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保険法改正に望むこと

 ご本人に迷惑が掛かるといけないので、「ある生保関係の」とだけ申し上げておくが、知人の話で、目下、法制審議会で、保険法の改正について審議が行われていることを知った(毎回の討議資料と議事録はネットで見ることが出来ます)。
 生命保険会社は、先般、保険金の不払い問題があり、一応は陳謝して、多くの保険契約を自ら調査して、契約者に対応することを約束した。その後に問題が浮上した社会保険庁の様子があまりに酷かったということもあるが、割合真面目な対応だと思ったのだが、これは、ことによると、保険法の改正という、保険会社にとっての大イベントを前に、波風を避けたい、ということだったのかも知れないと後から思った(邪推であれば、スミマセン!)。審議会には、学識経験者(生保の社員総代などを引き受けている人がいれば、問題だと思うが、まだ調べていない)や消費者代表(本当にそう言えるかは分からないが、一応)、損保関係者も含まれるが、これまでのところ、議事は、概ね事務局と生命保険会社のペースで進んでいるらしい。生命保険会社は、この種の対官公庁・法律対策には伝統的に熱心だ。
 議事録や資料を読み込む時間がないので、大まかな話しかできないが、特に生命保険については、今回の保険法の改正で盛り込んで欲しい点が幾つか思いつく。知人によると、8月中にはパブリック・コメントの募集が始まるらしいので、重要事項が見つかれば、コメントを送ってみるのも一興かも知れない。
 今、筆者が、思いつく限りの、保険法改正への要望事項を幾つか並べてみる。尚、私は、現在、保険会社とは何の利害もないし(社員総代なんて、やっていない、ということ。もっとも、頼まれる筈もないが)、民間の生命保険は、20年近く前に入った、団体保険のガン保険の払いが月々1500円程度あるだけで、生保には過去二社にお世話になった(=勤務した)が、死亡保険や医療保険を始めとして、民間の生命保険会社の保険はこれ以外に何も契約していないし、これから契約する予定も一切ない。

(1)保険料の計算根拠の明示(付加保険料の投信並み開示)

 保険に対する最大の要望はこれだ。「命のデリバティブ」とも言うべき生命保険のプライシングは非常に複雑であり、契約の損得勘定が難しいし、異なる会社間の商品比較も難しい。せめて、支払った保険料のうち、どれだけが保障や貯蓄に使われているのかを知るために、それ以外に使われるもの(付加保険料)の率(或いは額)と内訳(営業費見合いで、幾ら、等)を知りたい。また、営業費見合いの付加保険料は、契約の最初の2年間程度で集中的に徴収されるが、これは、乗り換え営業を誘発する原因にもなっており、契約者としても、いつ解約するか、また契約してもいいのか、ということの判断に必要な情報だから、付加保険料は内訳の開示も必要だ。
 たとえば、もっと単純な商品である投資信託では、販売手数料、信託報酬、さらには信託報酬の内訳(販売会社に幾ら、運用会社に幾ら、等)も明らかにされているし、ファンドの中で運用の際に支払った手数料や、監査の費用等も、受益者にディスクローズされている。
 内容が複雑で、しかも、金額も大きく、契約期間も長い、生命保険の場合(日本人の場合、家の次に大きな買い物らしい)、消費者保護の観点からも、付加保険料の開示は必須だと思うが、残念なことに、とても実現しそうにない情勢らしい。
 かつて生保関係者から聞いた話を順不同に組み合わせると、(A)「先に、経費を取ってしまうという今の仕組みは、先輩達が、実に都合良く作ってくれた、旨みのある仕組みだ」という本音と思える声があったし、これを開示すべきでは、という意見に対しては、(B)「トヨタの車だって、原価を明示して売っていないやろ。商売なんやから、(開示しないのが)当然や」という声もあれば、(C)「保険が不利に見えるような情報をいたずらに開示すると、保険契約が減って、本来だったら救われていたはずの契約者が救われなくなる」という意見も聞いたことがある。
 (C)は非営利・相互扶助の観点を感じさせるのに対して、(B)は、保険会社の内勤社員にとって、保険が「商売」であるとの現実に立脚している。特に、相互会社形式の生命保険会社の場合、生命保険が公共的な性格を帯びた相互扶助であるということと、保険会社が現実には「商売」であることとが、都合良く使い分けられているような気がする。
 もっとも、私が付加保険料を問題にするのは、生保の経営哲学の問題からではなく、一重に、顧客に判断上必要な情報を与えるべきだという、消費者保護の観点からだ。手数料の高い商品、あるいは窓口でも、投資信託が売れているように、手数料を明示したからといって、生命保険が売れなくなるものではないだろうし、そもそも、日本人は生命保険に過剰加入の傾向があるから(世界人口の2%で、生命保険料の25%を支払っている、と聞いたことがある)、手数料について「投信並み」に開示することは、是非とも必要なことだと思う。それに、契約者のために、もう少し直接的に価格競争してくれてもいいのではないか。
 また、保険商品を設計する際に使った「予定利率」と「生命表」(あるいは死亡確率に関するデータ)も、きちんと開示・説明した上で、保険契約を締結すべきだと思う。

(2)解約返戻金で「含み」を返す方法を定めて欲しい

 保険契約から生じる保険会社の利益のうち、利差益、死差益は、基本的には、契約者のものだろう(特に、相互会社の場合、契約者は、社員であり同時に株主的存在でもある)。運用で生じた含み益は、一定の運用リスクのための準備金的なバッファーを持っても良いとは思うが、もともと、保険商品は、これで成立すると確信できる余裕をもって設計すべきものであって、「一定のバッファー」はそれほど大きな物でなくて良い筈だし、それこそ「一定」の歯止めが必要だろう。
 区分経理がしっかりできているなら、解約の際には、解約返戻金の支払い時に、契約者の契約期間に応じて、相応の「含み」を返還すべきではなかろうか。契約者配当で、取りすぎた保険料をチビリと返すだけでは不十分だ。

(3)セールス時に解約返戻金のテーブルを提示して欲しい

 先の営業費見合いの付加保険料を前倒しで取る仕組みの関係もあって、生命保険の解約返戻金は、なかなか見当が付かないし、「それにしても、少ない」という声をよく聞く。
 解約返戻金の多寡については、商品設計上の努力を期待したいところだが、決まっているものは仕方がない。しかし、たとえば、「・・・、6カ月で解約すれば幾ら、7カ月で解約すれば幾ら、・・・」といった情報は、契約する前にあらかじめ知っておきたい情報だ。
 将来変化する可能性がある、というなら、その可能性の具体的な説明も必要だろうし、この点を伏せたままの保険販売は、後味が良くない。

(4)保険金支払いの遅延行為の責任を明確化して欲しい

 先般、保険金の不払い問題で明らかになったような、入院特約の請求があった場合に、通院費用の特約も請求が出来ると説明しなかった場合の生命保険会社の責任を明確化して欲しい。保険契約者は、基本的に情報弱者なので、保険会社側に、ある程度の義務を課すべきだと思う。
 保険金を請求する時に、保険会社の担当者(又は募集に従事する者)によって、(1)間違った説明がなされたり、(2)保険金の請求書が渡されなかったり、(3)何らかの「保険金の請求を延期させる話法」などが介在して、保険金の請求が断念・延期され、その後、消費者相談や苦情処理などを経て、最終的には「保険金を支払うべきだった」と判断された場合、などに、保険会社の責任を明確にする規定を作らないと、「請求主義」を基調とする、曖昧さの残る行政指導の下では、保険金の速やかな支払いが、場当たり的な努力目標にしかならない可能性があるのではないか。
 どのように規定したらいいのかは、私の手には余るが、「保険金支払いの遅延行為」を保険法できっちり規定して、保険会社の責任を明確化して欲しい。

(5)子供や知的障害者などの死亡保険契約の制限をして欲しい

 たとえば、小さな子供に保険を掛けて、事故に見せかけて、殺す、といった、凄惨な事件がある。この世知辛い世の中では、子供や、知的障害者などの、判断能力のない弱者に対する一定額以上の死亡保険契約を認めることは、いかにも危険で、また、必然性が乏しい。せいぜい葬式代くらい(200万-300万?)が子供(小学6年生以下)に賭けられる死亡保険の上限だと思うが、どうだろうか。
 この規制の反対派には、「現実にニーズがある」から(どんな、ニーズだ?)という恐ろしい声もあるようだし、「子供にお金をかけて、松坂投手や、荒川静香選手のような選手に育てようとしている親もいるし」という屁理屈と思えるような理由も聞くのだが、「子供が死んだら、大金が入る」という状況の親子は、もう、これ以上作らないで欲しい。
 
(6)保険金の部分支払いが可能な規定を作って欲しい
 
 たとえば、告知義務に違反があった場合、保険金が全然下りないというのは、酷な場合があると思う。オール・オア・ナッシングではなく、過失の程度に応じて、たとえば、8割払うとか、5割払う、といった選択が、可能であるべきではないだろうか。もちろん、裁判所なり第三者機関(生保の息のかかっていない中立な機関である必要はあるが)が介在してもいいと思うが、どんなものか。



 保険というものは、リスクをヘッジする仕組みであり、本来、私のような、大した資産がない割に、家族への責任は大きい、かつ臆病で悲観的な人間の場合、積極的に利用を考えるべきものだろう。しかし、現行の日本の生命保険会社の商品は、付加保険料が大きすぎて(商品にもよるが、払った保険料の6割くらいしか保障や貯蓄に使われていないものがざらにある、と言われている)、あまりに割が悪いので、これを使わない工夫が大事だと思うし、事実、多少の経済的余裕があれば(貯金で言えば数百万円レベル。国民年金には遺族年金もあれば、健保には高額医療費制度もある)、無しで済ますことができるものだ、というのが、基本的な考え方だ。
 ただし、たとえば、付加保険料が10%程度の死亡保障の保険が出来れば(ネット証券ならぬ「ネット生命」の登場と新商品に期待している)、自分でも積極的に利用を考えるし、他人にも勧めるかも知れない。保険そのものが悪いのではなくて、現在の保険商品が余りに悪いのだ、というが私の基本観だ。

 何はともあれ、保険法の改正には注目しよう!
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大相撲の八百長問題をメディアもファンも直視すべきだ

 「週刊現代」の6月2日号に、白鵬の師匠である宮城野親方の愛人と名乗る坂本直子氏が、宮城野親方と八百長の舞台裏について語った会話の録音が公開されている。
 先ず、結果的には、白鵬が横綱に昇り損ねた昨年の名古屋場所の取り組みについて、詳しく生々しく語られている。上位とのやりとりでいえば、朝青龍に300万円、魁皇、千代大海、琴欧州に200万円ずつを、宮城野親方が渡し、決まり手に関する打ち合わせをして白鵬は取り組みに臨んだ。記事によると、朝青龍は、土俵上で投げられて背中に砂が付く負け方を嫌い結果は寄り倒しで白鵬の勝ち、三大関は何れも投げられる決まり手で破れている。特に、千代大海(一度突っ張らせて貰ってから、投げられる)と魁皇(投げに大きく飛ぶ)は、年期の入った名演技であったようだ。
 宮城野氏のものとされる声は、女性の「魁皇ってインチキ慣れてるの?」という問いかけに、「考えてみろ。(八百長をしないと)34歳で大関なんて守れないって」と答えている。魁皇の取り口を見ていると、申し訳ないが、このコメントは頷ける。

 録音の真偽については、宮城野親方の声を声紋鑑定すれば分かることだ。かつて相撲の八百長を告発しようとした元力士が、不自然とも思える急死をしたことがあったが、記事を読むと、録音は「週刊現代」の手元にあるようだから、坂本氏の安全は大丈夫だろう(記事の広告を見たときに、真っ先に心配だったのは、この点だった)。相撲協会は、弁護士との相談を隠れ蓑に、正式なコメントさえ発表できていない。この状況から見て、録音は真正なものだろうし、内容も概ね当たっているのだろうと、推察される。
 スティーブン・D・レビット「ヤバい経済学」(望月衛訳、東洋経済新報社)には、千秋楽の7勝7敗力士が異常な高勝率であることが書かれているが、相撲の八百長は、「ときに、ある」と私は考えている。狭い社会での繰り返しゲームそのものだから、ゲーム論でいうところの「協調」をしたくなるインセンティブは豊富にあり、また、怪我を避けたいという事情もあるのだろう。
 但し、朝青龍も白鵬も、実力的には圧倒的に強いのだと思う(ガチンコ力士を物差しにして測ればいい)。彼らは強いからこそ八百長を受けて貰えるし、収入で保険を買う余裕もある。

 異様に思えるのは、NHKや大新聞をはじめとして、多くのメディアが、この問題を全く無視していることだ(朝日新聞は、週刊誌に記事が出たことを小さく報じているが)。競馬やサッカーのように一般大衆のお金は絡まないが、大相撲をスポーツとして報じている以上、八百長があるか無いかは重大な問題だろう。相撲協会との関係が大切なのか、それとも、他メディア(「週刊現代」)の手柄を際立たせたくないのか、理由は分からないが、ここまで白々しい報道ぶりは、疑問を通り越して、不愉快でさえある。
 ついでに言えば、場所前、朝青龍が稽古場で豊ノ島に怪我をさせた件については、傷害として警察沙汰にしてもよかったのではなかろうか。
 私は、幕内力士では、白鵬、朝青龍が一、二に好きだし(後の楽しみは把留都だ)、異国のハンディキャップを跳ね返すモンゴル勢の活躍を素晴らしいと思って見ているが、稽古場での乱暴(恐怖心を植え付けて本場所の取り組みを有利にする。今場所は豊真将が朝青龍に精神的に呑まれていた)や、八百長は、よろしくない。
 大相撲協会は、八百長を一度事実として認めて、今後そのようなことが起こらないような対策を発表すべきだろう。「なかったことにする」アプローチでは、ますます信用が低下するし、今後の八百長に対して根本的な対策が出来ない。実際に八百長の問題があった、ということを認めなければ、たとえば、「八百長は両者廃業」というようなルールを定める上で説得力がない。

 例えば、昨日の朝青龍・魁皇戦で、私がゲストなら次のように解説するだろう。先ず、取り組み前には、こんな感じだ。「普通なら、魁皇に勝機は無いと思いますが、今場所の朝青龍が、『もう、今場所はダヴァ(白鵬のこと)の優勝で決まっているのだから』と割り切っていれば、魁皇に、星の借りを返す可能性がありますよ」。取り組み後には、「魁皇は、切れた上手を、もう一度取らせて貰えたのが勝因ですね。いつもなら、朝青龍が、体を振って、速い動きで、有利な体勢を作ります。朝青龍は背中に砂が付くのは嫌いらしいですから、無理に残さずに、前から軽く落ちましたね。予定通りじゃないでしょうか。昨日の千代大海との相撲もそうでしたが、今日は、魁皇らしい決まり方の相撲を作ることが出来たので、いい記念になったのではないでしょうか。大関が引退するときの回顧のVTRに含まれる一番ですね」。
 正しい解説であるのかどうかは分からない。しかし、相撲界が降りかかる火の粉を払おうとさえしないのだから、こうした見方が許されていいと思う。ついでに言えば、「週刊現代」の記事の通り、朝青龍は、負け方が下手くそだ。

 「週刊現代」の記事には次のようなやりとりがある。
宮城野親方「ダヴァが(夏場所で横綱に)上がっちゃったら、もう(坂本氏と)どこにも行けなくなっちゃうでしょう。(今場所直後の5月30日の)水曜日に(横綱昇進)伝達式があってさ」
女性(坂本氏)「えっ、それももう決まっているの?(おカネを)配ってるの?
宮城野親方「いや、それは知らない。(白鵬)本人に聞いてくれっちゅうの。オレはそういう(八百長の)パイプを作ってあげたんだよ。あとは自分でできるだろうっていうの。子供じゃねえんだから」

 白鵬は、間違いなく強いし、まだまだ強くなる素質を持っていると思う。大関昇進時に北の湖理事長は、(素質的には)「悪くても、横綱になるだろう」と言ったが、その通りだ。取り口としては、立ち会いの後、時に、右手で相手を引き込むようにいなす悪い癖があったのと、勝負を急いで土俵際の詰めが甘くなるところが欠点だったが、これらは矯正可能だ。ガチンコでも十分綱を張って行けると思う。
 問題があるとすれば、彼の場合、緊張しやすい性格だろう(だから、初日の負けが多い)。これに関しては、今場所は、中盤以降に「大人」になったようだ。落ち着いた取り口で、危なげが無くなった。確かに、「子供じゃない」!
 宮城野親方の言う通り、30日には、宮城野親方と白鵬の所に使者が来そうな状況になって来た。横綱になる以上、白鵬には、これまで以上にいい相撲を取って欲しい。ファンとしては、ガチンコの相撲を見分けつつ、その強さと成長を見守ることを楽しみにしている。
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新聞の将来像は?

 「週刊現代」で「新聞の通信簿」という持ち回りの連載を担当しているため、拙宅には、毎日、6紙の新聞(読売、朝日、日経、毎日、産経、東京)が届く。集合住宅に住んでいるので、郵便受けが一杯にならないように、こまめに新聞を取りに行かねばならない。
 郵便受けが並ぶ一角には、大きめのゴミ箱が置いてある。ホンの少し申し訳ないと思いつつ(新聞の代理店に)、しかし、何ら惜しいとは思わずに、各紙に挟まれた新聞広告を捨てて、本紙だけを持って、私は、家に戻る。この作業をする際に、別の住人が、同様に広告を捨てて、手に新聞だけを持って、出勤していくことも多い(注:4月から、私は、人並みの時間に起床している)。何が言いたいかというと、新聞の折り込み広告は読まれていないということだ。
 「新聞」という媒体の将来については、興味を持っているので、毎日新聞社の常務取締役だった河内孝氏が書いた「新聞社 破綻したビジネスモデル」(新潮新書)を読んでみた。2006年にご退任されたばかりなので、まだかなりの程度、毎日新聞社の視点から書かれているが、紙媒体を主に宅配で売る日本の新聞のビジネスモデルが、どう見ても先細りで、しかも、そのスピードがかなり速そうなことが、良く分かる。
 全体的な部数の低落傾向、大量の「押し紙」(印刷されて、販売店に届けられていても、配達されていない、実売を伴わない新聞)の存在とこれによる広告費の水増し(広告主から見ると詐欺的だ)、異様に高い販売コスト(売上の4-5割!)、ネットと競合しているのに新聞社の側では儲からないインターネット・ビジネス、ビジネス音痴の編集出身が経営トップに就くことの弊害など、新聞社が直面する問題が多数書かれている。また、詳しくは、同書を読んでみていただきたいが、読売、朝日に対抗して残るには、産経新聞、毎日新聞、中日新聞(東京新聞が傘下にある)の経営統合による「第三極」が必要だ、という河内氏の私案が載っているのも、興味深い。
 もっとも、仮に「第三極」が完成して、印刷や販売のコスト、更には取材のコストがセーブできるようになることがあるとしても(新聞各紙の名前と紙面は別々に残る形の統合を提案されている)、その頃には「紙」の新聞全体が、今よりも大きく落ち込むので、根本的な解決にはならないような気がする。
 尚、第三者的には、「明らかに問題だ!」と思う、再販価格維持制度(新聞に談合を批判する資格無し)、記者クラブ制(新規参入者の排除と、情報源との癒着に伴う官製情報の垂れ流しが問題)の二点については、河内氏は、重大な問題意識をお持ちのようには読めなかった。私個人としては、新聞社の経営問題よりも、これら二点の不正義の方が余程重大な問題だと思うが、ここでは、これ以上論じない。
 これまでに何度か書いたが、私が、仮に今年会社に入ったビジネスマンなら、宅配の新聞は無しで済ませるかも知れない。仕事によっては、日経は購読するかも知れないが、一般紙は、まず宅配では読まないと思う。ニュースはネットで集める方が、早くて、便利で、低コストだ。
 河内氏の著作によると、アメリカの新聞では、ウォール・ストリート・ジャーナルが有料購読モデルを何とか形にしつつあるが、ニューヨーク・タイムスの無料の速報ニュースとコラムニストの原稿を有料化するアプローチはそれほど上手く行っていないし、ワシントンポストはネットの記事を無料化して広告費を稼ぐアプローチだが、これも大した稼ぎにはなっていないという。
 媒体の主力を紙からネットに移さなければならないことは明らかだと思う。ただ、現在のように、ポータルサイト(Yahoo!やGoogleニュースなど)の中で、無料で新聞同士が競争しなければならない形だと、記事の質をあまり落とすわけには行かない一方で(ユーザー側にはメリットがあるが)、ページビューや広告費の多くがポータルサイトのものになってしまう。かといって、たとえば、記事の前半だけ無料で読ませて、後半は有料というような、ネット的にはいかにも「うざったい」アプローチが、多数の支持を得られるとも思えない。ネットの情報にお金を払うことが、今よりもずっと気楽になって、有料モデルが広く機能するようになるのかも知れないが、スマートではない。
 結局のところ、記事やコラムの本文の中に(たとえば段落と段落の間に、一画面に一個くらい)個々に広告を織り込むようにして、ネットには無料で載せるというようなアプローチになるのだろうか。これなら、ポータルサイト経由で読まれても、広告には読み手の目が届くし、広告料は新聞社のものだ。新聞社・書き手・記事の内容などによって、広告の内容が変化し、広告のクリック数や読み手がどこから来たかによって広告料が変わるようなイメージだろうか。実は、そうなると、広告スポンサーが、たとえばGoogleのような仕組みを介して広告を狙いの記事に入れるような格好になるので、広告代理店が中抜きされることになるのかも知れない。
 このような形になると、タレントやアナウンサーの「潜在視聴率」のような評価で、書き手個人の評価や報酬が左右されるようになるかもしれない。
 紙の新聞にもそれなりの良さはあるが、かさばる紙の不便さと、販売コストが価格に乗っていることを思うと、何はともあれ、新聞各社には、早く安価なネット購読版を出して欲しい。テキストのみ、画面PDF版、過去記事の検索機能付き、携帯版、など、幾つかのバーションが出来るだろうし、簡単な動画・音声付きの新聞も出来るだろう。現在、産経新聞がネット版を用意しているが、他紙は消極的だ。しかし、地上波デジタルが普及するころには、PCとテレビの隔たりが、今よりももっと小さくなっているだろうから、新聞のネット化は、相当に急ぐ必要があると思う。
 ところで、ネット版が普及すると、宅配の紙版を圧迫し、これは、新聞販売店の折り込み広告収入などにも影響するから、どこかで、紙媒体の営業サイドから待ったが掛かるだろう。これは、かつて、投信会社が、直接販売のルートを拡大しようとしたときに、親会社である証券会社の支店との喰い合いが起こって、結局「直販」が育たなかった事態を思い起こさせる(現在の投信の好調は、銀行窓販という新しいマーケットが突然開けたことによるもので、運用会社の販路確保にとって根本的な問題解決ではない)。
 新聞がネットで成立するようなローコストのビジネスになれば、先鋭的なものも含めて、多様な意見を持ったジャーナリズムが、もっと登場しやすくなるだろう。新聞も、放送も、新規参入に対する障壁を撤廃することが重要だと思う。読売、朝日以外の「第三極」を作るよりも、寡占を解体して、意見と情報の競争がもっと働くようにすることが大事ではなかろうか。巨大な紙ビジネスの制約が外れると、優秀な仕事をする人については、ジャーナリスト個人の知名度と収入はもっと上がるようになるだろう。
 何はともあれ、日々、新聞6紙の紙の山を見つつ、「こんなビジネスは、長続きしないだろうなあ」という気持ちが深まっている。
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「赤ちゃんポスト」と「ポスト安倍」

 熊本市の慈恵病院が計画している「赤ちゃんポスト」が、「許可しない合理的な理由はない」という判断の下に、熊本市から設置許可を得た。(匿名の親が赤ちゃんを置くことが出来るような施設を設置すべく、病院の施設を改造することを許可した、ということのようだ)
 一方、政府は、赤ちゃんポストの設置に対して、これを実力行使で差し止めるという方針ではないようだが、かなり明確に反対・批判している。安倍首相は、親が子供を捨てるというようなことは、あってはならないことで、こうしたものを全国に拡げることには反対だ、といった談話を発表している。

 捨てられ、生きることが出来なかった筈の命が救われるから「よい」のか、捨て子行為を助長するから「わるい」のか。
 
 私は、「赤ちゃんポスト」の設置は、三つの意味で「よい」と思っている。

 先ず、意思決定の問題として、赤ちゃんポストを設置することの方が「やり直し」が効くことだ。
 将来、赤ちゃんポストに、あまりにも弊害が大きいことが分かれば、これを廃止することができるし、その間にも何人かの赤ちゃんの命を救うことができよう。逆のケースを考えると、失われる命が(絶対とはいえないが)ある公算が大きい。現実に、新生児・乳児の遺棄のケースがあるから、慈恵病院は、赤ちゃんポストを設置しようとしているのであって、これを一人でも救おうという意図は尊重してもいいのではないか。やってみなければ、効用も、弊害も、正確には分からないが、弊害は、かなりの程度まではお金で解決する話で、命の問題ではない。
 
 もう一つのポイントは、「子供を放棄する親はいけない」とは言っても、もろもろの事情で放棄せざるを得ない親がいるという現実を認識すべきだ、ということだ。
 確かに、実の両親が責任を持って子供を育てることが出来ると望ましいが、経済的な理由などで、それが出来ない場合(少なくとも親がそう判断する場合)は存在する。この場合に、親を責めても仕方がない。無理に育てても、親子共倒れになるかも知れないし、別の形の悲劇が起こるかも知れない。
 親が、乳児院に名乗って預けることが望ましいかも知れないが、そうしたくない親はいるだろう(だから遺棄される赤ちゃんがいる)。そういう親に当たった赤ちゃんの命を、放置するのはしのびない。
 やむを得ず(とはいえ違法だし、間違いなく「悪い」ことなのだが)赤ちゃんを捨てる親にも、「やむを得ず」、「申し訳ない」といった気持ちはあるだろうし、後から後悔にさいなまれることもあるのではないか。捨て子は、本人も可哀想だが、親にだって可哀想な面がある。安倍首相には、子供を捨てる親の気持ちに対する想像力が欠けているように思われる。

 また、仮に、まだ無事な捨て子がどこかで見つかった場合、政府なり、自治体なりは、この子を保護するのだろう。ならば、はじめから、安全な捨て場所がある方が、ずっといいのではなかろうか。

 赤ちゃんポストで救われた赤ん坊が長じて、安倍首相に、「私は、赤ちゃんポストのおかげで、生きて、その後の人生を味わうことが出来ました」と言ったら、安倍氏は、どう答えるのだろうか(「キミの親は無責任な非国民だ」とでも言うのかな?)。
 もっとも、その時まで「安倍首相」が続いているのは、あまり嬉しいこととは思えない。彼の、赤ちゃんポストに対する談話などを聞いていると、早く「ポスト安倍」を現実的に論じたいものだと思う。
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堀江貴文氏への判決に思うこと

 日興コーディアルとライブドアに対する、検察・東証の措置を較べると、前者に不当に甘く、後者に乱暴なまでに厳しい印象を持つが、しばし、日興との比較は忘れて、堀江氏への2年半の実刑判決について思うところをメモしておく。

 先ず、「2年半の実刑」という判決は、彼が有罪なら、本来決して重過ぎはしない。上場株式の情報開示に伴う不正は他人の保有する経済価値への影響が大きく、この意図的な不正に関しては、10年、20年といった、不正を行うことが不正がバレる確率を考慮しても全く引き合わないくらいの重罰を設定することが適当だろう。
 重罰は、ある意味では、追加的な予算支出を伴わない理想的な不正対策だが、不正の定義や判定が曖昧な場合に、たとえば株式の公開といった積極的な経済活動に対して抑制要因となる副作用がある。日本の場合に(外国もそうかもしれないが)、司法が公平でない印象があるし、事前に明確な判断基準を示すことに対して消極的なので、この副作用は無視できないかも知れないが、資金の動きがが巨大化・高速化している現代にあって、情報の不正に対する罰はもっと重くてもいいだろう。
 では、今回の、堀江氏の場合はどうなのか、ということだが、彼は、株式分割による株価のつり上げ(株価操作目的だとは明言していないが、実質的な効果はそうだった)や、ニッポン放送株取得の際の時間外取引などを「違法でなければギリギリまでやっていいだろう」という態度で行ったのだから、僅かでも(53億円の粉飾は巨大でもないが、「僅か」でもない)ルール違反がバレたのだから、法律通りの罰を喰らってもバランス上は当然と思えるので、同情心は湧いてこない。

 一方、宮内氏をはじめとする彼の部下たちが執行猶予付きの判決であった場合、また、既にカネボウなどの経営者は執行猶予付きの判決を貰っているが、堀江氏に対する量刑は相対的に「重い」といえる。
 裁判はそのようなことに影響されない、との声もあり、実際にそうであって欲しいとは願うものの、堀江氏が、取り調べに対して非協力的で(検事の調書をなかなか認めないなど)、且つ法廷での言動に反省の色が見られない、といった「心証」が、求刑や判決に影響しているなら、日本の司法は半ばインチキだ。冤罪を作り出すエンジンが、仕組みの中に組み込まれているといっていいだろう。
 そもそも、取り調べが適切なものなのか、事後であっても客観的に確認する手段がない、というのは野蛮だ。取り調べの様子は、ビデオなどに記録されて、弁護側に開示されるべきだろう。検事の調書というものは、一体どれくらい信用していいものなのだろうか。

 但し、堀江氏の場合、損害賠償請求など民事案件への影響から、量刑そのものよりも、有罪か否か方が影響は重大なのかも知れない。今後、彼の個人資産を狙った民事訴訟が活発化するのだろう。
 ただ、時価総額から計算すると6千億円ともいえる株主の損の全てを堀江氏の責任に期するのは無理だろう。一つには、不正は2004年度の決算1期であって、ライブドアは、いわば、イカサマで稼いだチップで博打を張って、その後に大儲けしつつあったときに、過去のイカサマがバレたのだった。しかも、摘発の仕方や、上場廃止に至るプロセスは、ペイントハウスや日興コーディアルなど他の粉飾事例と較べても乱暴だった。現実的に金を取れるかという問題を脇に置くとすれば、ライブドアショックで損をした同社の株主は、堀江氏ら旧経営陣と共に東京地検や東証も訴えの対象にしていいかも知れない。たとえば、東証については、訴えて、賠償金は取れずとも、上場廃止の基準を明確化する方向に動くかも知れない。
 今回、弁護側は、宮内被告らの不正を暴き証言の信憑性を崩すと共に、堀江氏が細部を管理できないお飾り経営者だったという「バカ殿作戦」を取ったが、結局、事実として社長であった堀江氏に責任があったと認定されたようで、結局、弁護側の作戦が失敗だったようだ(ちなみに、日興の場合、有村氏は「小利口な殿」だから、堀江氏の場合よりももっと容易に粉飾への責任と、背任などが立証できそうに思える)。

 堀江氏について残念なのは、資本取引を売上にして利益に計上する操作が(ライブドア問題に詳しいあるジャーナリストも、彼らの「株食い」はやっぱりいいことではない、と仰っていた)、投資家に対して誤った情報をもたらしたことは事実なのに、これを反省する気持ちが上場企業の経営者だったのに、現在も無さそうなことだ。株式売却益を経常利益に載せられては、投資家は騙される。株式投資のセミナーまでやっていたのだから、堀江氏がここを分からないはずはない。
 この反省を抜きに、「これではリスクを取って起業する人間は誰もいなくなってしまう」というような、身勝手な推定を述べるのは止めた方がいいと思う。起業家の全てが、決して、彼ほど汚い際どい手(株式100分割など)を使うわけではない(汚いのもいるが)。
 
 もっとも、私は、直接面識はないが、彼のビジネスに対するセンスと集中力、それにメディアに対して発言するときの目の付け所など、彼のある種の個性と能力が好きだ。
 彼は、モノポリーでもプレイするような心持ちでビジネス・ゲームに取り組んでいたのかも知れないが、ある種のゲームのツボを見付ける能力があったと思う。
 また、常にではなかったかも知れないが、彼は、自分のことを突き放して、対象として見ることが出来た。その点では、世の中を自分に都合良く見てこれを言い散らかすだけの、経営者によくありがちな、「ポジティブ・シンキング・バカ」ではないと思う。
 
 それにしても、メディアはまだ堀江氏を追いかけているが、あの事件からたった1年2ヶ月しか経っていないのに、堀江氏が、とても古い人に見えたのはどうしてだろうか。私も含めて大衆の心はもう堀江とライブドアの一連の事件に飽きているのに(率直に言って、私はライブドア事件に飽きた。心の奥底では、もっと新しい刺激が欲しいと思っている。皆さんも、一緒でしょう?)、これが視聴率や部数につながるとまだ思っているメディアが、たかだか50数億円の粉飾事件の判決に、大軍(報道陣)を繰り出して、騒ぎを作っている(あるいは、騒ぎが静まらないように頑張っている)。
 16日の9時20分過ぎ、地裁に向かう堀江氏の車を上空から移した映像を見ていたら、車から降りたホリエモンが、立ち止まって、上空をしばらく眺めていた。放送局のヘリコプターを見上げていたのだろう。
 私は、勤務先(楽天証券)が六本木ヒルズにあるので、よく分かるが、報道のヘリコプターが上空を飛び回る音は、圧倒的にうるさくて、相当に迷惑なものだ(世の迷惑を考えると、あの程度の事件でヘリなど飛ばすべきではない)。
 時代の空気に敏感なホリエモンは、空を見上げながら「うるさいなあ。まだ、こんなもの追いかけているなんて、古いねえ」とでも言っているのではないか、と想像した。実は、私は、その映像を、当のヘリコプターを飛ばしている、朝のテレビ番組に出演中のモニター画面で見ていたので、あの報道振りが、幾らかは自分のことのように恥ずかしかった。
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メディア業界の偽装請負について

 あるメディアの、付き合いの長い、親しい(と少なくとも私の方では思っている)編集者の取材を受けて、その後に、先ほどまで、お酒を飲んでいた(さらにその後、帰宅して、一本原稿を書いて、今もこのエントリーを書きながら別のお酒を飲んでいるが・・・)。
 
 ここのところ、メディアである程度以上親しくしている人物には、キヤノンに代表される偽装請負問題について、そのメディアがどのような距離感を持っているのか、という点について質問することにしている。
 
 気にせずに書くのが当然だと言うメディアもあれば、やはりスポンサーのことは意識せざるを得ないので(サラリーマンとしては)書けないと言うところもあれば、読者がたぶん望んでいないので取り上げない(本当かな?)と言う媒体もある。今日会った編集者の立場は、彼の媒体の読者の性質からして三番目なのかな、という推測を持っていたのだが、彼は、なかなか面白いことを言った。
 
 「いやあ、考えてみると、雑誌の編集部なんて、自分自身が偽装請負をやっているわけなんですよ。契約して働いて貰っているライターさんのギャラは、彼なり彼女なりが所属している会社に払っているわけだけど、ライターさんには、編集部に来て貰って、『これは、こう直してくれ』とか『悪いけど、土日で仕上げてよね』とか、完全にこちらの指揮系統下で働いて貰っています。我々がやっていること自体が、偽装請負なのだから、紙面で偽装請負を批判するのって、天にツバするような感じがあるんですよ」

 フリーのライターが所属する、多くは友達同士で作った小さな会社では、雇用保険も、厚生年金も、下手をすると健康保険までも、加入していないことが多い。個人で、国民健保と国民年金くらいは加入して払っているケースはあるが、それは、かなりしっかりした人の場合であって、それさえも怪しい。加えて、あの世界は、〆切というものがあるので、これに対応するためには、倒れるギリギリくらいまでは、頑張って当たり前、という意識が、雇う側にも、雇われる側にもある。もちろん、編集の現場にあって、現実的な指揮権は雇っている側にある。そして、これもキヤノンの労働者と似ているかも知れない点だが、殆ど同じ仕事をしているメディア側の正社員と契約ライターの年収を較べると、後者は前者のせいぜい半分くらいなのである。

 偽装請負を大々的に報じた朝日新聞社の、この件に関する社会貢献の価値がこれで下がるものではないと思うが、朝日にも週刊誌などの雑誌がある。側聞するに、かの高級官僚といい仲になった「AERA」の女性記者も朝日新聞社の正社員ではなく、契約ライターだ。契約ライターの場合、ギャラが、法人払いになっているケースは少なくないだろうと推測される。構造としては、偽装請負である。

 ちなみに、私の場合は、原稿料を法人口座(株式会社と有限会社を持っている)に支払って貰っている場合が多いから、編集部員として編集部の現場でメディアの正社員様の指揮下にあるわけではないが、偽装請負労働者の在宅労働バージョンのような立場にある、と考えられなくもない(幸い、中間でピンハネされることはないが)。仮に、一社だけに収入を依存していたら、偽装請負の労働者と同じくらい、立場は弱いだろう。

 テレビ番組の制作現場も同様だ。制作の現場では、たいていの場合、テレビ局の正社員であるプロデューサーが責任者兼権力者であるが、どの番組でも、たぶん、テレビ局の局員よりも、制作会社の社員の方が、関わるスタッフの数が多いし、さらに、例の「あるある・・・」の場合のように、この制作会社がさらに下請けを使っているケースもあるが、番組に関わる人々は、大半が一つの現場で、プロデューサーなりディレクターの指示の下に動いている。そして、テレビ局が、たとえば、下請け会社の社員の社会保険について気にしているとは思えない(私の推測です。ちがっていたら、どなたか教えて下さい)。もちろん年収は、個人差があるとしても、一段階下るごとにざっと半分だろう(孫請けでは4分の1)。
 
 AD(アシスタント・ディレクターという名の、小間使い)などは、とても親には話せないような低賃金で、信じられないくらいの長時間労働に関わっているケースがあるが、それでも「テレビに関わっている」ということに喜びがあるようで、一種の魔力があるようだ(活字の世界には、そこまでの魔力はないようだ。これがなぜなのかは、興味深い問題だ)。
 
 ジャーナリストたるもの、自分(たち)がやっているから、批判できない、などというケチな了見を持つ人物は、そもそもこの仕事に向いていないと思うが、判断の元になる情報提供者である彼らの業界がこんな感じなのだから、世直しは大変だし、「同一労働同一賃金」の世界は遠い。
 
 政治家を買収した場合にはこれを罰する法律があるが(事実がばれにくいという問題はあっても)、企業の場合、メディアを広告費で実質的に買収したり、官庁の場合は、情報提供で差を付けたり(北海道警察が北海道新聞にやったように)という、メディアの実質的な買収は、これを防ぐ有効な手段がなかなか見当たらない。
 
 考えてみると、記者クラブという明白な談合の仕組みを持ち、自由競争に反する再販価格維持制度を固守し、外資に大量の株を持たれる心配もなく、報道内容に関しては「日本語」という非関税障壁を持つ、メディア業界に、権力なり社会なりの批判を期待することが現実的ではないのかも知れない。本当は、守られている故に大胆であって欲しいのだが、現実的には、現状を恵まれた既得権と考えて行動する「ビジネス・パーソン」が多いのだろう。
 
 もっとも、ネットはローコストな情報発信手段なので、この発達は、正義感の実現を安価にしている面が、幾らかは、ある。絶望するのは止めて、先が長いことを意識しつつ、気長に批判を続ける、ということが大事なのだろう。
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中年の夢の可能性

 NHKが西澤ヨシノリ選手を取り上げた番組、「人間ドキュメント 西澤ヨシノリ」を観た。構成にメリハリがなくて、番組としては、不出来だと思ったが、西澤選手に関して、今まで知らなかったことが幾つか分かった。

 先日の試合の敗因は、5R以降、腰の痛みが再発したことであったという。そういうことであるなら、彼のパンチが相手に効かなかったことが納得できる。「腰を治して、納得の行く試合をもう一度」という気持ちは、それなりに理解できる。但し、あの試合を観ていて何とも痛々しかった、相手の左のパンチに対する反応の悪さも、腰に起因するものなのかどうかは、よく分からない。腰ではなく、目や脳の問題だとするなら、もう引退の潮時だ。ただ、何れにしても、本人が「やりたい」ということなら、やらせてあげるといいし、日本での試合のライセンスを剥奪することは、単に、彼に不自由を強いるだけだ。

 2004年にスーパーミドル級の世界王座に挑戦した時の相手アンソニー・ムンディンは、WOWOWの「エキサイトマッチ」で見た憶えがあり、強い。彼に善戦している訳だから、今、止めにくい、という西澤選手の気持ちは、分かる。それにしても、TKO負けした試合の後に、泣く娘さんをリングに上げて、「お父さんの子供なんだから、強くなれ。泣かなくてもいい。お父さんは頑張ったんだし、立ったでしょう」と言い聞かせる場面の印象は強烈だった。

 西澤選手は、筋トレの数値や、ロードワークのタイムを細かく記録しており、これが年々改善していることを心の励みにしているという。この場面に対して、若い頃に、彼とジムで同室だったという元世界チャンピオン(モスキート級)大橋秀行氏が「自分では衰えていると知っていても、それを意識しないために、数字を励みにしているのだろう」というようなコメントをしていた。「年齢で衰えているわけではない」ということが本人の気持ちにとって大切だ、というコンテクストなのだから、同業者は厳しいものなのだなあ、と思わざるを得ないが、このコメントをそのまま番組に使うNHKの神経もあまり気持ちのいいものではない。もっとも、西澤選手本人は、この種のことはもう言われ慣れているだろうから、気にはするまいが、こういう一言一言を処理するのに、精神がなにがしか疲れるのは確かだ。負けるな、西澤!

 さて、筋肉や反射神経が重要なスポーツの世界で、中年(取りあえず40代以降)に能力を伸ばすには並々ならぬ努力と素質が必要なのだろう。では、もっぱら頭を使う分野はではどうなのだろうか。

か つて「ファンドマネジメント」(少部数ながら、また増刷される。改訂しなくては・・・)という本を書くときに紹介したことがあるのだが、ハーバート・A・サイモンの研究で、知識に「チャンク」(AはBである、というような意味の一まとまり)という単位を設定すると、世界的業績(ノーベル賞級の科学的研究や、モーツァルトの作曲、チェスの世界チャンピオン、など)のためには、5~6万のチャンクが必要で、これを身につけるために、歴史上の天才達は、「集中的な10年(くらい)」の月日を費やしている、というものがあった。5万~6万という数字は、インテリの母国語の語彙くらいのものであるらしい。たとえば、将棋の羽生善治氏や囲碁のイ・チャンホ氏などは、将棋や囲碁の世界の手筋を5万~6万身につけている、ということなのだろう。

 ちなみに、拙著では、ファンドマネジャーとしての初歩を身につけるために「2年の集中的な努力」を想定した。将棋にせよ、受験勉強にせよ、力が大きく伸びる期間が2年くらいはあったのではないか、という拙い経験と、たとえば商社などの海外駐在員が、赴任して2年くらい経つと、現地の言葉を本当に使えるようになるという話を聞くので、「2年」と考えたのだが、例えば英会話の語彙でいうと、使える語彙が1万くらいあれば、日常会話には不自由しい程度になるだろうから、2年の努力の獲得チャンク数は、それくらいのものだろう。2年間集中的に努力すれば、素人とは少し違うレベルで仕事の格好を付けられるようになるだろうし、2年間努力してみて、力が伸びた実感がないようであれば、その仕事には向いていないと見切りを付ける頃合いではないか、というようなことを書いた。

 中年になってから新しい外国語を身につける人が、少数ながらいるように、中年から何か新しいことを始めて、ある程度のプロになる(たとえば、弁護士や作家になる)というようなことは、相当の努力を前提としなければならないが、可能ではあるのだろう。興味のある問題は、5万~6万チャンクとサイモンが推定した「世界的業績」を可能にする能力レベルまで、中年以降の努力で達することは、可能なのかどうか、ということだ。

 世界的天才達は、たいがい幼少の頃、遅くとも青年期前半には、自分の専門分野に入って集中的なトレーニングをしている。ただし、十代、あるいは二十代前半くらいの時期は、もちろん、肉体・脳などがフレッシュだということもあるが、普通の社会生活をしている人間の場合、二十代後半以降、結婚することもあれば、社会的雑事が増えることもあって、これが修行を妨げている面が少なからずあると思う。

 そこで問題は、中年以降に、たとえばプロ棋士の修行期のように、集中的な10年の努力を試みた例がどれくらいあるのか、ということだ。これは、案外無いのではないか、と思われる。筋肉を要するスポーツ、一種の計算力に近いヨミの能力を必要とする将棋や囲碁のようなゲームでは難しいかも知れないが(たとえば、将棋の羽生氏は、若い頃のようには早く細かく読めていないが、経験でこれをカバーしているように見える)、研究や創作の世界では、中年以降の努力で、「世界のレベル」に達することができる分野もあるのではないか、という想像は可能だ。

 もっとも、仕事もあれば、人付き合いもあり、家族もある、というような生活する中年が、「集中的10年」を作ることは、現実的には、難しい。ただ、それが可能な誰かが、夢を持って、何かをやってみたら、どうなるのだろうか、という中年の可能性に対する興味は消えない。

 ちなみに、ファンドマネジャーの能力のピークが何歳なのかは難しい問題で、経験が有効に生きる仕事なので、年齢を重ねることは不利にならなそうな仕事だが、若さを伴った時代感覚や、余計な知識を持たないことが、却って有利に働いているな印象もあって、答えは、良く分からない。ただ、スポーツ選手よりは、明らかに誤魔化しの効きそうな仕事ではある(自分まで誤魔化せてしまうので、本当の能力が分からなくなる面もあるが・・・)。
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財務省エリートと朝日新聞美人記者の不倫生活

「週刊現代」1月27日号の冒頭記事は「財務省エリートと朝日新聞美人記者の不倫生活」とのタイトルで、財務省主計官N氏(47歳。誌上は実名)と朝日新聞社発行の週刊誌「AERA」のA記者(記事上はA記者。朝日新聞の社員ではない)の不倫生活を報じたものだ。別に妻子のあるN氏が、Aさんと親しくしていて、Aさんの部屋に訪ねて泊まるような関係であることを、本人達にも取材して詳しく書いている。

この種の中年不倫自体は世間にありふれている。しかし、「週刊現代」の記事によると、A記者が連名筆者の「ボロボロ税調 本間で安倍が自滅する」という記事では、本間氏への審議会の旅費の二重払いなど内部者でなければ分からない情報が書かれているという。A記者が、N氏を取材源とする記事を書いている可能性が大きいと判断し、これは、かつての西山事件のような個人的な関係を利用した取材ではないか、という問題意識から、「週刊現代」は掲載に踏み切ったものだろう。

また、1月9日にA記者のアパートから午後1時半すぎに二人で出てきたところで、N氏とA記者は直接取材されており、N氏は「いろいろ彼女の取材のお手伝いをしているんです」(「週刊現代」記事による)と答えたのだから、編集部が上記のような判断をすることは、正当だと思う。もっとも、この状況がなぜ問題なのか、という理由を考えると、N氏の言い訳はいかにもまずい。「不倫」の言い訳をしたつもりなのだろうが、もっと大きな問題の言質を与えている。高級官僚は(すべて)頭がいい、なんていうのは、嘘だ。「危機管理、失敗」と言わざるを得ない。

尚、N氏はこの取材中に気分が悪くなって、一時的に気を失い、救急車で病院に運ばれたという。彼が今後失うもろもろのものを考えると、血の気が引く思いだったのだろうし、どうしていいか、分からなかったのだろう。他方、N氏にひきかえ、「調べてもらえば分かりますが、いろんな人が私の部屋には来るんですよ」と、答え始めるA記者の、妙に堂々としたというか、ある種ふてぶてしい受け答えも含めて、この記事はリアルで読み応えがある。(尚、この号には、私の「新聞の通信簿」の連載も載っているので、「この記事の後に」、お暇があったら、お読み下さい)

N氏の側で、大いに問題がある点については、議論の余地はあるまい。「週刊現代」の記事でも、N氏の奥様の父親であるS元大蔵事務次官のコメントとして「その女性記者との関係は公務員としても問題があると、かなり以前に私から注意したこともあるんだよ」と言われており、N氏には、弁解の余地は無さそうだ。

A記者のような、取材のやり方をどう考えるかについては、複数の意見があるかも知れない。私は、最終的には、本人がリスクとコストを承知でやるなら、OKだ、と思う。

取得方法が不当であっても、報ずるに値する情報というものはあるだろう。刑事罰を受けても、情報源の秘匿を通すことがあり得るように、枕営業(?)的に取った情報でも、それが事実で、報ずる価値があるという場合は、報じる方を望みたい。

但し、これは、「いいこと」と「わるいこと」を二つやる、ということであって、片方が「いいこと」になった(社会的に大きな意義のある報道が出来た)ということであっても、「わるいこと」の方が消える訳ではない。別の人が「わるいこと」を報ずるのも、第三者が当事者を非難するのも自由だし、そうなるかもしれないという覚悟を、報ずる側は持つべきだ。

情報提供者は罰せられることがあるだろうし、取材者自身も大いにダメージを負うことがあるだろう。今回の件では、たぶん、A記者は、「AERA」の契約(があるとしても)を打ち切られる公算が大きいし(この点の朝日新聞社の判断は、理由も含めて、大いに注目される)、他の媒体で記者をやることも(少なくともしばらくは)難しいだろう。例えばA記者が、フリーの記者なのだとすれば、直ちに「食うに困る」可能性はある。

今回の場合、N氏は官僚なので公人、A記者は私人、とのことで、「週刊現代」の記事は、N氏を実名フルネーム、A記者を匿名にしたのだろうが、ジャーナリスト及び報道関係者は、影響の大きさからいっても「公人」でいいのではないだろうか。日経社員のインサーダー取引の際もそうだった(確か、起訴されるまで匿名報道だった)が、今回の記事でも、ジャーナリストの取材のあり方にも問題がある、という認識なら、実名でよかったのではないだろうか。同じジャーナリストの不倫でも、たとえばテレビに出ていて名前が知れていれば(記事が売れるから?)実名で、知名度の低い記者なら匿名というのは、いかがなものか。今回の記事は、取材も、論点も適確だと思うが、この点だけは、どうも違和感がある。

ビジネスの世界でも、「女の武器」や「男の武器」(こちらの方は使用例は少ないかも知れないが、無いわけでもあるまい)を使うことはよくある。倫理的には好ましくないが、当人同士が納得している場合、「嫌いだ」とは言えても、不倫など違法が絡まない限り、完全に「悪い」とは言えない。

「女の武器」を利用して重用される社員や役員などが居て、当人達を除く会社全体がすっかり「興ざめ」し、雰囲気が悪くなることもよくあるし、枕営業で注文を取る証券セールスなどが、同業者(噂話の好きな業界の人なので、噂は直ぐに広まる)からも軽蔑されるようなこともあるが、最終的には、コストとベネフィットを天秤にかけた本人の判断の問題だろう。本人がそうするのも勝手だし、それを知った周囲が(違法にならない範囲で)「悪く言う」のも自由だろう。

思うに、オヤジのごますりにも、人間としてのプライドをかなぐり捨てたレベルのものが多々あり、これが、「女の武器」を使った社内枕営業よりも賤しいとはとても言えないと思う。まあ、いい勝負なのだ。

この種の問題は、多くの場合、枕営業なり、ごますりなり、を「受ける」側の態度と行動にあるのだろう。

一方、たとえば、筆者の「男の武器」に価値があるとも思えないが(対、女性、男性、何れも)、文字通りカラダを張ったり、自分が重要だと思うプライドを捨てたりせずに、生きてこれたのは、たまたま、運が良かったからだ、という面がある。

「お前は、家族を養うために、カラダを売れるか?」という問についても、真剣に考えてみるべきだろう。そう考えると、最近報じられる、困窮家庭での主婦売春などは、非難する気にはなれない。この場合、客は悪いのか? 「良い」とも言えないが、「悪い」とも、筆者には言えない。

一つのことに対して、異なった正解がある、と理解するよりは、状況が違うと別の問題になる、と理解するのがいいのだろうが、倫理の問題は複雑だ。

<追記: 朝日新聞「AERA」に、頭文字Aで始まる、朝日新聞社社員の女性記者がいらっしゃるらしいのですが、文中の「A記者」は、この方とは無関係です。誤解に基づく問い合わせが何件かあったとお聞きしましたので、注記しておきます。問題の女性記者のお名前の頭文字は「A」ではないそうです。 2月1日>
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「東洋経済」の奥谷禮子氏へのインタビューについて

JMMのお題が「ホワイトカラー・エグゼンプション」だったこともあり、「週刊東洋経済」の1月13日号を読んだ。特集タイトルが「雇用崩壊」なのだ。「ダイヤ」、「エコ」は拙宅で読んでいるのだが、「東洋」はあまり読む機会がない(会社では購読しているのだが)。たまたま取材でお見えになった東洋経済の記者さんがくれた雑誌が、運良く、この号だった。

ネットの世界では既に話題になっているらしいが(wikiにも書き込みがあった)、「何でも"お上頼り"が間違い 過労死は自己管理の問題です」という見出しがつけられた奥谷禮子氏(株式会社ザ・アール社長)へのインタビューは、物言いがストレートで、一読の価値があると思う。過労死は本人の責任だ、という内容のことを言っているし、祝日も、労働基準監督署もいらない、などとも言っているから、かなりの反響があるだろう。

JMMにもちょっと書いたが、見出しの付け方や、写真の選び方(ご本人が「いい写真でしょ」と仰るなら、謝るしかないが、強面で、小うるさい感じが出た、印象の良くないカットをわざと選んで載せたように見える)からみて、編集部は、彼女に批判的な感情(と少々の悪意)を持ったのではないか、と思った。

この種の話は、言葉尻を捉えて、好き嫌いを言っても建設的ではないので、なるべく論旨に的を絞って、考えてみたい。

彼女は、次のようなことを言っている(以下、山崎の理解に基づく要約)。

1)若い人が働きたいときには本人のためにも自由に働かせるべきで、「早く帰れ」と上司が言わざるを得ないような現行制度は有害。代休などの制度を確保した上で、個人の裁量に任せるべき。

2)能力に差はあるのだから、格差はあって当然。「私たち」は、結果平等でなく、機会平等を選んだのだから、文句を言うな。

3)経営者は過労死するまで働けなどとは言わない。過労死は自己管理の問題。ボクシングの選手と一緒。休みたいならそう主張して、コンディションは自己管理せよ。他人のせいにするな。

4)祝日もなくすべき。働き方は個別に決めたらよい。

5)労働基準監督署も不要。労使が個別に契約すればいい。「残業が多すぎる、不当だ」と思えば、労働者が訴えれば民法で済む。「労使間でパッと解決できるような裁判所をつくればいいわけですよ」。

6)経営側も代休は取らせて当然と意識を変えなければいけない。「うちの会社」はやっている。「だから、何でこんなくだらないことをいちいち議論しなければならないのかと思っているわけです」。

彼女が言っていることは、米系の証券会社でフロントの仕事をしていたり、あるいは自営業的なフリーの立場で働いていれば、現実が否応なくそうなっているという意味で「当たり前」のことではあるが、全ての職場の労使関係に、これらを当てはめようとしたときに、無理が生じる点がいくつかあると思う。

1)「若い人が完全な自己管理が出来」かつ「上司も部下もお互いの仕事のニーズを完全に把握している」なら、「早く帰れ」は確かに、必要ないが、現実には、働きすぎて(自分の能力のためであっても、上司の期待に応えるためであっても)カラダを壊す若者も居るだろうし、代休を取りたいときに上司の側で部下が必要な場合もあるだろう。完全なコミュニケーションと自己管理には多大なコストがかかるので、職場にもよるが、労働時間でルールを決めておく方が、労使双方にとって無難で便利な場合があるはずだ。

2)機会平等については、本当に確保されているのか。教育や職業訓練の機会など、個人を単位としてみた場合に、必ずしも平等では無かろう。一経営者の立場では、「私の知ったことではない」(≒私には無理だ)と言ってもいいが、機会平等が完全には確保されていないだろう、ということに対する反省や、改善のための努力は、社会のコンテクストで発言する場合には必要だろう。「機会平等は達成できている」と彼女は考えているのだろうか。もしも、そうなら、根拠を示せるのだろうか。

3)人間は、自己管理に於いてもスーパーマンではない。ボクシングを知っているなら、たとえば、「レフェリー・ストップ」が無ければ、いったい何人のボクサーが死んだり、後遺症に苦しむか、考えてみるべきだ。そもそもヒューマンな(人間に関する)想像力が乏しい方なのかも知れないが、「完全な情報処理と意思決定」を前提にした議論で、使用者側の責任を回避しようとしているように聞こえる。

4)確かに、祝日は無くてもいい、と私も思う。いろんな業界から文句が出そうだけど。

5)現実には、「労使間でパッと解決できるような裁判所」など無い。加えて、法的手段に訴える、知識も、経済力も、労使間には格段の差がある。また、論理的には、このような裁判所が準備されない限り、労働基準監督署(現在のものでいいとは思えないけれど)は必要だし、ホワイトカラー・エグゼンプションは導入できないことになるのだが、奥谷氏はその点を理解しているのだろうか。重要な前提を軽く一言で誤魔化されては、議論としては困る。

6)「うちの会社」を根拠に社会全体の問題を論じられても困るが、それ以上に、なぜ「こんなくだらないこと・・・」と言うのかが不思議だ。「大事な問題だから、しっかり議論しましょう」と言えばいいのに、何とも「頭が高い」感じがして、奥谷氏にとっても損ではないかと思う。乱暴な「放言キャラ」で売っている人なのだろうか(政界でいえば、ハマコーさんのように・・・)。

奥谷禮子氏には、直接お会いしたことはないし、私は、好意も反感も持っていない。また、現実的に、私の働き方は、上記の「自営業的フリー」なので、世の中が彼女の言うようになっても、私に関しては何も変わらないし、むしろ仲間が増えるくらいのものだ。上記は、東洋経済のインタビューだけを読んで考えたものであって、私個人の利害の観点から述べたものではない、と一応言っておく。

尚、財界で名前の出る何人かの経営者(何れも、私には利害関係のない人)について、「奥谷禮子には頭が上がらない」という噂を聞いたことがあり、影響力のある人なのかと想像していたが、彼女の影響力の源泉が何なのかは、依然として謎であり、このインタビューを読んで、益々分からなくなった(ホワイトカラー・エグゼンプション導入には、著しく逆効果、と思えるから)。
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新教育基本法を手掛かりに、愛国心について考える

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」。これは、先般、「やらせタウンミーティング」などで、さんざんケチが付きながらも、国会を通過した新しい教育基本法で、最も論議を呼んだ箇所の一つ、第二条第五項です。

私が、先入観無しに(と、努力して)この文章を読んだ場合に、この文章自体には、そう悪い印象は持ちません。むしろ、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とある点が、偏狭なナショナリズムを排していて、好ましい、と思うくらいのものです。

但し、この条文が、さまざまに解釈されて、何らかの強制力を持つ法として機能する可能性を考えると、幾つか、疑問な点、心配な点が出てきます。その中でも、最大のポイントは、「我が国」を愛する、と言う場合に、愛する対象が、具体的には何で、どうすれば「我が国を愛した」ことになるのか、ということです。

しかし、直観的に言って、日本国を愛することと、日本の政府を愛することとは、本来、別のことであり、両者は明確に区別されるべきではないでしょうか。取りあえず、ここから、考え始めたいと思います。(但し、この前提は、後から訂正されるので、注意して下さい)

そう考えると、かつての政府である、天皇家や幕府などといったものは、伝統や文化を理解するために知っておきたい知識の一部ではあっても、愛国心の対象とは別物だろうと思います。では、「我が国」とは一体何なのでしょうか。

先の条文の文章を拡大解釈すると、「我が国」とは、伝統と文化をはぐくんできたものだと読むことが出来そうです。

たとえば、多くの伝統と言えそうなものは、日本語で表現されていますから、日本語を使う「人」が「国」の実体なのでしょうか。では、デーブ・スペクター氏や邱永漢氏は「我が国」として愛すべきものの一部なのか。私は、それでも構わないと思いますが、言葉を便利に定義することを考えると、それなら、何も、「我が国」という区分を設ける必要はなさそうです。別に、その人が日本語を話さなくてもいいし、現に、外資系の会社で一緒に働いた外国籍の人物に、面識のない日本国籍の人よりも親近感を覚えることはありますし、それが悪いこととは思えません。

また、我々が文化と考えるものの相当部分は外国の人々が「はぐくんできた」ものです。ファッションが文化なら、洋服は、まさに西洋ではぐくくまれてきたし、音楽についても、我々が聞いているものの大半が、クラッシックにせよ、ポピュラー・ミュージックにせよ、外国の影響を受けています。今日読まれている日本語で書かれた文学や哲学も大半がそうでしょう。もちろん、日本人が「はぐくんできた」ものもたくさんありますが、両者の価値を区別することは無意味ではないでしょうか。教育のための法律としては、単に、「文化と伝統を理解し尊重する心をやしなう」とでも書けばよろしい。

「我が国」を敢えて定義しようとすると、幾らか循環的になりますが、現在、我が国とされている地域、つまり、日本の国土上に存在する、もの全体、あるいは、もう少し狭く考えると、人間の社会、ということになるのでしょう。

但し、たとえば、北海道と九州がなぜ同じ国でなければならないのか(余談ですが、北海道の人と、九州の人は、割合に「ウマが合う」ことが多いように思いますが)という疑問が湧きます。国土を決めているものは何でしょうか。また、現在、日本には、日本国籍を持たない多くの人が存在しますが、彼らを日本人と区別するのは、どのような理由によるのでしょうか。お互いの助け合いの関係を重視するなら、人種や国籍よりも、たとえば納税しているかどうか、といったことの方が重要でしょう。

こうして、順に、考えると、結局、国土は時の政府が決めており、人や物の出入りに対して、何らかの強制力によってこれをコントロールしているのであり、また、人に関しても、これを「日本人」とするかしないかを、日本国政府がコントロールしています。結局、「国を愛する」とは、時の政府を愛すること及び、政府が国と認め伝統や文化とみなすものを愛すること、とならざるを得ません。

新しい教育基本法の条文では、国を愛することが、郷土を愛することと巧妙にくっつけられていますが、先に見たように、愛国心の正体が政府に従属した愛だとすると、これは、郷土愛とは、明らかに別物でしょう。

私の場合、郷土というか、地域への愛着は、生まれ育った北海道の一部の地域(生まれは、旭川市、育ちは、札幌市です。この周辺の地域は今でも懐かしい)に対する懐かしさと愛着、同様に、北海道よりも随分長く住んでいる東京の幾つかの場所に対する愛着もあれば、漠然とアジアはいいなと思うこともあり、西日本と対置して東日本への親近性を感じることもありますし、行ったことのない韓国よりも、行ったことのあるロンドンやニューヨークに親近感を覚えるということもあります。私に限らず、地域に対する愛着は、自分の経験や知識、考え方によって変化するものでしょう。

また、この事情は、人に対しても同様でしょう。個人的な感情としては、外国人でも好きな人は好き、良いことをする人は良い人だ、と思うでしょうし、日本国籍を持った人でも、嫌いな人は嫌いであり、悪いことをする人に対して敵意を抱くことはあるでしょうし、それで拙いとは思えません。生物としての人間が、お互いに、協力し合い、寛容であることが望ましい、という一般的な倫理を導入するとしても、そこでは、「国」を区別する必要はありませんし、国への拘りは、むしろ、いけないことであり、抑制しなければならない悪習である、と言えるでしょう。

思い切って言ってしまえば、愛にとって、「国」というものは、「余分」なのではないでしょうか。国は、それをどのように考えるとしても、何らかの政府を前提としなければ定義できないものです。また、その有り様は、多くの場合、排他的であって、「愛」とは、相容れません。

よく、「自分の国を愛せない人が、他国も愛することはできない」ということを、無前提に当然のように言う人が居ますが、これは、そもそも問題意識のズレた無意味な言説であって、「自国の人も、他国の人も、国に拘らずに、愛する」ことが重要なのではないか、と私は考えています。

また、政府というものは、結局単に人間が営んでいる組織であって、そのものに別個の生き物のような意志がある訳ではありません。要は、一群の人間が、たまたまその時に利用している制度に過ぎない、ということであって、「国」とは、政府がその影響範囲に貼ったラベルに過ぎません。敢えて国の「実体」といえば、暴力と徴税を中心とした権力のことになるのでしょうが、これを実行しているのは、国の立場を取っているとはいっても、あくまでも個人(複数の、でしょうが)です。

「国」に対して、人に対するように、「愛する」とか「裏切る」とか「捨てる」とか言うことは、比喩としては成立しても、人に対するのと正確に同じ意味ではありません。たとえば、外国で酷い目に遭ったのに十分な救済を受けられなかった人が、「国に捨てられた」と言うかも知れませんが、実際には、「日本国」という意志を持った主体が、その人を「捨てた」のではなくて、その判断に関わった外務省の役人さんなり政治家なり、何人かの個人がその人を捨てたのです。この点については、個人が、「国」をいわば隠れ蓑代わりに使っているということなので、注意が必要です。

結局、国の正体は政府です。もう少し細かく見ると、世俗宗教が神をでっち上げて人を支配するように、「国」とは、政府が国民をコントロールするために、あたかも実在するかのように作り上げた概念だ、ということでしょう。従って、この小論のスタートの「日本国を愛することと、日本の政府を愛することとは、本来、別のことであり、両者は明確に区別されるべき」だという前提条件は、実は、間違っていた、ということになるように思われます。

ここに至って、人や地域を自由に愛したいという感情と、いわゆる「愛国心」とが、どうにも相容れないことの理由が、分かってきましたし、新教育基本法が、国民に「愛させたい」ものが何なのかも分かってきます(もちろん政府及び、政府が決めたものを愛させたいのです。しかし、ここで政府を利用して愛国心の対象を決めるのは、複数でしょうが特定の個人です)。不気味な法律が制定された、ということが、理解できました。この不気味な愛人(=政府)は、「本当に愛しているなら、愛するもののために、何でも出来るはずだ、命も捨てられるはずだ・・・」と言い出しかねません。

先に私が挙げた前提条件の間違いの原因を探ると(実のところ、私は、この前提条件が正しいと思って、書き始めました)、「国を愛する」ということには、政府を愛する以外の何らかの実体があるはずだ、という先入観が働いていたことと、「愛国心」というものは、自然な感情として誰にでも存在する筈だという、これまた先入観の刷り込みが存在したことの二つが挙げられると思います。

私のように、どちらかというと、政府に対して疑いを持ちやすい性格を持っていても、「本来の愛国心」というものが存在する、という先入観から自由になれないくらい、愛国心というものが、方々で周到にプロパガンダされているのでしょう。

もちろん、自分が利用する政府を取り替えることには大きなコストが掛かり、日々の生活にとって、政府には便利な点も多々あるので、「国」の正体が政府だからといって、この政府の全てを、しかも、はじめから憎む必要はありません。「なるべく、いいものにしていこう」と考えることが、利用者にとっては、自然なことでしょうし、私も、その程度に考えています。

私個人は、たぶん、日本国政府を意図的に選んで生まれてきたわけではありませんが、その後、日本に居続けて、法律や制度を含む日本国政府の利用者を続けて居るところを見ると、今のところ、制度としての日本国政府に、不満はあっても、総体としてはそこそこに満足しているのでしょう。但し、将来、子供が徴兵されるようになったり、税金があまりに高くなったりすれば、利用する政府を変える、つまり、海外移住して、日本を離れることは選択肢の一つとしてあり得ます。今のところ、一利用者としての私の、日本国政府に対する気持ち、即ち、敢えて言えば私の愛国心の内容は、「私は、兵隊には行かないけれども、税金は払ってもいい、しかし、税金を払う以上は、なるべく良くなるように意見も言いたい」というものです。

ただし、私としては、日本国政府が、必ずしも、今のままのようなものでなくても、構いません。それが、自分にとってより便利であれば、アメリカと共通の政府でもいいし、中国、或いは韓国と一緒であっても構いません。私にとって、現在の日本及び日本国政府は、現状がそうである、という以上に、特別な意味を持つものではありません。

具体的には、国益、防衛、外交、ナショナリズム、経済政策、国際スポーツ大会における応援、諸文化に対する態度、など、多々論ずべき内容はありますが、それらに対する私の個人的な意見と、上記の愛国心に関する理解とは、今のところ整合的であるように感じています。

簡単に例を挙げると、「国益」とは、多くの場合、政府を利用する特定の個人ないし集団にとっての利益であって、国民にとって、無条件かつに存在するものではない、怪しい概念だと考えていますし、人や地域については「国」に拘らずに愛することが重要であって、「ナショナリズム」というものは、自己抑制すべき風土病のようなものだと考えています。もちろん、サッカーのワールドカップでも、オリンピックでも、国にこだわらずに、好きなチーム、好きな選手を応援するのが、正しい姿だと思っています(日本人を応援することも、しばしばあります)。

尚、以上は、私が考えたことをメモした程度のものであって、もちろん私個人の意見ですし、他人に同調を強制しようとするものではありません。また、この問題について、他の考えの方と、論議の白黒を付けよう、というような情熱は、現在持ち合わせていません。
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御手洗総務部長という人事はいかがでしょうか?

 やっぱり、御手洗さんのことを語るコーナーもある方が良さそうに思うので、簡単なエントリーを書きます。

 昨日、会社に行ったら「GQ」という雑誌の来年一月号が届いていました。「GQ」という雑誌は、30代、40代のお金持ちの男性読者をターゲットにしている雑誌で、かつてのホリエモンをはじめとして、若手の経営者が登場したがる雑誌です。

 そういえば、だいぶ前に取材に来たな、と思い出しましたが、「ニッポン最強の銀行をつくるとして、その経営陣を選んで下さい」という、妙な企画でした。(他に、森永卓郎さん、横田濱男さんが、登場しています)

 私は、株主のためにバリバリ儲けるゼニゲバ銀行と、顧客にとって強力な銀行はちがうぞ、と言って、二組の経営陣(何れも、除く銀行マン)を提案したのですが、雑誌では、顧客のための銀行の経営陣を発表することになりました。当ブログの読者は、是非、本屋さんに行って、101ページを見て欲しいのですが、私が選んだ、「最強の銀行」の経営陣のラインナップと、顔写真、寸評が出ています(皆さんの人相比較としてもこのページは面白い!)。

 CEO・柳井正(ファーストリテイリング会長)、COO・新浪剛(ローソン社長)、・・・、広報担当執行役員・藤巻幸夫(弟さんの方のフジマキさん)、営業担当執行役員・渡邉美樹(ワタミ)、といったラインナップなのですが、この中に、「総務担当執行役員」として、われらが御手洗冨士夫氏をノミネートいたしました。

 ご報告したいのは、この寸評欄なのですが、全文は以下の通りです。

●総務担当執行役員 御手洗冨士夫
キヤノン会長、日本経団連会長。「偽装請負発覚後も経団連会長をやめずにいるトラブル対応力の持ち主」(山崎氏)。

 「GQ」もユーモアを解してくれるというか、或いは、何も気付かずにそのまま載せてくれたのか、何れにしても、小さな活字ながら、よく載せてくれました!これぐらいしぶとい総務担当執行役員がいれば、この銀行は、相当の不祥事を起こしても盤石でしょう。

 以上、御手洗ファンの読者の皆様へのご報告です。
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汚れた天馬、ディープインパクト

 事実の推移を簡単に振り返ると、現地時間で10月1日、日本の競馬ファンの大きな注目を背にフランスの凱旋門賞に挑んだディープインパクト号は同レースで3着に終わり、11日には年内引退と51億円での種牡馬シンジケートを発表する。ところが、その後19日に、フランスでは使用が禁止されている薬物イプラトロピウムが尿から発見され、現在、疑惑の渦中にある。馬は元気であり、秋の天皇賞への出走登録もあったが、これを回避したものの、ジャパンカップには出走の意思を表明している。同号とともに凱旋門賞に挑戦した、池江調教師、武豊騎手は、この問題に関して基本的にノーコメント、JRAはイプラトロピウムが日本での禁止薬物に指定されていないことから、ディープインパクト号の日本での競争出走には問題ない、との立場だ。

 事実関係が明かされていないので、何がどうなっているのか、正確なことは分からないが、今の段階で、思っていることを幾つか書いてみる。

 先ず、凱旋門賞のレースだが、これは、武豊騎手の乗り損ないではないかと思うが、ディープインパクト号の価値を損なうものではなかった。

 ディープインパクトは、珍しく好スタートを切り、馬群の先団、外側につけて、折り合うことが出来た。内に有力なライバルと目されたハリケーンラン、シロッコを見ることができ、アウェイ故に心配された他馬の妨害も受けないポジションが取れた。常識的には、またとない良い展開であり、上手く乗ったとも言えるのだが、いつも追い込んでいる馬がはじめて先行して戸惑った可能性は大いにあると思う。直線に入って追い出され、一時先頭に立つも、いつものような伸びはなく、斤量が3.5キロ軽い3歳馬二頭に差されて3着になった。

 タラ・レバの類であることは承知で言ってみると、せっかく少頭数だったのだし、追い込みに徹していれば、勝てたのではないか。そう思う根拠の一つは、後から訂正されて発表されたレースのタイムが、あのタフな馬場にもかかわらず、2分26秒台と高速馬場の府中並みの時計だったことであり、ディープインパクトは、ハイペースを先行して、早めに抜け出しを図ったことになるからだ。つまり、武騎手はペース判断を誤った可能性がある。テレビ中継で、解説の岡部騎手が直線に入ってから「まだまだ!」と言っていたのが印象に残る。いつもの脚質通りの追い込み競馬をしていれば、かつてのダンシングブレーブのような豪快な快勝が見られたかも知れない。

 しかし、馬の力の評価という点では、同斤量で走っている古馬の全てに先着し、特に、前記のハリケーンラン、シロッコの二頭に先着していることは大きく、同世代の古馬最強との評価が出来る。つまり、馬の能力評価を下げるようなレースではなかった。

 種牡馬としての高い評価は当然だったと思うし、そう考えて、敢えて指摘すると、51億円は安すぎた。

 ディープインパクト号のシンジケートは、8千5百万円で60口、とのことだが、近年の種牡馬の管理技術の進歩から見て、同号は、年間200頭ぐらいの種付けを行うことが期待できる。同馬の父、サンデーサイレンスは200頭ペースだったし、最高記録はダービー馬キングカメハメハの250頭台らしい。サンデーサイレンス並みの3千万円は無理としても、一回2千万円は取れるだろうから、年間の種付け料は40億円、無事に種付けすると2年間で元が取れる(40億円×2年=80億円)。これは、子供がレースに出走するのは3年目からなので、もし、ディープインパクトの子供の出来が冴えなくても、それが判明する前に利が乗っているということになる(もちろん、同馬の健康とか、事故のリスク、種付け能力の不確実性などはあるが)。その後も順調なら、大儲けが続く。

 ディープインパクト号の年内での引退を惜しむ声があるが、賞金2億円かそこらの日本のG1レースを勝つことよりも、レース中の事故や、惨敗によって種牡馬としての評価が下がるリスクを考えると、本当は、もうレースを使いたくない、というくらいが馬主サイドの経済的な本音ではないかと思う。まして、もうシンジケート価格は決まっているのだ。

 すると、何かおかしいことに気付かないか? そう。シンジケート価格が安すぎることと、その中途半端な時期だ。

 ディープインパクトが使用したとされるイプラトロピウムは、日本では流通していないが、喘息の薬であり、呼吸機能を改善する効果がある。また、その後の報道によると、ディープインパクト号は、日本でも喘鳴というほどではないが、呼吸器系のトラブルがあって、呼吸機能を改善する治療を行ったことがある、という。もちろん、少なくともレース後の検査で分かる形で禁止薬物を使ってはいないので、ルール上は問題がない。

 但し、凱旋門賞の3着が薬物問題で取り消されることになると、国際的な評価は下がるだろう。また、イプラトロピウムは日本で禁止薬物ではないというだけで、ディープインパクト号が呼吸器系に弱さを持っていたことや、過去にもこれを治療しながらレースに出走していたことは、同号の評価を大きく下げる可能性のある情報だ。いくらか刺激的な言い方になるが、「ディープインパクト号は、種牡馬としてキズモノなのだ」ということが、現時点では、なにがしか言える。この点は、薬物の投与が陣営の意図的なものであっても(普通はそうだろうが)、フランス競馬界の陰謀(?)であっても、基本的には変わらない。

 この薬物は競争能力には関係がない、との意見もあるが、呼吸機能・心肺機能は馬にとって重要であり、特に、馬が息を止めて走る、最後の直線にどれだけ力を残せるかという点は、馬の酸素摂取能力に大きく関わる。過去に、ディープインパクト号が使ってた薬や行った処置が、同号の競争能力を増進していた可能性も疑われることになる。「馬に罪はない」ので、同馬を悪く言うことははばかられるが、「ディープインパクト号はドーピング馬だった!」という疑いさえも可能だ。もちろん、日本のルールでは問題のない状況で使われていたのだから、これを「悪事」であると批判することは現段階で不当なので、注意しなければならない。

 ディープインパクトに帯同していて、本来なら、事情を説明してしかるべき、池江調教師がこの問題についてコメントしないことは、好ましくないし、不自然だ。彼を口止めできるのは、馬主かJRAということになるが、シンジケートがご破算になることを避けたい馬主サイドから堅く口止めされている、という事情なら、彼の立場は理解できる。ただ、JRAの立場も、国民的な人気のあるディープインパクト号を汚れた存在にはしたくないだろうから、JRAからも、コメントするな、という圧力がかかる可能性はある。

 それにしても、薬物投与の事情については疑問が残る。フランスでは、同国の免許を持った獣医師以外に馬に対する治療行為を行えない。この点で、ディープインパクトが「ハメられた」というフランス人陰謀説が成り立つ余地はあるが、調教師や助手、日本から帯同した獣医などが、レースまでに残存する可能性のある薬物の投与をOKすることは不自然だ。この点については、池江調教師のコメントが求められるところなのだが、どうなっているのか? 最もありそうな状況は、薬の残存期間について、コミュニケーションの問題があって、陣営が勘違いをした、ということだが、どうだろうか。

 フランスの競馬会は、禁止薬物は発見されたが、投与に悪意は無かったと思われるというような、微妙なコメントを発表して調査を続行中だ(それにしても、これしきの調査に、そんなに時間が掛かるものなのか?)。ルール違反なので凱旋門賞の3着は取り消されるが、関係者は処分されないので、日本の競馬に出走することは問題ない、ということであれば、フランスの競馬界にとっても、JRAにとっても、良い落とし所になるが、さて、どうなるのか。

 ともあれ、ディープインパクト号は、弱点が公表される以前に急いで割安にシンジケートされたのであり、株式でいうと、創業者(この場合、馬主)が、重要な経営問題を隠したまま公募価格を決めて、急いで公開して売り抜けようとしている、といった状況に見える。51億円は、一見割安に見えるが、実は、とんでもない割高価格なのかもしれない。

 ファン心理(私はディープインパクトが本当に好きだった)としては、ディープインパクト号の名誉を保ち続けたいという気持ちもあるが、これまで、どのような治療行為をしてきたのか、そして、フランスで何があり、シンジケートの事情がどのようなものだったのか、といった事実が、納得の行くように明らかにされないと、この馬を素直に応援することは出来ない。

 また、競馬サークルが、現在、どの程度閉鎖的なものなのか良く分からないが、マスコミは、今後の取材の都合もあって、ディープインパクト号のこの問題について、厳しく追及していないように見える。この国のジャーナリズムは、一事が万事こんな感じなのだろう。
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子供の「いじめ」自殺について

過去一週間のニュースを解説する原稿を書いていたら(来週の「週刊SPA!」の「ニュース・コンビニエンス」に掲載予定)、今回は、北朝鮮の核問題、NHK海外放送への政府の命令、子供の自殺、娘夫婦の子供を代理出産した母親(50代後半。私は拍手を送りたい)と、議論を呼ぶような内容のニュースが上位に並んだ(まあ、私が選んだわけであるが)。何れも、賛否や、あるべき対応について、意見が分かれる出来事だと思う。

これらの中で、自分に近い問題として一番気になるのは、子供の自殺だ(北朝鮮は、なるべく「遠い問題」のうちに解決してほしい・・)。

今度は、福岡の中学二年生の自殺で、これは、教師も「いじめ」に加担していたというから、全く呆れる。教師、学校に問題があったことは、間違いない。自殺した生徒は、ぎりぎりまで、自分が死んでもいいのか(=誰か、助けて)というメッセージを発し続けていて、決して死にたくなど無かったと思われるので、胸が痛む。誰かが気付いてあげることが出来れば、救える命だった。

最近、「いじめ自殺」の報道が多く、これを見て、「いじめは、被害者が死んでもおかしくないくらいの問題なのだ」「自分が、死ぬと、メッセージが残るのだ」といった意識を、たぶん全国に数多くいるだろういじめの被害者学童たちが持つことが心配だが、やはり、こうした事件を、徹底的に報道しないというのは、問題を隠蔽することになるし、間違いだろう。

それでは、学校から「いじめ」を無くすることができるだろうか。或いは、教師の質を上げることが出来るだろうか、と考えると、現実問題として、数年単位では、ほぼ無理だと思う。特に、「いじめ」は、大人の職場などでもあるのだし、子供というものは、案外残酷なものなので、これを根絶するのは無理だと思う。

それでは、当面何が出来るかと、考えると、「いやなら、学校など行かなくてもいいよ」というメッセージを徹底させることではないだろうか。学校に行かなくなれば、少なくとも、何かの問題があることが分かるし、そこで、はっきりと「親」が問題の当事者になる。

もちろん、この段階で、子供にどう接するのがいいかは、ケース・バイ・ケースだろう。親が乗り出さない方がいい場合もあるだろうし、休学・転校などの措置が必要な場合もあるだろうし、教師と相談した上で、子供に再チャレンジさせるのがいい場合もあるだろう。私も親だが、自分の子供が同様のトラブルに巻き込まれた場合に、どうすればいいのか、うまく対処できるのかは、全く自信がないが、少なくとも、自分の子供の問題に向き合うための時間的チャンスが欲しい。

「学校に通う皆さんに言いたいので聞いて下さい。学校がいやなら、無理に通うことはありませんし、それは恥ずかしいことではありません。学校の方が、皆さんに通って貰えるように努力しなければならないのです」といったことを、安倍首相にでもテレビで言って欲しいものだと思う。

ついでに、「借りたお金は返す努力をすべきですが、返せないものは仕方がありません。命に代えてまで、返済する必要はありません。胸を張って生きていて下さい」ということを言うのもいいだろう。「でも、国のために、命を捨てる行為は美しい!」などとついでに言われると困るから、安倍さんには頼まない方がいいだろうか。

ともかく、私自身は、子供に対して、(1)親である私は何があっても子供であるキミの味方である、ということと、(2)嫌なことは無理にしなくてもいい、(3)思っていることは話してくれ、というメッセージを伝え続けたいと思っているのだが、心配し始めるときりがない。

ところで、写真は、拙宅に配達される新聞六紙を四週間分ほど平積みしたものだが、紙の量は朝日新聞が突出して多く、夕刊が無い産経新聞が少ないのは仕方がないとして、同じ全国紙でも、毎日新聞との差は随分大きい。量があればいい、というものではないのだが、「新聞紙」がたくさん欲しい人は、断然朝日新聞なのだな、と妙に感心した。しかし、同じニュース・コンビニの記事の中には、朝日新聞への批判もちょいと書いておいたので、ご興味のある方は、来週発売号の「週刊SPA!」(たぶん30-31ページ)をご一読下さい。
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山本モナさん、その他について考える

 アナウンサーの山本モナさんと民主党の細野代議士が、路上でキスをしていた写真を撮られ、また一緒に泊まっていたという事実について、報道された。また、山本モナさんのケースとどれくらい似ているのか違うのかは、定かではないが、女優の杉田かおるさんと、さる出版社の幹部社員(妻子持ちの50代の男性)とが、路上で口論して、その後、ラブホテルに入ったという一部始終が報じられた。

 これらの、どこが問題なのか、それとも、問題だということが不当なのかは、案外はっきりしない。

 山本モナさんのケースについては、知り合いの雑誌の記者によると、取材する側では、山本モナさんを追いかけると何らかの男性絡みのニュースを取れるであろう可能性が非常に高いだろうと言われていて、彼女を追いかけたら、たまたま細野代議士との関係が出てきたという事であったらしい(正確な確認は取れないが、そのような事情と聞いている)。全くの推測だし、それで、山本さんや細野代議士自身の問題が軽くなるわけでもあるまいが、そういうことであったらしい。

 細野代議士には、奥さんがいるので、山本モナさんとの関係は、「不倫」であると、報じられている。今のところ、細野代議士も山本モナさんも、何もコメントしていない。特に、細野代議士については、コメントすることから逃げているという批判があるが、批判されて当然なのかも知れないし、このようなことに対して、コメントは不要なのかも知れない(どうなのだろうか?)。

 恋愛あるいは、一時的な気分に任せて行動することに対して、当事者(たとえば細野氏の奥様)ではない第三者(週刊誌の読者など)がどうこういうのは筋違いの話かも知れないし、細野氏の場合は選挙民に選ばれた代議士だから、私生活にいたるまで、有権者に対して報ずるべき価値があるのかも知れない。この辺り、当事者と、第三者とを、どのように整理したらいいのかは、難しい問題だ。
 
 ただ、現状のような世間の反応があることを前提とすると、山本モナさんについても、細野代議士についても、この事件の影響は小さくない。彼らに関わるスタッフに、とっては、ある意味では生活を脅かされるような、相当に迷惑な話であっただろう。

 山本モナさんに関しては、マネジメントする側が、彼女の性欲を無難に処理してあげる手段を考えるべきだったのかも知れないし、細野代議についても、似たような事情だったのかも知れない。ただ、たとえば、山本さんの事務所のマネジャーあるいは、彼女を起用したプロデューサーなどにも、家族は居るわけだし、彼女が起こしたスキャンダルは、彼女以外の関係者の生活にも大いに影響しているから、問題は、彼女の自己責任ということでは整理しきれない公算が大きい。
 
 さて、それでも、彼女や細野代議士のような人々のニュースを報じる事に対して、どのような価値があるのかは、なかなか難しい問題だ。

 一つの仮説として、私は、第三者には関係のない話だから、メディアは彼らを放っておけばいいのではないか、と思うのだが、どうなのだろうか?

(コメントでは、ただの感想や、他人の意見への批判ではなく、個々の人の責任に基づく「自分の意見」をお聞きしたい)

<注:当初、「細野代議士」を「細川代議士」と誤記しており、ご指摘によって、訂正しました>
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ランダエタ選手にとっての合理性とは?

ボクシングについて語りたい読者が、別のコメント欄にいらっしゃるようなので、ボクシングのエントリーを立てます。

亀田選手(長男)の先日の世界タイトルマッチは、判定に疑問符の付く、後味の悪い試合で、おおいに物議を醸しました。この再戦が、早くも10月18日に、行われます。この亀田-ランダエタ戦の結果は、さて、どうなるのでしょうか。

前回の試合が、試合に自体については八百長のないガチンコの試合であったとすると、ランダエタ選手の方が、亀田選手を明らかに技術的に上回っており、パンチも同等以上にあったのではないか、というのが、あの一試合から判断する限りは、一般的なボクシングファンの評価ではなかったでしょうか。

亀田選手のパンチは、鬼塚解説者の解説とはうらはらに、ランダエタ選手のボディーをあれだけ打ちながら、終盤までランダエタ選手のスタミナを奪うことが出来ませんでしたし、一方、本来ならKOパンチであるべき左のストレートが何回かあたりながら、こちらも、ランダエタ選手に大きなダメージを与えることが出来ませんでした。

亀田選手の長所を敢えて挙げると、一階級上から降りたことにもよる、体格と体力であり、ガードの間を時々抜かれながらも、単調な八の字ガードを押し立てて、過半のラウンドでランダエタ選手を「押し」続けることが出来た愚直な圧力でした(相撲ではないですがね・・)。あれが、たぶん、亀田選手言うところの、「親父のボクシング」なのでありましょう。彼の、試合のスタイルは、大口に似合わぬ、地味で不器用なものだと思います。

一方、こちらは一階級下から上がった、ランダエタ選手も、そう褒められたものではありませんでした。スタミナに心配があるのか、最初と最後の二ラウンドくらいずつしかアグレッシブはでなかったし、特に、「疑惑の判定」に対して抗議をしなかった(WBAに提訴しなかった)姿勢は、本当に勝ちたい気があったのかを疑わせる行動でした。また、ボクシングの内容としては、右(彼はサウスポーです)のガードが下がり気味で、亀田選手の左のストレートを不用意に顔面で受けることが何度もありました。それで、彼が、倒れなかったのは、亀田選手の左が甘かったからなのでありましょう。

次回、10月18日の問題は、このランダエタ選手が、果たしてどれくらい本気且つ本調子で勝ちに来るかどうか、ということではないかと思えます。

そもそも、たった2ヶ月くらいの間隔で再戦をするのは、亀田(とTBS?)サイドが大晦日に「亀田祭り」をやりたがっていて、そのための「禊ぎ」を早く済ませたいからではないのか、ということが想像できます。そのために、ランダエタ選手を呼ぶのであれば、それなりのファイトマネーやメリットを彼に与えるでしょうし、「露骨に手を抜かないまでも、強く勝ちにこない」というくらいの気分が、彼の、経済的利益と処世にとって有利ではないのか、という疑いが、少なくとも、彼の前回以上に本当に真剣な試合を見るまでは消えません。

この試合に買った場合の亀田選手の商品価値は、次の試合だけで、主催者側とテレビ局にとって数億円は下らないでしょうし、一方、ランダエタ選手のファイトマネーは、数百万(前回)からせいぜい2千万くらいのものではないかと思われます。ランダエタ選手は、この試合に勝ったところで、ファイトマネーが3千万円、5千万円、・・・と跳ね上がることはないでしょう。たぶん、あのレベルだと、中南米の軽量級の強い選手と次に当たって、タイトルを失う可能性が大きい・・・・。

つまり、経済的なインセンティブの問題としては、亀田選手で次に商売を出来る側が、何らかの形で、ランダエタ選手に1千万~数千万円程度の「利益供与」を確約すると、八方が丸く収まる、ということです。

ランダエタ選手が、(1)前回のように亀田選手を最終回まで保たせた場合、(2)将来にダメージの残らないボディーで倒れた場合には、上記のようなディールが蔭で成立したのではないか、という疑いが、消しきれずに残ることになります。

ボクシングの試合を純粋にスポーツとしてでなく、「興業」として、また「社会の縮図」として解釈しなければならないのは残念ですが、ある意味では、細部まで目の離せない、妙に見甲斐のある試合が行われるということです。まあ、楽しみにしましょう。

それにしても、ライトフライ級で試合をしていなかったどうしのタイトル戦を認めて、更には再戦を直ぐに認める、WBAの対応は解せません。また、亀田選手サイドも、本当に力があるなら、日本人のある程度力が認められたボクサーと戦ってすっきり勝って見せると、「好き嫌いは別として、やっぱり亀田は強いんだ!」という世論が出来るのに、何やら訳ありの外国人選手としか試合をしないのは残念です。

尚、私が日頃楽しみに見ているボクシング番組は、WOWOWの「エキサイトマッチ」です。ビデオに録画して、目下、一ヶ月~二ヶ月遅れくらいのペースで見ています。

ここしばらく(今年)の試合では、中量級の試合が面白く、マニー・パッキャオ対エリック・モラレス、シェーン・モズレー対フェルナンド・バルガスの試合(何れも先に名前を出した方のKO勝ち)などが印象に残っています。今後は、階級を上げてきたフロイド・メイウェザーが誰からキツイ一発パンチを喰うのか、喰わないのか、というあたりが、関心事です。
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