yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

大森俊輔君お墓参りの条

2009-10-26 23:48:23 | yaasan随想
 2009年10月25日、関係者数人と大森俊輔君のお墓参りに出かけた。



 
 
 今夏のお盆やお彼岸に参りたかったのだが、中国調査中のために参れなかった。9月には同級生の大竹君達が既に参ってくれていたので彼に場所を確認して参ることができた。

 彼の実家の直ぐ近くにその墓はあった。

 真新しい墓標には「南無釈迦牟尼仏」と刻まれていた。ご実家は禅宗であろうか。裏面に「功徳主」とあり、ご両親のお名前が、側面には彼の命日である2008年6月25日と戒名「清覚俊道居士」が刻まれていた。お骨はご先祖様のお墓に入っているのだろうか、墓標には卒塔婆などはなかった。

 住宅街の真っ直中、往生寺というお寺の直ぐ横にある多可木北霊園の、ひときわ目立つ真新しい墓標が涙を新たにした。もうあれから1年と4ヶ月が過ぎてしまった。同級生だった大竹君は南山大学の大学院で頑張っていると聞く。後輩だった三年生は今卒業論文に四苦八苦している。それぞれがそれぞれの時間をそれなりに過ごし、「歳」を刻んでいる。しかし、大森俊輔の「歳」は22歳で止まったままだ。
 
 私の22歳は?
 ヒロシマの乾いた空間で、毎日毎日大学の授業に出ることもなく、正門前の喫茶ロビンに「出席」して漫画を読み、コーヒーを飲み、スパゲッテイーで腹ごしらえをし、夜は屋台で合成酒で酔いに任せる。そんなふしだらな日常を思い起こす。きっと大森が聞いたら怒るに違いない!


 お盆からは時間も経ち、新しい仏や命日もないのだろう、都会の中の日曜日の墓地は、訪れる人も、線香の香りもなく、ただシーンと静まりかえっていた。事前に三松堂・小林智太郎さんから御預かりしたお線香などと共にお花を捧げ、在りし日の大森を思い起こした。




久留倍遺跡セミナー第2回開催の条

2009-10-26 23:23:18 | 久留倍遺跡を考える会
 10月24日土曜日は久留倍官衙遺跡を考える会主催の第2回出張セミナーの日であった。第1回は久留倍遺跡の中心大矢知の市民センターで久留倍遺跡成立前代の歴史を四日市市教育委員会のHYさんと私とでお話しさせて頂いた。

 

 今回は久留倍郡の古代の中心・八郷地区に出張してのセミナーでした。立派な資料集も印刷されていて(実費200円販売中)、全て考える会の皆さんの自前の企画である。素晴らしい!!

 内容は四日市市教育委員会のKTさんが「久留倍遺跡と八郷」、三重大学人文学部非常勤講師の清水みき先生が「伊勢・志摩・伊賀の木簡」と題してお話し下さった。初めて、久留倍遺跡の会で木簡の話しがあるというので会場は50人余りしか入れないのに60人を超し、溢れるばかりの大盛況であった。



 KTさんからは四日市市や三重県が八郷地区で発掘調査した成果がスライドで紹介された。しかし、少々苦言を呈させて頂くと、ちょっと地元の一般市民の方にはとてもとても難しく、用語も専門的用語が乱発されて、聞いている私が冷や汗の出るものであった。



 かつて故佐原真さんは判りやすい考古学を宣言し、専門的用語の置き換え、普通の人が聞いて判る解説を求められた。専門家を対象とした学会の発表ならいざ知らず、恐らく初めてこのような会に出席されたに違いない方の多いこのような会で、「掘立柱建物」「総柱建物」「「コ」の字形配置」に「品字形」、「官衙」(役所)だの「郡衙」(郡役所)などが通じるはずがない。それでもまだそれぞれの遺跡のスライド写真でも豊富に示されて、その中で説明されるのならいざ知らず、印刷された図面と同じものが暗い画面に映されて、話されても判るはずがない。

 慣れてないのかと思いきやもう教育委員会に勤めて十余年になるという。もう中堅である。ちょっとそれはないやろ!!と思いながら聞いていた。それでも時間通りに終わるのなら許されるのだが、ナナナント予定時間を1.5倍もオーバーして終了。次の講師の方のこと、聞いている方の都合も考えなくては!

 そんなこんななので、次の清水先生のお話の時間が大幅に減ってしまった。先生はそれをちゃんと意識して話しを少しカットされてお話しなさったものだから、私としてはとても残念だった。いつかもう一度三重県の木簡に絞ってお話し頂きたく思っている。

 

 先ず木簡そのものの概要を丁寧にお話し頂いた上で、①地元に近い柚井遺跡の木簡について、②三重県を代表する志摩国の木簡について、③三重県出土の木簡について、④その他の伊勢・志摩・伊賀関係の木簡についてお話頂いた。
 地元の方としてはもっともっと聞きたかったに違いない伊勢・志摩の木簡の話し等、結局短い紹介に終わったことが残念でならなかった。質問時間もなく、欲求不満の残ることになってしまった。

 次回第3回は2010年1月9日(土)、皇學館大学の岡田登先生をお迎えして、朝日町の資料館で、「縄生廃寺と久留倍遺跡」(仮題)と題してお話し頂く予定である。今度こそ今回のようなことにならないよう、もう1人の教育委員会の方の話しは少し短くして頂く必要があろう。

 それにしてもこのセミナー、四日市市教育委員会は先のような報告者は出すが、準備から広報、資料集まで全部市民の方の自前の活動である。今回のような状況だから行政としての活発な活動ができないのかもしれないが、ちょっと情けない気はする。それに比べて考える会の方々の活発な活動には頭が下がる。全国の手本とするに相応しい活動である。

 その象徴的な行事が今年も11月14日(土)に第2回久留倍まつりとして実施される。第2回の主な行事はつぎのとおりである。
 午前の部  
 ① 壬申の乱ウオーク 長倉神社ー久留倍遺跡ー天武天皇望拝所ー耳常神社のコースを昨年以上に増えた衣装隊(総勢50人ほど)を伴って歩く
 ② 久留倍遺跡での写真コンテスト
 ③ 途中の斎の宮公園で草鞋作りと火おこしの実演

 午後の部
 久留倍遺跡講演会 久留倍遺跡と北伊勢
 ① 加藤謙吉先生(早稲田大学講師)「伊勢の国の猪名部について」
 ② 山中 章 「鈴鹿から不破へ」

ポスターもできあがっている。近日中にそれらを含めて詳しくご紹介することにする。

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伊豆國探訪-3 探し回った清水柳北遺跡の上円下方墳の条

2009-10-26 00:00:01 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 伊豆にはこんなにたくさんいい温泉があるとは知りませんでした。遺跡ばかり見ていてはいけませんね。僕の友人のブログ「散歩するなべさん」にいろいろ紹介されています。

 さて、後一つというところでまたまた事件が!



 昼ご飯を食べて最後の石櫃を見に行こうと言うことで学生のコピーしてきた地図を頼りに現地へ。

 どうも工業団地の中にあるらしい。

 車を止めて地図を見るとどう見てもその場所だ。

 「ここちゃうか?ちょっと捜してみよう!」

直ぐに見付かると思ったのだが全く判らない。あいにく当日は日曜日、ほとんどの会社が門を閉めて休んでいる。

 「おかしいな・・・。ほんまにこれで間違いナインか?」

「はい!!はっきりこうなっていましたから!」

学生は自信満々に主張する。

「ひょっとして工業団地造成で壊されたんと地がうか?」
 「いえ、残っていると書いてありました!」

そこまで自信を持って言われるとこっちも返す言葉がない。グルグルグルグル、何回工業団地の中を回ったことか?ない!どっかで聞こうか?といっても車さえ通らない。たまたま若いお姉さんの乗った車が通ったのでダメ元で聞いたみた。後ろに付いてきた彼氏?の車も止めてあれこれ議論、どうもここではなくて下の方の団地と違うか?ということに。

 半信半疑で下の工業団地に向かう。

 ない!

 もう一度先程の工業団地に戻る。たまたま一つの工場の門扉が開いていた。尋ねてみると社長さんみたいな人がでてきて熱心に見てくれる。

 「アーこれやったらこの下の第二東名の直ぐ南にある!」と断言してくれる。
 やった!やっと見付かったかれこれ一時間は過ぎている。

 ところがそこに行っても見付からない!????歩き回ること30分。ひょっとして聞いた方向が逆かもしれん。そっちを捜そうと言うことに。


「ありました!!!」

それがこれ。


 これぞ探し求めた遺跡の看板である。
 よく読んでみると、この遺跡は移築したもので、元々は南東200mの工場団地の中で見付かったという。その方向を見ると先程まで歩き回った大きな工場が現在の道路面より低いところに巨大な空間を占拠していた。

 

 調査時の写真.規模は小さいが地方にはとても珍しい上円下方墳。説明(報告書)では駿河郡の郡司クラスの墓だと言うことだが、本当だろうか。もしそうなら全国にもっともっと上円下方墳があってもいいはずだ。

 私にはもっと複雑な歴史的背景がこの墓にはあるように思える。特に、大きな石櫃だけが中心部に埋葬されている点が他と全く異なる点であろう。





 大北のものとはまた異なる大きな石櫃。




 こんな工場群のために破壊されてしまったらしい。恐らく静岡県唯一の遺跡だと思う。日本史全体においてもとても意義深い遺跡である。しかし、現地は破壊されてしまい、移築という安易な方法で貴重な遺跡は破壊されてしまった。本当に情けない。



 移築なんてのはどれだけの意味があるのだろうか?文章を読むjと、かつてこのお墓のあったところには小さな尾根が延びていて、その端付近に設けられていたという。その丘の地形も完全に失われ、移築された土地も当時とは全く違うので、何故この地に珍しい上円下方墳が設けられたのかがさっぱり判らないのである。

 仕方がないので、説明板にある日吉廃寺を探しに行こうと言うことになり、またまた車を走らせた。石櫃と関係があるというので直ぐ近くかと思いきや、何と車で十五分以上走らないとその地名の地に着かないのである。



 上円下方墳の中心が石櫃だったことから周辺の寺院跡が注目され、この地名の日吉廃寺がその関係だというのだが・・・。
 なにせえらく離れているんですよね。



 とりあえずこのコンビニの前の写真を撮りましたが、日吉廃寺の跡は見つけられませんでした。

 どう考えてもあの看板の説明はこじつけとしか思えないのである。学生の方がまともで、もっと他に要因があって石櫃が上円下方墳の中心に埋納されたに違いない。

 ひょっとしたら、この上円下方墳の人物がこの地域に火葬を広めたと言うことはないのだろうか?そんな妄想を抱きながら遺跡を後にすることにした。




 帰路の車窓から見えた富士山。駿河湾の辺りかな。

 途中蒲郡辺りで35キロの自然渋滞に巻き込まれ、津に戻ったらもう夜の8時だった。次男には翌日早朝からの勤務、本当に申し訳なかったが、私にはとてもいい探訪となった。果たして学生がこの成果をちゃんと卒業論文に活かしてくれるかどうか。後3ヶ月の努力にかかっている。

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