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側頭葉てんかんと宗教の誕生

ここのところ「倫理」をどう扱うかに興味を持っているので、「脳の中の倫理」(マイケル.S.ガザニガ著、梶山あゆみ訳、紀伊國屋書店)という本を読んでみた。

倫理に関する考え方の収穫としては、「責任」という概念は複数の人間がいてはじめて生じるものであり、個人単独では存在せず、したがって、行為が脳の器質に起因するものであるか否かとは無関係なのではないか、という著者の考え方が参考になった。確かに、誰に対してということもなく、個人が世界に対して(?)「責任を取る」というような「責任」という言葉の使い方には違和感があったのだが、他人と関係のない状況で「責任」という言葉を使うことは、ギルバート・ライル流に言うと、カテゴリー・ミステイクなのだろう。

倫理以外に面白いと思ったのは、脳という臓器が、①辻褄を合わせようとする(左脳の「解釈装置」で辻褄の合う物語を作る)臓器であり、②記憶も書き替えられるし、③不都合なことは忘れる臓器だ、という研究の紹介だ。著者自身が、特に、左右の脳を分離した状態の研究の大家であり、左脳の「解釈装置」に詳しいので、この本の後半の説明は面白い。犯罪の目撃証言がいかにあやふやなものかがよく分かるし、自分の記憶も簡単に信用してはいけない、ということもまた分かる。

「信じたがる脳」と題された第9章では、宗教的な体験と側頭葉てんかんの関連性についての面白い仮説があった。

側頭葉てんかんは、てんかんの一種だが、意識の喪失や痙攣を伴わない。患者は発作が起きると、聴覚、視覚、嗅覚、触覚に異常を覚え、しばらく茫然自失状態となったり、くちをぺちゃくちゃ動かすような症状が現れたりする。側頭葉てんかんの患者は、発作が起きていない状況でも、ゲシュヴィント症候群と称せられる特色を持つとされこれは、①過剰書字(たくさん文章を書かずにいられない)、②過剰な宗教性・道徳性、③攻撃性、④粘着性、⑤性に対する極端な態度(非常に強まるか、弱まるか)を示すという。典型的には画家のゴッホがそうだ。

ゴッホ以外にも側頭葉てんかんと考えられている有名人は、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ギュスターブ・フローベールなどの天才、さらには、パウロ、ムハンマド、モーセ、仏陀、ジャンヌ・ダルクなどの宗教関係者が伝記からてんかん発作を経験していると思われる、という。

側頭葉は強烈な宗教体験を知覚するときや、幻聴が聞こえるときに活動するとされており、弱い磁場を発するヘルメットで、側頭葉を刺激して、側頭葉てんかん発作のような明確な宗教体験をした(カナダのローレンシアン大学のマイケル・パーシンガーの研究)という研究もある。かつての、オウム真理教のヘッドギアも似たような効果のものだったのだろうか。

ガザニガの仮説は、大まかにいえば、教祖の側頭葉てんかん発作ないしはそれに近い脳活動が宗教体験のもとになって、これが左脳の解釈装置で現実と(ないしは物語と)一緒に解釈され、ゲシュヴィント症候群の特徴を持った教祖が他人に影響を与えることによって、宗教が生まれ、これが現実生活に合ったものであった場合に、その宗教が大きくなっているのではないか、というようなストーリーだ(大まかな要約なので、詳しくは原著にあたって下さい)。

尚、最後の「宗教の超自然選択」とも言うべき考え方は、『アトランティック・マンスリー』のトビー・レスターというジャーナリストの仮説で、彼によると、発展する宗教は、①健康を増進し、②安心感を高め、③配偶者選びを促進する、ものが多いのだそうだ。たとえば、発生後1世紀半しか経っていないのに、数百万人の信者がいるモルモン教は、福祉活動に力を入れており、こうした条件を満たす宗教だという。

なるほど、このような誕生の仕方があるのと思えば、宗教の存在にも納得が行く。それにしても、側頭葉てんかんの持ち主本人は人生が楽ではないのかも知れないが(ゴッホもドストエフスキーもお気楽な人生とは思えない)、これだけ錚々たるメンバーが並ぶと、自分が側頭葉てんかんを持っていないことが少し残念に思えてくる。
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