の方法やプレゼンテーションの心得、それに他人の力の借り方などが語られているわけだが、天下の秀才でも普通のビジネスパーソンと同じ苦労をしながら、成長していることが分かる。人によっては、少し安心するだろう。
 もっとも、他人から協力を得るためには、敢えてツッコミ所を残しておくことが大事だ(「つっこまびりてぃ」が大事なんだとさ・・・)、などということも書かれている。喜んでツッコンだら、岩瀬さんの予定通りだった、などということがあるかも知れないから、秀才には油断しない方がいい。
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つまらない選挙の話を2つ

 8月に入ってまもなく、あるメディアの編集者から、インターネットのウェブサイトに原稿を書く際の、選挙との関係について注意を喚起するメールが来た。

 インターネットに掲載される選挙関連のコンテンツは、公職選挙法では「図画」にあたるため、特に8月18日の公示日以降雑誌などは多少OKなことでも、ネットだとかなり制限されるようだ。
 要は、8月18日以降選挙の結果が出るまでは、選挙関連の原稿には表現上かなりの(というか非現実的な)難易度を伴うようだ。非現実的な難しさとは、この編集者によると、「全部の政党の名前を出して、同じ分量で論じる」というようなことらしい。確かに、やる気のしなくなる制約だ。

 もともと、どのメディアでも、公示前も含めて、選挙において、特定政党または特定候補者の当選を目的とすると解釈されないものであることが必要だというのが、ネット・雑誌・新聞等形は異なっても、メディアの側の基本的な理解だ。原稿を買って貰う立場から考えるとこの制限は仕方がない。
(どうしても言いたいことがあれば、ブログで言えるのが、近年のブログの発達の有り難いところだ)

 公示後はさらに制限が厳しくなる。
 先ず、特定候補者の氏名をウエブサイトに記載することは、それ自体、公職選挙法146条に反することになるようだ。特定政党であっても、同様らしい。
 ただ、公示前から閲覧可能な状況であったウエブサイト上の記事を、更新しないまま、閲覧可能な状態で継続することは許されるというようなことらしい。
 ウェブサイトは総務省によって公職選挙法でいうところの「図画」とみなされているため、選挙期間中のすべての図画の頒布が規制されている以上、ウェブサイトはすべてその対象になるのだという。
 勝手連なのか、候補者の正式な運動体なのかは表からは区別がつかないし、裏でつながっている可能性もあるので、図画の頒布は一般市民も含め、一律に制限されているのだと編集者は教えてくれた。「選挙の結果を受けて、9月第一週に、政治をテーマにご執筆をいただけますとありがたいです」とも言っていた。

 つまり、私(山崎)の場合、公示期間中に発表される、ダイヤモンド・オンラインや読売オンラインのようなネットの原稿には政党名も候補者名も出してはいけないらしいし、このブログも「図画」なので同様の制限を受けると解釈される。

 しかし、ネットのコンテンツ、たとえばブログの文章は、街角に掲示されたポスターのような「図画」と同一視されるべきものだろうか。私の気分としては、ネットのでの原稿発表やブログへのカキコミは、広く且つ効率的にやりとりをしているだけで、電話で話しをすることの延長線上にあるコミュニケーション手段に過ぎない。
 だとすると、本当は最も政治について語るべき時期に、政治について語り合うことを制限するのだから、ネットのコンテンツに対する現在の制限は、「選挙期間だけ言論の自由がない」反民主主義的な行為であり、不適切なのではないか。
 ポスターは外を歩くと否応なく目に入る(剥がすと罰せられるし)が、ブログは、読者の側で読みたくないものにはアクセスしなければいい。
 候補者とその陣営がネットを使った選挙運動を行う場合のやり方について、何らかのルールが必要かも知れないが、余程迷惑な行為以外は、ローコストな選挙運動手段として、ネットの活用はむしろ推奨されるべきではないか。
 半ばバカになった状態の候補者が声を嗄らして怒鳴るフレーズを一つ二つ聞くだけで、候補者の政策の良し悪しなどは、分かりはしない。ウェブサイトやメールでやりとりをする方が、政策も人柄も余程よく分かるはずだ。

 当然でありふれた意見だと思うが、言っておく。

 ●

 上記のような訳で、当ブログも政治ネタを休みますが、選挙シーズンに向けた推薦図書を一冊。

 朝日新聞社が発刊していて、何となくツマラナそうな感じがしていたので私はこれまで読んだことがなかった雑誌なのですが「Journalism」という雑誌の8月号(定価700円)が「世論調査を調査する」という特集をやっていて、読み応えがありました。
 内閣支持率が新聞によってどうしてちがうかといった裏事情や、現在主流のRDD方式の詳細や調査員の調査の様子、それに出口調査の様子なども書かれています。これから選挙の前後しばらく、世論調査を見る機会が多いでしょうから、話題用にも好適です。

 この雑誌を読んで考えたことですが、当日のメディアによる出口調査はその情報が政治家とその陣営に漏れており、投票行動にも少なからぬ影響を与えているようです。たとえば、午前中の出口調査結果を知った候補者の陣営が、慌てて支持者に電話を掛けて投票を呼びかける、というようなことがあるようです。
 「当確」を一分でも早く打つということに何ら社会的な利益はありません。投票のプライバシーを守る点でも問題があるので、選挙当日の出口調査は禁止する方がいいのではないかと思います。
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民主党の子ども手当とベーシックインカム

 今回の民主党の選挙公約の中で、実現しそうなもので且つ最も効果の大きな政策は中学卒業までの子供一人当たり月2万6千円支払うという子ども手当だろう(但し、来年度は半額の1万3千円だという。なぜ?)。年間では31万2千円、子供が二人いると62万4千円の手当になり、勤労世帯の平均年収が4百万円台の前半であることを考えると、かなりのインパクトがある。
 民主党のマニフェストの計算によると平成23年度から年間5兆5千億円が支給されることになっており、先般の定額給付金の2兆円・一回限りに較べるとかなり大きいし、手当が支給される家庭では、継続的な収入となるので、それなりの消費拡大効果があるだろう。財政が介在することを長期的に中立と見ると、国民の誰かが払った税金が別の国民に渡るだけだから、支給額だけ消費が増える訳ではないが、大まかにいえば高所得家庭から低所得家庭への所得移転になるので、後者の消費性向がより大きいことによる消費拡大効果はあるだろう。それが主目的ではないとしても、景気に対する効果は、ややプラスではないかと思う。

 この子ども手当には、ベーシックインカム的な側面とそうでない面とがある。
 ベーシックインカムに近い点は、何といっても、子どものいる家庭に対して所得や資産に関係なく一定額が支給されることだ。資力調査抜きの定額支給という点はベーシックインカム的であり、私はポジティブに評価する。
 一方、「税金を取って、そのお金を配るというのは気が利かない」、「お金持ちの家庭にも手当を配るのは釈然としない」というような定額給付金に対してもあったような批判の声もある。
 前者に対しては、高所得者に対しては納税の際に税額控除するような工夫があるだろうし、行政がお金を使うことによる間接的な再分配よりも「ムダ」や「利権」が少ない分いいのではないか。
 後者についても、労働のインセンティブに対する影響を考えると、所得で差を付けない方がいいように思う。たとえば、仮に子ども手当を年収400万円未満の家庭にのみ支給するとすれば、400万円台前半の年収の子どもがいる家庭では、子ども手当を計算に入れると、400万円未満に稼ぎを減らす方が得になる。これは配偶者控除において発生している問題と同様の問題だが、収入に関係なく、一定の金額を得る権利を付与することで、「より働くと、より豊かになる」というインセンティブがどの所得層に対しても働くことになる。
 所得額に対して支給額を調整するやり方を工夫すれば働くインセンティブが無くならないようにすることは可能だが、そんな面倒なことをせずとも、高所得者からはそれなりの額の税金を取ればいい。
 所得額や資産の額に対して支給額を調整するような仕組みを作ると、役人の手間が増えるし、彼らに余計な権限を与える事になりかねない。生活保護の支給に役人が難癖を付けるような仕組みは無い方が、国民と役人双方のためにいいことなのではないか。
 子ども手当で、もう一つベーシックインカム的なのは、使い方を受給者の側で考えることができることだ。お金だから、生活費一般に充ててもいいし、借金を返してもいい。これは自由で感じがいい。
 お金を配るよりも、たとえば、保育園の拡充や学童保育の充実などを求めたいという声も聞くが、これらについては、「子ども手当の外に」地域単位で充実を図ればいい。基本的に別の問題だし、何かする場合も、子ども手当がある分、保育料も払いやすいし、担税力もあるはずだ。それに、保育園の拡充に全国規模で予算を付けると、どこに幾ら予算を配分するかで役人に余計な権限を持たせるし、工事の発注その他についても利権が発生する。また、保育園の建設には時間が掛かるが、お金は直ぐに配ることが出来る。効果は早く欲しい。

 他方、子ども手当のベーシックインカム的でない点は、(1)「子ども」のいる家庭にしか手当がない点、(2)それで生活できるというレベルの金額ではない点の二点だ。
 特に、子どものいない高額所得の家庭はこの子ども手当の創設で負担が増える。また、この子ども手当は、子どもを持つことに対して国がインセンティブを与えるもので、個人の生活スタイルに対する介入でもある。
 前者に対する可否は、民主党の鳩山代表が言うように、子どもを社会で育てるという考え方にどの程度共感するかによるだろうし、少子化への対策の必要性に対する評価にもよるだろう。現状と比較すると、かなり強力な少子化対策であり、民主党政権が実現化して安定すると、出生率に顕著な影響が出るかも知れない。私は、少子化対策そのものの必要性に対してはあまり積極的でない(人それぞれの勝手だと思っている)ので、この点を大いに評価するわけではないが、大方の国民が少子化対策に前向きなら、民主党案は効果があって副作用の小さな少子化対策であると考えていいと思う。
 もっとも、一人を年齢に関係なく平等に扱い金額ももう少し大きくなるはずの本来のベーシックインカムが実現した場合には、子どもを持つことのインセンティブはさらに大きくなるはずだ。
 民主党の子ども手当とベーシックインカムの間には、規模にもやり方にも、まだまだ相当の開きがある。しかし、この子ども手当は、長期的な財源の多くを行政のムダを削ることから捻出することになっている点も考えると、行政サービスの規模や役人の権限を縮めて、いわば「中抜きの少ない」所得再分配を行う「既存行政のベーシックインカムへの置き換え」的な方向の政策として、まずまず好ましいものではないかと思う。

 尚、総選挙の政策に関しては「財源」の問題が喧しいが、当面はある程度の期間、経済情勢が相当規模の財政赤字を必要としていることもあり、「支出のムダ取り」に関する民主党政権のお手並みを拝見していてよいのではないか。民間企業並みのコストカットを行えば、民主党の挙げる数字(平成25年度で9.1兆円減)はむしろ小さ過ぎるくらいの目標だ。消費税率引き上げを持ち出すのは、まだまだ早い(※注)
 お気楽な小泉純一郎元首相も言っているように、民主党にどの程度のことが出来るか、一度やらせてみたらいいのではないか。
 
※注:「朝日新聞」の13日の社説は、消費税率を熱烈に上げたがっているようだが、どうしたことか。「もっと率直に負担増を語る勇気が必要」と鳩山氏に説教しているが、官僚のレクチャーを疑う「勇気」が論説委員にあってもいいのではないか。
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押尾学、酒井法子両容疑者の(悪しき)「胆力」のちがい

 押尾学容疑者と酒井法子容疑者がそれぞれ禁止薬物の使用で逮捕された。
 当ブログには、禁止薬物の使用を弁護する意図もないし、両容疑者に対して法的な罰以上の処罰を加えようという意図もない。以下で考えてみたいのは、想定外の「大変な」事態が起こった場合の、人間の対応力だ。
 二人のケースは、この点で相当に興味深い。押尾容疑者のような場面に至ったら、或いは、酒井容疑者のような場面に至ったら、私は、あるいは読者ならどのようなことを考えて、何が出来るのだろうか。

 何れのケースについても、読者も私も「そもそも、こんなことはしない」筈なので、アツクならずに考えてみたい。

(1)押尾学容疑者のケース

 報道から推察するに、押尾学容疑者のケースは以下のような感じだろうか。

「自分の魅力の故かどうかはともかく、素敵な異性が(←よかったら、女性も同様なケースを考えてみて下さい)、結婚していて子供もある私に、とことん付き合ってくれるという。私は、知り合いの社長さんから自由に使っていいと言われた部屋の鍵を持っているので、ここに連れ込むことにした。これを使って×××すると素晴らしいと言われているイケない薬を使って(注:どちらが使用を持ちかけたのかは、現時点で、明らかではない)、×××をしていたら、相手の様子がおかしい。泡を吹いて、気を失ったようで、心臓に耳を当てると、心停止しているようだ。体温も、下がってきているような気がする。自分は、禁止薬物をやってしまった芸能人で、配偶者と子供がいる。さあ、どうしよう・・・・」

 薬物で判断力が無くなっていないとして、この状況で、何を考えるだろうか。
 私のような小市民なら、「これで仕事が出来なくなる」とも考えるだろうし、「不倫がバレる、ああどうしよう・・・」とも考えるだろう。しかし、「死にそうな相手が、本当に死んでしまったら、かなりまずい」とも考えるのではなかろうか(実際に、こうした修羅場を経験したわけではないので、想像に過ぎないが)。
 何はともあれ、救急車を呼ぶのではないだろうか。素人が心臓マッサージなどしても、蘇生するとは考えにくい。蘇生しなければ、その場にいた自分は、最悪の場合殺人の容疑をかけられるだろう。蘇生の成否には一分を争う。
 盤石の自信はないが、これくらいなら、できそうな気がする。
 そこで、救急車が来るまでにどうするだろうか。
 事務所に電話して相談するということは、あるかもしれない。明らかにマズい事が起きてしまったわけだが、事務所は何かを考えてくれるかも知れない(この際に、いけないけれども最大限の期待として、誰かが身代わりになってくれたり、何らかのもみ消し工作をしてくれるかも知れない、とも考える可能性は否定できない。ただ、さすがに、それは甘いと思いつつも、事務所が何らかのダメージコントロールをしてくれるかも知れない、というくらいのことを考えそうだ)。だが、さすがに、人が死んでしまったとすると、事務所に出来ることは限られているだろう(押尾容疑者ではなく、事務所を守るのが精一杯だ)。
 女性何人かに聞いてみた結果、押尾容疑者の場合、何が一番拙かったかというと、「死にそうな相手を放っておいて、マネージャーを呼んで、逃げたのが許せない」という声が多かった。それは、そうだろう。「相手」でありながら、死にそうな相手を放っておいて、自分はその場から居なくなる、という行動は卑怯と言われても仕方がない。
 相手が死んでしまっていて、自分が禁止薬物使用で実刑を受けても、その時の対処が良ければ、たとえば、何年か経った後に、何らかの映像作品の俳優というくらいでなら、復帰できるかも知れない。もちろん、刑期を終えた後は、俳優以外の何らかの仕事に就くことは出来るかも知れない。人生を捨てるには、まだ早い。

 このように考えられなかった場合はどうなるのだろうか。
 逃げる、ということを考える人はいるかも知れない。しかし、たぶん逃げ切れないし、後の刑を考えるとしても、それは最悪の選択だろう。
 何とかしなければならない、と考えて、マネージャーに連絡した点で、たぶん、押尾容疑者は最悪に徹底的なワルではない。まあ、かなり悪いが、そうも考えられる。
 「逃げない」と決めたら、後はどうか。
 正しくは、ダメージ・コントロールを考えるべきだろう。先ず、人道的にも、イメージの上でも、相手の側にいなくては拙い。マネージャーと一緒でもいいから、一緒にいるべきだった。遅くても、救急と警察を自分で呼ぶべきだった。この点は、マネージャーと相談しなかったのだろうか。

 状況を想像して考えるに、押尾容疑者は、腹の据わったワルでないのが少し幸いだが、危機的状況に対応することが苦手な「ビッグ・マウス&チキン・ハート」だったようだ。何だか、サエないなあ・・・。
 
(2)酒井法子容疑者のケース

 事実関係が十分明らかになっていないので、以下は筆者の想像であることを、お断りしておが、たぶん、以下のような状況か。

「覚醒剤を調達しに行った配偶者から電話が掛かってきた。警察に職務質問されているので、ともかく来て欲しいと言う。あいつは、頼りない。バレては大変だから、ともかく行ってみよう。所持品を検査するという。何とか、逃れるすべはないか。・・・・。あいつが持っているのが覚醒剤ということがバレてしまった。私は、できれば、これを知らなかったことにしたい。まして、私が覚醒剤を使ったことがバレては、決定的にマズい。ともかく検査からは逃げなければ。そうだ、私には小さな子供がいた!・・・・。ともかく、薬物反応が出る期間は、身を隠して置く方がいいのだろう。・・・・。ニュースを見ると、吸引器具が見つかり、DNA鑑定で私が使った事実が確認されたという。逃げ切れまいし、逃げ切れたとしても、ろくな人生ではないだろう。いや、そもそも、逃げ切れることはあり得ない。だとすれば、自ら出頭する方が、刑も軽いし、世間のイメージも、最悪から少しは改善する可能性があるかも知れない」

 酒井容疑者の場合、先ず、警官と2時間近く、渡り合うところが非凡だ。何とかごまかしが利くと思ったのだろうか。
 一つの可能性は、自宅から覚醒剤の痕跡を消し、自分も雲隠れして、自分だけしらばっくれる、という選択肢だが。その後に、世間に出て何とかなるとも思えないし、隠れきることも難しいだろう。しかし、この辺りのことは、瞬間で考えられるものではなかろう。
 私のような凡人の場合、配偶者が警察に目を付けれられた時点で、しらばっくれることを諦めそうだ。上手くできなかった訳だが、自分で対処しようとする酒井容疑者の胆力は凄い。
 しかし、ごまかしきれなかった段階で、相手の隙を突いて逃げることを画策するところが、再び非凡だ。
 逃走の意図は、現時点ではまだ分からない。覚醒剤を抜くまでの時間を稼ごうとしたのか、海外にでも逃げようとしたのか。
 よく考えると(ただ、普通は、よく考えないと分からないことだろうし、考えるのに時間が掛かりそうだ)、ごまかすのも、逃げるのも、上手く行きそうに無いわけだが、その時その時で、何とかなる可能性を求めて、相手(警察!)と勝負するのだから、これは凄い。



 尚、私は「のりピー」のファンではないが、彼女のファンが居て、このようなことがあっても、刑期を終えた後の彼女の再起に手を貸したい、と思っている人がいるとすれば、その気持ちは尊重したい。幸い、そのようなことはないのだが、私がかつて好きだったアイドルが、このような事態に立ち至ったとしても、自分にできることなら、再起には協力したいと思う。ファンはアイドルが大切なのだから、アイドルは自分を大切にして欲しい。

 何ともひどいことになってしまったが、酒井容疑者も、人生を捨てるには及ばない。十分な償いを経た後には、再起する権利があるし、可能性もあるだろう。



 二人の容疑者をキャスティングして映画を撮るなら、「極道の妻たち」のような映画で、酒井容疑者が岩下志麻さんがやったような「姉さん」、押尾容疑者は「気の弱いチンピラ」とか「ヤクザの親分の甘やかされて育った不出来な息子」といった役になるのだろう。共に地で行けるので、脚本さえ良ければ、かなりいい映画になりそうだ。

 ところで、別の観点から二つの事件を考えると、禁止薬物があまりに簡単に手に入る現状が最大の問題だ。
 「所持」で罪になるのだから自分で試してみるわけにはいかないのだが、MDMAも覚醒剤もお金と意思さえあれば、たとえば六本木で、普通の人が調達できそうな感じがする。
 酒井容疑者のような腹の据わった使用者もいるわけで、禁止薬物に関する「浄化」は容易ではない。
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プレゼント、或いは靴下としてのマニフェスト

 ダイヤモンド・オンラインに先週は民主党、今週は自民のマニフェストについて書いた(http://diamond.jp/series/yamazaki/bn.html)。お暇な方はご一読下さい。

 それにしても自民党のマニフェストは、はっきりいって勝負を投げたような雑な作りで、図やデータが乏しく、しかも具体的な約束がほとんど無い、意見の羅列的な文書だ。たとえば、無年金、定年金の方に対して3年以内に措置を講じる、というような書き方の項目が多く、これでは、どんな措置をするのかが書かれていないから、「約束」としては評価のしようがない。また、民主党マニフェストは個々の政策の実施に幾ら掛かるかが明示されているが、自民党マニフェストはこの点が詳しくない。よく話題になる「財源」については、自民党マニフェストの方が曖昧だといえるだろう。この点を忘れて、民主党マニフェストの財源の現実性ばかり論うのは如何なものだろうか。

 他方、民主党のマニフェストが「お金のばらまき」に力点があることに関しては、評価が分かれるようだ。私は、たとえば景気対策やデフレ対策で財政赤字が必要な場合、官僚(の裁量)を通じてばらまく自民党マニフェストよりも、お金を直接国民に配って使い方は国民に任せる民主党マニフェストの方がいいと思うが、必ずしもそう思う人ばかりではないようだ。
 定額給付金の際にもあった批判だが、「税金でわざわざ集めたお金を、また現金で配るというのは全くバカバカしい」という意見を聞くことがある。

 この辺りの評価は、たぶん、論理よりも好き嫌いや慣れで評価が分かれるのではないか。たとえば、仮に読者が一定の金額の誕生日のプレゼントを貰える場合、モノで貰うのが嬉しいだろうか、それとも現金を貰う方がいいだろうか。

 相手が妻(夫)や恋人からのプレゼントなら、現金よりも、何か意味を込めて選んだモノがいい人が多いかも知れない。しかし、これが、市役所や区役所の名前も顔も知らないオジサンから貰う場合だと、現金の方がいいという人が多いのではなかろうか。
 民主党マニフェストでは、子供がいるかいないかで随分条件がちがう点が、特に現状と比較すると不公平かも知れないが、子供を育てるにはお金がかかるので、官僚の裁量が働かない形でお金を配ってしまう方法としては、まあまあではないかと思う。
 デフレの現状を考えるに、定額給付金に加えて15兆円の補正予算があった今年度から、いきなり緊縮財政に舵を切る訳にもいかない。何らかの意図的財政赤字の継続はむしろ必要だ。

 しかし、民主党のマニフェストにも、期待の年金制度改革へのスケジュールに妙に余裕を持たせていることや、農家への戸別所得補償、最低賃金アップに製造業派遣の原則禁止など、「これはフェアなのか?」、「これで大丈夫なのか?」といった疑問が多々ある。

 結局のところ、両党のマニフェストは、何れも穴の開いた靴下のようなものだ。ただ、自民党の靴下はもう随分臭うので、何はともあれ、一度取り替えてみよう、という辺りが、今回の選挙の平均的な民意ではないだろうか。

 自民党、民主党のものに限らず、次期総選挙に向けたマニフェストについて、ご意見を頂戴したいと思います。

(注: 選挙にあってインターネットのホームページは「図版の掲示」に近いものとして解釈されることが多いらしく、選挙が公示されると、特定(政党)候補者の当選を意図する文書を掲示し続けることに対して、法的な問題が生ずる可能性があるようです。
 当ブログ程度の影響力に対して問題が生じるとは思えませんが、場合によっては(どこかから指摘があれば)、選挙期間中だけ、エントリーとコメントを非表示にする可能性があるので(投票終了後には元に戻します)、この点をお含み置き下さい。)
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