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「ベーシック・インカム」を支持します

 「VOL」(以文社)という雑誌というか出版物の第二号に、「ベーシック・インカム」の特集が載っている。雨宮処凜女史の本を読んだからかもしれないが、神保町の本屋で、何となく目について、買ってきた。冒頭に対談が出ているのだが、山森亮さんという方の話が分かりやすく、大いに興味を持った。どうやら、フィリップ・ヴァン・パレイスという人が有名らしいので、ネットで、論文をダウンロードして、斜め読みしてみた。なかなか良さそうな考え方なので、ご紹介したい。
 なにせ、三日前にはじめて知った概念なので、紹介に間違いがあるかもしれないし、幾つかのバージョンがあるかも知れないのだが、気に入ったところを中心に、大雑把に、説明する。詳しくは、各種の原典、或いは、コメントとして入るかも知れない識者のご教示(宜しく、お願いします!)を参考にして欲しい。
 ベーシック・インカムとは、社会の構成員、全員に、個人単位で、暮らすに足る一定の収入(=ベーシック・インカム)を、定期的に現金で配るシステムを指す(正確には、配られる収入のことを指すのだろうが)。これを受け取る個人は、働いていても、いなくても、関係ない。いわゆる「ミーンズ・テスト」(生活保護受給する際などの収入、資産の審査)は一切不要で、個人が、無条件で現金を受け取る。働いて、収入を得ている場合、ベーシック・インカムの他に収入を得て、収入には、多分課税される(消費税、資産税、キャピタルゲイン税などを財源とすることも考えられるが)。
 従って、生活保護を受けられずに餓死したり、受けられたとしても、「どうして、お前は働けないのだ」とさんざん言われて、惨めな思いをするようなことはない。ベーシック・インカム分の収入は、権利として、堂々と受け取ればいい。もちろん、使い道は自由だ。
 そして、基本的な考え方として、各種の社会保障・社会福祉は、できるだけベーシック・インカムに集約し、それ以上に必要な人が利用する、保険、年金、各種のサービスなどは、民間に任せる(それでも何が残るかは、各種の議論がありそうだが、福祉的制度・行政の大半は無くせるだろうし、私が、ベーシック・インカムを支持する大きな理由もそこにある)。

 どこが特に気に入ったかというと、「個人単位」というところと、「働かなくてもいい」というところだ。今日の生き方の多様化を考えると、主として、世帯を単位とする現在の各種の税制や社会保障制度などは、婚姻の形態をはじめとして、個人の生活に不当に介入している。
 また、人には、働かない自由もあっていいだろう。少なくとも、働かなくても、生存できるくらいの収入が保証されていれば、クビが怖くないから、個々の労働者が、もっと自由な働き方ができるし、雇い主と、より対等に交渉できるだろう。
 「働かざる者、喰うべからず」とは、時に、暴力的で、危険なキャッチフレーズだ。仕事を上手く見つけられない人(摩擦的失業の場合でも失業期間はある)もいるだろうし、心身の状態によっては働けない人もいる。前者の人は焦って仕事を決めようとするだろうし(偽装請負の労働者でもいい、という気分になるだろう)、後者の人は、精神的に相当に辛いはずだ。世間の人々は、「働かないなら、死ね」とは、大っぴらには言わないのだが、生活保護を与えるか否かの判断を役人が持っている場合、「キミは、働けるはずだ」と役人に言われてしまうと、死んでしまいかねない(先般の、北九州市の悲劇のように)。

 ベーシック・インカムについては、(1)幾らにするか、(2)財政的に可能か、(3)働かない人にも払っていいのか、(4)対象範囲をどうするか(外国人は?、子供は?、等)といった大きな問題がある。
 (3)については、私の結論は「いい」だ。(4)は老若男女を問わず日本の居住者全部(外国籍の人も含む)でどうだろうか。(1)と(2)は、具体的に決定するには多少の算術が必要になるだろう。
 直観的には、(2)が許す範囲でということだが、(1)は、生存できる額の十分上であることが必要だが、現実的には、「貧困」のレベルの下になるのではなかろうか。可能なら貧困レベルの上であってもいい理屈だが、長期的には、さすがに労働のモチベーションと、人口の増えすぎが心配だ。
 全く暫定的な数字であり、これを「提案している」とは取って欲しくないが、例示のために具体的な数字を挙げると、たとえば、ベーシックインカムを一人年間100万円として、税は所得税だけだとして税率を40%のフラット・タックスとすると、年収(税込み)250万円が損得のブレーク・イーブン・ポイントになり、これは、年収250万円を課税ゼロとして、税率を40%とすると、実質的には「負の所得税」の仕組み(たとえばミルトン・フリードマン「資本主義と自由」参照)と同じだ(と、思う)。
 ただ、「負の所得税」という呼び名は、いかにも陰気だし、所得を申告し、精算して、幾らかを受け取る、という仕組みよりも、その前に、「一人分、○○○円は、あなたの権利です!」と気前よくくれる方が、思想としても正しいし、制度として明るいのではないか。
 数字は暫定的といいながら、金額にこだわるのは潔くないが、たとえば、上記のような制度だと、子供も平等に扱った場合、働き手の年収が250万円で4人家族なら、可処分所得は550万円になる。まあまあ、ではなかろうか。家庭の規模の経済効果を考えると、子だくさんが得かも知れない。
 負担率の40%は、これで、消費税を含めた税金も、年金も、込み、ということなら、私は、全く文句はない。今度こそ、愛国心が湧いてくるかも知れない。負担率がはっきり50%を超えてきた場合に、それをフェアと感じて、納得できるかどうかは、ちょっと心配だが、まあ、慣れの問題かも知れない。
 何れにせよ、数字の問題は、別途また考えよう。

 年金は、どうなるか。他に、私的年金保険や確定拠出年金を認めることがあっていいかも知れないが、公的年金制度は解体できる。今や、年金官僚の働きぶりという、大きなリスク要因を解消できるのだから、それこそ、「100年(以上)安心」だ。考えてみると、老いには個人差がある。元気な65歳もいれば、草臥れた59歳もいるのだが、年齢で差別せずに、最低限の保障として貰える額は何歳でも同じ、ということで、いいのではなかろうか。
 ちょっとだけ心配なのは、医療保険か。日本の健康保険制度が解体されれば、アメリカ様の保険会社が舌なめずりして参入してきそうだが、マイケル・ムーアの「シッコ」的な世界にならないように、気をつけたい。
 障害者に対するベーシック・インカムは、障害者の場合、働いて稼ぐことに関して、意図せざる不自由があるわけだから、元気な人よりも多くていいような気がする。もっとも、これは、ベーシック・インカムとは別の、社会的な(生まれる時に自動的に強制加入する)保険の給付として処理するのがいいかも知れない。(注:私の場合、個人的な事情で、障害者に甘いバイアスがあるかも知れない)
 何れにしても、使途の自由なベーシック・インカムを配ることで、社会保障的なものを中心に、公的制度はできるだけ削って、政府を極小化することが、財政的にも、経済効率的にも、この制度を具体化する際のポイントだろう。

 労使関係は、どうなるか。
 ベーシック・インカムを持っていると、労働者が、自分の働き方を選択する幅が大きく拡がる。「不当な条件では働きたくない」と低賃金労働を嫌うかも知れないし、「安くても、ベーシック・インカムにプラスされるのだから、暮らせる」と低賃金でも働くのか、どちらになるのか、判断の難しいところだが、危険な仕事、過重な労働負担、などは、労働者が、意識してこれらを避けることが出来るようになるだろう。
 貿易によって、製造業賃金の「要素価格均等化」が働きやすくなるし、ソフウェアト開発のような仕事では、外国の労働者と、まともに競争することになる。また、労働者が提供するものが、製造業的肉体労働から、知識や判断によって貢献する労働に変化すると、個々人が提供できる経済価値の上下の幅は大きく拡大すると考えられる。労働の価値に連動した報酬しか受け取れないとした場合には、この報酬が、特定の地域や生活習慣の下での「人間らしい生活」をファイナンスできなくなる可能性が大いにある。ベーシック・インカムは、こうした変動を吸収するバッファーの役割を果たすだろうし、労働者が自由な意思に基づいて雇い主と対等に取引する主体であるための基盤を提供するだろう。
 これで直接的に組合が壊れるわけではないだろうが、組合の必要性は、ますます薄くなるだろうし、それは、望ましいことだと、私は考えている。
 一方、経営者は、自分が人殺しになる心配をせずに、稼ぎに専念できる。これは、これで、結構いいのではないか。

 景気には、どうか。
 一般に、低収入な人は消費性向が大きいので、ベーシック・インカムによる所得移転には、多少なりとも景気拡大効果があるだろう。
 公共事業は、お金の使い方として、非効率的な場合が多く、所得再配分の手段には適さないと、私は、一応、考えている。ベーシック・インカムを導入して、公共事業は減らす、ということでいいのではなかろうか。

 生活や文化には、どうか。
 「喰うため」のプレッシャーが減少するのだから、たとえば、若者も、若くない者も、夢を追うことが、より容易になるはずだ。ベーシック・インカムには、「面白い奴」を養い、増やす、効果があるかも知れない。変な奴が増えて、面白くなるのではないかと期待する。
 もっとも、「勝ち組・負け組」的な、勝ち負けの存在、精神的なプレッシャーなどは、簡単には、無くならないだろう。ベーシック・インカムは、「負け組」を「喰える」ようには、するが、人間は、ある意味では、本当に残酷な生き物なので、精神的な傷まではカバーできないかも知れない。もっとも、これは、ベーシック・インカム固有の欠点ではない。

 ところで、ベーシック・インカムが正当化される根拠は何か。それで世の中が上手く行くなら、哲学は、暇な人が考えればいいが、「どのように正当か」という理由にも、現実的な重要性はある。
 現在の人は、これまでに出来上がっていた地球、土地、人類、社会、各種の制度(昔の人が作った)、といったものを前提にして「稼ぐ」ことができるのであるから、資本その他への所有権を尊重するとしても、或いは個々人の労働の成果が主としてその人に帰属すべきだとしても、これらは環境・制度といった与件共に機能している。従って、いわば環境財・制度財に帰属するはずのメリットは、社会の成因全体で平等に分けてもいいのではないか。というのが、最大の正当化理由だ。マリー・ロスバードは、私的所有権(自分の肉体及び自分が正当に手に入れた所有物の)を、一種の自然権として解釈したが、これを、もう少し謙虚に、自分と社会の成員全体(最終的には人類全体を目指すべきだろう)の自然権としての所有権として、私的所有権を捉え直せば、リバタリアンは、割合抵抗無くベーシック・インカムを受け入れられるのではなかろうか。
 まあ、面倒なことを考えなくても、単に、メンバー全員を、生かし、自由な人として行為させる、ということを、社会として目的化することに合意すればいいのだ。
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買収されない企業と侵略されにくい国の類似点

 企業買収に関わる新聞記事などを眺めながら、ぼんやりしていたら、「買収されない企業」と「侵略されにくい国」に似たところがあると気付いた。先日、東京は神田神保町にある我が社のオフィスを訪れた某出版社の青年が「ハト派市場主義宣言」というコンセプトはどうですか、などと、と提案して帰ったからかも知れない。
 あらかじめ言って置くが、以下の説明を以て、非武装中立が可能であることの必要十分条件だと主張する積もりは、今のところない。ただ、ある種の社会のあり方が、防衛を代替する効果がある、ということは言えるのではないかと感じている。

 三角合併その他、企業買収を話題にするときに、内外の企業の時価総額の比較がよく出てくる。たとえば、日本の花王と米国のプロクター・アンド・ギャンブル社(P&G)を比較すると、後者が前者の数倍の時価総額を持っている。だから、P&Gがその気になったら、あの優良企業である(ということになっている)花王が、簡単に買われてしまう、大変ではないか、という話になるのだが、それでは、どうして、P&Gは花王を買おうとしないのか。
 実は、これから買おうとしているという可能性がホンの少しないわけではないが、買おうとはしていないという前提の下に合理的な理由を推理すると、花王の株価が高いから、これを買っても、P&Gにとってプラスにならないことが理由だろう。
 通貨も金利も違う株価を直接PERで較べるのは正しくない。P&Gの立場では、通貨をドルベースに揃えて今後の状況を考えなければならないが、例えば、花王のPERが25倍、P&GのPERが15倍だとすれば、P&Gは、花王を買うことで、高い金を出したのに、思った程利益が伸びないという意味で、経営内容を悪化させる可能性が大きい。花王のPER25倍は、将来利益の成長性や安定性が高く評価されたものだと考えられる。これをP&G流に経営すると、かえって能率が下がってしまう公算が大きい。
 まして、花王を本当に買うとすると、3割が相場と言われるコントロール・プレミアムを払わなければならないし(根拠はよく分からないが、そう言う人が多い。「勝者の呪い」の大きな原因だ)、経営統合の各種コストを払わねばならないから、花王の将来利益をPER25倍で買い切ることは難しいだろう。加えて、花王は、株価純資産倍率が、なかなか高い。
 こうした場合に、P&Gが花王を買収し、支配しても、投資額に見合うメリットはない。
 また、別の例を考えると、たとえばコンサルティング会社やソフトの開発会社のような会社を買収する場合、買収後に生産性の高いコンサルタントや開発者が会社を辞めてしまうと会社の価値が下がるし、メンバーの退職やチームのマネジメントスタイルの変更で、ビジネス・ユニットとしての生産性が大いに低下する可能性がある。
 もちろん、こうした場合も、買収前にその会社のビジネスが改善のしようがないくらい効率が良くて、高い株価が付いていなければならないが、効率よく経営されていて、高い成果と評価を得ている組織は、買収して支配しても儲からない。
 株価評価の高い会社の経営者が、よく、「我が社を高く買ってくれるところがあるなら、どうぞ、買収してくださって結構です」とか、「経営効率を高めて高株価を維持することこそが買収の防衛につながるのであり、我が社には(セコイ)買収防衛策など必要ない」というようなことを言うが、他人が支配して経営効率の改善が出来ず、かつ高い評価の会社は、時価総額が小さくても買収されないのだ。
 もちろん、時価総額が大きな会社や、大資金を持ったファンドなどが、小さな会社を買収しようと思った場合、これは十分可能だが、買っても得をしないということになれば、買収は行われない。買収防衛策は、株価の低迷にもつながるし、弁護士を儲けさせる必要もないし、不必要である。

 国にも同様のことが、言えると思う。
 A国がB国に武力で侵略することを考えよう。A国が武力的にB国よりも強国である場合でも、侵略から占領にあたっては、自国側でもある程度の損害と、多大な経済的コストを覚悟しなければならないだろう。B国に侵略して、このコストは回収できるか。
 それまでB国は、経済社会的に上手くマネージされていて、生産効率が高いとしよう。これを無理矢理A国の社会システムに変えたとして、果たして、維持できるだろうか。言語を二種類使わせることをはじめとして、B国の経済の能率は落ちるだろうし、たとえば企業から強制的に富を収奪し、高い税金を課するならば、企業活動は低下して、生産力は、落ちる。
 それでは、国旗と政治家だけを取り替えて、もとのままの社会運営と企業活動を許して貰えるなら、どうか。
 この場合、一般的なB国民としては、別段大きな不利益もない。これに対して、銃を取ってまだ、戦う意味は乏しい。株式会社で言えば、株主が変わって、社名が変わるだけだ。

 日本をB国として考える場合、場合によっては、非正規労働者に対する扱いがもっと良くなるかも知れないし、年金制度など、もっと合理的なものにリセットできるかも知れない。日本に当てはめるなら、他国に統治される方が、若者の暮らし向きは改善するかも知れないとさえ思う(年寄りの財産のために、銃を取るのはツマラナイ。特に、失うものの乏しい人は、もっと鷹揚に構えよう。大金持ちこそ、自分の財産を守るために、銃を取るべきなのかも知れない)。
 占領されて気分のいいものではないが、日本語で運営されていて、且つそれなりに高度な物質的・経済的生産性を持っている日本の社会を、統治して更に、メリットを取る、というのは、占領国にとってなかなか難しい課題ではないか。A国として、中国、南北統合された後の朝鮮、ロシア、など何れの国を考えるにせよ、日本の社会を自分達のシステムに取り込んで、効率よく搾取し続けるのは、難しいのではなかろうか。
 結局、自主的に運営させておいて、政治的なトップ層だけ取り込んで、経済の枠組みの中で物的生産を長期的に担わせたり、マーケットとして活用したり、時に、無理めな協力をさせる、という、丁度、これまで及び現在、アメリカが日本に対してやってきたことくらいが関の山ではなかろうか。
 乱暴な言い方をすると、悪くても、今くらいなのだ。防衛に力を入れて、一体何を守るというのだろうか。
 日本の場合、人が関わった上での生産性が経済的な価値を生んでいる。これが、たとえば、人口の少ない、ほとんど人間が働かない、しかし、石油なり稀少金属なりの、豊かな鉱物資源があるといった国なら、そうは行かない。丁度、キャッシュや不動産を抱えていて、まともに経営されていない会社のようなものだから、今度は、俄然、占領するメリットが出てきてしまう。働かなくても喰えるような、楽な国には、別の苦労があるということか。
 もちろん、ある程度のコントロール・プレミアムに相当する防衛力はあってもいいが(現在の自衛隊は過剰なくらい豪華ではなかろうか)、攻めてくる国に勝てるほどのものは必要ない。
 国民大衆レベルでは、占領されてから、占領国のお手並みを拝見する、というくらいの精神的余裕を持っていてもいいのではなかろうか。そこから、どうできるか(どうできるものでもない)、という占領国にとっての予測可能性こそが、日本社会のソフトな防衛力の核心だ。もちろん、個人としては、敢えて、余裕があれば、体制が変わっても順応できるような個人的スキル、いよいよ居心地が悪い場合に、他国でも暮らせるような能力とコネを養っておくといい。占領されなくたって、居心地の悪い国になる可能性はいくらでもある。

 ともかく、簡単に見える、企業の買収でさえ、そうやたらに起こるわけではないし、時価総額の小さい会社がどんどん買われていく、というものではない。国も、そう簡単に侵略されるものではないし、一口に、侵略・占領・併合などといっても、その内容は、いろいろであり、悪いことばかりと決めつける必要もない。武力による防衛力のみに安心を求めるというのは、あまり賢いやり方ではなさそうに思う。

 以下、余談である。
 ところで、防衛と言えば、先日、防衛省に詳しいある政治記者に聞いたところ、守屋次官の後任の、増田氏は、非常に優秀で現実的な人らしい。何れは当然次官に、ということで、省内が納得する人であるらしい。但し、守屋氏には、疎まれていたかも知れない、というし、もちろん、小池大臣が彼を選んだわけではない。小池氏は人選に失敗した、ということのようだが、結果的には、良い人事になったらしい(それにしても、西川氏は、何とも見苦しいことになってしまったものだ)。
 ご本人の確認を取ったわけではない伝聞だが、増田氏は、「別に、何でもアメリカの言うことを聞かなくても大丈夫ですよ」、「憲法9条という程度の不自由がある方が、かえって、いろいろと好都合です」と仰っているらしい。柔軟な方のようだ。ただ、目的を与えられると、そのために何が必要であるかを計算して、解く、ということが極めて得意らしく、何でもできてしまうタイプらしいので、誰が、彼にどんな目的を与えるか、ということが重要であるらしい。
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「市場と感情の経済学」復刊

 ダイヤモンド社の書籍担当者から、リチャード・H・セイラーの「市場と感情の経済学」の翻訳本(篠原勝訳)が復刊されると聞いた。10月くらいには出るらしい。同書の原書は、1992年に出ており原著のタイトルは"The Winner's Curse"(勝者の呪い)、1998年に邦訳が出たが、残念ながら、あまり売れなかったようだ。
 しかし、2002年にダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を取ったこともあり、近年、行動経済学の本がまずまず売れているようなので、ダイヤモンド社が翻訳の復刊を交渉したとのことだ。尚、翻訳は基本的に当時のままだが、邦題は変えて出すようだ。
 ジャーナル・オブ・エコノミック・パースペクティブという専門誌にセイラーが行動経済学分野の第一線の研究者と一緒に年に4本、論文を連載していたものが、一冊にまとめられて出版された。連載が掲載されていた当時、投資研究部という名前の部署にいたので、会社で読んでいた。
 既存の経済理論では説明できない「アノマリー」(的現象)を次々にテーマにしており、目次を見ると、序章から第14章まで何れも取り上げているテーマが幅広い。「協調行動」「究極ゲーム」「産業間賃金格差」「勝者の呪い」「金利と割引率の損得勘定」「競馬と宝クジの戦略」「株式市場のカレンダー効果」「株価は平均に回帰する」「クローズド・エンド・ファンドの謎」など、何れも興味深いし、後の行動ファイナンス、行動経済学でも重要なテーマとなったものが紹介されていて、内容的・知識的にも決して古くない。
 一つだけ寄り道すると、「究極ゲーム」とは、最も簡単なバーションでは、被験者Aに一定のお金を仮に渡し、このうちいくらかを被験者Bに提供することを提案させるゲームで、Bが提案を受諾したらA、Bは当初のお金を貰ってこれを提案通りに分けることが出来るが、Bが提案を拒否したら、A、B共にお金を貰うことは出来ないというゲームだ。
 単純なゲーム理論で考えると、1%でも渡すと提案すると、Bは提案を拒否した場合に何も貰えなくなるので、提案を受諾する筈であり、Aはごく少額を提案すればいい、というのが解答なのだが、現実には、もっと「気前のいい」提案が多く、平均は、Aが配分する額の37%で、最も多かった分配案は50%、つまり、折半だった、という実験が初期にある。ゲーム理論の学者が、回数を増やして繰り返しの要素を入れたり、ゲーム理論を教えたりして、やり方を変えた実験を設計しても、A側の「気前の良さ」と、B側が、少額の分配提示(たとえば10%)を断るというようなケースが相当数出ることは、基本的に変わらなかったという。人間は、自分の損得だけで価値判断を行うのではなく、「フェアであるか、否か」が相応に(人によってちがうが)重要な価値判断要素になっている、ということが分かる実験だ(詳しくは、復刊される本をご覧下さい)。
 投資の世界では、「アノマリー」という用語は旬を過ぎてから、時間が経っており、かつてほどワクワクするものではない(伝統的なファイナンス理論が衰退したので、そのアノマリー=異常事象がそれほど刺激的でなくなったからだろう)が、既存の理論で上手く説明できない現象を嗅ぎつけて、これを検証し、様々な角度から説明を試みる、というアプローチは、投資で言えば、アクティブ運用のアイデアを組み立てる時と同じようなアタマの使い方になる。運用的発想法を鍛えるという意味では、具体的な投資の方法が書かれている本を何冊も読むよりも、よほど役に立つだろう(拙著など、ブック・オフに売って、購入資金の足しにして下さってもいい)。

 目下、「サブプライム問題」で相場が荒れている。サブプライムローン関連の損失処理と、これに絡んだ信用不安問題は、割合短期間でクリアできるかも知れないが、おおもとの原因が米国の住宅価格下落にあることを思うと、サブプライムローン問題は大きさ的に「氷山の一角」だし(サブプライムローンの残高が1.3兆ドル、全住宅ローンが10兆ドルあり、それぞれの背後に担保となる不動産があるし、もちろん、オフィス物件もある)、相場用語で言うところの「調整」(上げるのが当たり前だという意味か、下げる場面を「調整」と呼ぶ)は、そこそこに長くかかるかも知れない。ロシア危機からLTCM破綻に至った1998年の危機よりも(数ヶ月で株価は元に戻った)、原因がアメリカ国内にあり、規模が大きい分、たちが悪いかも知れない。
 何を言いたいかというと、しばらくの間、相場はツマラナイかも知れないので(普通に資産形成で投資している、買い持ち投資家にとって、という意味だ。先物で遊んでいる人には、サーファーにとっての大波のように面白いだろう)、この間に、投資の発想を豊かにしてくれるような良書を読むのがいいのではないか、ということだ。
 本当は、本が出る頃にブログに書く方が、推薦として有効なのだろうし、出版社にも喜んで貰えるだろうが、忘れるといけないので、今書いておく(一株屋としては、推薦図書などよりも、この機会に推奨銘柄を挙げたり、相場の予想でも書くことが、望まれているのかも知れないが、まあ、ブログはタダなのだし、我慢して下さい!)。
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西岡氏のクールビズ廃止論の戦略下手

 民主党の西岡武夫参院議院運営委員長が、クールビズに異を唱えて、国会でのネクタイ着用を提唱したが、批判・反発が相次いで、「西岡氏は当初、10日の同委理事会でクールビズ廃止を決定する方針だったが、次の臨時国会までに考え方を示すよう理事会の開会前に各会派に要請しただけで、理事会では言及しなかった。」(読売ONLINE8月10日の記事による。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070810i215.htm?from=main2)、というようなことに相成った。
 
 この経緯を見て、二つの意味で、下手だなあ、と思った。

 一つは、目下、ただでさえ体感上暑い真夏にあって、また「環境」という錦の御旗を背後に持つ「クールビズ」に、正面切って異を唱えることの、分の悪さだ。夏はノーネクタイで良ければ、どんなに楽かと思うビジネスマンや「環境命」の一群の弁の立つ環境主義者達を、敵に回すのは、どう考えても得ではない。「皆でネクタイ着用を止めると、楽だし、それで、冷房が弱く済んで、環境にもいい」という議論は、少なくとも、言葉で戦う限り無敵だ。政治家は、言葉の商売なのだから、もっと考えなくては。

 ところが、長年の慣れのせいか、あるいはスーツにネクタイという伝統的デザインの完成度の故か、完璧で輝かしいコンセプトに裏打ちされた「クールビズ」は、少なくとも、テレビ画面で見る限り、「少なくとも八割は、なんだか間抜け」なのだ。
 大敗の参院選で、TV画面に映った自民党幹部の面々は、疲労した落ち武者の群れのように見えた(或いは、宴会の無い社員旅行か)。
 毎日TVに移る安倍首相にあっては、襟元が心許なく空いていて、言葉の軽さと共に、頭脳の頼りなさが、日々、一層強く印象付けられている。塩崎官房長官は、顔立ちが派手で、話方も含めて首から上が十分「暑い」せいか、例外的に、ノーネクタイが似合うように思うが、チョイワルの中川氏(バラではなく、酒が問題の方)はとても政治家に見えないし、ご高齢の尾身財務大臣あたりに至っては、老いが一層強調されて、無残な感じさえする。その他の面々も、「ネクタイあり」よりも、少なくとも0.5標準偏差くらいは(模擬試験の偏差値だと「5」に相当。)利口でなく、見えているように思う。
 したがって、西岡氏は、民主党の面々と裏で打ち合わせて、少々暑くても、我慢してネクタイを着用することにして、「私は、ネクタイに慣れているし、これでいいのです。もちろん、冷房の温度はクールビズ対応で結構ですよ」と口裏を合わせておけば、民主党の代議士だけ、実際の中身以上に利口に見えたはずで、印象面で大いに有利だったのではないかと思う。
 もっとも、これからやっても、頑固で意固地だと解釈されるので、好結果は期待できない。目立ちたがって小うるさいことを言ったばっかりに、みすみすチャンスを逃がしたのではないかと思うが、どんなものですか、西岡センセイ。

 それにしても、政治家をサンプルにして、ネクタイ有りと無しの比較を目の当たりにしてみると、スーツにネクタイという組み合わせは、ツマラナイ男でも、それなりにしゃっきり見せるという意味で、偉大なデザインであり、文化だと、思う(安倍サンでも、上場企業の課長さんくらいには見えるし)。
 これを捨てて、そのハンディキャップを十分に補うことは、凡人には、難しい(まして、私などは、ルックス的、ファッション・センス的に、凡人以下であるからして、ハナから無理だ)。着ることに、相当に慣れていないと、クールビズは、こなせない。
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ポジティブ・シンキング・バカ(PTB)とネガティブ・シンキング・グズ(NTG)

 安倍政権に怒るような話題は、続けると暑苦しいし、さすがに自民党内でも「安倍下ろし」的な動きが出てきたようなので、ゆるい話をもう一つ。

 私は、転職関連の話を中心に、自己啓発的なビジネスの話題で、取材を受けたり、原稿を書いたりすることがありますが(この種の仕事の1-2割でしょうか)、このジャンルの文章を読んだり、ビジネスの場で、或いは転職の相談を受けたりするような場合に、イライラする性格類型を二つ見つけたので、書いておきます。

 一つは、「ポジティブ・シンキング・バカ」(PTB)とでも言うべき、願いと現実の区別が付かなくなっていて、歪んだ現実認識に、周囲を付き合わせるタイプの人物です。何でもポジティブに考えようとするので、基本的に前向きな人ではあるのですが、周囲にも同意を求め、時には努力を強要するので、迷惑だ、といったキャラクターです。
 現れ方は大きく分けると二種類あって、一つは、「願い事は、十分真剣に願うと、必ず叶う」「叶わないとすれば、願い方と信じる心に不足があるからだ」という論理構造を持っている人で、ポジティブなことを口にしていると幸せになると言って歩いたり、目標を手帳に書いて毎日眺めると必ず達成できる、と広言したりします。「それが本当なら、進学も、就職も、時価総額も、・・・、もっと高い目標を書いて置けよ」と突っ込みたくなるような、話をするのですが、本人は意に介さないようです。自分の目標を具体的に意識化することは、大切なのですが、それだけで物事が達成できるわけではありませんし、現実を認識することも重要です。また、何よりも、この種の話は、聞いている方が恥ずかしいのが、困りものです。
 もう一つは、現実に合わせて、願いや解釈を修正するタイプで、仕事に失敗しても「いい経験になった」、大学受験で失敗した話をするときには「おかげで本当の勉強の仕方が分かった」、第三者が見てもつまらない転職話の誘いでも「またとない、素晴らしいチャンス」と口にして、他人の同意を求めます。また、本人の問題だけではなく、他人についてもこうした解釈を適用して得意になる場合があります。
 「失敗は、失敗として認めた方が、自然ですよ。元から望んでいたわけではないでしょうし」と言いたいところを、ぐっと堪えて、「なるほど、そういう考え方もありますか」などと曖昧な相づちを打つ必要がある場合もあって、この種のPTBは迷惑です。
 参院選で大敗した安倍首相が、「これで危機感が生まれて、かえって改革が加速する。ある意味では良かった」などと言えば、典型的なPTBですが、彼の場合は、PT抜きのプレーンな「B」のようです。これは、これで、もっと困りますが。

 もう一つ、話しをしていて、もてあますのは、全てのことにケチを付けて、「いまそれをやらない方がいい理由」或いは「やっても意味がないという理由」を探して、自分でも動こうとしないばかりか、他人の積極性にも水を差そうとする愚図です。こちらは、「ネガティブ・シンキング・グズ」(NTG)と命名することにします。
 一昔前で言うと、「転職しても、日本の会社はどこも同じ」(自分は転職したことがないくせに)、「転職を重ねると、だんだん悪くなっていくから、どこかで止めないと」(余計なお世話だよ~ん)、などと部下や若者の転職話に水を差そうとする上司や、あるいは、もともと自分では転職に興味があるくせに、具体的に転職先を紹介されると、あれやこれやと転職しない方がいい理由を探す愚図などが典型的でした。
 一人で密かに消極的なだけなら、周囲にとって迷惑ではないのですが、この種の人は、自分が持っている「不景気の気配」を他人に伝染させるので、厄介です。

 PTBやNTGは、それなりに強固に凝り固まった性癖なので、他人がこれを矯正して付き合おうとすることは、ほぼ無駄な努力です。離れて影響を受けないようにするか、言っていることを一気に破壊して、直ぐにその人物から離れる「ヒット・アンド・アウェー」の作戦を採るか、何れかしか、対処の方法はありません。どちらも、木っ端みじんに論破しても、またじわじわと復活してくるので、捨てられない荷物的な人間関係になる前に、離れておくのが得策でしょう。
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「忙しい」と「疲れた」をなるべく言わない

 さて、先日、これまでご縁の無かった、ある雑誌が、ビジネスのやり方(スケジュール管理や情報処理など)や心得を取材したいという用件で、取材に見えました。私は、ビジネスの世界で成功して大儲けしているわけではありませんし、私に取材しても仕方がないのではないか、とも思ったのですが、テーマや取材対象を決めるのは取材する側の責任ですし、自分としては、活動の範囲は広い方が面白いので、明らかに、話すべきことが無いテーマ(専門的なテーマで、全く知識の無い分野など)の場合は、お断りしますが、そうでない取材は、なるべく受けてみようと考えており、この取材も受けることにしました。
 
 はじめに、スケジュール管理は手帳(能率手帳)が中心のアナログが基本であり(4色ボールペンを使っています)、スケジュール情報を関係者で共有するためにYahoo!のカレンダーを使っているという話や、仕事のデータと環境は全て一台以上のノートパソコンにも持つようにしているので、転職しても、仕事の連続性が保てるとか、ニュースを拾うのは、主にGoogleのReaderを使っていて便利であるとか、メールのバックアップ用にGmailを使っている、といった話を一通り話しました。
 私は、将来実現できそうなことを、あらかじめ手帳に書いておいて、自分の目的達成能力に自ら感動する、というような、高度な芸を持っていないので、何れも平凡な話です。

 次に、「ビジネスマンとして、日頃から心掛けていることは何ですか。座右の銘的なものがあれば、それも教えて下さい」と質問されました。日頃から、「私は、ビジネスマンだ」という強い意識を持っているわけではなく、座右の銘的なものがあるわけではないので、しばらく考え込みました。
 敢えて言えば、自分の仕事について、できるだけ他人に依存しない、というようなことを意識しているのですが、これは、ビジネスの一般論からすると、必ずしも、好ましいことではありません。他人に任せるべき仕事は、思い切って任せる、という考え方が大切なことがしばしばあるでしょうし、特に、手掛ける仕事が大きくなると、そういうことでしょう。

 結局、もう少し、身近な話をすることにして、「『忙しい』と、『疲れた』を、なるべく言わないことです」と答えました。
 仕事で誰かと会うと、「お忙しいですか?」と訊かれることが多いのですが、「大いに忙しい、というほどではありません」というくらいに、答えることにしています。
 「お忙しいですか?」という質問は、相手を気遣いながら、相手に自慢話をさせるきっかけを与える、なかなか便利で親切な質問ですが(私も使うことがあります)、これに、100%乗って、如何に自分が忙しいかという話をするのは、間抜けというものでしょう。
 それに、私の場合、一日の時間の使い方が、朝9時から始まって、夜は残業、というような、普通の人と同じではないので、「忙しい」と言えるのか、どうか、時間に余裕がないときでも、自信がありません。また、フリー的な仕事をしている同士だと、「忙しい」は、ほぼ「稼いでいる」と同義に聞こえることがあるので、自分の忙しさを強調することは、マナー的にも得策ではありません。
 そして、何よりも、私は、自分の忙しさを強調するビジネスパーソン(男性ばかりとは限りません)が嫌いなのです。
 これまで私が勤めていたような会社の場合、本当に、余裕が無くなるくらい忙しいということは、実のところ、ほぼあり得ません。時間に全く余裕がないとすると、仕事の要領が悪いか、余計な仕事までしているか、好きで(或いは暇が不安で)仕事をしているか、ほぼこの何れかであり、どれも他人に自慢するような状態ではありません。
 加えて、自分が忙しいという話は、自分にとっては重要でも、相手にとっては、どうでもいい話である場合が殆どですから、これを長々するのは、愚かです。
 結局、「忙しい」、「忙しい」と言っている人は、他人に同情して欲しいか、自分(の仕事)は価値があると自分で思い込みたいか、何らかの自慢をしたいか、の何れかで、話の聞き手にとっては迷惑な存在です。
 尚、私自身は、なるべく(絶対とまでは言えないのですが)「忙しい」とは言わないように、していますが、相手が「忙しい」と言う場合は、時に相づちを打ちながら、にやにやしつつ、耳を傾けることにしています。これは、内心で軽蔑しながら、相手を観察している時間です。

 また、「疲れた」も「忙しい」と同様の意味を持つことがありますし、「疲れた」の場合は、自分の疲労を他人に染すような、気分的な不景気を伝染させるような、嫌な効果があります。もちろん、人間は疲れることがありますが、その場合は、自分で勝手に休めばいいし、他人に向かって「疲れた」を連発するのは、迷惑だと思います。
 また、「疲れた」と自ら口にすることによる、ネガティブな自己暗示効果も、馬鹿にならないので、これは、他人に迷惑なばかりでなく、自分にもマイナスでしょう。
 一本に、集まって話をする際のメンバーの平均年齢が高くなると、病気の話題や、体調の話が多くなりがちですが、これも、あまり気持ちのいいものではありません。
 
 何れにせよ、少々忙しくても、疲れていても、「面白いことがあれば、参加する気はありますよ!」という前向きな余裕を見せながら話をする方が、お互いに楽しいし、話が有意義になりやすいのではないかと思います。
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日本の政治を変えた男、赤城農水相、唯一の仕事

 いまさら、この人の話題かと、気が引けるが、大事なことなので、書いておく。
 今朝(8月1日)の「読売新聞」に、「赤城農相留任させず 首相」という見出しの下に、安倍首相が内閣改造について、「『赤城農相を含めて、人心を一新していく』と述べ、赤城農相を留任させない考えを明らかにした」とあった。これは、一体、どういうことなのか?「読売」は、安倍政権に好意的な方の新聞だから、誤報ではあるまい。
 選挙を戦った自民党候補、関係者は、「いまさら更迭方針を明らかにするなら、なぜ、選挙前に赤城氏を切ってくれなかったかったのか!」と、恨みと共に、思うだろう。赤城氏の存在と言動には、自民党の選挙結果を、単なる「敗北」から、「大敗」に変える程度のインパクトがあったと思う。ある意味では、彼こそが、日本の政治を変えた男だ。
 そして、自民党関係者の立場に立たなくても、これは拙い。
 「もうしばらくで大臣は、クビだよ」と言われて、部下たる、農水省の官僚達が十分に働くとは思えない。もちろん、赤城氏本人のモチベーションも落ちる。行政は、間違いなく停滞しよう。この人使いは、いったい何なのか?
 もちろん、農政は重要問題だ。赤城氏が不適任なら、どうして直ぐに罷免しないのか。そして、彼をしばらくおいておくのに、不適任のレッテルを貼ることの意味は何なのか。代わりを決めるのに手間取るなら(それも首相として能なしだが)、安倍氏が兼任という手もある。あらゆる意味から言って、このタイミングで、赤城氏を再任しないことだけを発表するのは、理屈が通らない。
 首相は、世論に迎合したのだろうか。真意は分からないが(はっきり言って、安倍氏ぐらいおバカだと、真意の論理的推測は難しい)、何れにせよ、今まで部下たる閣僚を庇ってきたのも、度量が大きいわけでもなければ、人情に厚いわけでもなかった、ということが、よく分かった。要は、冷たい男だが、同時にグズなのだ。
 何はともあれ、こんな人事と人使いでは、安倍氏は、会社の社長はおろか、課長だって務まるまい。もう、党派を超えて、安倍首相の辞職を求めるべきだろう。彼の口癖を借りるなら、「反省すべきは、反省して」即刻辞職し、時間を取って「しっかりと」勉強し直して、将来の「再チャレンジ」に賭けて欲しい。
 間接的とはいえ、安倍首相に「賞味期限切れ」のラベルを貼ったのだから、赤城氏は、農水相として、一つはそれらしい仕事をしたことになる。

(注:このエントリーの投稿後に、筆者(山崎)は、赤城大臣の辞職のニュースを知りました。時間的には、彼の辞職の方が、先です。但し、上記の読売の記事は朝刊掲載されたものであり、「安倍首相のおかしさ」に関する論旨は、大筋変更の必要はないと思います)
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朝青龍への適切な処分は?

 横綱朝青龍が、腰と肘の故障などの理由で巡業を休みながら、モンゴルで元気にサッカーをしていた問題(VTRを見ると、ほれぼれするような運動神経です)について、どう処分したらいいのか、議論が百出している。
 横綱のこの種の不祥事については、休場中に野球観戦がばれて引退という例もあれば、同じく休場中にハワイでサーフィンをしていて厳重注意で済んだ(NHKの大相撲解説で北の富士がどう解説するか、注目だ!)という例もあり、ルールがキッチリ整備されていない。この点、マーケティングや危機管理(八百長報道への対応等)にも問題があり、組織として、ビジネスとしての、大相撲は、根本的に見直す必要があると思う。
 朝青龍に対する処分の考え方としては、(1)横綱の責任と品格を大いに且つ過去にも度々損なっており、今回こそは厳罰が必要だ、という厳罰論と、(2)出場停止にすると、現実的には相撲興行上マイナスになり拙い、という現実論との、折り合いがうまくついていないようだ(まだ、納得の出来る処分案を聞いていない)。
 巡業を休ませることがいいことなのかどうか、また、本場所はどうするのか、落とし所は難しい。
 私の処分案は、(1)「横綱降格」(2)本人・親方への罰金、(3)サイドビジネスの禁止、だ。朝青龍を大関に降格し、今後、毎場所終了後に、横綱審議委員会に諮問して、「心・技・体」が横綱にふさわしいと認められれば、再昇格する。彼の場合、横綱の条件である「心・技・体」の「心」に問題があることが、形として明らかになったのだから、降格に、問題はない。現在の彼には、横綱にふさわしい品格がないのだから、横綱の歴史的権威を保つには、これが一番だろう。
 同時に、横綱審議委員会のメンバーにも、彼を横綱に推挙した不明と、指導の不足の責任を取って、何らかの処分が必要だろう(少なくとも委員長辞任は必要)。どんな処分を下すにせよ、横綱審議委員会に問題がない、とは思えないので、この点は強調しておく。
 横綱から外れると、多額の懸賞が掛かる結びの一番の出場が減るので、収入も減少するだろうし(八百長の資金も減る)、もちろん、毎場所、格好が悪い。これまで横綱土俵を入りしていた男が、幕内力士と一緒にぞろぞろと土俵を囲んで、間の抜けた動作をして、また、ぞろぞろと退場するのだ。主たる処罰として適当だろう。
 二場所連続優勝と素行の改善といった、改善が見られた場合には、再び横綱にすればいい。実力で復帰するなら、何の問題もない。「綱取り」での興行的盛り上がりも期待できるだろう。彼がこれから、再び稽古に励み、横綱再獲得(未曾有の快挙でもある)への強いモチベーションを持つことにでもなると、通算40回くらい優勝するようになるかも知れないが、それも一興であろう。
 もちろん、本人と共に、親方への罰金、さらに、管理責任を取って北の湖理事長の減俸などの経済的な処分も必要だろう。
 但し、本場所への出場停止や廃業勧告など、朝青龍を土俵に上げないのは良くない。相撲は格闘技であり、強さが上位力士の権威の源なのだから、彼を土俵から遠ざけて、彼よりも弱い連中だけで相対的な競争を行うようなやり方は、相撲という競技の魅力と権威を損なう。
 尚、朝青龍は、あまりにも頻繁にモンゴルに帰っているが、これは、たぶん、サイドビジネスの為だろう。力士の現役時代は短いし、サイドビジネスを全て禁止するのは行きすぎだが、事業会社でも「本業に差し支えのある副業は禁止」というレベルの副業規制は当然であり、相撲協会も、力士のサイドビジネスに対しては、承認制が必要だろう。朝青龍は、自らの職責を果たす上で、サイドビジネスが障害になっているので、当面、認める必要はない。
 「大関・朝青龍」。いかがだろうか?
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