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反面教師としての前原国交相

 八ツ場ダムの工事中止を巡って、前原国交相が不必要に問題を混乱させているように見えます。大まかな経緯は、
(1)国交相に就任直後、八ツ場ダムの工事中止をキッパリ明言、
(2)八ツ場ダムの現地を訪問すると発表、
(3)八ツ場ダムの地元(の人たち)が「中止が前提なら意見交換会はしない」と拒否、
(4)前原氏は「地元や関係都県の理解を得るまでは基本計画廃止に関する法律上の手続きは始めない」と表明(産経新聞、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090921-00000563-san-pol)
(5)視察の際に(選挙公約なので)「ダムを中止する考えを白紙に戻すことはない」と発言(時事ドットコム、http://www.jiji.com/jc/c?g=eco&k=2009092300163)、
といったところでしょうか。

 まだ決定的な混乱や失点には至っていませんが、このまま手詰まりになって報道が大きくなると、工事を中止しても・中止できなくても非難を浴びることになりそうです。鳩山内閣最初のオウンゴール的な失点になる心配があります。
 特に気になるのは、上記の(4)と(5)です。
 「地元との合意無しに法的手続きを進めない」という言質を与えることは、前原氏側のフリーハンドを著しく制約する下策です。しかも、そう言っておいて直ぐに、やっぱりマニフェストは守らなければならないから、白紙撤回はありえないというのでは、そもそも相手と話し合う姿勢が全く無く、相手に対して大変失礼です。地元自治体が「態度を硬化」させるのも当然です。
 特に(4)を考えると、前原氏側からは、現在打つ手がない状態です。それでも、自分が嘘つきになって、党の選挙公約だから工事は中止すると手続きを進めるならば、大混乱が起こりかねませんし、それは、彼が余計なことをしたからです。

 ここまでの前原氏の何がいけなかったのかを考えると、直接的には(A)議論で相手を説得する態度を取らなかったことであり、おそらくは、(B)そのための準備が不足していたのでしょう。(C)それなのに不用意にあれこれ発言したというところが、失敗でした。

 政治的には、前原氏にとって「八ツ場ダム建設を中止しない」という選択は、ほぼ不可能でしょう。しかし、この方針を世に発信する際には、その根拠を用意しておかなければなりません。
 八ツ場ダムの場合、たとえば「これまで掛かった費用はサンク・コストだから意思決定には無関係だ。工事を続けると、費用が○○○○掛かり、国民にとってのメリットはあったとしても△△△程度。他方、工事を止めると費用は××掛かり、国民にとってのデメリットは□程度。計算すると、工事中止が合理的。だから、これは止める方がいい」という論陣を張る必要がありました。
「私はダム建設中止の方針に自信があります。根拠を皆さんに分かりやすく説明します。しかし、私が説得されたら、建設中止を白紙撤回する用意があります。意見のある方は、遠慮無くお越し下さい」とでも言って、大見得を切って現地入りすれば良かった。
 もちろん、その際の具体的な数字を用意しておく必要があり、相応の準備が必要です。利害の掛かっている相手をナメてはいけません。
 もっとも、数字のあげ方も、(国民にとっての)損得も、いろいろなデータや試算があって、決着が着きにくい問題なのかも知れませんが、ダム工事を中止したい前原氏としては、明確に負ける議論さえ避けて時間が経過すれば「議論を尽くした」ことになる種類の手続きです。ここを手抜きするのは得策ではありません。
 最悪「引き分け」に持ち込める根拠が無い場合は、取りあえず問題を先送りして時間を稼ぐべきでしょう。工事を中止するにしても、継続するにしても、事態の見極めと、材料収集が必要です。

 それにしても、必要な準備無しに勇ましいことを言って、あれこれ言い訳するうちに墓穴を掘るという展開は、彼が代表の頃の「永田メール事件」を思い出します。ここまで不用意では、仲間は危なくて仕方がありません。
 前原国交相という人事は、彼の持論が突出する防衛相を避けたなかなかいい人事かと思っていましたが、考え直さないといけないかも知れません。彼のような人に、たとえば、JALの問題などが的確に処理できるのか、大いに心配です。

 ただ、ビジネスの世界でも、前原氏的な失敗はよくありそうです。今回の彼は、取引先や顧客が嫌がる決定の通告を社長に命じられた中間管理職のような立場と言えるでしょう。そこで、不用意に相手の前に出て、結局は自分の都合だけを言うような事をすると、取引相手が怒ってトラブルが起こるのも当然です。
 彼の立ち直りを期待しつつ、今回の件では、反面教師として記憶にとどめることにしましょう。

 尚、私(山崎)は、八ツ場ダムの工事中止の国民的得失に関する試算をしたわけではありません(上記拙文の主な関心は八ツ場ダムではなく前原氏の行動です)。検討の結果、工事を中止しない方がいいという結論が出る可能性もあるということを付記しておきます。
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歴史はくりかえさないから愛おしい

 3月に書いた「歴史は繰り返すのか」というエントリーにはコメントが500個以上付いて、現在も増えている。ある方のブログを見ると、gooブログのコメントの上限はどうやら1999個らしいが、さすがに、500個にもなると、ブログを読む環境によってはあまりにも重いだろうし、新しい読者がやりとりに参加しにくいのも勿体ない。
 このエントリーは、<作業員>さん、<moto金田浩>さん、<琴子>さん、<アベルフ・シンドラー>さんら、「歴史は繰り返すのか」のコメント欄のコメンテーター諸氏のための引っ越し先として設けるものだ。もちろん、新規の方のご参加も歓迎する。<作業員>さんあたりと上手くやっていただけると、楽しいだろう。
 
 以下は、毎日使っていただくコメント欄に何も無いのは殺風景だと思い、雑文を書いた。特に意味はないので、読者は、いきなりコメント欄にお進み下さい。

 ●

 写真のボトルは、友人に紹介して貰った神楽坂のバーで飲んだものだ。左は「ホワイト・ホース」、右は「スペイ・ロイヤル」で、いずれもブレンディッド・ウィスキーのオールド・ボトルだ。
 オーナーの奥様と二人の娘さんでやっているダイニング・バーで、メニューにはワインが多く、マニアックな品揃えのウィスキーで勝負するような店ではないのだが、オーナー氏がブレンディッド・ウィスキーのオールド・ボトルの大変なコレクションをお持ちで(「モルトは単純なのでイマイチだ」と仰る複雑系の感性をお持ちの方なのだ)、同時にいたずら心の旺盛な方であるために、常時数本「とんでもなく素晴らしいウィスキー」が店内に持ち込まれている。上記2本はそのカテゴリーだ。

 「ホワイト・ホース」はざっと30年強前になる学生時代に、よく飲んでいた。本にも書いたことなので、遠慮せずに書くと、高校生時代から家では普通に飲んでいた。当時は未成年(特に学生)の飲酒に対して世間が大らかだったし、父が「外では飲むな。家で飲む分には、好きに飲んでいい」というポリシーだったので、いろいろなお酒を試していた(自分の酔い方、酒量の限界、嗜好などが分かって、大いに助かった。違法ではあったが、役に立つ方針だった。「親父、ありがとう!」)。
 幾らか生意気な学生で、「サントリー・オールド」以下のクラスの国産ウィスキーは殆ど飲まず、「ホワイト・ホース」や「ブラック・アンド・ホワイト」といった当時「スタンダード・クラスのスコッチ」と呼んでいたウィスキーを酒屋で買ってもいたし、ボトル・キープして外でも飲んでいた(当時の六本木は今のようにごみごみした街ではなかった)。
 「ホワイト・ホース」は当時酒屋で7、8千円だっただろうか。「グレンフィディック」が1万円、「グレンリベット」が1万2千円の時代で、シングル・モルトは高級品だった。今にして思うと、大半が税金だったわけだが、当時のスコッチは値段なりに美味しいような気がしていた。
 これらのお酒の現行品は何れも2千円前後、あるいはそれ以下でスーパー・マーケットの酒類コーナーに置かれているが、残念ながら、飲んで美味しいということはほぼない。安いので文句は言いにくいが、これはどうしたことか。

 近年、シングル・モルトのウィスキーをよく飲むようになって、70年代以前に蒸留されたモルトが、その後のものよりも、どうやらかなり美味しいことが分かった(師匠及び有識者のご教示のお蔭もある)。樽で長期熟成したものでなくても、たとえば12年物でも、蒸留が70年代以前だとかなり美味しいのだ。
 そのうちに、モルト専門のバーのバーテンダー(神保町の「モルトの師」)も、時々、ブレンディッド・ウィスキーのオールド・ボトルを勧めてくれるようになり、「ホワイト・ホース」とか「カティーサーク」といった、学生時分に飲んでいたお酒のオールド・ボトルを飲むと、これが意外なくらい美味しい。

 ところが、オールド・ボトルは、先ずどの年代の何が美味しいかが、基本的に愛好者達の評判を聞かなければ分からないし、同じ年代の同じ銘柄でも一壜ごとに出来不出来があり、開けてみなければどんな味か分からない。もちろん、評判の高い物は、値段も高い。率直にいって、私のような素人の酒飲みが直接自分で入手して飲むのは、手に余る。「結婚してみなければ良さが分からない素晴らしい女性」くらい扱いに困る。私は、オールド・ボトルは、自分で買うことを諦めている。

 「ホワイト・ホース」が、ラガヴーリンをキー・モルト(ベースではないが、味のアクセントを付けるために使うモルト)に使い始めた時期が何時からなのかは知らないが、写真のホワイト・ホースを口に含んで最初に感じたのはラガヴーリンの香りだった。超オールド・ボトルでアルコール度数は数度下がっている感じなのだが、決してアタックが弱い感じがしない。その後、口の中に決して甘くないアーモンドの枯れたもののような香りが拡がって、喉を通りすぎた後には、両方の香りが交互に何度も戻ってくる。味は、刺激を求めると、はかなく淡いのだが、香りは複雑だ。
 ラベルを見ると、ホワイト・ホースはすっかりブラウン・ホースになっていて、さらによく見ると「bottled 1941」とある。これは前回、日本が負けた戦争の戦時中のボトリングということになるが、当時からこんな美味い物を作って飲んでいた相手に勝てるはずもなかったと納得した。
 付け加えると、写真の「スペイ・ロイヤル」はもう少し新しいもので(60年代か70年代のボトリングだろう)、モルトのように輪郭がハッキリしているわけではなく、角は取れているのだが、十分なインパクトと余韻のある「複合スペイサイド」だ。価格的にはホワイト・ホースの約半分だ。
 尚、現在、この店には、このホワイト・ホースを更に上回る貫禄と味の脱帽物のオールド・ボトルがもう一本ある。

 それにしても、オールド・ボトルはなぜ美味しいのか、正確な理由が分からない。
 ボトリングされた時点で、樽の中での熟成は止まっているわけだから、樽の風味がつくこともないし、樽を通じた外気との交流もない。しかし、壜の中でも僅かなスピードで熟成が行われているようだ。あるいは、「熟成」というのは正確でないかも知れないが、「変化」はするようだ。それが、好ましい方向に働いたときに、いいオールド・ボトルが出来上がるにちがいない。
 たぶん、誰かがもともと計画してそうなるというのではなく、偶然そういうことが起こるのだろう。
 もう一つ考えられる原因は、原料なのか、製法なのか分からないが、昔のウィスキーは素材が良かったのだろう。現行品を壜で長いこと置いても、美味しいオールド・ボトルが出来るとはどうにも想像しにくい。
 昔のような美味しいものが将来は飲めないというのは何とも残念なことだが、「物」でも「事」でも、いつでも再生可能ではないというところが、面白いのかも知れない。

 ところで、月日が経つと「山崎」はどう変わるのだろうか?
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核家族という「ぜいたく」

 先日、とある大人の勉強会で、高齢化問題について議論した。レポーター(この問題の専門家だ)の話の中で強く印象に残ったことの一つは、在宅介護は能率が悪いし、人口構造的に無理なのだという話だった。在宅介護ではなく、施設介護を中心に物事を考えるべきであり、たぶん、「それしかない」。
 たとえば、在宅の高齢者に入浴サービスを提供する場合、専門の車にスタッフが乗って高齢者宅をお邪魔する形だと、一日に4、5人程度までしか対応出来ないのに対して、施設にいる高齢者ならうまくやれば15分程度で1人入浴して貰える。能率の差は圧倒的だ。食事も外出も同様だろう。
 また、現在、主に親の介護の主力になっている年齢層は団塊世代を中心とする人口の厚い年代だが、やがて、少子化が介護にも影響して、そもそも介護の手が足りなくなってくる。しかも、共稼ぎ世帯が増えているから、二人の稼ぎ手の一人が介護にかかり切りになると、収入にも大きく影響する。介護は、手間が掛かるだけでなく、機会費用も大きい。
 また、核家族的夫婦の場合、夫が早く弱って死ぬケースが多いのだろうが、夫は妻に介護して貰えるかも知れないが(本当にそうかは、その時にならないと分からないが)、妻は一人で超高齢時を生き、やがて死ななければならない場合が多いだろう。子供は数が少なくて、誰も介護に手が回らない場合があるだろうし、そもそも子供のいない夫婦も多い。もちろん、もともと「おひとりさま」の場合もある。
 高齢化の話以外にも、たとえば、若年失業者やワーキングプアをベーシックインカムで救えるかという問題を考えると、月5万円とか8万円のベーシックインカムでは、「生存できたとしても、まともには暮らせない」という文句が出そうだ。
 しかし、これは、そもそも一人で満足に暮らしたいということが「ぜいたく」なのだ。月5万円でも、4人集まれば、月20万円になる。誰が働くか、家事はどうするか、といった問題はあるが、何人かで暮らすことを考えるべきだ。
 介護も、ワーキングプアも、悲惨なケースは本人が孤独ないしは核家族的な暮らしをしている場合だ。3世代くらいが一緒に住み、兄妹の数も多い大家族なら、介護も失業も、問題がないとは言わないが、一人暮らしや核家族の場合よりも、ずっと容易に吸収できる。
 考えてみるに、大家族という暮らし方は、生活のいろいろな面で規模の経済が働く生活方式だ。規模の経済を捨てて、能率を下げて暮らすのが一人暮らしだともいえる。
 「父親の世代よりも貧しい息子世代」が多くの家族で現実のものになりつつあるこれからを考えると、「核家族はぜいたく」なのであり、経済的に余裕のない場合は、何らかの規模の経済が働く暮らし方を考えるべきなのだろう。
 大家族も一つの暮らし方かも知れないが、単純に昔に戻るのは難しいかも知れない。当面考える価値がありそうなのは、たとえば高齢時に友人と一緒に過ごせるような施設かもしれない。また、若いときのルームシェアの方法についても、「作法」を確立する価値がありそうだ。寮や下宿のようなものについても、新しい形があるかも知れない。たとえば、寮のメンバーは同じ会社でない方が気が楽かも知れないし(同じ趣味とか同窓とかがいいかも知れない)、家族で住める寮で、家事部分になにがしか規模の経済を働かせる方法もあるだろう。
 いずれにせよ、これから老いる、たとえば私の世代以下の多くの人は施設で超高齢期を過ごさねばならない可能性が大きいのだから、他人と距離を取るばかりでなく、他人と上手くやっていく方法を学ばなければならないだろう。
 尚、高齢化社会についての勉強会では、相続税を強化することが必要であり、それで物事はかなり「上手く行くのではないか」という結論が出たことをご報告しておく(詳細は別の機会に)。
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自民党に再生の可能性はあるか

 総選挙翌日、先週月曜日配信の「JMM」で、編集長の村上龍さんは「わたしは、自民党は崩壊するしか道がないような気がします」と書かれていた。小泉路線の総括をせぬまま、意見の分裂を抱えて大敗したので、責任の所在が不明であり、対立の解消方法がなく、立て直しようがない、という見立てだった。
 私、山崎元は、物心ついた時から反自民党だった。いかなる選挙でも自民党所属ないし自民党推薦の候補者に投票したことはない。北海道に住んでいた、小学生の頃には社会党の候補者(横路節雄氏)に何となく好感を持って、近所のオバサンに投票を進めていたし、中学生の頃には、団地の向かいの家のオバサンが、確か知事選の時に、「北海道にたくさんお金を持ってきてくれるのは自民党の方なのだから、自民党(の候補者)に投票しなければ損だ」と言うのを聞いて、こいつは人間以下の下等動物だ、と心から怒った感覚をまだ覚えている。
 それから、ざっと40年が経ち、あの憎いまでに強かった自民党はすっかり弱った。「首脳」という言葉があるくらいだから、党首が「脳」なら、運だけは強かった小泉さんの後に、頭の弱い安倍さん、気の弱い福田さん、頭も性格も悪い麻生さんと続いた自民党は、殆ど脳死の判定が出てもおかしくないし、今回の総選挙の結果はそれに近い。

 自民党が、次に政権の肩代わりを出来る勢力として再生することはあるのだろうか?

 その前に、もう一つ考えなければならない。自民党が再生する必要はあるのだろうか?

 政権交代にいたるまでの民主党の多くの政治家が主張してきたのは「政権交代可能な、二大政党(制)が日本には必要なのです」ということであった。確かに、政策に関して、実質的に政権を担える二党がないと、国民は選択権を行使することができない。
 そして、かつて小沢一郎氏がこれを目指し、そのために、得票率以上の議席勢力差が付くように「レバレッジ」をかけるべく作った仕組みが、今回も威力を発揮した小選挙区制だ。だが、この制度で、与党に対抗しうる野党がない場合はどうなるのかというと、甚だ心許ない感じは否めない。
 そこで、現時点で、民主党に対抗して政権を担うことが出来るかも知れない勢力は自民党だから、「自民党が、現実的に望ましい政治を行う勢力として復活するなら」、彼らが党勢を復活することは、いいことかも知れないと思う。かなりの厳しい条件付きだが、私としては、生まれてはじめて、自民党の勢力が(ある程度)増えても「いいかも知れない」という可能性について考える。

 しかし、自民党への期待も同情も、村上龍さんが仰るように、自民党が「崩壊するしか道がない」のなら、意味がない。

 たとえば、誰が党首で、どんな路線を取るなら、自民党が政権交代可能な野党として生き残ることができるだろうか。幸か不幸か、自民党の諸氏は、限度はあるとしても、目的(生き残り)のためには、目指す理念で妥協の出来る人たちだ。

 相対的な比較でだが、総選挙の期間中、舛添要一さんは人気があったようで、一部に、総裁候補として期待する向きもあるという。しかし、報道によると、彼は、森元首相、青木自民党参議院会長と会った後で、次の総裁選には立候補しないことを表明した。
 これは、常識的には賢明な判断だろうと思うが、今後も舛添氏にチャンスがあるとは考えにくい。彼には末期のダメな自民党政権のイメージが付きすぎている。選挙後の大物二人との会談も、まるで、妖怪「ネズミ男」(舛添氏)が、「ぬりかべ」(森氏)や「子泣き爺」(青木氏)と相談しているかのごとくで、古色蒼然たる墓場の話し合いだ(小池百合子さんも入っていれば、「猫娘」も一緒だったのに・・)。
 他方、このように、自分を頼る集団が最も困っているときに回りの様子を見てリーダーを断るような男には(たぶん女にも)、二度とチャンスは回ってこないのも世の常だ。この点に関しては、かつての「社会党のプリンス」、横路孝弘氏(我がふるさとが彼の選挙区だ。中学校時代に同じ先生に勉強を教わったことがある)が分かりやすい反面教師だ。
 中川秀直氏や小池百合子氏のような人が、小泉路線を再び掲げて、自民党を代表するのは、政策の選択肢としては一つの可能性だが、ご両人とも薄氷を踏む当選だったし、時期も手段も中途半端だった「麻生降ろし」の印象が良くない。
 塩崎恭久氏は小選挙区で勝ったが、報道から推測する限り、党内での人望があまりにもないようだ。尚、全くの余談だが、かつて資産公開データで見た塩崎氏の株式ポートフォリオは、銘柄の分散がよくできていて、なかなか本格的な老後の備えだった。福井前日銀総裁と同様国の経済政策よりもファイナンシャル・プランナーの仕事が似合う。
 谷垣禎一はまだ総裁をやっていないが、既に古い感じがするし、加藤の乱の際の涙の印象がどうにも冴えない。もちろん、加藤紘一氏は、一度茹でてから長らく放って置いたカニのように、どう見ても古いし、毒ではないのかも知れないが、臭い。「YKK」は政治的には「消費期限切れ」だ。
 安倍氏の再チャレンジは勘弁して欲しいし、福田さんも「あなただけは、ちがう」。上から目線とひねくれ癖がついに直らなかった麻生さんは、早く政治家など辞めて、大好きなバーのオーナーにでもなった方がいい(土地柄が下品になると困るから、できれば銀座と神楽坂には出店しないで欲しい)。

 小選挙区当選の衆議院議員で一人だけ良さそうなのは、河野太郎氏だろうか。彼のブログを時々読むことがあるが、政策に熱心で、読み応えがある。参議院議員を放り出した竹中平蔵氏に「ふざねんじゃねぇ!」と怒ったアツさもいい。wikiによると、「小さな政府と大きな年金」が持論とのことで、税方式の公的年金を主張しているところも好ましい。この際、彼のようなフレッシュな人物が自民党のトップになって、民主党の官僚機構に対する改革具合をチェックしてくれるなら、自民党は、「健全野党」として大いに存在意義を発揮するだろうし、民主党にもたつきがあれば、自民党の党勢が回復することがあるかも知れない。
 しかし、考えてみるに、河野太郎氏は、この際、民主党の方がいいのかも知れない。プロ野球のトレードのように民主党には危険で不要な○○○○さんとでも交換しようか!

 やっぱり、村上龍さんの言うように、自民党は崩壊するしか道がないのかも知れない。

 仮に自民党が崩壊した場合、国民の選択肢はどうなるのだろうか。今や、経済は、所得の再分配を効率よく行いながら、自由を尊重する(民主党はまだまだ不十分だが)経済運営以外にあり得ないので、程度の問題(たとえば所得税の累進税率の)以外で、対立軸が出来ないかも知れない。
 そうなると、護憲(≒武力をあまり持たず)か、改憲(≒武力を強化する)か、くらいを対立軸として、次の政界再編成があるのかも知れない。
 当面は、自民党の存在感が縮小し、同党の復活が見えないことは悪いことではないと思うが、日本の政治としては、これで将来も安心できるというものではなさそうだ。

(自民党は再生できるのか?、また、自民党は再生する必要があるのか? 結局私にはよく分からないので、読者の皆さんのご意見をお待ちしています)
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