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人は所属組織が何割か?

 実は、先日の日銀人事のエントリーは、これから書く話の前置きなのだった。しかし、だらだら書いているうちに長くなったので切り離して独立させた。従って、以下が本題なのだが、そうたいした話ではない。

 さて、副総裁候補になった渡辺・元財務官・一橋大教授は、新聞報道的には、財務省出身だということで、「人物本位」には見て貰えなかったということになっているが、これは、ご本人にとってはどの程度不本意なことなのか。職場としては、日銀副総裁の方が給料は高そうだが、一橋大学の先生の方が自由だろう。どちらがいいかはご本人次第だが、どうなのか。

 渡辺氏が日銀副総裁の方を取りたいとしたら、「私は、もう財務省を離れて、一橋大の教授なのに、私を財務省出身者としてしか見ない世間はけしからぬ」と思うかも知れない。また、ご本人としては「財務省とは何の関係もなく、日銀に奉職する」と燃えていたかも知れない。これは表面的には納得できる話で、転職した民間人が以前に勤めていた会社の人として人物判断されると不本意だろうし、そもそも、所属組織を離れた個人として、どうして認めてくれないのか、という点が釈然としない。

 ごく卑近な例だが、私の場合も、直近2回の転職(明治生命→UHJ総研;UFJ総研→楽天証券)は、所属組織に制約されずに個人として発言できる立場を確保することが主な目的だった。ちなみに、UFJ総研は私の勤務当時、「時間の自由」があり、「発言の自由」も確保された、行動の制約が小さないい会社だったが、親銀行が事実上吸収合併されて実質的に三菱グループ入りした後にも「発言の自由」が確保されることに自信が持てなかったので、念のため、発言の自由が確保される別の会社に移ることにした。合併して出来た研究所が、その後どうなっているのかは分からない。

 通常の金融機関に勤務する場合、たとえば銀行に勤めながら、同時に経済評論家として活動することは、制約が大きくて困難だろう。銀行自体が行員の行動や発言を規制するし、世間もその個人の発言を勤務先の銀行の発信する意見としてしか聞かないだろう。

 発言者の「所属はどこか」という観点から話を解釈するという世間一般の傾向はなかなか修正しがたい。それを嘆いている私本人からして、その傾向から完全には自由でないという自覚がある。

 敢えて、その理由を考えると、世間は個人について得られている情報が限られているから、その個人の所属組織を知ることによって、なにがしか個人を判断し、且つ安心しようとするのだろう。実際、人がどこの誰か分からない状態は相手に緊張を強いるから、所属組織を早めに明らかにすることは、社交場のマナーの一つでもある。

 自己紹介する場合に、(A)「東京都新宿区在住の49歳、山崎元です」と言ってもあまり安心してくれないから、(B)「楽天証券の山崎元です」とか(C)「経済評論家みたいなことをやっていますが、サラリーマンとしては楽天証券に勤めています」などと自己紹介しなければならない。本来は、銀行員だろうと、公務員だろうと、個人の名前で(もちろん実名で)かつ(A)のような一個人の立場で意見を発表する権利を持ち、世間がそれを受入なければいけないと思うのだが、世間の人々の、情報処理の節約欲求と、会社・官庁などの組織が社員・公務員などの行動を制約して管理したいとする欲求、それに、(組織人である)自分が不自由なのだから(同様に組織人である)他人も不自由であって欲しいという嫉妬心のたぶん三つの心理が働いて、上手く行っていない。

 私の場合、かつてUFJ総研に所属していたり、今、楽天証券にも勤務していることによって大きな不便を被ったことは多くはないが、それでも、自分のコメントがUFJグループのものであると解釈されて一揉めしたことがあるし、楽天の関係者という理由でテレビの関係の方から警戒されたりしたことがある。人と会って挨拶する際には、楽天証券の名刺を使うことが多いのだが(メールアドレスはプライベートなアドレスにしている)、相手が楽天のことを話し始めたりして話が噛み合わない場合もあり、「経済評論家」(←特に好きな名乗り方ではないが便宜上)という肩書きで、自分の会社の住所と所属事務所の連絡先を書いた名刺を作らなければならないなあ、と思っているところだ(ネットの名刺製作サービスではテンプレートが上手く対応したものが見つからない。探し方が下手なのだろうか)。

 もとの話題に戻って、渡辺氏の場合だが、世間常識的には(私は財務省人事の実態を詳しく知っているわけではない)、元の所属組織である財務省が職の世話をしてくれているのだろうから、実質的に財務省の人だと思われるのは仕方がないだろう。先に総裁候補だった武藤氏よりも年次が下だから副総裁候補といった具合に、財務省の人事秩序に従った動きになっていた点も含めて、受ける印象は財務省のタマだ。こうした事情は、メイン融資先を多数持っている銀行など(都銀と信託銀行ではこの点で大差が付くようだ)、民間会社でもOBの就職先を持っていて再就職の面倒を見ている会社の社員にもあてはまるし、そうした社員の多くは、自分が○○銀行出身であるとか、××商事出身だとか、出身であると同時に実質的な所属先である組織の名前を早く名乗りたがる(渡辺氏がそういう方なのかどうかは存じ上げない)。

 「人は見かけが9割」という上手なタイトルの本があったが、公務員の場合「人は所属組織が8割」といった感じだろうか(あとは、「年次」が15%?)。銀行員の場合なら、それぞれ5%減というくらいだろうか。

 人を所属組織で判断するのはある程度は仕方がないし、人の側が、組織を利用するのもやむを得ないが、先に述べたように、個人が、組織人とは異なる「純粋に個人の立場」で発言できるような社会ではあって欲しいものだと思う。個人が真に個人の立場を持てる社会の方が、ずっと面白い社会になるだろう。
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「手帳系」人生論へのひそかな違和感

 あるビジネス雑誌の編集者と話している時に、「手帳系」と名付けた一連のビジネス人生論及びその論者たちがある。個々の論者に批判を向けたいわけではないので、「手帳系」の人名を挙げるのではなく、議論の共通点を拾うと、以下のような内容になる。

(1)人間は将来の夢(目標)を具体的に思い描くことが大事だ。
(2)本当に強く願えば夢は叶う(叶わないとすれば願い方が足りない)。
(3)夢の実現に向かって計画を立てよ。これを手帳に書いて、毎日眺めて、実行をチェックすると、夢は叶う。

 「手帳系」の本質は、長期的計画とその実行の有効性を語っているだけなので、それ自体が批判の対象になるようなものではない。しかし、幾つか素直に頷けない点がある。
 
 先ず、「手帳系」の有効性を語る話者が、メソッドの有効性を「事後的に」語っているのではないか、という胡散臭さだ。
 「起業して、上場を果たす」というくらいの、ある意味ではほどほどの目標を達成して、その後から自分の現状の望ましい点と手帳を関連づけているのではないか、という疑いが消えない。起業を成功させることは十分立派な目標だが、手帳に書いておくと目標が達成できるなら、もっと別の大きな目標(ノーベル賞でも、名人でも、世界チャンピオンでも)でもいいような気がするし、途中のプロセスも学校なり、会社なりが、「もっといいところを手帳に書いておけば良かったのに」というツッコミを入れたくなるような経歴を持つ手帳系論者もいる。
 
 また、某スポーツ選手の「あきらめなければ夢は叶う!」という台詞も同類だが、「夢は、願えば叶う」という命題は、夢が叶わなかった場合には、「願い方が不十分だったのだ」という前提条件の否定によって無傷で残せる。これは、ある種の自己啓発本が頼りとして使う論理なのだが、突き詰めると、意味のあることを言っていない。
 もちろん、多くの自己啓発本と同様に、「手帳系」の本や話も、それを見聞きしているその間だけ、ある種の能力改善の高揚感が得られれば、それで十分という「芸」ではあるのだが、仕組みがハッキリ見えすぎてしまうと、「芸」の域に達しない。本なら、途中で飽きてしまう。
 これは、「手帳系」の著者というよりは、これで商売になると企画を立てて、十分読むに堪えると判断して、底の割れた本を出版する編集者の側に責任があるのかも知れない。
 もっとも、ダイエットも、英会話も、ビジネスの成功も、めったなことでは上手く行かないがゆえに、ノウハウ本の需要が安定的に存在している。これは、読者の側のノウハウ本というものに対する学習効果の乏しさに問題があるのかも知れない。
 
 もう一つ、「手帳系」の人生論に覚える違和感は、人生は計画通りなのが楽しいものかという、計画というものの硬直性や、「遊び」の少なさに対する反感だ。これは、人の好きずきだし、計画というものは、度々大きく変更しても構わない筈のものだから、長期計画を立てることだけに問題を帰するのは可哀想かも知れない。
 しかし、仕事だけを考えるとしても、面白そうなビジネスをふと思いついて会社を変わることもあれば、暇つぶしにやった副業が本業になることもある。日々の単位で考えるとしても、毎日長期の目的のために決まった行動を取るのは立派かも知れないが、たまたま飲みに行って会った相手が面白くて、且つ役にも立った、というような出会いが人生の面白味でもある。
 運を頼んではいけないが、もっと、運や偶然を楽しんだり、更に一歩進めて生かしたりする余裕や遊び心があってもいいのではないか。

 「余裕が可能性を生む」のも確かだし、「長期の自己管理の積み重ねではじめて大きな仕事が出来る」というのも確かだから、余裕や遊びの効用と弊害の相克は、一般論としては決着を付けられない問題なのだろうが、人付き合いを考えると、前者にウェイトを置く人の方が付き合って楽しいのではないか。
 もちろん、やりたいことの内容によっては、「手帳系」の几帳面さに見習った計画と実行が役に立つ場合はあるだろう。特に能力に不足がある場合には有力な手段かも知れない。(私も、目標をこっそりと手帳に書いてみることにしようか)
 とはいえ、人生や日常の細部まで、手帳に書いた目的の僕にしてしまうのは、本人にとっても、近くにいる他人にとっても、些か窮屈ではなかろうか。

 先般、「type」という雑誌の「キャリアデザイン大賞」という賞(35歳以下で、素敵なキャリアの持ち主を顕彰する賞だ)の選考に関わったのだが、候補者の多くが、拘りを持たずに出会ったチャンスを生かしている感じがして、良かった。「手帳系」の成功者が醸し出すある種の独善の臭いとは対極的な、柔軟で生き生きとした精神が好もしかった。

(※せっかく個人名を出さずに書いたので、コメントを書き込まれる方も、なるべく一般論でお願いします)
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守屋前防衛省次官逮捕の報道で思ったこと

 さる11月28日、守屋前防衛省次官とその妻が逮捕された。検察のリークによるものという以外の可能性が思いつかないが、このスケジュールは既にメディア各社の知るところとなっていて、守屋邸周辺とその上空に多数の報道陣が押しかけた。
 金額にすると市井の公務員なら何回も懲戒免職になるような接待を受けた恥さらしなキャリア官僚であった守屋氏と、報道によると夫同様に武器商社に金品をたかった彼の妻に同情するつもりはないが、例えば、彼の家族(娘さんが居られるようだ)や近所の人々にとってこの事態はどうなのか。東京都新宿区内とされる彼の邸宅は同じく新宿区に住んでいる筆者の家からそう遠くないらしく、28日は、かなりの時間複数のヘリコプターが飛んでいた。空を見ていた人の話によると、複数のヘリが浮かんだ状態で長い時間ほぼ止まっていて(この状態の音は下界にあって非常にウルサイ)、ある時、一斉に同方向に向きを変えて飛び去っていった。守屋氏の乗ったタクシーを追ったのだろう。音だけでも近隣住民にとって相当な迷惑だ。もっとも、保育園からの報告によると、うちの息子は、長時間ヘリコプターを眺めることが出来て満足だったようだ。
 この日の午後に売られていた「日刊ゲンダイ」によると、守屋氏の娘さんらしき女性が、
(a)守屋氏の証人喚問を伝える参院事務局の男性二人と家の前に群がる報道陣に向かって塀の上から勢いよく水をかけ、
(b)その2時間ほど前には、報道陣の前にマスク着用で現れて、デジカメで報道陣の写真を撮りながら「お父さんもこうやって撮られているんですよね!」と言ったという。

 こうした状況について、どう考えたらいいのだろうか。私は以下のように思う。
(1)守屋夫妻逮捕は完全に妥当であり、証拠隠滅の可能性を考えると、むしろ遅きに失したくらいだ。
(2)重要人物の逮捕のシーン、或いは今回の逮捕されるであろう地検に向かうシーンは取材する価値はあろうが、犯罪に無関係な家族や近隣の住民に多大な迷惑を掛けてまでリアルタイムで報道する価値はないと思う。被疑者が逃亡でもするとか、籠城して逮捕に抵抗するというのでもなければ、検察にリークして貰った予定通りに逮捕される様子(たとえば表情)には、大衆の興味に基づく(私も興味は一応ある)視聴率的な商業価値はあるとしても、事件の本質に関わる情報がある可能性は極めて小さい。報道としては、防衛利権に関する調査内容を分かりやすく伝える事などの方が余程価値が高い。
(3)守屋氏の娘さんと覚しき女性の「放水」は厳密には行きすぎであり、訴えられる可能性も無しとしないが、報道陣から彼女が受けている苦痛を思うと、世間常識的には大目に見られる範囲ではないか。これを訴える奴がいるとすると、そいつは「大人」ではない。(4)報道陣の取材振り、特に行儀の悪い逸脱行為(たとえば私有地への違法な侵入とか)は、実名と顔写真入りで大いに報じる価値がある。一般に、メディアの報道上の逸脱行為に関しては、メディアによるチェックが殆ど働いていない。たとえば、新聞社社員のインサイダー取引のようなケースでも個人名はなかなか報道されなかった。お互いが個人的に不利になるような相手の報道はしないという不文律でもあるのだろうか。しかし、メディアの個人に関する実名報道の基準は公人と同等でいいのではないだろうか。
 既存のメディアがお互いに実名報道を辞さない形では相互チェックをしないわけであるから、記者の迷惑行為などは市民がどんどん写真に撮ってネットにUPして、分かれば社名と氏名を実名で告発すべきだろう(そんなページは既に存在するのかも知れないが)。個人単位では取材する側の事情にも大いに同情の余地があるが、大勢の取材陣は近隣の住民にとって相当に迷惑だし、道路を塞いだり、私有地に入り込んだり、ゴミをばらまいたりすることがないではない。これらを報道だから大目に見るべきだと考える理由はない。
 堀江元ライブドア社長や今回の守屋氏(一応退官している)といった民間人を一応まだ被疑者の段階で、テレビなら動画で撮って配信するわけだから、撮る側の人間が顔も名前も隠して保護されたいというのではバランスが取れない。カメラマンなどは顔がばれると仕事がしにくくなるといったことがあるかも知れないが、彼ら自身のやろうとしていることを考えると仕方あるまい。確か、政治家や業務中の公務員には肖像権がない(誰が写真を撮って公開してもいい)筈だが、取材活動中のメディア関係者にも同様の考え方を適用すべきではないだろうか。新聞社などは、時には「社会の公器」を名乗るわけだから(さすがに、自分では滅多にそう言わないが)、それでいいのではなかろうか。
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大関琴光喜の「不思議な強さ」

 大相撲九州場所は、幕の内最高優勝が横綱白鵬の12勝3敗というまるで十両の優勝争いのような低調な場所だった。怪我はやむを得ないが、千代大海が休場で白鵬の優勝が決まったというのも興を削いだ。私は、夜中の大相撲番組を録画して見ていたが、館内には空席が目立っていた。興行的にも失敗だったのではないか。
 こんな場所にも見所はある。目を惹いたのは、大関琴光喜だった。簡単に言えば、14日目の魁皇戦と千秋楽の白鵬戦では全く別人だったのだ。
 琴光喜は、そもそも強い相撲取りだと思う。関脇時代から、二場所に一場所しか活躍しない大関たちよりも強い相撲を取っていたし、負け越しが少ない。実質的には、ずっと朝青龍、白鵬に次ぐ三番手だった。型は右四つで、右の脇が固く、朝青龍よりも一回り大きい程度の体で前に出る圧力が強い。白鵬戦で見せた左の巻き替えが出来る器用さもある。立ち合いは変化が少ない正攻法だ。対戦相手との力関係から見て変化の必要がないのだろう。
 千秋楽の白鵬戦は、得意の右四つに組止めて左上手を取り、終始圧力を掛けて、さらに左を巻き替えて寄って出て、白鵬が残すところを右の下手投げで一回転させる完勝だった。
 ところが、14日目の魁皇戦は違う。魁皇と琴光喜は左と右の喧嘩四つだが、立ち合い、なぜか右の脇を空けて右の上手を「触りに」行く。もともと喧嘩四つでも魁皇よりも琴光喜の方が脇が固い。対戦成績も琴光喜がかなり優勢だ。琴光喜としては、始めから左四つに組む必要はない。相手の四つに組む場合、たとえば、先に上手を引くとか、なるべく前褌を取るといった作戦はあり得るだろうが、取り組みをコマ送りで再生しても、右手で相手の回しを積極的に掴みに行っている形跡はない。その後は魁皇の一方的な相撲で、琴光喜は土俵に這った。最後も、首を巻かない首投げのような格好で、前に落ちた。
 魁皇は、14日目7勝6敗だったが、通常通り千代大海が出場するなら、翌日の千代大海戦では、千代大海の優勝がかかっていた。誰が見ても、勝ち越してカド番脱出をするなら、14日目が大事だった。
 魁皇が星を買うことを申し出たのか、それとも9勝4敗と気楽な星の琴光喜が一方的に「手心」を加えたのか。それとも「何もなかった」のか。真実は当人達にしか分からないのだが、「週刊現代」に、「宮城野テープ」による白鵬・朝青龍の八百長相撲の証言を出されて以来相撲協会は「八百長はなかった」という論陣を張っていないので、取り組みの内容によっては、どうしても八百長の疑いが晴れない。
 実際に八百長があるかどうかももちろん大切だが、「ファンから見て八百長の可能性があるように見えるか」がビジネスとしての相撲協会としては重要だ。
 尚、実力者・琴光喜は、朝青龍に27連敗している。琴光喜の得意の右手が左利きの朝青龍の左に封じられやすいという取り口の相性の悪さはあるだろうが、彼ほどの実力者が27連敗は負けすぎだろう(ちなみに白鵬も右側を攻められると弱いようだ)。朝青龍には勝ちにくいという相性を意識して、しかも地位の保全にはそれほど苦労のなかった実力者・琴光喜が、朝青龍に星を売ったという可能性も否定しがたい。
 以上の推測は、実際に八百長がない場合、当事者・関係者及びファンに対して失礼な話だと思うが、日本相撲協会が八百長問題について明確な対応をしないのが悪いのだ、という意味で、敢えて言っておきたい。
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上司の暴言による自殺の事例に思うこと

 日研化学の社員が、「給料泥棒」、「目障りだから消えてくれ」といった数重なる上司の暴言の後に自殺したケースについて、東京地裁は自殺を労災と認める判決を下した。

 何はともあれ、自殺に至ったことは、ご本人とご遺族に対してお気の毒と申し上げたい。自殺の原因の全てが分かるわけではないのだが、自殺することは普通ではない。特に、ご家族の苦しみは、想像するに余りある。

 さて、このケースで一番印象的なのは「給料泥棒」という台詞だ。正直なところ、私は、この言葉を何度か使ったことがある。部下や同僚にではなく、上司に、それも直接本人にに言っているはずだが、当時は(十年以上前だ)、まあ、強くはあるけれども、普通の表現だと思って使っていた。

 「給料泥棒!」と言うにも、気を遣わなければならない世の中なのかと思うと、窮屈な感じもするのだが、かつて、私があまりに無神経だったのかも知れないし、ともかく、どんな言葉でも、相手の様子を見て言うか言わないかを考えなければいけないのだということなのだろう。相手を追いつめる暴言が、場合によっては、手足を使った暴力以上に相手を傷つけることになる、ということは、良く分かる。言葉だけなら、許されるというものではない。

 ただ、近年、私は「給料泥棒」という言葉を、少なくとも誰かを非難する上で、直接使うことは無い。世の中を良く見ると、給料泥棒がそれほど悪いことだは思わなくなったからだ。

 給料泥棒とは、どのくらい盗むと泥棒なのだろうか。たとえば、年収500万円の社員が、400万円しか粗利を稼がなければ、泥棒なのだろうか。仮に、1000万円稼いだとすれば、それは、会社が「労働泥棒」を働いたことにならないのか。これらは、たぶん、どちらも「泥棒」呼ばわりするには不適当なのだろうと思う。どちらも、合意の上の契約の後に生じた事態だし、仕方がないではないか。

 ここで思うのは、社員は会社のために、貰っているもの以上に貢献しなければ「恥」だとする、会社への過剰な従属意識の弊害だ。会社は(正確には会社の誰か個人が、だが)、たかだか自分の都合と判断で人を雇っただけで、それが功を奏するか否かは、会社の問題だ。会社に多く貢いでいる社員が居てもいいし、逆に会社を喰い物にしている社員が居ても、それは普通のことではないだろうか。
 
 もちろん、同じ会社で働きの悪い社員に対して、同じ会社の別の社員が不利益を被ることはある。しかし、これは、不満なら、会社がその社員に対して減俸や解雇も含む条件の変更を行おうとすればいいことで、たかだか仕事のパフォーマンスが悪いことをもって、「泥棒」といった倫理的・人格的な非難が出来ると思うのは、会社に過剰に飼い慣らされた会社員たちの思い違いだろう。

 「会社なんて、べつに、偉いものではない」ということや、仕事だけが人間の価値ではないということを、皆で大らかに認める方が、多くの人が、健康的に、気分良く暮らすことにつながるのではなかろうか。

 「たかが会社のことだし・・・」と誰でも言えるような社会がいい。
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女流棋士の将棋の商品価値

 友人が紹介してくれた若手棋士が女流棋戦の設立記念パーティーに招待してくれた(マイナビ女子オープン前夜祭。19日、金曜日、ホテル・グランパシフィック・メリディアン)。大学時代に将棋部でもあり、将棋は長らく大切な趣味の一つなのだが、私は、この種の将棋関係の催しに出掛けたことがなかった。せっかくの機会だから、女流の将棋の商品価値について考えてみたい。
 将棋の商品価値はどの程度「強さ」と関係しているのだろうか。スポーツでもゲームでも、勝負事を商品にするためには、普通の素人が達成できないレベルで競技をするのでなければならない。
 この点で参考になるのは女子ゴルフだろう。私はゴルフに詳しくないが、女子プロゴルファーのレベルは男子のプロよりも弱いのだろうが、アマチュア男子のトップ層くらい(以上?)のレベルにはあるのだろう。ここで興味深いことに、どうもメディア的には女子プロのゴルフの方が、男子プロのゴルフよりも人気がある、つまり、商品価値がある。男子ゴルフは、世界レベルと較べるとタイガーと猫ほどの埋めがたい差があるようだし、画面的にもきれいでないし(真剣味はちきどき伝わってくるが、何だかむさ苦しい)、物語性の魅力が上手く演出できているようでもなさそうだ。
 他方、女子のゴルフは、テレビ画面に映っていると、つい見てしまうし、その時に気に入った誰かを応援してしまう。そして、近年、女子プロゴルファーは容姿のレベルが顕著に上がってきた。
 テレビの歌番組が多かった頃は、歌手は方々の番組で約3分間アップの映像が映って人々の印象に刻み込まれたが、最近は、アップの映像放映時間が長いのは、もっぱらスポーツ選手だ。現実的には、競技の能力と容姿やキャラクターが綜合されてプロ・スポーツ選手の商品価値が出来ている。容姿に自信があってゴルフも上手い女性の女子プロゴルフ進出は今後も続くだろう。
 一方、将棋の見せる競技としての性格はどのようなものだろうか。
 これは、ある程度将棋を知っている人(アマ5級ぐらいから上)が見るなら、雰囲気は格闘技に近い。基本的に、勝ち負けはKOだ。格闘技だとすると、これまた、現在、結構な人気を持っている。「頭脳のK1」のような感じで、スリリングに見せることが出来れば、人気を博するのではないだろうか。
 たとえば、10月14日に放映された羽生二冠対中川八七段の対局は、何ともスリリングで残酷な逆転KO的な決着であった。あのような勝負を、もっとドラマチックに見せることが出来れば、将棋の人気は現在よりももっと拡大できるのではなかろうか。女流の将棋も十分スリリングなはずだ。男性プロよりもやや棋力が落ちる分、大逆転は多いはずだ。
 女流の将棋に限らないが、テレビの将棋は、見せ方があまりに素朴すぎる。テンポが余りに緩いし、聞き手も、解説者も、余程はっきりした状況以外は、殆ど当たり障りのないことを言うので、見ている方は先の手を自分で読まないとワクワクできない。
 もちろん、上級者向けに、ある程度の持ち時間のある将棋をじっくり見せることは必要だろうが、テレビの将棋は、多少レベルが落ちても、たとえば、一〇秒将棋(一手を一〇秒以内に指す)で先に二勝した方が勝ちといったテンポが必要かも知れない。また、聞き手には実況中継のアナウンサー的な(古舘一郎さんを知的にしたような感じが理想)ノリの良さと思い切りが必要だし、解説者もテレビ向けの喋りができる人を使うべきだろう。もちろん、対局者には息づかいまで拾えるようなマイクを着ける。
 また、解説は人間だけでなくとも良い。パソコンの将棋ソフトが次の一手として何を推奨しているか、さらには、終盤に詰みを見つけたかどうか、といった情報も、画面を切り替えながら見せると面白い。
 もう一つ、将棋には、駒落ちというハンディキャップの付け方があり、これが使えそうだ。たとえば、一〇秒将棋で一定の時間内に、相手をどこまで指し込むか、といった戦いを見せるとスリリングであるだろう。指し込んだレベルに応じて、得点が変わるような仕組みでもいいだろう。同格のプロが駒落ちで負けることはかなり屈辱的だが、起こりえないことではない。また、女子プロと男子プロ、あるいはプロとアマチュアといった対決が可能になるので、アマチュアの中からハニカミ王子的なスターが出るかも知れないし、女子プロが男子プロを駒落ちで負かすようなことが起こると(確率的には十分起こりうると思う)話題にもなるだろう。カラダを張った格闘技ではないので、アマチュアもプロと戦うことが出来るし、いろいろなレベルの人間同士を戦わせることで、プロの本当の強さを誰にでも分かるように見せることが出来る。
 私はここ数年の将棋界事情に疎いが(戦型的には、横歩取らせ8五飛戦法、ごきげん中飛車の辺りからサッパリ分からない)、女流プロのトップ層は、ときたま男子に勝てる程度にレベルアップしており、アマチュアの並みの県代表クラスではなかなか勝てないレベルだろうと思われる。もちろん、短時間の雑な将棋ばかりを見せるのではない方がいいが、見せ方を考えると、女流の将棋は、なかなか魅力的な商品になる可能性があるのではなかろうか。
 尚、見せ方・売り方が問題なのは、女流の将棋に限らない。男性プロの将棋も、カリスマ性のある羽生善治二冠の力とやる気が衰えないうちに、商品としてもっと魅力のあるものにしていかないと、将棋界は経済的にも苦しくなるのではないだろうか。
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女性の会社選びの考え方

 11月発売を目指している幻冬舎新書「会社は2年で辞めてもいい!」(仮タイトル)の原稿を先週末に編集者に送り、ゲラが出来る週末まで、執行猶予のような余裕のある気分で居たところ、「女性のキャリアプランについて少々加筆した方がいいと思います」と言われて、新書で16ページほど追加で原稿を書いた。男女差を意識して書いたわけではないのだが、他の章は、男の若者に説いて聞かせるような調子の内容と文章なので、女性向けの考え方を別項目を立てて書いて置いた方がいいと判断した。
 女性の場合に、どうしても出産の前後に仕事を離れたり、仕事に専念できない時期が出来たりするので、この点の仕事上のマイナスをどうやって小さくコントロールするかという問題がポイントになる。以下は、その加筆原稿の一部だ。現実問題として、女性のどの点が不利なのかを説明した後に続く、女性の会社の選び方の項目だ。

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 女性が会社を選ぶ際のポイントとしては、特に、出産・育児関係の制度を会社がどう設計しているかをチェックするといい。出産・育児の休暇をどのくらいの期間取ることができるか、経済的条件はどうか、たとえば復職後に時間短縮勤務のような選択肢があるか、さらに出産・育児の休暇を終えた女性がどのように扱われているか、具体例を聞き、またできれば、実際に休暇から復帰した女性社員に会って話を聞いてみるといい。
 職場に先例があるのと無いのとでは大違いだ。実例がない場合や歴史が浅い場合、制度に不備があるケースも少なくない。たとえば、時間短縮勤務が可能な年限が短い場合、保育園に子供を預けてフルタイムで働くことが現実的でない、といった事例がある。すべての職場で女性が不利を感じないで子供を生むことが出来るように、先例を作って欲しいという期待はあるが、就職ガイドとしては、先例のある職場の方がずっと楽だと書いておく。
 尚、出産に際して、絶対に自分から会社を辞めてはならない。いったん正社員を離れると、正社員で復職することが非常に難しい。「ウチの会社では、長く休むのは難しい」などと言って、上司は辞表を書かせようとするかも知れないが、それは、会社の方が悪いのだから、自分からは辞めないことだ。会社側から解雇して貰えば、失業保険も早く貰えるし、退職金も多い筈だ。何とか自己都合退職に持ち込みたい上司や人事部は「解雇は経歴の傷になるよ」というような嘘をつくかも知れないが、そんなことはない。そんな解雇で「傷」が残るのはむしろ会社の方だ。会社を教育するつもりで、また、後に続く女性達のためにも、妥協せずに頑張って欲しい。
 特に総合職を目指す場合は、既にある程度女性の総合職が働いている会社の方が気が楽なはずだ。何割くらいいるといいのか、根拠を持った基準を提示することは難しいが、敢えて断定すると「二割」が一つの目処だ。中途採用者について筆者が感じたことでもあるが、特定のカテゴリーの仲間が集団内で二割(感覚的にはもう少し小さい数字なのだが)を超えると、たとえ少数派ではあっても、自分を異端とは意識せずに済むようになる。随分、気持ちが楽になる。
 人事・報酬の制度については、基本的に「短期勝負」で「成果主義的」な会社の方が、女性の損は小さい筈だ。過去の評価の累積で徐々に将来の差が拡がって、後年の地位や年収、さらには年金で差が付くというような会社の場合、出産の度に一年程度仕事から離れることが、将来に亘って不利として影響する可能性が大きい。
 成果を上げたときに、直ぐにその貢献に対する報酬を貰うことが出来る仕組みの方が、先の計算が立たない女性の立場としては、「取りっぱぐれ」がなくていい。また、実績に対してストレートに報酬が払われる仕組みの方が、上司の主観的な評価のウェイトが大きい仕組みよりも、女性社員には有利だろう。男性社員の方が長く使える氏使いやすいという意識を上司が持つ場合が多いし、この場合、優秀で上司が気に入った男性社員がいた場合にはどうしてもその男性社員には高い点が付きがちだ。
 このように考えると、個々のケースをよく調べる必要はあるが、外資系の会社の方が女性の不利は小さい場合が多いのではなかろうか。出産に関する社内制度のサポートなどは、本国の制度をそのまま日本法人でも適用している場合があって、日系の大企業ではとても得られないような好条件を持っている会社もあるので、よく調べてみよう。女性の活躍は、どちらかというと、外資系の会社で目に付くような印象があるが、外資系の会社が、優秀な女性を採用しやすい条件を備えていることの効果が大きいのだろう。
 但し、外資系の会社の日本法人ないしは支社は、会社によって本当に大きな差がある。商品や社名は世界的なブランド企業であっても、日本法人の運営は、ワンマン社長の中小企業以下という場合がある。著者が聞いたことがある例でも、女性社員が、総務部長のセクシュアルハラスメントを人事部に訴えたところ、検討の結果、その女性のあら探しをして、女性の方を解雇に持っていったという酷いケースがある。女性は部全体が時間にルーズな営業部署に属していたのだが、課長三人が交代で、の女性の出社時間や昼休みの時間をこっそり記録して、データが一ヶ月溜まったところで、勤務態度不良で解雇を通告したのだという。著者は、その女性の時間記録をこっそり付けていた当時の課長の一人から話を聞いた。
 また、出産などで仕事の現場を離れる時期が出来る可能性が大きいということや夫の勤務地などの都合で転職するかも知れないという事情を考えると、女性の場合、仕事の経験が特定の会社の中だけで生きるような職種ではなく、他の会社でも通用する一般性を持った、何らかの専門職を狙う方が得な場合が多いだろう。たとえば、法律関係の資格を持って、コンプライアンス(法令遵守)の専門家を目指すというようなイメージだ。
 尚、ついでに書いておくが、独身でまだ生活状況が流動的な時にマンションを買わないように、強く注意したい。ローンの負担は重いし、転売するのも大変で、多くの場合損が大きい。また、二十年、三十年後の資産価値はごく僅かだ。ローンの存在とマンションの物理的制約両方に人生選択を制約されてしまう。
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 その他、なるべく若いうちに(28歳までに)自分の職を決めて、35歳くらいまでに人材価値を完成させるという基本戦略には、男女のちがいはないのだが、女性の場合、コース選択を前倒しする方がいいかも知れなしし、機会費用を考えると、なるべく早くに(たとえば20代半ばで)子供を生んでおくのが得ではないか、というような話を書いた。
 もちろん、私自身は女ではないし、女性の事情に詳しいわけではないから、編集者(キビシイ女性である)が読んでみて、「山崎先生、これ、ボツです!」とダメ出しするかも知れない。その場合には、本に載らないので悪しからず。
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さよなら北の湖

 横綱北の湖は、本当にいい相撲取りだった。現役時代の彼は、背中が反り気味になることと、相対的に手が短いので、まわしを取るのがそう速くないし、時に上手を切られる欠点があったが、これらを補って余りある、寄りの力と相撲の速さを持った取り口で、相撲の王道を行く、最強の横綱の一人だった。特に、外国人力士のはしりで圧倒的な体格と当たりの破壊力を持った高見山の立ち会いを、まともに受けて、組止めて、寄り切り、あるいは、投げ捨てる相撲には、横綱の責任感と相撲界最高峰の力が表現されていた。
 キャラクター的にはヒール(悪役・憎まれ役)であったが、私は、当時、北の湖の素質に窮屈さが無い、文句のない強さが、好きで応援していた。
 彼は、北海道の有珠山の麓の出身であった。人格的なエピソードは、そう多くは伝わっていないが、負けず嫌いで気が強いのは当然としても、単純で素朴な人柄だと思っていた。彼が乗っていた車がスピード違反でつかまった時に、ぺこぺこ頭を下げて、「わたしたちは、相撲以外に何も分からない、デブなので、ひとつよろしく・・・」とへりくだって、警察官に許して貰ったことがあるというエピソードを、週刊誌で読んだ記憶(定かではないが)がある。憎めないデブだ。
 また、外国人力士について、「相撲界に入ったら、日本人と一緒であり、区別するつもりは一切無い」と言い切ったことがあったが、この見識も立派だと思った。「日本人が勝たないと、面白くない」と大っぴらに言うような、社会人失格の人物ではない。
 総じて、その人となり自体は、そう悪くないのだろうと、期待感もあって、今までそう思ってきた。

 しかし、日本相撲協会理事長としての北の湖の仕事ぶりは、ここのところ、あまり
に酷い。
 先ず、朝青龍問題だが、この問題をこれほど大きなものにし、その後も迷走を続けていることの大半の責任は北の湖にあると思う。経過を見ると、朝青龍の始末を丸投げされた高砂親方が、朝青龍を十分にコントロールできなかったことが事態を混迷させたが、理事長、即ち、相撲協会のトップである北の湖は、部下に事態の収集能力がないと見たら、直ちに、自分が動くべきであった。
 実際、北の湖が朝青龍を呼びつけて、話を聞いた後に、その場で記者会見をさせたなら、問題は、ここまで大きくならなかっただろう。朝青龍が、横綱になったことがない高砂親方をなめているのは感心しないが、であればこそ、先輩横綱であると同時に組織のトップである北の湖が彼を一喝すべきだった。
 また、横綱審議委員会の批判は、もっぱら朝青龍に向いているが、先輩横綱であり、強い指導力を見せ、横綱の権威を守るべき北の湖に批判が向かないのは、彼らの目が節穴だとしかいいようがない。横審は、なぜ北の湖に理事長辞任を勧告しないのか(せめて批判し、指導しないのか)。彼らは、本質を見ず、あるいは指摘せず、「横審委員」という居心地の良い名誉職を外されたくないというだけの、卑しい連中ばかりなのだろう(顔つきの事までは、今日は、言うまい)。こと、「横綱の権威」に関しては、北の湖の方が、朝青龍よりも、遙かに罪が重いとのではないか。
 相撲評論家の杉山清氏に対して行使した不当な圧力も酷い。TV番組内で北の湖への批判に「頷いた」ことが、協会(北の湖?)批判であるとされて、取材証を取り上げられた問題だが、メディアに対する対応として、これは酷すぎる。もっとも、この件も、次に述べる八百長問題でもそうだが、相撲を取材するメディアは、取材源である協会・相撲界に対して癒着の度が過ぎる。NHKをはじめとするメディアが余りにも相撲協会を甘やかしてきたことが、問題の背景にはあるだろう。
 「週刊現代」が報じた八百長問題に対しても、正しい対応が出来ていない。協会が使っている、弁護士も不出来なのだろうが、八百長報道記事に対して、再々訴訟を起こしながら、「証拠」とされる、宮城野親方のテープがでた以降、協会と弁護士は、沈黙してしまう。報道内容、テープ、及び、相撲の取り口から判断して、私は、八百長はあったと推測するが、あったのか、なかったのか、をはっきりさせて、事実があった場合、適切な処分を行うことが、協会としては必要であった。証拠を突きつけられての沈黙は、相撲の権威にとって最悪だ。
 ちなみに、八百長報道の取材源である宮城野親方は、北の湖の弟子筋に当たる人物だ。宮城野親方が病気(胸の痛み)で入院というニュースを見て、故高鉄山のように、帰らぬ人となるのではないかと心配したが、生きて退院されたようで、何よりだった。
 そして、今回の、時津風部屋の若手力士リンチ死事件だ。ここでも愚図な北の湖は、警察に任せるというが、本来、組織の長としては、時津風親方を呼びつけて事情を聴取し、自らの手での事態の説明と早急な処分を行う必要がある。警察でシロなら、本当はクロでもいいというのか。シロかクロか、一番先に知って、対応しようとすることが、組織としては当然だろう。
 朝青龍の問題を見てもそう思うが、北の湖は、大きな問題が起こると、自分で意思決定できずに、問題の処理を、他者に任せて、先延ばしする傾向があるようだ。彼に、相撲協会の理事長職は無理だ。組織のトップとしては、ダメなトップの一典型として、分かりやすい反面教師であるといっていいだろう。世の社長さん達は、どこがダメなのか、よく見ておくべきだ。

 北の湖は、複数の不始末の責任を取って、一日も早く、理事長を辞任すべきだろう。親方を廃業せよとまでは、言わない。彼は、横綱の権威を再興するような強い弟子を育てることで、名誉回復のチャンスを持っても良いだろう。
 一方、財団法人日本相撲協会は、公益法人として設立されており、文部科学省の管轄下のはずだ。協会自体に自浄能力がないとすると、文科省が指導・介入すべき時期かも知れない。
 加えて、横綱審議委員会は廃止、ないしは、メンバーの総入れ替えを行うべきだろうし、相撲協会の実質的に最大のタニマチであるNHKの責任も重いのではなかろうか。
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『副業』に賛成ですか、反対ですか?

 株式投資の本が、やっと手を離れたので、主に、若者向けに、キャリア・プランと転職について語る本の執筆に掛かっている(単行本を続けて書くのは、草臥れるような気がするが、たぶん、慣れの問題なのだろう)。若者向けの、仕事の話で、副業の勧める必要があるかとも思ったが、この本の原稿の中で、副業について書いてみた。
 私は、副業に賛成で、社会もこれをもっと後押しすべきだ(少なくとも、邪魔をすべきでない)という立場だが、そうは思われない方もおられるだろう。
 以下は、その本の原稿からの抜粋だ。

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 これから就職しようとする人や、就職して間がない若い人は、まだ考える余裕がないかも知れないが、副業について考えておきたい。
 会社に勤務する場合、これを本業と考えるとして、副業は、それ以外に収入源になる活動全般を指す。著者は、一般論として、会社員が副業を持つか、あるいは将来副業を持つために備えることに賛成だ。
 一般に、会社は、社員が副業を持つことを嫌う傾向がある。会社の規定で、原則として、副業を禁ずるとしている会社も多い。一つには、副業を持つと、社員が本業に十分集中しなくなる心配がある、ということだろうし、もう一つには、別の収入源を持った社員は、会社に対する依存度合いが低下するので、使いにくいということがあるかも知れない。また、副業の有無による社員間の収入格差やこれに伴う嫉妬の問題を嫌う場合もある。
 別の場合として、本業での情報や取引関係、人間関係などを、社員が副業に流用して、本業での得べかりし利益が損なわれる、という心配もある。
 後者は、確かに問題であり、これを禁ずることを、社員に求めていいと思うが、一般論として、副業そのものは、肯定してもいいのではないだろうか。
 ある官庁の研究会で、著者が転職に関して、簡単な発表とディスカッションをしたことがあるが、副業禁止はけしからぬ、という著者の意見に対して、ある参加者(大学教授)からは、会社で禁止されていても、副業は出来るという判例があるので、社員が自分の判断で副業をすることは、構わないはずだ、という反論が出た。しかし、会社が規定上禁止している場合、社員としては、副業に手を出すことは、はばかられるだろうし、まして、会社と裁判で争って、その社員が幸せになれるとは、思えない。会社側に立証責任を持たせて、本業に明白な悪影響がない限り、社員の副業は原則自由とするということを、法規上明確に規定しておく方が良い、というのが、著者の意見だ。
 そもそも、会社には、社員の人生全体に対する責任を持つ能力がないし、また、そのような過大な責任を会社が持つ必要もない。それなら、社員が、自分の責任に於いて、自分の人生のリスクをカバーし、収入を補う手段を持つことは、社員の当然の権利であると同時に、会社にとっても、いいことではないだろうか。副業の禁止は、社員の生活への、会社の過剰な介入である。
 さて、あるべき論を脇に置くとして、現実の会社は、副業を許す場合から、完全に禁ずる場合まで、規定の適用の強弱を含めてさまざまだが、著者は、社員である読者が、何らかの副業を持ったり、将来副業を持つための準備に取りかかったりすることは、いいことだと思う。
 副業を持つことのメリットを挙げよう。先ず、現実に、副業を持っていることは、会社の倒産、会社からの解雇、会社からの収入の減少に対する、完全ではなくとも、有効なリスクヘッジになりうる。また、副収入を持っていると、会社に対する精神的な余裕が生まれ、これは、本来、対等であるはずの、会社と個人との関係を正しく保つ上で役に立つ。また、現実に収入を得ていなくても、会社以外のビジネスで稼ぐことが出来る何らかの準備を持っていると精神的な余裕になるし、これは、高齢になって、退職が近づいてくると、必要な準備になるのだが、退職の一、二年前から慌てて何かやろうとしても、十分な準備が出来るとは限らない。
 加えて、勤務先の会社とその肩書き以外の社会的な立場を持っていることは、社会との接触面を増やすし、本人にとって、自信にもなる。
 それに、サラリーマンが、独立したり、起業したりするとしても、いきなり本業を投げ打って、新しい世界に飛び込むのは、リスクが大きすぎる場合がある。副業として、徐々に仕事に慣れ、顧客が必要な仕事は、ある程度の顧客を確保してから、機を見て、独立に至る、といったプランが最適な場合も多い。
 作家の堺屋太一氏が経済企画庁長官時代の「経済白書」(平成一一年版)のまえがきに、「青少年もリスクのある自営や起業を避け、安全確実とみられる大組織への参加を選ぶようになっている」、「これからは自らリスクを冒して新しい経済活動を切り開いていく必要がある」と書かれていたことがあった。ご高説はもっともなのだが(「官僚に言われたくない!」とも思うが、リスクを取る活動は大事だ)、誰でも、いきなり大きなリスクを取るのが最適な戦略ではない場合がある。一方で会社に勤めながら、副業などの形で、徐々に自営や起業の形を作って行くことを、もっと広く推進してもいいのではなかろうか。
 デメリットもある。先ずは、副業を持つと、より忙しくなる。副業の内容にもよるが、より多く働くと、より多くの収入が得られる、という条件の下で、仕事を減らすのは抵抗感がある。下手をすると、仕事を抱え込みすぎて、生活に潤いが無くなったり、疲れが本業に影響したりすることがあるし、健康を損なう場合もある。会社勤め一本の場合でもそうだが、自己管理は大切だ。
 また、本業との関わりは、やはり、時に微妙になることがある。本業で、会社に帰属する情報やノウハウを副業に流用しないことは当然だが、副業の内容によっては、たとえば、新規に獲得できそうな顧客を、本業に回すか、副業の側に回すかが、微妙な場合がある。自分で獲得したビジネスで、顧客が、自分の副業と取引することを選ぶなら、本業に文句を言われる筋合いはない、ともいえるが、時間や情報の使い方などには、細心の注意が必要だ。本業と似た仕事をする場合や、コンサルティング的な仕事をする場合などに、仕事の整理が難しくなることがあろうし、副業を諦めざるを得ない場合も出てくるだろう。
 著者は、金融・証券関係の会社に勤めながら、一九八〇年代の終わり頃から、十年くらい、主に匿名で雑誌の原稿を書いたり、専門書(著者は、資産運用が専門である)を出版したりしていた。こうした収入は(雑所得である。年間二十万円以上の場合は、申告しなければならない)、徐々に増えて来たが、個人として、書いたり話したり、といったことをビジネス化するためには、やはり、実名で堂々と活動する必要があった。匿名の原稿は、たぶん、二〇〇本か三〇〇本くらい書いたと思うが、自分の実績とはならなかった。但し、雑誌などで、ある程度原稿を書いたことで、出版社に対して、ある程度の信用を形成する効果があり、専門書とはいえ、本を出版することが出来たので、全く後の役に立たなかった、という訳ではない。
 その後、一九九八年くらいから、実名の原稿書き仕事を増やし、二〇〇一年に当時の三和総研に転職するときに、三和総研での収入を低めに設定すると共に、副業の収入は自分の収入とする条件で入社して、徐々に勤務先の会社以外の仕事の比率を高めた。二年目くらいからは、会社以外の仕事の方が、収入が大きくなった。サラリーマンとして勤める会社以外の仕事は、書いたり・話したりといった著述業・評論家的な仕事とコンサルティングだが、仕事のウェイトは、その時々で変化している。サラリーマンとしての仕事は、当面辞めるつもりも、辞めなければならない必要性もないが、将来は(少なくとも会社の定年後は)、副業の方をその後の本業にするような形で、働き続けたいと思っている。
 著者は、現在、四九歳だから、定年後について考えるのに早過ぎるということはない。現在の生活コストを考えると、今後給付が削減される見通しでもあり、公的年金だけでは暮らせそうにないし、企業年金も不十分だ。そう考えると、資産の形で備えを持つか、将来も続けられる仕事の形で備えを持つかを考えなければならないわけだが、著者の副業は、後者の備えに対して、早めに手を打ったということでもあった。同時に、個人の立場で、いろいろなことを伝えたり、主張したりしたいという個人的な目的の実現にもつながっている。思うに、会社の仕事以外に、仕事を引き受けるわけだから、副業は、自分にとって、嫌いな仕事、張り合いのない仕事では辛い。
 若い読者にとっては、随分先の話をしたが、直ちに始めるわけではなくとも、何らかの「自分のビジネス」を、会社とは別に持てるように準備することは、強く勧めておきたい。外国語のスキルや何らかの業務知識の勉強に時間を割くのもいいし、開業のための市場調査もいいだろ。もちろん、実行に勝る勉強はない、という仕事も多いだろうから、たとえば、休日や、在宅で出来る仕事があれば、早速手を着けてみるのもいいだろう。
 大人(要は、年寄り)は、自分の経験を一般化して押しつけたがるし、若者の可能性に嫉妬して、「会社の仕事に集中しなければ、どちらも、ダメになるぞ」というようなことを言いたがるものだが、その程度の、意地悪(意識的でないこともあるから、始末に負えない)に、めげてはいけない。
 尚、株式投資などの、資産運用は、副業ではなくて、「副業以外に出来る資産形成への努力」である。資産と時間が稼ぐのであって、自分が稼ぐのではない。本業、副業の外の分類で考えて、取り組んで欲しい。暇がない、というほど「本当に」忙しい人など、普通のサラリーマンには、見たことがない。
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 読者のみなさまの、副業観や、定年後のライフプランなどを、気楽に語っていただけると、幸いだ。
 尚、「大人(要は、年寄り)」という表現は、自分も含めて言っている積もりでもあって、悪意は込めていない。若者に迎合している、と、山崎元商店の浅はかな営業戦略を敏感に嗅ぎ取る読者もおられようが、要は、現在書いている本が、そういう立場から書いてみようという本なので、ご容赦されたい。
 
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「ベーシック・インカム」を支持します

 「VOL」(以文社)という雑誌というか出版物の第二号に、「ベーシック・インカム」の特集が載っている。雨宮処凜女史の本を読んだからかもしれないが、神保町の本屋で、何となく目について、買ってきた。冒頭に対談が出ているのだが、山森亮さんという方の話が分かりやすく、大いに興味を持った。どうやら、フィリップ・ヴァン・パレイスという人が有名らしいので、ネットで、論文をダウンロードして、斜め読みしてみた。なかなか良さそうな考え方なので、ご紹介したい。
 なにせ、三日前にはじめて知った概念なので、紹介に間違いがあるかもしれないし、幾つかのバージョンがあるかも知れないのだが、気に入ったところを中心に、大雑把に、説明する。詳しくは、各種の原典、或いは、コメントとして入るかも知れない識者のご教示(宜しく、お願いします!)を参考にして欲しい。
 ベーシック・インカムとは、社会の構成員、全員に、個人単位で、暮らすに足る一定の収入(=ベーシック・インカム)を、定期的に現金で配るシステムを指す(正確には、配られる収入のことを指すのだろうが)。これを受け取る個人は、働いていても、いなくても、関係ない。いわゆる「ミーンズ・テスト」(生活保護受給する際などの収入、資産の審査)は一切不要で、個人が、無条件で現金を受け取る。働いて、収入を得ている場合、ベーシック・インカムの他に収入を得て、収入には、多分課税される(消費税、資産税、キャピタルゲイン税などを財源とすることも考えられるが)。
 従って、生活保護を受けられずに餓死したり、受けられたとしても、「どうして、お前は働けないのだ」とさんざん言われて、惨めな思いをするようなことはない。ベーシック・インカム分の収入は、権利として、堂々と受け取ればいい。もちろん、使い道は自由だ。
 そして、基本的な考え方として、各種の社会保障・社会福祉は、できるだけベーシック・インカムに集約し、それ以上に必要な人が利用する、保険、年金、各種のサービスなどは、民間に任せる(それでも何が残るかは、各種の議論がありそうだが、福祉的制度・行政の大半は無くせるだろうし、私が、ベーシック・インカムを支持する大きな理由もそこにある)。

 どこが特に気に入ったかというと、「個人単位」というところと、「働かなくてもいい」というところだ。今日の生き方の多様化を考えると、主として、世帯を単位とする現在の各種の税制や社会保障制度などは、婚姻の形態をはじめとして、個人の生活に不当に介入している。
 また、人には、働かない自由もあっていいだろう。少なくとも、働かなくても、生存できるくらいの収入が保証されていれば、クビが怖くないから、個々の労働者が、もっと自由な働き方ができるし、雇い主と、より対等に交渉できるだろう。
 「働かざる者、喰うべからず」とは、時に、暴力的で、危険なキャッチフレーズだ。仕事を上手く見つけられない人(摩擦的失業の場合でも失業期間はある)もいるだろうし、心身の状態によっては働けない人もいる。前者の人は焦って仕事を決めようとするだろうし(偽装請負の労働者でもいい、という気分になるだろう)、後者の人は、精神的に相当に辛いはずだ。世間の人々は、「働かないなら、死ね」とは、大っぴらには言わないのだが、生活保護を与えるか否かの判断を役人が持っている場合、「キミは、働けるはずだ」と役人に言われてしまうと、死んでしまいかねない(先般の、北九州市の悲劇のように)。

 ベーシック・インカムについては、(1)幾らにするか、(2)財政的に可能か、(3)働かない人にも払っていいのか、(4)対象範囲をどうするか(外国人は?、子供は?、等)といった大きな問題がある。
 (3)については、私の結論は「いい」だ。(4)は老若男女を問わず日本の居住者全部(外国籍の人も含む)でどうだろうか。(1)と(2)は、具体的に決定するには多少の算術が必要になるだろう。
 直観的には、(2)が許す範囲でということだが、(1)は、生存できる額の十分上であることが必要だが、現実的には、「貧困」のレベルの下になるのではなかろうか。可能なら貧困レベルの上であってもいい理屈だが、長期的には、さすがに労働のモチベーションと、人口の増えすぎが心配だ。
 全く暫定的な数字であり、これを「提案している」とは取って欲しくないが、例示のために具体的な数字を挙げると、たとえば、ベーシックインカムを一人年間100万円として、税は所得税だけだとして税率を40%のフラット・タックスとすると、年収(税込み)250万円が損得のブレーク・イーブン・ポイントになり、これは、年収250万円を課税ゼロとして、税率を40%とすると、実質的には「負の所得税」の仕組み(たとえばミルトン・フリードマン「資本主義と自由」参照)と同じだ(と、思う)。
 ただ、「負の所得税」という呼び名は、いかにも陰気だし、所得を申告し、精算して、幾らかを受け取る、という仕組みよりも、その前に、「一人分、○○○円は、あなたの権利です!」と気前よくくれる方が、思想としても正しいし、制度として明るいのではないか。
 数字は暫定的といいながら、金額にこだわるのは潔くないが、たとえば、上記のような制度だと、子供も平等に扱った場合、働き手の年収が250万円で4人家族なら、可処分所得は550万円になる。まあまあ、ではなかろうか。家庭の規模の経済効果を考えると、子だくさんが得かも知れない。
 負担率の40%は、これで、消費税を含めた税金も、年金も、込み、ということなら、私は、全く文句はない。今度こそ、愛国心が湧いてくるかも知れない。負担率がはっきり50%を超えてきた場合に、それをフェアと感じて、納得できるかどうかは、ちょっと心配だが、まあ、慣れの問題かも知れない。
 何れにせよ、数字の問題は、別途また考えよう。

 年金は、どうなるか。他に、私的年金保険や確定拠出年金を認めることがあっていいかも知れないが、公的年金制度は解体できる。今や、年金官僚の働きぶりという、大きなリスク要因を解消できるのだから、それこそ、「100年(以上)安心」だ。考えてみると、老いには個人差がある。元気な65歳もいれば、草臥れた59歳もいるのだが、年齢で差別せずに、最低限の保障として貰える額は何歳でも同じ、ということで、いいのではなかろうか。
 ちょっとだけ心配なのは、医療保険か。日本の健康保険制度が解体されれば、アメリカ様の保険会社が舌なめずりして参入してきそうだが、マイケル・ムーアの「シッコ」的な世界にならないように、気をつけたい。
 障害者に対するベーシック・インカムは、障害者の場合、働いて稼ぐことに関して、意図せざる不自由があるわけだから、元気な人よりも多くていいような気がする。もっとも、これは、ベーシック・インカムとは別の、社会的な(生まれる時に自動的に強制加入する)保険の給付として処理するのがいいかも知れない。(注:私の場合、個人的な事情で、障害者に甘いバイアスがあるかも知れない)
 何れにしても、使途の自由なベーシック・インカムを配ることで、社会保障的なものを中心に、公的制度はできるだけ削って、政府を極小化することが、財政的にも、経済効率的にも、この制度を具体化する際のポイントだろう。

 労使関係は、どうなるか。
 ベーシック・インカムを持っていると、労働者が、自分の働き方を選択する幅が大きく拡がる。「不当な条件では働きたくない」と低賃金労働を嫌うかも知れないし、「安くても、ベーシック・インカムにプラスされるのだから、暮らせる」と低賃金でも働くのか、どちらになるのか、判断の難しいところだが、危険な仕事、過重な労働負担、などは、労働者が、意識してこれらを避けることが出来るようになるだろう。
 貿易によって、製造業賃金の「要素価格均等化」が働きやすくなるし、ソフウェアト開発のような仕事では、外国の労働者と、まともに競争することになる。また、労働者が提供するものが、製造業的肉体労働から、知識や判断によって貢献する労働に変化すると、個々人が提供できる経済価値の上下の幅は大きく拡大すると考えられる。労働の価値に連動した報酬しか受け取れないとした場合には、この報酬が、特定の地域や生活習慣の下での「人間らしい生活」をファイナンスできなくなる可能性が大いにある。ベーシック・インカムは、こうした変動を吸収するバッファーの役割を果たすだろうし、労働者が自由な意思に基づいて雇い主と対等に取引する主体であるための基盤を提供するだろう。
 これで直接的に組合が壊れるわけではないだろうが、組合の必要性は、ますます薄くなるだろうし、それは、望ましいことだと、私は考えている。
 一方、経営者は、自分が人殺しになる心配をせずに、稼ぎに専念できる。これは、これで、結構いいのではないか。

 景気には、どうか。
 一般に、低収入な人は消費性向が大きいので、ベーシック・インカムによる所得移転には、多少なりとも景気拡大効果があるだろう。
 公共事業は、お金の使い方として、非効率的な場合が多く、所得再配分の手段には適さないと、私は、一応、考えている。ベーシック・インカムを導入して、公共事業は減らす、ということでいいのではなかろうか。

 生活や文化には、どうか。
 「喰うため」のプレッシャーが減少するのだから、たとえば、若者も、若くない者も、夢を追うことが、より容易になるはずだ。ベーシック・インカムには、「面白い奴」を養い、増やす、効果があるかも知れない。変な奴が増えて、面白くなるのではないかと期待する。
 もっとも、「勝ち組・負け組」的な、勝ち負けの存在、精神的なプレッシャーなどは、簡単には、無くならないだろう。ベーシック・インカムは、「負け組」を「喰える」ようには、するが、人間は、ある意味では、本当に残酷な生き物なので、精神的な傷まではカバーできないかも知れない。もっとも、これは、ベーシック・インカム固有の欠点ではない。

 ところで、ベーシック・インカムが正当化される根拠は何か。それで世の中が上手く行くなら、哲学は、暇な人が考えればいいが、「どのように正当か」という理由にも、現実的な重要性はある。
 現在の人は、これまでに出来上がっていた地球、土地、人類、社会、各種の制度(昔の人が作った)、といったものを前提にして「稼ぐ」ことができるのであるから、資本その他への所有権を尊重するとしても、或いは個々人の労働の成果が主としてその人に帰属すべきだとしても、これらは環境・制度といった与件共に機能している。従って、いわば環境財・制度財に帰属するはずのメリットは、社会の成因全体で平等に分けてもいいのではないか。というのが、最大の正当化理由だ。マリー・ロスバードは、私的所有権(自分の肉体及び自分が正当に手に入れた所有物の)を、一種の自然権として解釈したが、これを、もう少し謙虚に、自分と社会の成員全体(最終的には人類全体を目指すべきだろう)の自然権としての所有権として、私的所有権を捉え直せば、リバタリアンは、割合抵抗無くベーシック・インカムを受け入れられるのではなかろうか。
 まあ、面倒なことを考えなくても、単に、メンバー全員を、生かし、自由な人として行為させる、ということを、社会として目的化することに合意すればいいのだ。
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買収されない企業と侵略されにくい国の類似点

 企業買収に関わる新聞記事などを眺めながら、ぼんやりしていたら、「買収されない企業」と「侵略されにくい国」に似たところがあると気付いた。先日、東京は神田神保町にある我が社のオフィスを訪れた某出版社の青年が「ハト派市場主義宣言」というコンセプトはどうですか、などと、と提案して帰ったからかも知れない。
 あらかじめ言って置くが、以下の説明を以て、非武装中立が可能であることの必要十分条件だと主張する積もりは、今のところない。ただ、ある種の社会のあり方が、防衛を代替する効果がある、ということは言えるのではないかと感じている。

 三角合併その他、企業買収を話題にするときに、内外の企業の時価総額の比較がよく出てくる。たとえば、日本の花王と米国のプロクター・アンド・ギャンブル社(P&G)を比較すると、後者が前者の数倍の時価総額を持っている。だから、P&Gがその気になったら、あの優良企業である(ということになっている)花王が、簡単に買われてしまう、大変ではないか、という話になるのだが、それでは、どうして、P&Gは花王を買おうとしないのか。
 実は、これから買おうとしているという可能性がホンの少しないわけではないが、買おうとはしていないという前提の下に合理的な理由を推理すると、花王の株価が高いから、これを買っても、P&Gにとってプラスにならないことが理由だろう。
 通貨も金利も違う株価を直接PERで較べるのは正しくない。P&Gの立場では、通貨をドルベースに揃えて今後の状況を考えなければならないが、例えば、花王のPERが25倍、P&GのPERが15倍だとすれば、P&Gは、花王を買うことで、高い金を出したのに、思った程利益が伸びないという意味で、経営内容を悪化させる可能性が大きい。花王のPER25倍は、将来利益の成長性や安定性が高く評価されたものだと考えられる。これをP&G流に経営すると、かえって能率が下がってしまう公算が大きい。
 まして、花王を本当に買うとすると、3割が相場と言われるコントロール・プレミアムを払わなければならないし(根拠はよく分からないが、そう言う人が多い。「勝者の呪い」の大きな原因だ)、経営統合の各種コストを払わねばならないから、花王の将来利益をPER25倍で買い切ることは難しいだろう。加えて、花王は、株価純資産倍率が、なかなか高い。
 こうした場合に、P&Gが花王を買収し、支配しても、投資額に見合うメリットはない。
 また、別の例を考えると、たとえばコンサルティング会社やソフトの開発会社のような会社を買収する場合、買収後に生産性の高いコンサルタントや開発者が会社を辞めてしまうと会社の価値が下がるし、メンバーの退職やチームのマネジメントスタイルの変更で、ビジネス・ユニットとしての生産性が大いに低下する可能性がある。
 もちろん、こうした場合も、買収前にその会社のビジネスが改善のしようがないくらい効率が良くて、高い株価が付いていなければならないが、効率よく経営されていて、高い成果と評価を得ている組織は、買収して支配しても儲からない。
 株価評価の高い会社の経営者が、よく、「我が社を高く買ってくれるところがあるなら、どうぞ、買収してくださって結構です」とか、「経営効率を高めて高株価を維持することこそが買収の防衛につながるのであり、我が社には(セコイ)買収防衛策など必要ない」というようなことを言うが、他人が支配して経営効率の改善が出来ず、かつ高い評価の会社は、時価総額が小さくても買収されないのだ。
 もちろん、時価総額が大きな会社や、大資金を持ったファンドなどが、小さな会社を買収しようと思った場合、これは十分可能だが、買っても得をしないということになれば、買収は行われない。買収防衛策は、株価の低迷にもつながるし、弁護士を儲けさせる必要もないし、不必要である。

 国にも同様のことが、言えると思う。
 A国がB国に武力で侵略することを考えよう。A国が武力的にB国よりも強国である場合でも、侵略から占領にあたっては、自国側でもある程度の損害と、多大な経済的コストを覚悟しなければならないだろう。B国に侵略して、このコストは回収できるか。
 それまでB国は、経済社会的に上手くマネージされていて、生産効率が高いとしよう。これを無理矢理A国の社会システムに変えたとして、果たして、維持できるだろうか。言語を二種類使わせることをはじめとして、B国の経済の能率は落ちるだろうし、たとえば企業から強制的に富を収奪し、高い税金を課するならば、企業活動は低下して、生産力は、落ちる。
 それでは、国旗と政治家だけを取り替えて、もとのままの社会運営と企業活動を許して貰えるなら、どうか。
 この場合、一般的なB国民としては、別段大きな不利益もない。これに対して、銃を取ってまだ、戦う意味は乏しい。株式会社で言えば、株主が変わって、社名が変わるだけだ。

 日本をB国として考える場合、場合によっては、非正規労働者に対する扱いがもっと良くなるかも知れないし、年金制度など、もっと合理的なものにリセットできるかも知れない。日本に当てはめるなら、他国に統治される方が、若者の暮らし向きは改善するかも知れないとさえ思う(年寄りの財産のために、銃を取るのはツマラナイ。特に、失うものの乏しい人は、もっと鷹揚に構えよう。大金持ちこそ、自分の財産を守るために、銃を取るべきなのかも知れない)。
 占領されて気分のいいものではないが、日本語で運営されていて、且つそれなりに高度な物質的・経済的生産性を持っている日本の社会を、統治して更に、メリットを取る、というのは、占領国にとってなかなか難しい課題ではないか。A国として、中国、南北統合された後の朝鮮、ロシア、など何れの国を考えるにせよ、日本の社会を自分達のシステムに取り込んで、効率よく搾取し続けるのは、難しいのではなかろうか。
 結局、自主的に運営させておいて、政治的なトップ層だけ取り込んで、経済の枠組みの中で物的生産を長期的に担わせたり、マーケットとして活用したり、時に、無理めな協力をさせる、という、丁度、これまで及び現在、アメリカが日本に対してやってきたことくらいが関の山ではなかろうか。
 乱暴な言い方をすると、悪くても、今くらいなのだ。防衛に力を入れて、一体何を守るというのだろうか。
 日本の場合、人が関わった上での生産性が経済的な価値を生んでいる。これが、たとえば、人口の少ない、ほとんど人間が働かない、しかし、石油なり稀少金属なりの、豊かな鉱物資源があるといった国なら、そうは行かない。丁度、キャッシュや不動産を抱えていて、まともに経営されていない会社のようなものだから、今度は、俄然、占領するメリットが出てきてしまう。働かなくても喰えるような、楽な国には、別の苦労があるということか。
 もちろん、ある程度のコントロール・プレミアムに相当する防衛力はあってもいいが(現在の自衛隊は過剰なくらい豪華ではなかろうか)、攻めてくる国に勝てるほどのものは必要ない。
 国民大衆レベルでは、占領されてから、占領国のお手並みを拝見する、というくらいの精神的余裕を持っていてもいいのではなかろうか。そこから、どうできるか(どうできるものでもない)、という占領国にとっての予測可能性こそが、日本社会のソフトな防衛力の核心だ。もちろん、個人としては、敢えて、余裕があれば、体制が変わっても順応できるような個人的スキル、いよいよ居心地が悪い場合に、他国でも暮らせるような能力とコネを養っておくといい。占領されなくたって、居心地の悪い国になる可能性はいくらでもある。

 ともかく、簡単に見える、企業の買収でさえ、そうやたらに起こるわけではないし、時価総額の小さい会社がどんどん買われていく、というものではない。国も、そう簡単に侵略されるものではないし、一口に、侵略・占領・併合などといっても、その内容は、いろいろであり、悪いことばかりと決めつける必要もない。武力による防衛力のみに安心を求めるというのは、あまり賢いやり方ではなさそうに思う。

 以下、余談である。
 ところで、防衛と言えば、先日、防衛省に詳しいある政治記者に聞いたところ、守屋次官の後任の、増田氏は、非常に優秀で現実的な人らしい。何れは当然次官に、ということで、省内が納得する人であるらしい。但し、守屋氏には、疎まれていたかも知れない、というし、もちろん、小池大臣が彼を選んだわけではない。小池氏は人選に失敗した、ということのようだが、結果的には、良い人事になったらしい(それにしても、西川氏は、何とも見苦しいことになってしまったものだ)。
 ご本人の確認を取ったわけではない伝聞だが、増田氏は、「別に、何でもアメリカの言うことを聞かなくても大丈夫ですよ」、「憲法9条という程度の不自由がある方が、かえって、いろいろと好都合です」と仰っているらしい。柔軟な方のようだ。ただ、目的を与えられると、そのために何が必要であるかを計算して、解く、ということが極めて得意らしく、何でもできてしまうタイプらしいので、誰が、彼にどんな目的を与えるか、ということが重要であるらしい。
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ポジティブ・シンキング・バカ(PTB)とネガティブ・シンキング・グズ(NTG)

 安倍政権に怒るような話題は、続けると暑苦しいし、さすがに自民党内でも「安倍下ろし」的な動きが出てきたようなので、ゆるい話をもう一つ。

 私は、転職関連の話を中心に、自己啓発的なビジネスの話題で、取材を受けたり、原稿を書いたりすることがありますが(この種の仕事の1-2割でしょうか)、このジャンルの文章を読んだり、ビジネスの場で、或いは転職の相談を受けたりするような場合に、イライラする性格類型を二つ見つけたので、書いておきます。

 一つは、「ポジティブ・シンキング・バカ」(PTB)とでも言うべき、願いと現実の区別が付かなくなっていて、歪んだ現実認識に、周囲を付き合わせるタイプの人物です。何でもポジティブに考えようとするので、基本的に前向きな人ではあるのですが、周囲にも同意を求め、時には努力を強要するので、迷惑だ、といったキャラクターです。
 現れ方は大きく分けると二種類あって、一つは、「願い事は、十分真剣に願うと、必ず叶う」「叶わないとすれば、願い方と信じる心に不足があるからだ」という論理構造を持っている人で、ポジティブなことを口にしていると幸せになると言って歩いたり、目標を手帳に書いて毎日眺めると必ず達成できる、と広言したりします。「それが本当なら、進学も、就職も、時価総額も、・・・、もっと高い目標を書いて置けよ」と突っ込みたくなるような、話をするのですが、本人は意に介さないようです。自分の目標を具体的に意識化することは、大切なのですが、それだけで物事が達成できるわけではありませんし、現実を認識することも重要です。また、何よりも、この種の話は、聞いている方が恥ずかしいのが、困りものです。
 もう一つは、現実に合わせて、願いや解釈を修正するタイプで、仕事に失敗しても「いい経験になった」、大学受験で失敗した話をするときには「おかげで本当の勉強の仕方が分かった」、第三者が見てもつまらない転職話の誘いでも「またとない、素晴らしいチャンス」と口にして、他人の同意を求めます。また、本人の問題だけではなく、他人についてもこうした解釈を適用して得意になる場合があります。
 「失敗は、失敗として認めた方が、自然ですよ。元から望んでいたわけではないでしょうし」と言いたいところを、ぐっと堪えて、「なるほど、そういう考え方もありますか」などと曖昧な相づちを打つ必要がある場合もあって、この種のPTBは迷惑です。
 参院選で大敗した安倍首相が、「これで危機感が生まれて、かえって改革が加速する。ある意味では良かった」などと言えば、典型的なPTBですが、彼の場合は、PT抜きのプレーンな「B」のようです。これは、これで、もっと困りますが。

 もう一つ、話しをしていて、もてあますのは、全てのことにケチを付けて、「いまそれをやらない方がいい理由」或いは「やっても意味がないという理由」を探して、自分でも動こうとしないばかりか、他人の積極性にも水を差そうとする愚図です。こちらは、「ネガティブ・シンキング・グズ」(NTG)と命名することにします。
 一昔前で言うと、「転職しても、日本の会社はどこも同じ」(自分は転職したことがないくせに)、「転職を重ねると、だんだん悪くなっていくから、どこかで止めないと」(余計なお世話だよ~ん)、などと部下や若者の転職話に水を差そうとする上司や、あるいは、もともと自分では転職に興味があるくせに、具体的に転職先を紹介されると、あれやこれやと転職しない方がいい理由を探す愚図などが典型的でした。
 一人で密かに消極的なだけなら、周囲にとって迷惑ではないのですが、この種の人は、自分が持っている「不景気の気配」を他人に伝染させるので、厄介です。

 PTBやNTGは、それなりに強固に凝り固まった性癖なので、他人がこれを矯正して付き合おうとすることは、ほぼ無駄な努力です。離れて影響を受けないようにするか、言っていることを一気に破壊して、直ぐにその人物から離れる「ヒット・アンド・アウェー」の作戦を採るか、何れかしか、対処の方法はありません。どちらも、木っ端みじんに論破しても、またじわじわと復活してくるので、捨てられない荷物的な人間関係になる前に、離れておくのが得策でしょう。
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「忙しい」と「疲れた」をなるべく言わない

 さて、先日、これまでご縁の無かった、ある雑誌が、ビジネスのやり方(スケジュール管理や情報処理など)や心得を取材したいという用件で、取材に見えました。私は、ビジネスの世界で成功して大儲けしているわけではありませんし、私に取材しても仕方がないのではないか、とも思ったのですが、テーマや取材対象を決めるのは取材する側の責任ですし、自分としては、活動の範囲は広い方が面白いので、明らかに、話すべきことが無いテーマ(専門的なテーマで、全く知識の無い分野など)の場合は、お断りしますが、そうでない取材は、なるべく受けてみようと考えており、この取材も受けることにしました。
 
 はじめに、スケジュール管理は手帳(能率手帳)が中心のアナログが基本であり(4色ボールペンを使っています)、スケジュール情報を関係者で共有するためにYahoo!のカレンダーを使っているという話や、仕事のデータと環境は全て一台以上のノートパソコンにも持つようにしているので、転職しても、仕事の連続性が保てるとか、ニュースを拾うのは、主にGoogleのReaderを使っていて便利であるとか、メールのバックアップ用にGmailを使っている、といった話を一通り話しました。
 私は、将来実現できそうなことを、あらかじめ手帳に書いておいて、自分の目的達成能力に自ら感動する、というような、高度な芸を持っていないので、何れも平凡な話です。

 次に、「ビジネスマンとして、日頃から心掛けていることは何ですか。座右の銘的なものがあれば、それも教えて下さい」と質問されました。日頃から、「私は、ビジネスマンだ」という強い意識を持っているわけではなく、座右の銘的なものがあるわけではないので、しばらく考え込みました。
 敢えて言えば、自分の仕事について、できるだけ他人に依存しない、というようなことを意識しているのですが、これは、ビジネスの一般論からすると、必ずしも、好ましいことではありません。他人に任せるべき仕事は、思い切って任せる、という考え方が大切なことがしばしばあるでしょうし、特に、手掛ける仕事が大きくなると、そういうことでしょう。

 結局、もう少し、身近な話をすることにして、「『忙しい』と、『疲れた』を、なるべく言わないことです」と答えました。
 仕事で誰かと会うと、「お忙しいですか?」と訊かれることが多いのですが、「大いに忙しい、というほどではありません」というくらいに、答えることにしています。
 「お忙しいですか?」という質問は、相手を気遣いながら、相手に自慢話をさせるきっかけを与える、なかなか便利で親切な質問ですが(私も使うことがあります)、これに、100%乗って、如何に自分が忙しいかという話をするのは、間抜けというものでしょう。
 それに、私の場合、一日の時間の使い方が、朝9時から始まって、夜は残業、というような、普通の人と同じではないので、「忙しい」と言えるのか、どうか、時間に余裕がないときでも、自信がありません。また、フリー的な仕事をしている同士だと、「忙しい」は、ほぼ「稼いでいる」と同義に聞こえることがあるので、自分の忙しさを強調することは、マナー的にも得策ではありません。
 そして、何よりも、私は、自分の忙しさを強調するビジネスパーソン(男性ばかりとは限りません)が嫌いなのです。
 これまで私が勤めていたような会社の場合、本当に、余裕が無くなるくらい忙しいということは、実のところ、ほぼあり得ません。時間に全く余裕がないとすると、仕事の要領が悪いか、余計な仕事までしているか、好きで(或いは暇が不安で)仕事をしているか、ほぼこの何れかであり、どれも他人に自慢するような状態ではありません。
 加えて、自分が忙しいという話は、自分にとっては重要でも、相手にとっては、どうでもいい話である場合が殆どですから、これを長々するのは、愚かです。
 結局、「忙しい」、「忙しい」と言っている人は、他人に同情して欲しいか、自分(の仕事)は価値があると自分で思い込みたいか、何らかの自慢をしたいか、の何れかで、話の聞き手にとっては迷惑な存在です。
 尚、私自身は、なるべく(絶対とまでは言えないのですが)「忙しい」とは言わないように、していますが、相手が「忙しい」と言う場合は、時に相づちを打ちながら、にやにやしつつ、耳を傾けることにしています。これは、内心で軽蔑しながら、相手を観察している時間です。

 また、「疲れた」も「忙しい」と同様の意味を持つことがありますし、「疲れた」の場合は、自分の疲労を他人に染すような、気分的な不景気を伝染させるような、嫌な効果があります。もちろん、人間は疲れることがありますが、その場合は、自分で勝手に休めばいいし、他人に向かって「疲れた」を連発するのは、迷惑だと思います。
 また、「疲れた」と自ら口にすることによる、ネガティブな自己暗示効果も、馬鹿にならないので、これは、他人に迷惑なばかりでなく、自分にもマイナスでしょう。
 一本に、集まって話をする際のメンバーの平均年齢が高くなると、病気の話題や、体調の話が多くなりがちですが、これも、あまり気持ちのいいものではありません。
 
 何れにせよ、少々忙しくても、疲れていても、「面白いことがあれば、参加する気はありますよ!」という前向きな余裕を見せながら話をする方が、お互いに楽しいし、話が有意義になりやすいのではないかと思います。
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朝青龍への適切な処分は?

 横綱朝青龍が、腰と肘の故障などの理由で巡業を休みながら、モンゴルで元気にサッカーをしていた問題(VTRを見ると、ほれぼれするような運動神経です)について、どう処分したらいいのか、議論が百出している。
 横綱のこの種の不祥事については、休場中に野球観戦がばれて引退という例もあれば、同じく休場中にハワイでサーフィンをしていて厳重注意で済んだ(NHKの大相撲解説で北の富士がどう解説するか、注目だ!)という例もあり、ルールがキッチリ整備されていない。この点、マーケティングや危機管理(八百長報道への対応等)にも問題があり、組織として、ビジネスとしての、大相撲は、根本的に見直す必要があると思う。
 朝青龍に対する処分の考え方としては、(1)横綱の責任と品格を大いに且つ過去にも度々損なっており、今回こそは厳罰が必要だ、という厳罰論と、(2)出場停止にすると、現実的には相撲興行上マイナスになり拙い、という現実論との、折り合いがうまくついていないようだ(まだ、納得の出来る処分案を聞いていない)。
 巡業を休ませることがいいことなのかどうか、また、本場所はどうするのか、落とし所は難しい。
 私の処分案は、(1)「横綱降格」(2)本人・親方への罰金、(3)サイドビジネスの禁止、だ。朝青龍を大関に降格し、今後、毎場所終了後に、横綱審議委員会に諮問して、「心・技・体」が横綱にふさわしいと認められれば、再昇格する。彼の場合、横綱の条件である「心・技・体」の「心」に問題があることが、形として明らかになったのだから、降格に、問題はない。現在の彼には、横綱にふさわしい品格がないのだから、横綱の歴史的権威を保つには、これが一番だろう。
 同時に、横綱審議委員会のメンバーにも、彼を横綱に推挙した不明と、指導の不足の責任を取って、何らかの処分が必要だろう(少なくとも委員長辞任は必要)。どんな処分を下すにせよ、横綱審議委員会に問題がない、とは思えないので、この点は強調しておく。
 横綱から外れると、多額の懸賞が掛かる結びの一番の出場が減るので、収入も減少するだろうし(八百長の資金も減る)、もちろん、毎場所、格好が悪い。これまで横綱土俵を入りしていた男が、幕内力士と一緒にぞろぞろと土俵を囲んで、間の抜けた動作をして、また、ぞろぞろと退場するのだ。主たる処罰として適当だろう。
 二場所連続優勝と素行の改善といった、改善が見られた場合には、再び横綱にすればいい。実力で復帰するなら、何の問題もない。「綱取り」での興行的盛り上がりも期待できるだろう。彼がこれから、再び稽古に励み、横綱再獲得(未曾有の快挙でもある)への強いモチベーションを持つことにでもなると、通算40回くらい優勝するようになるかも知れないが、それも一興であろう。
 もちろん、本人と共に、親方への罰金、さらに、管理責任を取って北の湖理事長の減俸などの経済的な処分も必要だろう。
 但し、本場所への出場停止や廃業勧告など、朝青龍を土俵に上げないのは良くない。相撲は格闘技であり、強さが上位力士の権威の源なのだから、彼を土俵から遠ざけて、彼よりも弱い連中だけで相対的な競争を行うようなやり方は、相撲という競技の魅力と権威を損なう。
 尚、朝青龍は、あまりにも頻繁にモンゴルに帰っているが、これは、たぶん、サイドビジネスの為だろう。力士の現役時代は短いし、サイドビジネスを全て禁止するのは行きすぎだが、事業会社でも「本業に差し支えのある副業は禁止」というレベルの副業規制は当然であり、相撲協会も、力士のサイドビジネスに対しては、承認制が必要だろう。朝青龍は、自らの職責を果たす上で、サイドビジネスが障害になっているので、当面、認める必要はない。
 「大関・朝青龍」。いかがだろうか?
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風刺としてのパリス・ヒルトン

 少し重っくるしい話題が続いたので、いい加減な話をしましょう。
 どこの記事で読んだのか忘れましたが、あの世界環境男、アル・ゴア氏が、アメリカ人は、パリス・ヒルトンのことばかり見ていないで、少しは環境のことを考えてくれ、と言っていたという記事を見た覚えがあります。先日も、飲酒運転で収監されて、刑期を終えて出所する様が大々的に報道されていました。
 6月27日の日本の朝の情報バラエティー番組でも、彼女の出所の模様をトップニュースに持ってきて、オープニングから大々的に流していた局がありました。

 何年か前に、何かの記事で、パリス・ヒルトン嬢の存在を初めて知ったときには、大金持ちの娘が、その立場とお金を使って、有名になろうとしているのだな、というコンテクストで見たわけですが、正直に言って、こんなに有名になりたい人なのに、もう少し容姿に恵まれていれば良かったものを、可哀想に、と思いました。いわゆるブスではないとしても、どう見ても女優で通用するような美人とは思えないし、まあ、アメリカ人の平均的な若い女性の容姿なのではないでしょうか。
 また、これは、現在まで変わらない彼女の一貫した印象ですが、大金持ちのお嬢様の割には、上品な感じというものが一欠片もありません。有り体にいって、少々下品で、どことなく不衛生な感じさえあります。紙媒体の写真集のモデルに喩えるとすると、ビニールに包まれてその種の本の専門書店の片隅にあるか、或いは、自動販売機で売っているか、という「ビニ本」(この頃は見かけませんね)のモデルくらいのイメージです(近年のAV女優とか、雑誌のグラビアモデルは、彼女とは比較にならないくらい整った容姿をしています)。
 しかし、この、どうしても漂う彼女の下品さは、ある種の生々しさにもつながっていて、すっかり「その気」になって有名人として振る舞っていることとのアンバランスな感じと共に、妙に、心に引っ掛かりました。怖いもの見たさ的な感覚といってもいいでしょうか。その後、彼女のメディアでの露出が増えるに従って、かなり「見慣れて」は来ましたが、基本的な印象はそのままです。
 尚、例の出所の映像では、普通に嬉しそうにしていて、それは良かったのですが、髪の分け目のあたりの濃い色が目立ちました。刑務所内では髪が染められなかったので、伸びた部分が黒っぽく目立ったのでしょう。私が見ていた限りでは、情報バラエティー番組のコメンテーターは誰もこの点を指摘しませんでした(仮に、私がコメンテーター席に座っていたら、真っ先にこの点を指摘してしまいそうな気がしますが、視聴者には髪を染めている人もいるわけで、そういうことは、言わない方がいいのかも知れませんね)。

 さて、パリス・ヒルトン嬢を商品として見ると、最初は、たぶんかなりお金を使って、話題を作り、徐々に知名度を上げていったのでしょう。言わば、投資の段階です。
 しかし、世間の関心を集めるようになると、彼女の映像で視聴率が取れるし、彼女の写真やインタビューは高い値で売れるようになり、アメリカのメディアは彼女を無視できなくなりました。
 今回の騒動でも、空中にはヘリコプターが舞い、TVカメラとスチルカメラ(キヤノンが多いようですね)が大量に群がって、彼女を追わざるを得ない状況になりました。メディアも最初は面白半分に彼女について報じていたのかも知れませんが、彼らも商売である以上、注目度の高い彼女を追わざるを得ない訳で、今では、主客がすっかり逆転しています。
 もちろん、アメリカは広くて多様なので、彼女には報道価値なし、と判断する立派なメディアがあるのかも知れませんが、日頃は偉そうにしているアメリカのジャーナリズムも所詮商売でやっている限り、あのような目立ちたがりの小汚い人物に振り回されるのか、と思うと、ある種、痛快であります。
 腕のいい記者やカメラマンで、自分はこんなネタは本当はやりたくないのだ、と思っている人は少なくないでしょうが、今や、彼らに、パリス・ヒルトンを無視する自由はありません。有名なTVキャスター達も、彼女にTVインタビューしたようで、彼女が、自分に都合の良い情報をばら撒くのに利用されているわけですが、これを止めることができません。
 今や、パリス・ヒルトンという存在そのものが、アメリカ社会及びジャーナリズムに対する風刺として機能しているように見えます。
 商品としてのパリス・ヒルトンは、注目を集める(≒メディアが集まる)ことで商品価値を増し、それによってさらに注目を集めて(≒メディアがもっと集まる)、価値を高めるという、ネット・バブルの頃に一世を風靡した「収穫逓増」型のビジネス・モデルになっています。ヒルトン家の収支決算がどうなっているのか分かりませんが、場合によっては儲かっているのかも知れません。
 彼女の跡目のパーティー・クイーンを狙ってパーティーに血道を上げる女性がハリウッドに何人もいるとの報道がありましたが、この収穫逓増ぶりを見ると、当然、同じことを狙う人はいるだろうなあ、と思えます。

 報道によると、出所したパリス・ヒルトン嬢は、「私は、もうバカなふりをするのは止める」と語っています。メディアは、彼女のバカな振る舞いに振り回されていた、という意味になるわけですが、メディアの側には、これに反論するすべもなく、彼女の言葉を伝えるしかありません。

 アメリカでの話であり、馬鹿馬鹿しさの全体像を他人事として客観視できる距離があるので、日本のメディアは、「商売でやっているジャーナリズム」の弱点について、反省を深めるいい機会だと思うのですが、そんな気はなさそうで、ちょっと残念です。

(※ブログで「パリス・ヒルトン」を取り上げると、大半は自動で送られてくるものと思われますが、大量のトラック・バックが送られてきそうで、ちょっと憂鬱です。意見を論じたものは受け付けて公開しますが、画像だけのもの、商業目的のみのもの、ニュース記事のコピー&ペーストだけのものは、削除します)
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