コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
たしかに八百長っぽい取組でした
(
安倍助兵衛
)
2007-11-27 00:47:33
私も千秋楽の白鵬と、14日目の魁皇戦ではずいぶん琴光喜のやる気が違うように感じました
琴光喜のナショナリズムが炸裂して、モンゴル人の白鵬に厳しかったのかなと好意的に考えております
十四日目の取組
(
現地組
)
2007-11-27 06:57:17
私は十四日目に現地の升席で観戦していたのですが、
九州場所の魁皇の人気はTVで観る以上に凄まじいです。
琴光喜も魁皇戦のアウェーな雰囲気と千秋楽の日本人
として一矢報いろみたいな雰囲気ではパフォーマンス
に差がでるのも致し方ないかなと。
(プロとして、どんな環境でもベストパフォーマンス
を示せと言われればそれまでですが)
仮に十四日目の取組が八百長だったとしても、
足を運んだお客さんの声援や拍手を聞くと、多くの
観客は満足していたと思います。
大衆娯楽としてはこれで良いと思いました。
あそこで圧倒的現実を見せつけられてもな…。
相撲のブランド価値の源泉は
(
山崎元
)
2007-11-27 11:43:26
安倍助兵衛さま、現地組さま
いらっしゃいませ。コメントありがとうございます。
確かに現地の魁皇人気は東京在住者が想像する以上のものでしょうし、それで、琴光喜のヤル気に変化があろうかとは思いますし、あるいは魁皇勝ち越しは相撲協会の暗黙の意志なのかも知れません。
しかし、プロ野球にしても、プロの将棋や囲碁にしても、ベストを尽くして勝ち負けが公正であることが、試合への興味と結果(たとえば優勝)や地位(名人など)の権威の源となっており、今の魁皇と琴光喜の力関係で、露骨に琴光喜が無気力な相撲を見せられては、相撲全体に対する敬意が失われてしまいます。
また、「魁皇は地元で全力で健闘したが及ばなかった」というストーリーで十分よかったのではないかとも思います。地元の場所まで頑張ったのだし、そこで力尽きるのだから、それで十分感動的ではないでしょうか。勝負の厳しさと共に、ほのかに漂う物悲しさも相撲の味わいだと私は思います。しかし、現役の大関であることには余程の魅力があるのでしょう(まだやるのかね・・・)。
宮城野テープによると、魁皇と千代大海は八百長相撲が上手いのだそうですが(確かに千代大海は上手い!と思います)、彼らや琴光喜のような、本来、一勝でも上乗せして格を競わなければならない人達が、ある種の経済合理的判断にも合致するとはいえ、朝青龍のような相手にオプションを売るような取引に至るのは残念です。
考えてみると、プロレスも最初から勝ち負けの予定とストーリーがあるとはなかなか認めません。相撲もこれに近いものなのでしょうか。大衆娯楽だと割り切るとそれでもいいような気もします。
しかし、相撲にしか使えないような体を作って下積みから上を目指す力士が多数居ることを思うと、幕の内の上の方で田舎芝居がまかり通るのは美しくありません。
相撲道の長期的な権威、相撲協会にとっては商品のブランド価値を守るには、八百長を駆逐して真剣にやっているという姿勢を、ファンに分かりやすい形で、絶えず示す必要があるのではないでしょうか。不利な証言が出たら黙る、というような現在の形は経営的にも最悪です。
Unknown
(
かうんと伯爵
)
2007-11-27 13:04:25
両方の取り組みをテレビで見ましたが、私はただ単に琴光喜がやりにくかっただけではないかと思います。大相撲全体として八百長の疑惑が持たれている中で、いかにも手心を加えそうなシチュエーションで、見るからに無気力な手抜きをするようなら余程のバカでしょう。もし八百長であるなら、むしろいかにも全力を出したような演技をするのが普通の振る舞いのように思えます。
Unknown
(
栗田昌孝
)
2007-11-27 13:06:46
幕内上位陣が予定調和の中で「よろしくやっている」のであれば、「新弟子をビール瓶で撲殺する」ほどの仕置きはますます意味不明ですね。
上は「ゆるく」下は「きつく」の構図は永劫的に成立するのでしょうか?(もっとも、新人の通過儀礼としての存続意義はありそうですが)
むしろ親方や協会理事並びに上位力士の方が、(高いギャラをもらっている分)ビール瓶で殴られる義務がありそうに感じました。
相撲において八百長があるとしたら、それも一種の「賞味期限改ざん」ですね。
仮に、魁皇の選手としての賞味期限を、協会を挙げて一生懸命改ざんしているとすれば、相撲界の運命は「赤福」と同じになりそうです。また、それだけ新商品(新弟子)に乏しいのでしょう。
まあ、相撲だけに
“どうぞ、しこしこやってて下さい”
というのが率直な感想です。
プロならもっとうまく
(
tsuyoshi
)
2007-11-27 16:04:04
14日の魁皇戦はテレビで見ていました。 琴光喜の負け方はあまりにも下手でした。 すぐにそれと分かるような力の抜き方でした。 もう少し何とかならないものかと思いました。
不出来な八百長相撲
(
山崎元
)
2007-11-27 16:33:53
私はスポーツとしての相撲の経験がないので、もう一つ自信をもってコメントできませんが、琴光喜と魁皇のようなベテランでも最初から勝ち負けの決まっている相撲を不自然でなく取るのは相当に難しいのではないかと思います。
大観衆の注目の中で「やりにくさ」があったとすれば、むしろこの点ではなかったかというのが14日目の取り組みの印象です。
琴光喜の立場に立てば、力を出し合う(ように見える)大相撲の方が勝ち負けは安定しますが力を抜いたことが分かってしまうので、立ち合いに差し負けて慌てたまま負けるような相撲を選ぶのは分かる気がします。ただし、これは、お互いにこの種の相撲に慣れたどうしだから出来る高度なプログラムです。
しかし、取り組みを何度かコマ送りで再生してみましたが、右の固い琴光喜が、右脇を空けて魁皇のまわしを触りに行くだけという立ち合いは、真剣勝負の時の琴光喜の取り口を考えると何とも解せません。
真剣勝負であって且つやりにくかったのなら、もろ差しを狙うなど、もっと正攻法の辛い相撲を取ったのではないか、というのが私の印象です。「今一つぱっとしない出来の八百長相撲だった」と見るのが一番自然なような気がします。
もっとも、繰り返しになりますが、真実は当人達にしか分かりません。そして、だからこそ、相撲協会が日頃から毅然とした態度を取る必要があるというのが私の意見です。
Unknown
(
かうんと伯爵
)
2007-11-28 05:43:37
山崎さんの、相撲の技術的な面から見て不自然だ、という意見には納得しました。しかし、魁皇の心理を想像してみるとやはり八百長じゃないように思えます。
『ヤバい経済学』に書かれていたように統計的に不自然な勝敗が勝ち越しがかかったときには多いというような事実から私は大相撲には八百長があると思ってます。
しかし、今の 魁皇の立場からあえてあの取り組みで八百長をするかなぁとも思います。勝ち越して角番を脱しても引退するつもりだと魁皇自身が後援会の方に話していたという一部の報道がありましたし、彼自身自分の仕事の最期に対する感慨もあるでしょうし、連日地元のファンの大声援を受ける中で、そうしたファンの気持ちを裏切ってまで今さら星を買うものかなぁと。
もちろん、他人の気持ちはわかりませんが、かなり倫理観に欠ける私ですら、最後の場所に八百長はしにくいように感じるのですが・・・。
演出か?
(
栗田昌孝
)
2007-11-28 09:02:50
八百長があっとしても、当人たちにとってそれは“演出”程度にしか考えていないのかもしれませんね。お客を喜ばすためのパフォーマンスを演出するためには、多少の手心も仕方がない・・といったような。
金融市場でパフォーマンスを“演出”すると、後々大変なことになりますが、「おすもう」では平気なようですね。
「おすもう」に限らず、世間では
“あらゆるカリスマは、それ自体の維持が目的になった瞬間に、そのカリスマ性が損なわれる”
ことが往々にしてあります。
「おすもう」や「横綱」の持っているカリスマも、“それ維持することそのもの”が目的化しているとすれば、それは既に危機に直面していることを表していると言えるのではないでしょうか?
朝日の「論座」
(
山崎元
)
2007-12-16 22:00:02
次に発売される2008年2月号に「相撲協会は『八百長問題』から逃げるな」という原稿を書いています。発売はしばらく先ですが、ご興味のある方はお読みになってみて下さい。
執筆に当たっては、このブログでの皆様とのやりとりが大いに参考になりました。どうもありがとうございました。
みんなへ。
(
魁皇ファン。。
)
2008-07-22 22:10:05
魁皇は、八百長なんかを、していません。。
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琴光喜のナショナリズムが炸裂して、モンゴル人の白鵬に厳しかったのかなと好意的に考えております
九州場所の魁皇の人気はTVで観る以上に凄まじいです。
琴光喜も魁皇戦のアウェーな雰囲気と千秋楽の日本人
として一矢報いろみたいな雰囲気ではパフォーマンス
に差がでるのも致し方ないかなと。
(プロとして、どんな環境でもベストパフォーマンス
を示せと言われればそれまでですが)
仮に十四日目の取組が八百長だったとしても、
足を運んだお客さんの声援や拍手を聞くと、多くの
観客は満足していたと思います。
大衆娯楽としてはこれで良いと思いました。
あそこで圧倒的現実を見せつけられてもな…。
いらっしゃいませ。コメントありがとうございます。
確かに現地の魁皇人気は東京在住者が想像する以上のものでしょうし、それで、琴光喜のヤル気に変化があろうかとは思いますし、あるいは魁皇勝ち越しは相撲協会の暗黙の意志なのかも知れません。
しかし、プロ野球にしても、プロの将棋や囲碁にしても、ベストを尽くして勝ち負けが公正であることが、試合への興味と結果(たとえば優勝)や地位(名人など)の権威の源となっており、今の魁皇と琴光喜の力関係で、露骨に琴光喜が無気力な相撲を見せられては、相撲全体に対する敬意が失われてしまいます。
また、「魁皇は地元で全力で健闘したが及ばなかった」というストーリーで十分よかったのではないかとも思います。地元の場所まで頑張ったのだし、そこで力尽きるのだから、それで十分感動的ではないでしょうか。勝負の厳しさと共に、ほのかに漂う物悲しさも相撲の味わいだと私は思います。しかし、現役の大関であることには余程の魅力があるのでしょう(まだやるのかね・・・)。
宮城野テープによると、魁皇と千代大海は八百長相撲が上手いのだそうですが(確かに千代大海は上手い!と思います)、彼らや琴光喜のような、本来、一勝でも上乗せして格を競わなければならない人達が、ある種の経済合理的判断にも合致するとはいえ、朝青龍のような相手にオプションを売るような取引に至るのは残念です。
考えてみると、プロレスも最初から勝ち負けの予定とストーリーがあるとはなかなか認めません。相撲もこれに近いものなのでしょうか。大衆娯楽だと割り切るとそれでもいいような気もします。
しかし、相撲にしか使えないような体を作って下積みから上を目指す力士が多数居ることを思うと、幕の内の上の方で田舎芝居がまかり通るのは美しくありません。
相撲道の長期的な権威、相撲協会にとっては商品のブランド価値を守るには、八百長を駆逐して真剣にやっているという姿勢を、ファンに分かりやすい形で、絶えず示す必要があるのではないでしょうか。不利な証言が出たら黙る、というような現在の形は経営的にも最悪です。
上は「ゆるく」下は「きつく」の構図は永劫的に成立するのでしょうか?(もっとも、新人の通過儀礼としての存続意義はありそうですが)
むしろ親方や協会理事並びに上位力士の方が、(高いギャラをもらっている分)ビール瓶で殴られる義務がありそうに感じました。
相撲において八百長があるとしたら、それも一種の「賞味期限改ざん」ですね。
仮に、魁皇の選手としての賞味期限を、協会を挙げて一生懸命改ざんしているとすれば、相撲界の運命は「赤福」と同じになりそうです。また、それだけ新商品(新弟子)に乏しいのでしょう。
まあ、相撲だけに
“どうぞ、しこしこやってて下さい”
というのが率直な感想です。
大観衆の注目の中で「やりにくさ」があったとすれば、むしろこの点ではなかったかというのが14日目の取り組みの印象です。
琴光喜の立場に立てば、力を出し合う(ように見える)大相撲の方が勝ち負けは安定しますが力を抜いたことが分かってしまうので、立ち合いに差し負けて慌てたまま負けるような相撲を選ぶのは分かる気がします。ただし、これは、お互いにこの種の相撲に慣れたどうしだから出来る高度なプログラムです。
しかし、取り組みを何度かコマ送りで再生してみましたが、右の固い琴光喜が、右脇を空けて魁皇のまわしを触りに行くだけという立ち合いは、真剣勝負の時の琴光喜の取り口を考えると何とも解せません。
真剣勝負であって且つやりにくかったのなら、もろ差しを狙うなど、もっと正攻法の辛い相撲を取ったのではないか、というのが私の印象です。「今一つぱっとしない出来の八百長相撲だった」と見るのが一番自然なような気がします。
もっとも、繰り返しになりますが、真実は当人達にしか分かりません。そして、だからこそ、相撲協会が日頃から毅然とした態度を取る必要があるというのが私の意見です。
『ヤバい経済学』に書かれていたように統計的に不自然な勝敗が勝ち越しがかかったときには多いというような事実から私は大相撲には八百長があると思ってます。
しかし、今の 魁皇の立場からあえてあの取り組みで八百長をするかなぁとも思います。勝ち越して角番を脱しても引退するつもりだと魁皇自身が後援会の方に話していたという一部の報道がありましたし、彼自身自分の仕事の最期に対する感慨もあるでしょうし、連日地元のファンの大声援を受ける中で、そうしたファンの気持ちを裏切ってまで今さら星を買うものかなぁと。
もちろん、他人の気持ちはわかりませんが、かなり倫理観に欠ける私ですら、最後の場所に八百長はしにくいように感じるのですが・・・。
金融市場でパフォーマンスを“演出”すると、後々大変なことになりますが、「おすもう」では平気なようですね。
「おすもう」に限らず、世間では
“あらゆるカリスマは、それ自体の維持が目的になった瞬間に、そのカリスマ性が損なわれる”
ことが往々にしてあります。
「おすもう」や「横綱」の持っているカリスマも、“それ維持することそのもの”が目的化しているとすれば、それは既に危機に直面していることを表していると言えるのではないでしょうか?
執筆に当たっては、このブログでの皆様とのやりとりが大いに参考になりました。どうもありがとうございました。