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取材源の秘匿とメディアの特殊な創造力

先日、マネー関係の取材を受けて、「では、原稿の確認はどうしましょうか?」とライターに訊いたら、ライターと一緒に来た編集者(記者かも知れない)が「申し訳ありませんが、原稿はお見せできないことになっています」と割って入った。メディアには「編集権」という概念があることは知っているので、「取材を受けた以上は、そちらに、勝手に書かれることは覚悟しています。編集権に介入する積もりはないので、ご安心下さい。まあ、そのかわり正確に書いて下さいよ」と言って了承することにした。

現在、いろいろなメディアから取材を受けるが、①原稿を丸ごとチェックする形が5割、②カギ括弧の中(つまり私の直接の発言の形を取る内容)だけチェックする形が4割、③原稿は一切チェックできない形が1割、というところだろうか。③は新聞系のメディアに多いような気もするが、新聞そのもので①のようなケースもあるから、会社・媒体・担当する個人によってちがうと申し上げて置こう。

誤解を自分の発言として書かれるリスクはあるが、メディアは、ある意味では、私の意見や私個人を広報してくれる相手なのだから、なるべく協力して仲良くしよう、というのが、山崎元個人としての現在のポリシーだ。取材に対しては、②を希望することが多いが、先方のポリシーによっては③でも仕方がない、と思っている。

ただ、マネー運用のような割合当たり障りのない話なら、誤解を書かれても(ニュアンスまで含めると、正確に書かれる事の方が少ないくらいなのだが)、別の機会に訂正できるし(同じメディアでは無理だが)、個人の名誉にそれほど影響はないと思うので問題ないが、たとえば私が企業の経営者のようなポジションにあったり、社会・政治に影響するような問題の当事者になったりする場合には、③の形で取材を受けて大丈夫なのか、というのは難しい判断になることがあるだろう。

私が、ある種の希望的性善説といっても良いくらいに、メディアに対する「セキュリティー・レベル」を下げているのは、私の立場上・商売上の判断であると考えて頂いていい。もっと「立場」が大切な読者は、メディアの取材を心して受ける方がいいし、場合によっては拒否すべきだろう。

一方、ここのところ、記者の「取材源の秘匿」を認めるか否かが裁判で問われるケースが何件か続けて登場している。

これも立場によっていろいろな意見(少なくとも利害)がありそうな問題だ。記者本人や情報提供者の立場としては、裁判ごときで情報源を明らかにされてはたまらない。記者としては、有罪になっても情報源を守るべきだと思うし、私が記者でもそうしたいと思う。

一方、一読者としては、日本のメディアの報道が、情報ソースを全く明示しないケースが多いことに、情報の質に対する不満と共に、一抹の「いやな感じ」を持っている。

たとえば、結果的に嘘を書いても、取材したという事実と取材ノートなどがあれば、メディア(たとえば新聞)側が事実だと判断するに十分だと思っただけで、メディア上では「事実」として報道される。仮に、意図的に、誰かを貶める目的を持って記事を作ろうとすると、関係者などへの取材を形ばかりに行って、記者が「確かに私はこう聞いたと思う」という内容をノートに認めておけば、メディア上の「事実」を簡単にでっちあげるととができる。第三者が、プロセスそのものの正当性を反証することができないのだから、メディアは強い。そして、いったん事実として書かれたことを、裁判などで訂正して、被害を取り戻すのは、まあ無理だろう。

「取材源の秘匿」、「編集権」といったものの存在で、メディアは、あたかも銀行の信用創造のように、「事実」を創造する特殊な力を持っているのだ。

もちろん、メディア側も自分の媒体の信用というリスクを取りながら情報を発信してはいるのだが、メディアが強すぎるのも気持ちが悪いし、逆に、メディアが弱すぎる(たとえば政権に対して)のも危険である。メディアにどの程度の力をどのようなルールの下に持たせるのが社会設計上望ましいのかは、誰をどこまでメディアと認定するのかという問題も含めて、難問である。

ともかく、メディアがある種の「事実の創造力」を持っていることは確認しておこう。
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「行方不明3年の小学生に卒業証書」は美談なのか?

報道によると、大阪府熊取町教育委員会は24日、約3年前の2003年5月に下校中に行方不明になった町立北小6年、吉川友梨さん(11)に、卒業証書を発行する方針を明らかにしたという。3月17日の卒業式当日に発行し、校長か担任が友梨さんの両親に渡すことを検討しているらしい。同町教委は友梨さんの中学進学について「卒業式までに方針を決めたい」としている。

昨日のニュースGyaOに出演中に聞いた話で、コメントする時間が無かったのだが、果たしてこれは「美談」なのか。

仮に、行方不明中の3年間が義務教育を受けられない形で過ごされていたのなら、本人や家族の意向によっては、小学校の何れかの学年に編入させてあげるのが親切であるような気がする。中学校入学という選択肢を与えること自体は悪くないかも知れないが(3年間の過ごし方によるが)、機械的に学年を進めて、いわば予定通りに義務教育の学校を追い出してしまうような方針を、本人がいないところで決めるのは如何なものだろうか。

この件に限らず、たとえば発達の遅れた子には義務教育を長く受けさせてあげるのが親切だろうし、学習の進んだ子には飛び級をもっと認めることが本人の才能を伸ばすことにつながると思う。硬直的に学年を進めて行く行政と学校の現在のやり方には暖かみと柔軟性が欠けている。たとえば、本人や家族が留年を希望しても、校長の判断で学年を進めて卒業させてしまう。校長ごときがなぜぞこまで強力な判断権を持つのか疑問だ。「校長」は、本来、サービス業の店舗の「店長」のようなものに過ぎない。

もちろん、吉川友梨さんのケースについては、何はともあれ、ご本人が無事に戻ってきてくれることが一番重要な問題だ。従って、仮にコメントする時間があったとしても、ニュース番組のような場では、上記のような問題について論じるべきではなかったのかも知れないが、私は、番組中に行政・学校の方針が何とも気になったので、ここに書き留めておく。
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